第64話 侍女の憂鬱
「顔立ちだけなら、どこぞの王侯貴族の姫君といっても通りそうね。とても戦場をうろついていた女には見えなかったわ」
玉蘭は、ふ、と唇を歪めた。
「顔だけは、ね」
「ええ。なかなかお美しい方でございましたね」
朧は、涼しい顔で頷いた。
玉蘭の眉が、ぴくりと動く。
「……おまえ、誰の侍女なの?」
「もちろん、姫様の侍女でございますよ」
「だったら、少しは話を合わせなさい」
「ですが、姫様がご自分でお美しいとおっしゃったので」
「顔だけは、と言ったのよ!」
「はいはい。顔だけ、でございますね」
朧は、にっこりと微笑んだ。
――ああ、始まった。
朧は、ひそかに胸を弾ませた。
姫様の悪口は、昔から長い。
気に入らない相手がいると、まず顔を貶し、次に育ちを貶し、それでも腹の虫が収まらなければ、最後は血筋まで持ち出す。
しかも、本人はそれを至極もっともな批評だと思っているのだから、実に愉快である。
朧の実母がこの姫君の乳母を務めていた縁で、幼いころから玉蘭のそばで育ち、遊び相手となり、世話役となり、今では侍女長を務め、裏では汚れ役も引き受ける。
つまり、玉蘭という人間の裏も表も、嫌というほど見てきた。
人前では、春の花がほころぶように微笑む、気品あふれる黄龍家の姫君。
声は柔らかく、所作は優雅。
誰に対しても礼を尽くし、まるで慈悲深い天女のように振る舞う。
ところが、ひとたび人目がなくなれば、どうだ。
口を開けば悪態。気に入らない相手には毒を吐き、腹が立てば癇癪を起こし、挙げ句の果てには、思いもよらぬ意地悪を考えつく。
天女のごとき美しい顔から、どうしてこうも次々と罵詈雑言が出てくるものか。
朧は、幼いころから感心していた。
しかも、この姫は、自分がこの世で最も気高く、美しく、愛されるべき女だと信じて疑わない。
――まったく、よくぞこんな面白い方がお生まれになったものだわ。
朧は、つくづく幸運だと思う。
世の中には、退屈な人間があまりにも多い。
ところが、この姫君ときたら、毎日のように何かしら騒ぎを起こしてくれる。
それをこれほど近くで眺められるのだから、侍女という仕事も悪くない。
「口を開けば、閉じ込めるだの、容赦しないだの。なんて野蛮なのかしら。少しばかり顔がよいからといって、礼儀も身分もわきまえず、王族の前であの物言い」
玉蘭は、吐き捨てるように続けた。
「育ちの悪さというものは、隠せないのね」
「お口が悪うございますよ、姫様」
「何よ。ここには、おまえしかいないでしょう」
「ええ。ですから、わたくしが申し上げているのでございます」
「……まったく、おまえって女は」
「姫様とともに育ちましたので、悪態をつく物言いも姫様に似たのでございましょう」
「朧!」
「はい」
朧は、何食わぬ顔で頭を下げた。
玉蘭は忌々しげに顔を背ける。
――ふふ。今日もたいそうお元気でいらっしゃる。
朧は、笑みを深めた。
もっとも、今日の姫君は、いつもより少々機嫌が悪い。
理由はわかっている。
あの女だ。
顧羽悠と名乗った、寧々の護衛。
玉蘭は、あの女の顔を見た瞬間から、明らかに気に入らない様子だった。
だが、朧に言わせれば、あの女の容姿など、たいした問題ではない。
問題は、王弟殿下があの護衛を見る眼差しである。
「それにしても……いったい、どんな手練手管を使って、コウ様をたぶらかしたのやら」
玉蘭は、窓の外へ目を向けた。
「気の強そうなきつい顔立ちに、まるで戦士のような立ち居振る舞い、折れそうな細い身体……。コウ様はああいう女がお好みなのかしら」
「さあ。殿方のお好みばかりは、十人十色ですし、何とも申し上げられませんねえ」
「男というものは、わからないものね。あんな、愛想も色気もない女の、いったいどこがよいのやら」
玉蘭は、苛立たしげに扇を開いた。
その脳裏には、先ほどの光景が焼きついて離れなかった。
ハユが笑うと、コウも笑った。
あの、柔らかな眼差し。
自分には一度として向けられたことのない、親しげな微笑み。
思い出すだけで、不快だった。
「……もっとも、殿方の前では、ずいぶんと違う顔を見せるのでしょうけれど」
玉蘭は、冷たく笑った。
「まったく。とんだ食わせ者だこと」
「姫様」
「何?」
「わたくしには、あの方が殿下に媚びているようには見えませんでしたが」
玉蘭が、ぎろりと朧を睨んだ。
「……何ですって?」
「むしろ、殿下のほうが、あの方をたいそう気にかけておいでのように見受けられました」
「だから、気に入らないのよ!」
思わず声を荒らげてから、玉蘭は口をつぐんだ。
朧は、わずかに目を細めた。
――あらまあ。
なんと正直なことでしょう。
朧は、思わず笑いそうになった。
あの誇り高い姫君が、たった一人の男のことで、こうも簡単に取り乱す。
しかも、相手は幼いころからの許婚だというのに、肝心の男はまるで興味を示さない。
どんなに美しくとも所詮この姫は妹分であり、王弟にとっては「女」ではない。
それでも諦めず、あの手この手で気を引こうとする。
失敗すれば怒り、怒ったあとはまた策を考える。
そして、また失敗する。
なんという茶番。
――恋とは、なんと面白いものでしょうねえ。
朧には、さっぱり理解できない。
自分を好いてもいない男に、どうしてそこまで執着するのか。
まして、この姫君は黄龍家の嫡女である。
美貌も、家柄も、財も、権勢も、望めば大抵のものが手に入る。
それなのに、たった一人の男の心だけは手に入らない。
そのことが、どうにも許せないらしい。
――実に結構。
朧は、ひそかに満足した。
――当分退屈せずに済みそうだ。
「護衛なら、護衛らしく一歩下がって控えていればよいのよ。主人の顔を覗き込んで笑い合うのが、護衛の務めだとでも?」
玉蘭の唇の端が、冷たく吊り上がる。
「それとも、あの女。剣の腕より、男を手懐ける腕のほうが達者なのかしら」
「……姫様」
「何よ」
「お言葉が、いささか下品にございます」
「おまえにだけは言われたくないわ」
「まあ。心外でございますねえ」
朧は、袖で口元を隠した。
――しかし、あの護衛の女もまた、ずいぶんと面白い。
朧の脳裏に、先ほどの護衛の姿が浮かんだ。
すらりとした細身の身体。
物怖じしない眼差し。
そして、何よりも、あの立ち方。
玉蘭が一歩近づいたとき、女はほんのわずかに重心を移した。
寧々を背後にかばいながら、正面の相手にも即座に応じられる位置。
無意識の動作だったのだろう。
だが、朧は見逃さなかった。
あれは、ただの護衛の身のこなしではない。
――ふふ。
思い出しただけで、胸が弾む。
まさか、こんなところで、あのような手練れに出会うとは。
「まったく。ああいう女が一番始末に負えないのよ。男の前では気取らず、媚びてなどいないという顔をして、いつの間にか懐へ入り込む。自分は特別扱いなど望んでいないとでも言いたげにね」
玉蘭は、冷ややかに笑った。
「顧姓をいただいておきながら、よくもまあ、あんな澄ました顔ができるものだわ」
「……姫様」
「何?」
「お気に召さぬのはわかりますが、あの方は、なかなか侮れぬお相手とお見受けいたしました」
玉蘭の眉が、ぴくりと動いた。
「どういう意味?」
「王族を前にしても物怖じせず、しかも、礼を失したと見れば即座に頭を下げる。あれは、ただの無作法な女ではございません」
「……ふん」
「それに、あの方は姫様のご意向を、最初から見抜いておられたようでございます」
「だから何よ」
「お気に召さぬからといって、むやみに爪を立ててはなりません。こちらの手の内を晒すだけでございます」
玉蘭は、不機嫌そうに顔を背けた。
「わかっているわよ、そのくらい」
「それはようございました」
――わかっておられぬから、申し上げているのですがね。
朧は、笑みを浮かべたまま、静かに頭を下げた。
玉蘭が、また何かを言い始めた。
今度は、あの女の髪の結い方が気に入らないらしい。
朧は、にこやかに相槌を打ちながら、内心で性格悪くほくそ笑む。
――姫様。
どうやら、これからますます面白いことになりそう予感がいたしますよ。
願わくは、あまり早く決着がつきませんように。
朧は、誰にも気づかれぬよう、くすりと笑った。
第64話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、玉蘭の侍女・朧の視点からお届けしました。
人前では非の打ちどころのない淑女でありながら、ひとたび馬車に戻れば悪口が止まらない玉蘭。そんな姫君を、朧は困った顔ひとつせず、むしろ楽しそうに眺めています。
実は朧にとって、玉蘭はこの世で最も退屈させない人物。忠実な侍女のように振る舞いながら、その本心は少々、いえ、かなり変わっているようです。
そして、朧が興味を抱いたのは玉蘭だけではありません。
ハユの何気ない立ち居振る舞いから、ただ者ではないことを見抜いた朧。どうやら、この侍女自身も相当な手練れのようです。
さて、姫君の恋の行方を面白がる侍女と、その侍女を振り回す姫君。いったいどちらが厄介なのでしょう。
どうぞ、次回もお楽しみに。




