第60話 黄龍家の姫
そのときだった。
宿館の外が、にわかに騒がしくなった。
馬の嘶き。車輪の音。複数の足音。
続いて、階下から何やら慌ただしい声が聞こえてきた。
「……何だ?」
ハユが窓の方を見る。
コウは、すでに立ち上がっていた。
その表情から、先ほどまでの柔らかさが消えている。
ほどなく、扉が叩かれた。
「コウ」
多聞の声だった。なにやら微妙な表情をしている。
「客だ」
「……客?」
「龍国からの使者が到着したらしい」
コウの眉が、わずかに動いた。
「使者?」
多聞は一瞬の沈黙する。
そして、使者の名を告げた。
「……黄龍家の、玉蘭姫だ」
「…………」
コウは、面倒そうに、額に手を当てた。
◇ ◇ ◇
宿館の前には、立派な馬車が停まっていた。
深い黄金色の車体。
扉には、五爪の龍をかたどった紋章が刻まれている。
周囲には、揃いの衣をまとった護衛兵。
従者たちは一糸乱れぬ動きで整列し、宿館の主人は恐縮しきった様子で頭を下げていた。
馬車から降りてきたのは、ひとりの若い娘だった。
艶やかな髪は、蜜を溶かしたような金茶色。
陽光を受けるたび、黄金の糸を織り込んだように輝いている。
淡い山吹色の絹衣には、金糸で黄龍の鱗文様が刺繍されていた。
髪には、黄金の歩揺。
耳元には、小さな黄玉の飾り。
歩くたびに、それらがかすかな音を立てる。
そして。
何より印象的なのは、その瞳だった。
澄んだ琥珀色。
柔らかな光を宿し、見る者に温かな印象を与える。
娘は、コウの姿を認めると、花がほころぶように微笑んだ。
「コウ様」
優雅に膝を折る。
「ご帰還の報を受け、お迎えに参りました」
黄龍家の嫡女。
黄玉蘭。
代々龍妃を輩出してきた名門に生まれ、幼い頃より王族の妻となるべく育てられた娘だった。
娘は、コウの姿を認めると、艶やかに微笑んだ。
「コウ様」
そして静かに歩み寄り、優雅に膝を折った。
「お久しゅうございます」
「……玉蘭」
黄玉蘭は、嬉しそうに目を細めた。
「長らくお顔を拝すること叶わず、どれほど案じておりましたことか」
「心配には及ばない」
「まあ。そのような他人行儀なお言葉を」
玉蘭は、困ったように微笑んだ。
「わたくしたちの間柄ではございませんか」
「…………」
コウは答えなかった。
すると玉蘭は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……昔のように、ギョク、と呼んでくださいませ」
その声が、ふっと柔らかくなる。
「幼い頃は、いつもそう呼んでくださったでしょう?わたくしが泣いていると、コウ様は決まって頭を撫でてくださって……」
「……そうだったな」
玉蘭は、嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。わたくしばかりが、昔のことを覚えているのかと思いました」
そう言って、そっとコウの袖に指先を添える。
ほんの一瞬。
すぐに手を離したが、その仕草には、幼い妹が兄に甘えるような親しさがあった。
コウは、わずかに目を伏せた。
玉蘭は、母の姪だった。
幼い頃に実母を亡くした玉蘭を、コウの母は実の娘のように可愛がっていた。
そして、玉蘭は驚くほど母に似ていた。
目元の涼やかさも、微笑むときにわずかに首を傾げる癖も。
ふとしたギョクランの仕草に、今は亡き母の面影が重なることがあった。
幼い頃、母はよく言っていた。
『コウ。玉蘭は小さい頃にお母様を亡くしているの。寂しい思いをさせないように、あなたも気にかけてあげてね』
そう言って、母は二人の頭を優しく撫でたものだった。
コウもまた、その言葉を守ってきた。
玉蘭が泣けば慰め、転べば手を貸し、何かと後をついてくる少女を、妹のように可愛がっていた。
だが、いつの頃からだろう。
無邪気に笑っていた少女が、人前では決して本心を見せなくなったのは。
それでも。
玉蘭がこうして昔の面影をのぞかせるたび、コウはどうしても強く突き放すことができなかった。
「……おまえも元気そうで何よりだ」
結局、そう答えるのが精一杯だった。
玉蘭は、ほっとしたように微笑んだ。
「はい。コウ様のお顔を拝見できて、ようやく安心いたしました」
そして、まるで何事もなかったかのように、宿館を見上げた。
「それにしても……」
白い指先が、そっと口元へ添えられる。
「まさか、このようなところにお泊まりとは」
宿館の主人が、びくりと肩を震わせた。
「次期王位継承者であられるコウ様を、このようなあばらやに寝泊まりさせるわけにはまいりませんわ」
空気が、わずかに張り詰めた。
「……玉蘭」
コウが、静かに言った。
「王位を継承するとは決まっていない。あやふやな発言は控えろ」
「まあ」
玉蘭は、はっとしたように目を伏せた。
「失礼いたしました。わたくしったら、嬉しさのあまり」
深々と頭を下げる。
「どうぞ、お許しくださいませ」
完璧な謝罪だった。
けれど。
コウは知っていた。
幼い頃は、少々猫をかぶった少女だと思っていた。
だが、年を重ねるにつれ、その猫かぶりはますます巧妙になり、今では筋金入りの演技者となっていた。
表情ひとつ、声の調子ひとつ、視線の動かし方に至るまで、すべてが計算し尽くされている。
失言も、うっかり口を滑らせることも、ありえない。
それほどまでに、完璧な仮面をかぶる術を幼い頃から叩き込まれて育った娘なのだ。
この娘が、言葉を間違えることなどない。
少なくとも。
人前では。
「……コウ様」
玉蘭が、おずおずと顔を上げた。
「お怒りになりました?」
その瞳が、わずかに揺れる。
「わたくし、また余計なことを申し上げてしまいましたね」
「……別に、怒ってなどいない」
「本当に?」
玉蘭は、ほっと息をついた。
「よかった……。昔から、コウ様に嫌われることだけは、何より怖いのです」
そう言って、少し寂しそうに微笑んだ。
その表情が、また母に似ていた。
コウは、小さく息を吐いた。
わかっている。
これもまた、玉蘭の巧みな振る舞いの一つなのだろう。
だが、だからといって、幼い頃の思い出まで偽りだったとは思いたくなかった。
「……それで」
コウは、静かに話題を変えた。
「誰の命で来た?」
玉蘭は、ゆっくりと顔を上げた。
「陛下でございます」
背後に控えていた従者が、恭しく一歩進み出る。
手には、龍紋の施された文箱。
「龍王陛下の御命を賜り、コウ様のお迎えに参りました」
玉蘭は、微笑んだ。
「どうぞ、速やかに王都へお戻りくださいませ」
第60話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回から、黄龍家の姫・玉蘭が登場します。
美しく、優雅で、非の打ちどころのない姫君。けれど、その微笑みの裏には、なかなか一筋縄ではいかない性格が隠されています。
コウにとって玉蘭は、幼い頃から妹のように可愛がってきた存在であり、亡き母の面影を宿す女性でもあります。
だからこそ、彼女の本性を知りながらも、簡単には突き放せないのでしょう。
そして、玉蘭にとってコウは、幼い頃から自分のものになると信じて疑わなかった相手。
そんな二人の間に、ハユという存在が現れたら……。
さて、これからどうなることやら。
どうぞ、次回もお楽しみに。




