第59話 化粧
「……ところで、先輩」
「何だ?」
「髪、染め直したんですね」
「ああ」
ハユは、自分の髪をひと房つまんだ。
昨夜まで銀白色だった髪は、すっかり艶やかな黒に戻っている。
「カナルがやってくれた。私が眠っている間にな」
「そうでしたか」
「銀髪のままでは、さすがに目立つからな」
「ええ。龍国では、特に」
コウは、少し考えた。
「……先輩。顔も、少し変えておきましょうか」
「顔?」
「ええ。ちょっとした変装です」
コウは、荷物の中から小さな化粧箱を取り出した。
「髪は黒く戻りましたが、それだけでは少々心許ない。先輩は、何しろ目立ちますから」
「そうか?」
「そうですよ」
ハユは、不思議そうに首を傾げた。
どうやら、自覚はないらしい。
コウは、内心で苦笑した。
蘇白瑶という女は、美しかった。
ただし、その美しさは、花に喩えるようなものではない。
磨き抜かれた刃。
あるいは、冬の夜に冴え渡る月。
整いすぎた顔立ちには、容易に人を寄せつけぬ冷ややかさがあった。
すっと通った鼻筋。
形のよい唇。
そして、何より。
あの菫色の瞳。
ひとたび何かを見据えれば、相手の思惑などすべて見透かしてしまいそうな、怜悧な眼光。
ただ黙って座っているだけで、周囲の空気が張り詰める。
そんな女だった。
コウは、指先に少量の紅を取った。
ハユの頬へ手を伸ばす。
そのとき。
ふいに、夢の中の感触が蘇った。
自分の腕の中で、必死に身をよじっていた女。
逃れようとする、細い身体。
――僕は、あの夜、だれに、何をした?
「コウ?」
ハユの声に、はっと我に返った。
「……すみません。少し考え事を」
いつもの笑顔を作った。
けれど、伸ばした指先には、まだかすかな震えが残っていた。
「……少し、じっとしていてください」
「分かった」
コウは、ハユの正面に腰を下ろした。
まず、眉。
すっと切れ上がった眉尻を、眉墨でわずかに下げる。
それだけで、顔立ちの鋭さが少し和らいだ。
次に、目元。
菫色の瞳は、そのままに。
目尻へ淡い色を差し、まなざしに柔らかな陰影を加える。
頬には、ほんのりと紅。
冷たい白磁のようだった肌に、温かな血色が宿った。
最後に、唇。
「……少し、口を開けてください」
薄く紅をのせる。
色を添えるだけで、驚くほど印象が変わる。
「……よし」
コウは、少し身体を引いた。
そして。
「…………」
思わず、見入った。
そこにいるのは、間違いなくハユだった。
整った顔立ちも。
菫色の瞳も。
何一つ変わっていない。
けれど。
あの、研ぎ澄まされた刃のような冷ややかさが、影を潜めていた。
代わりに現れたのは、柔らかな表情をした、美しい女だった。
どこか人懐こく。
穏やかで。
微笑めば、春の花がほころぶような。
そんな顔。
――悪くない。
コウは、心の中で呟いた。
素顔のこの人は、もちろん美しい。
あの冷ややかな眼差しも、凛とした横顔も。
他の誰にもない、蘇白瑶という女の美しさだ。
けれど。
これは、これで。
――悪く、ない。
「……コウ?」
「はい?」
「どうした。終わったのか?」
「ああ、ええ。終わりましたよ」
コウは、手鏡を差し出した。
ハユが覗き込む。
「…………」
しばらく、無言だった。
「……誰だ、これは」
コウが、思わず吹き出した。
「先輩ですよ」
「いや、それは分かるが」
ハユは、鏡を右へ左へ傾けた。
「……妙だな。顔は同じなのに、ずいぶん印象が違う」
「それが変装というものです」
「なるほど」
ハユは、感心したように頷いた。
「大したものだな。お前は」
「明珠ほど化粧の達人ではありませんけどね」
「いや、十分だ」
ハユは、もう一度鏡を見た。
「……しかし、少々落ち着かんな」
「そのうち慣れますよ」
そのとき。
「首領ー!」
勢いよく扉が開いた。
慈雨だった。
「ちょっと聞いてくれよ。さっき多聞が――」
言いかけて。
ぴたりと止まった。
「…………」
ハユを見る。
コウを見る。
もう一度、ハユを見る。
「……え?」
「何だ、慈雨」
ハユが尋ねた。
「……蘇白瑶?」
慈雨は、目を丸くした。
「……うっわ」
「何だ」
「いや、その……」
慈雨は、しげしげとハユを眺めた。
「……すっげえ」
「…………」
ハユが、眉を寄せた。
「何を言っている」
「いや、だって!いつものあんたって、こう……近づいたら斬られそうな美人じゃん」
「……お前な」
「でも、今は何ていうか……」
慈雨は、しばらく考えた。
「……嫁にしたい美人?」
「…………」
ハユが、無言になった。
コウが、静かに目を細める。
「……ジウ」
「はい?」
「何か用があったんじゃないのか?」
「あ、そうだった。いや、それより」
慈雨は、化粧箱に目を落とした。
それから、コウを見る。
にやり、と笑った。
「……首領」
「何だ」
「これ、首領がやったんです?」
「だから何だ」
「へええ」
慈雨は、もう一度ハユを見た。
そして、おもしろそうに言う。
「……自分好みに化粧したんだろ」
「…………」
コウの笑顔が、止まった。
「なるほどねえ。首領は、こういう柔らかくて可愛らしい感じもお好み、と」
「……慈雨」
「はい?」
「そろそろ黙れ」
声は、優しかった。
笑顔も、いつもどおりだった。
けれど。
慈雨は、背筋にひやりとしたものを感じた。
「はいはい、失礼しました!」
逃げるように扉へ向かう。
その背中に、ハユが声をかけた。
「慈雨」
「なんだよ?」
「……そんなに変か?」
「え?」
「この顔だ」
慈雨は、振り返った。
そして、にかっと笑った。
「いや。めちゃくちゃ似合ってるよ」
「そうか」
「首領の趣味がいいってことだな」
扉が閉まった。
しん、と静まり返る。
「…………」
コウは、深々と息を吐いた。
「……まったく、あいつは、ほんとにいつも口が減らない」
ハユは、鏡を覗き込んだまま、首を傾げた。
「……お前の好みなのか?」
「…………」
コウが、固まった。
「……何がです?」
「この化粧だ」
「ああ……」
コウは、少し考えて、いつものように微笑んだ。
「……まあ」
「そうか」
ハユは、あっさりと頷いた。
「なら、よかった」
「…………」
「お前が苦労して仕上げた顔だ。気に入らぬと言われたら、申し訳ないからな」
コウは、思わず目を伏せた。
この人は。
本当に。
何も、分かっていない。
けれど。
その鈍さすら、今は、少しばかり愛おしかった。
第59話をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、久しぶりに少し穏やかな、そして甘いやり取りになりました。
三年前、白虎隊の軍営でハユの銀髪を結っていたコウ。今度は、彼女の顔に化粧を施します。
かつては命を奪うべき相手だった人に、今は少しでも安全でいてほしいと願いながら触れている。その変化を、コウ自身はどこまで自覚しているのでしょうか。
そして、相変わらず遠慮のない慈雨。せっかくの甘い雰囲気も、あっという間に台無しです。
けれど、そんな何気ない時間の裏側で、コウの失われた記憶は少しずつ目を覚まし始めています。
どうか、この穏やかな時間が、もう少し続きますように。




