第58話 夜を暴く記憶のかけら
夢を見ていた。
三年前の、白虎隊の軍営。
朝の薄明かりが差し込む天幕の中で、コウはいつものように櫛を手にしていた。
蘇白瑶の髪を結っている。
艶やかな銀髪を手に取り、櫛を通す。
するり、と指の間を滑る感触。
白いうなじ。
細い首筋。
――こんなに、細かっただろうか。
ふと、そんなことを思った。
その首に刃を当てれば、命を奪うことなど容易い。
そう考えたこともあった。
いや、考えなければならなかった。
それが、自分に与えられた使命だったから。
なのに。
どうして、こんなにも目が離せないのだろう。
「コウ?」
蘇白瑶が振り返る。
仮面の奥の、菫色の瞳。
――綺麗だ。
そう思った瞬間。
景色が変わった。
雨。
激しい雨音。暗い部屋。誰かの荒い息遣い。
自分の腕の中に、女がいた。
――女?
細い身体。乱れた髪。熱を帯びた肌。
その女に、自分は狂ったような激しさで口づけていた。
女が、身をよじる。
逃れようとしている。
その手が、自分の胸を押した。
――待て。
何だ、これは。
誰だ。
この女は。
そのとき。
銀色の光が、目の端を走った。
鋭い痛み。
胸の奥へ、何かが突き立つ。
――簪?
女の手に、銀の簪が握られていた。
血が流れる。
自分の胸から。
なのに。
身体が動かない。
指一本、動かせない。
女が、何か叫んでいる。
声が聞こえない。
顔も、見えない。
ただ。
ひどく悲しそうな灰紫の瞳だけが。
闇の中で、揺れた。
「――っ!」
コウは、はっとして目を開けた。
◇ ◇ ◇
薄暗い天井が見えた。
木の梁。
小さな灯火。
窓の外から、鳥の声が聞こえている。
宿館だ。
そう認識するまでに、少し時間がかかった。
「……コウ?」
すぐ近くから、声がした。
コウは顔を向けた。
ハユが、こちらを見ていた。
寝台の上に身体を起こし、薄い掛け布を膝にかけている。
菫色の瞳。
その目を見た瞬間。
胸の奥が、ひやりとした。
――今の夢。
女がいた。
自分の腕の中に。
いや。
自分が、押さえつけていた。
抵抗する女。
銀の簪。
胸を刺す、鋭い痛み。
――まさか。
コウは、無意識に左胸へ手を当てた。
衣の下。
あの傷がある場所。
何者かに刺された。
そう思っていた。
けれど。
もし、違ったとしたら。
もし、自分が。
誰かに、何かとんでもないことをしでかしてしまったのだとしたら。
「……コウ?」
ハユの声で、我に返った。
「どうした。ひどくうなされていたぞ」
「……僕が?」
「ああ。何度も私を呼んでいた」
「…………」
コウは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、いつもの笑顔を浮かべた。
「夢の中でも先輩にこき使われていたようですね」
「そうか」
ハユは、真面目な顔で頷いた。
「夢の中まで働かせてしまったか」
「まったく、ひどい上司です」
「それは悪かったな」
ハユが、ふっと笑った。
その笑顔を見た瞬間。
コウの胸の奥に、何かが込み上げた。
昨夜。
川辺で倒れていたハユ。
冷たい頬。
濡れた銀髪。
呼びかけても、返事のなかった時間。
あのときの恐怖が、まだ身体の奥に残っている。
「……気分は?」
コウは、ようやく口を開いた。
「もう大丈夫だ」
「頭痛は?」
「今はない」
「吐き気や、めまいは?」
「ない。少し身体がだるいくらいだ」
「……そうですか」
コウは、ほっと息をついた。
「目が覚めていたなら、起こしてくれればよかったのに。喉は渇いていませんか?」
「いや。お前がよく眠っていたからな」
「僕のことは気にしなくていいんですよ」
「そうはいかない」
ハユは、あっさりと言った。
「お前、ずっと私についていたのだろう?」
「……まあ」
「カナルから聞いた。昨夜から、ほとんど眠っていないそうだな」
「大したことじゃありません」
「ちゃんと眠らなければだめだ。顔色が悪い」
そう言って、ハユが手を伸ばした。
ひんやりとした指先が、コウの額に触れる。
「……熱はないな」
「…………」
コウは、固まった。
近い。
あまりにも、近い。
銀白色の髪。
菫色の瞳。
白い指。
胸の奥が、ひどく騒がしい。
「……コウ?」
「……はい」
「どうした?」
「いえ」
コウは、そっとその手を取った。
額から離し、掛け布の上へ戻す。
「先輩こそ、ちゃんと休まないと」
「もう十分休んだ」
「駄目です」
「……お前、昔より口うるさくなったな」
「誰のせいだと思ってるんです?」
そして、ハユが小さく笑った。
コウも笑った。
いつものように。
けれど、その笑顔の奥で。
まだ、夢の残滓を、振り払えずにいた。
第58話をお読みいただき、ありがとうございます。
三年前の記憶が、少しずつコウのもとへ戻り始めました。
かつて、何の疑いもなく触れていた銀色の髪。そして、左胸に残された傷。
夢の中で見た光景が何を意味するのか、コウにはまだわかりません。
ただ、自分が忘れている夜に、何か取り返しのつかないことが起きたのではないか。その不安だけが、胸に残ります。
一方のハユもまた、あの夜の記憶を抱えたまま、何事もなかったように微笑んでいます。
互いを気遣い、いつものように冗談を交わす二人。
けれど、その穏やかな時間のすぐそばまで、三年前の真実が迫ってきています。




