第57話 無自覚の感情
三年前。
顧虹は、自分の容姿が周囲に与える影響を、よく理解していた。
ひょろりと背が高く、すらりと伸びた手足は、まだ成長の途中にある若木のようにしなやかだった。
けれど、その顔立ちには、少年特有のあどけなさが色濃く残っている。
きめ細かな白い肌に、すっと通った鼻筋。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳は澄んでいて、形のよい唇には、どこか無邪気な柔らかさがあった。
少女と見紛うほど整った顔立ちながら、ふとした表情には少年らしい凛々しさものぞく。
十七を過ぎていると言えば、大抵の者が驚いた。
十五くらいかと思った、と。
無理もない。
柔らかな頬の線。人懐こそうな目元。
少し困ったように笑えば、相手は勝手に警戒を解いてくれる。
気立てのよい、無邪気な少年。
そう見られることは、実に都合がよかった。
人は、見たいものを見る。
そして、自分が見たいものを見つけた途端、その奥にあるものを疑わなくなる。
コウは、そのことをよく知っていた。
だから、よく笑った。
人当たりよく。無邪気に。時には、少しばかり間の抜けたふりをして。
その笑顔の裏で、相手の言葉を記憶し、視線を読み、弱みを探った。
人を欺くことに、良心の呵責などなかった。
それが自分の仕事だった。
龍王の命を受け、敵国・彪国に潜入している。
標的は、蘇白瑶。
彪国第一白虎隊を率いる大将軍。軍神の異名をもつ彪国随一の戦士。
龍国にとって、最大級の脅威となる人物だった。
兄王から与えられた命は明確だった。
――蘇白瑶を籠絡せよ。
可能ならば、こちらの意のままに動かせ。
それが叶わぬならば、排除せよ。
異論はなかった。
むしろ、これほど重要な任務を与えられたことは、好都合ですらあった。
兄王は、自分を疎んじている。
末弟であるとはいえ、王家傍流の顧家の血筋に、王位が渡ることをよしとしない。
たとえ自分自身に王座を望む気がなくとも、王位継承の可能性があるというだけで、猜疑の目は向けられる。
ならば、疑念を抱かせなければよい。
兄王の望むとおりに動き、忠誠を示す。
敵国の軍神を手中に収められれば、それでよし。
殺せと命じられれば、殺す。
それだけのことだった。
情など、挟む余地はない。
――そのはずだった。
◇ ◇ ◇
「コウ」
「はい、先輩」
「髪を頼む」
「はいはい。今日は高めに結いますか?」
「任せる」
「またそれですか」
コウは、いつものように笑った。
朝の軍営。
薄暗い天幕の中で、櫛を手に取る。
蘇白瑶は、身なりに無頓着だった。
衣服は清潔であればよい。
髪は邪魔にならなければよい。
装飾品には、ほとんど興味を示さない。
そのくせ、戦場では恐ろしいほど細部に目が届く。
敵兵のわずかな動き。
地形の微妙な起伏。
兵糧の減り具合。
何もかも見落とさない。
そんな人物が、自分の髪を結うことには、まるで関心がないのだから面白い。
「先輩、少しは自分で結う練習をしたらどうです?」
「お前の方が上手い」
「そうやって人を使うの、上手ですよねえ」
「嫌なら自分でやるが」
「嫌とは言ってませんよ」
笑いながら、背後に回る。
こんなやり取りは、もう何度繰り返したか分からない。
親しげな口調。軽い冗談。相手の懐へ、自然に入り込む距離感。
すべて、計算のうちだった。
軍神の身近に仕えることができる者は、そう多くない。
寝起きの癖を知り、日々の体調を把握し、警戒を解かせる。
髪を結うという行為は、そのための絶好の機会だった。
背後に立つことを許される。
首筋に手を近づけても、疑われない。
必要とあらば。
この距離なら、命を奪うことも難しくない。
コウは、櫛を髪へ通した。
するり、と長い髪が指の間を滑る。
艶やかな銀髪。
蘇白瑶はめったに軍装を解かない。
細身の身体を軍服に包み、顔の上半分を仮面で覆っている。
いつものように、髪を持ち上げた。
白いうなじが現れる。
「…………」
指が、止まった。
細い。
ふと、そう思った。
驚くほど、細い首だった。
軍服の襟元から覗く白い肌。
肩幅も狭い。
手首も華奢だ。
それなのに、剣を持たせれば誰よりも強い。
……いや。
そんなことは、とうに知っている。
何を今さら。
この首を断つなら、どこへ刃を入れればよいか。
最初に背後へ立った日から。
どう狙うか、どう仕留めるか、ありとあらゆる機会に考えている。
それが密偵というものだ。
なのに。
最近、このひとから、どうにも目が離せなくなる瞬間がある。
うなじから、首筋へ。
襟元に隠れていく、白い肌。
なぜだ。
なぜ、目が逸らせない。
「コウ?」
「はいっ」
「手が止まっている」
「ああ、すみません。少し絡まって」
「そうか?」
蘇白瑶は首を傾げる。
その動きにつられて、白いうなじがわずかに傾いた。
胸の奥に、じわりと熱が広がる。
眉をひそめる。
――何だ、これは。
不快だった。
自分の身体が、自分の意図しない反応をすることが。
相手は敵国の将軍だ。
いずれ殺すことになるかもしれない人間だ。
その首筋の細さ、肌白さに、なにをこれほどうろたえている。
「……コウ?」
「はい。もう終わりますよ」
いつもの笑顔を浮かべる。
声も、表情も、完璧だった。
蘇白瑶は何も気づかない。
当然だ。
自分は、そういう訓練を積んできた。
けれど。
櫛を握る指先だけが、妙に落ち着かなかった。
――くだらない。
コウは、胸の奥に生じた奇妙な熱を押し殺した。
これは任務だ。
相手の警戒を解き、信頼を得る。
それ以上の意味など、あるはずがない。
そう。
あるはずが、ないのだ。
今回のお話は、三年前のコウの視点から。
人の心を読み、笑顔さえも武器にしてきたコウ。そんな彼が、初めて自分でも理解できない感情に戸惑いはじめます。
敵国の軍神として見ていたはずの相手が、いつの間にか、一人の女性として目に映るようになる。
けれど、本人はまだ、その感情の名前を知りません。
任務のための親しさが、少しずつ本物に変わっていく。その始まりを描いた一話です。




