↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
56/79

第56話 忘川に沈む

 上流。

 ハユは岸へ上がった。

 身体が、妙に重い。

 水から出たせいだと思った。

 濡れた銀髪を背へ払い、用意していた薄絹を肩から羽織る。

「姉様、先に着替える?」

「ああ」

「じゃあ、私も――」

 カナルは少し離れた岩陰で、濡れた衣を脱ぎ始めた。

 ハユは薄絹の前を合わせる。

 そのときだった。

 ずきん。

 頭の奥が、脈打った。

「……っ」

 こめかみを押さえる。

 ずきん。

 もう一度。

 先ほどより強く、視界が揺れた。

 川。

 木々。

 空。

 すべてが、ぐらりと傾く。

 そして。


 ――夜。

 まただ。

 雨が降っている。

 誰かの手。

 熱い。

 自分の手首をつかんでいる。

 震えるような、声。

『――先輩』

 熱に浮かされたように、苦し気に、自分を呼ぶ、コウの。

『殺してください』

 縋るように。

『あなたを傷つけるまえに』

 ――僕を、殺してください。


 次の瞬間、まるで豹変したような声音に変わる。

『殺せるものか』

 嘲るような笑い声。

 押さえつけられる感覚。

 獣のような舌の感触。

 髪から簪を抜く。

 銀髪が散る。

 簪の先が、肌を裂く。

 肉へ沈む感触。

 なのに。

 それ以上、力を込めることができない。

『どうした。もっと深く刺せ』

 これは、だれだ。

『刺さねば、奪うぞ』

 不思議な色の虹彩が、細く長く光る。

『おまえが拾った愛しい顧虹(コ・コウ)を、お前に殺せるはずがない』

 愉しげに、嗤う。

 コウの顔。コウの声。なのに。

 これは、いったいだれなんだ。

『殺せぬのなら――差し出せ』

 虹彩が、細く光る。

『血も』

『肉も』

『息も』

 指が、肌をなぞる。

『おまえというものを、残らず我に差し出せ』

 びり、と衣が裂ける。

 冷たい夜気が、むき出しになった肌を撫でた。

 なのに。

 自分を押さえつける身体だけが、異様に熱い。

 愛撫なのか、浸食なのか、もはや、分からない。

『足を開け』

 抗いがたい力。

『奪いつくしてやる』


 これはなんの記憶だ。

 次の瞬間。

 激しい痛みが頭を貫いた。

「――っ!」

 膝から力が抜ける。

 薄絹の裾が、濡れた石の上へ落ちた。

「姉様?」

 カナルの声がする。

 返事をしようとした。

 できなかった。

 息が吸えない。

 胸の奥が、ひどく苦しい。

 また景色が変わる。

 反芻される、記憶の断片。

 ――殺してください。

 泣きそうな声が、耳の奥に響く。

 コウ。

 苦しんでいる。

 自分の身体の中で、何かに呑まれそうになっている。

 苦しませたくない。

 殺せるはずがない。

 ならば。

 ――取り戻さなければ。

 思わず、男の首を書き抱いた。

 ――戻ってこい!

「……コ……」

 そこまでだった。

 身体が傾く。

「姉様!」

 カナルの悲鳴が、川辺に響いた。


 ◇ ◇ ◇


 その声を聞いた瞬間。

 コウは走っていた。

「おい、首領!」

 後ろから慈雨の声がした。

 聞こえない。

 いや。

 聞く余裕がなかった。

 木々の間を抜ける。

 枝を払い。

 岩を飛び越える。

「どうした!」

「コウ兄さま!」

 声のした方へ駆け込んで。

 息が止まった。

 濡れた石の上に、ハユが倒れていた。

「先輩!」

 駆け寄る。

 薄い絹を一枚、身体にまとっただけだった。

 長い銀髪はまだ濡れ、白い肩へ張りついている。

 濡れた薄絹の下に、細い身体の線が浮かんでいた。

 けれど。

 そんなものを気にしている場合ではなかった。

「先輩」

 頬に触れる。

 冷たい。

「先輩、聞こえますか」

 反応がない。

「姉様、急に……!頭が痛いって、それで……!」

 カナルの声が震えている。

「息は?」

「してる。ちゃんとしてるけど……!」

 コウはハユの首筋へ指を当てた。

 脈。

 ある。

 速い。

 それを確かめた瞬間、ようやく息が戻った。

「……よかった」

 ほとんど無意識に呟いていた。

 そして。

 ハユの背と膝裏へ腕を差し入れる。

 抱き上げた。

「…………」

 その瞬間。

 コウの身体が、ほんのわずかに固まった。

 ――初めてだった。

 この人を。

 こんなふうに抱き上げるのは。

 三年前。

 戦場では、何度も背中を預けた。

 傷を負えば肩を貸したこともある。

 腕をつかんだことも。

 手を取ったことも。

 数えきれないほどある。

 けれど。

 こんなふうに。

 身体のすべてを、自分の腕へ預けられたことはない。

 軽い。

 思っていたより、ずっと。

 そして。

 柔らかい。

 そう認識してしまったこと自体に、ひどく狼狽した。

 薄絹一枚を隔てて伝わる体温。

 腕の中へ収まる細い腰。

 胸元へ倒れ込む濡れた銀髪。

 否応なく、思い知らされる。

 この人は。

 女なのだ。

 ずっと。

 自分が《先輩》と呼び、戦場では誰より強く。

 白虎面をつければ、何万もの敵兵を震え上がらせた人。

 その人が今は。

 あまりにも無防備な姿で、自分の腕の中にいる。

 白い肌。

 濡れた銀髪。

 伏せられた長い睫毛。

 薄絹の下にある、やわらかな身体の線。

 見てはいけない。

 そう思った。

 なのに。

 目を逸らすことすら、ひどく意識的な行為になった。

「……コウ兄さま?」

 カナルの声で、我に返った。

「何でもない」

 声が少し低くなった。

「先輩を休ませよう」

「うん」

 コウは立ち上がる。

 腕の中で、ハユの頭がかすかに揺れた。

 濡れた髪から落ちた雫が、コウの手の甲へ落ちる。

 冷たい。

 なのに。

 抱いている身体は、熱を持っていた。

 その感触に。

 三年前、突如として軍神が消えた朝の記憶が、重なった。

 軍営から蘇白瑶の気配が消えた時。

 気が狂うかと思った。

「…………」

 腕に、わずかに力が入った。

 もう二度と。

 逃がさない。

 その思いが何なのか。

 まだ、名前を知らなかった。


三年前の記憶が、少しずつ蘇り始めたハユ。


一方のコウは、腕の中の「軍神」が、あまりにもか弱く、無防備なひとりの女性であることを思い知らされます。


二人の間に横たわる、あの夜の真実。


それぞれの記憶がつながるとき、何が起こるのでしょうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。