第55話 左胸の傷
少し離れた下流。
コウは川辺に座っていた。
「首領」
慈雨が声をかける。
「何だ」
「さっきから、そっち見すぎ」
「見てない」
「見てるだろ。いっときも目を離してられないほど心配なのかよ」
「偶然だ」
「へえ?」
慈雨が胡散臭そうに言う。
コウは無視した。
そのとき。
上流から、水音がした。
大きく。
ばしゃん、と。
コウが立ち上がった。
ほとんど反射だった。
「おい」
慈雨が呆れる。
多聞も言い添えた。
「姉妹で水遊びでもしてるんだろう」
「……」
コウは答えない。
上流を見る。
幽川。
その水はやがて西へ流れ、彪国へ入り、忘川となる。
コウは当然、それを知っていた。
そして。
忘川という名を聞くたび、三年前の、あの夜を思い出す。
夜が明けて。
忽然と蘇白瑶が消えていた。
血の気が引いた。
探して。
探して。
崖際に残された足跡を見つけた。
その下を流れていたのが――忘川だった。
「…………」
コウは拳を握った。
三年前。
自分は、あの川に。
彼女を奪われたと思った。
三年間。
死んだのか、生きているのかさえ分からなかった。
だから。
幽川の水音は、コウにとってもまた、決して、ただの川音ではなかった。
しばらくして、上流からそれ以上の物音がしないことを確かめると、コウはようやく腰を下ろした。
「……大丈夫みたいだな」
「何が?」
慈雨がにやにやしている。
「今にも走っていきそうだったけどな」
「行かない」
「湯あみ中の女が二人いるもんな。まあ、姉のほうしか眼中にないんだろうけどよ」
「ジウ」
笑顔だった。
だが、声が低い。
「冗談だって」
慈雨が肩をすくめた。
多聞は二人のやり取りを聞き流しながら、上衣を脱いだ。
「俺たちも洗うか」
「賛成」
慈雨が真っ先に川へ入る。
「っ、冷てえ!」
多聞も水へ入った。
冷たい。
だが、数日間まともに身体を洗えていない。
旅の汗を流せるだけでもありがたかった。
コウもようやく上衣に手をかけた。
帯を解く。
衣を脱ぐ。
そのとき。
多聞の視線が止まった。
「…………」
コウの左胸。
そこに、一本の傷痕があった。
古い傷だ。
それほど長くはない。
だが、多聞には分かった。
――刺し傷。
刃の細いものだ。
しかも。
位置が悪い。
心の臓に、あまりにも近い。
あと少し内側だったら。
あと少し深く刺さっていたら。
命はなかったかもしれない。
「…………」
ふいに、明珠の言葉が蘇った。
――コウの身体には、蘇白瑶しか知らない傷がある。
あのときは意味が分からなかった。
だが。
多聞はもう一度、その傷を見る。
衣を着ていれば、分からない。
胸元から覗くような場所でもない。
裸にならなければ、まず目にすることのない傷だ。
「コウ」
「なんだ」
「その傷」
多聞が指した。
コウが自分の左胸を見る。
「ああ」
「どこでつけた」
「…………」
わずかに、コウの表情が変わった。
指先で傷痕に触れる。
「……分からない」
「分からない?」
「ああ」
慈雨も振り返った。
「自分の傷だろ。いつつけられたのかも覚えてないのかよ」
「そうなんだが」
コウは少し困ったように笑った。
だが。
多聞は笑わなかった。
「いつの傷だ」
今度は、答えが返ってくるまでに少し時間があった。
「三年前」
多聞の目が細くなる。
「三年前?」
「先輩が、いなくなった夜」
「…………」
川の音が、妙に大きく聞こえた。
コウは傷痕を見下ろした。
「正確に言えば、いつ傷ついたのかも覚えてない。前の晩の記憶が……かなり曖昧なんだ」
「何も覚えてないと?」
「何も、というわけじゃない」
コウの眉がわずかに寄る。
「酒を飲んだことは覚えている。先輩がいたことも。それから……」
言葉が途切れた。
何かを探すように、目を伏せる。
「そこから先が、ところどころ抜けている」
「で、朝には傷が?」
「ああ」
コウは左胸に触れた。
「目を覚ましたら、部屋がひどい有様だった」
倒れた卓。
床に転がった器。
乱れた寝台。
散らばった衣。
そして。
血。
その光景は、今でも鮮明に覚えている。
何が起きたのか、まるで分からなかった。
ただ、部屋の中に残された痕跡だけが、昨夜、何か恐ろしいことがあったと告げていた。
そして。
床に、一本の簪が落ちていた。
細い銀の軸。
繊細な細工が施された、女物の簪。
先端には、乾きかけた血がこびりついていた。
コウはそれを拾い上げた。
見覚えがあるような気がした。
だが、どこで見たものなのか、思い出せない。
誰の簪なのかも。
なぜ、血がついているのかも。
何ひとつ、分からなかった。
ただ。
捨てることは、できなかった。
あれから三年。
簪は、今もコウの手元にある。
「……コウ?」
多聞の声に、コウは我に返った。
「何を考えていた」
「……いや」
コウは小さく首を振った。
「誰かと争ったような跡があった」
「誰と?」
「分からない」
「蘇白瑶では?」
コウが顔を上げた。
「先輩?」
「ああ」
「ありえない」
即答だった。
多聞がコウを見る。
「なぜそう言い切れる」
「先輩が僕を殺そうとする理由がない」
「…………」
「それに――」
コウはそこで言葉を止めた。
朝、目を覚ましたとき。
蘇白瑶はすでに軍営から消えていた。
あの部屋に残されていた簪が、彼女のものだったのかどうかさえ分からない。
ただ、かのひとが自分を殺そうとしたなどとは、どうしても思えなかった。
多聞はそれ以上何も言わなかった。
コウは続ける。
「この傷も、そのとき気づいた。血がついていたから、新しい傷だったのは間違いない」
「なら、かなりの深手だったはずだ」
「ああ」
「それで動けたのか?」
「それが――」
コウの指が傷をなぞる。
「ほとんど塞がっていた」
多聞が眉を寄せた。
「一晩で?」
「ああ」
「そんな馬鹿な」
コウが笑う。
だが、その笑みはどこか乾いていた。
「痛みは残っていた。血の跡もあった。間違いなく、その夜についた傷なのに」
「…………」
「朝には、もう血が止まっていた」
慈雨もさすがに黙っていた。
多聞は傷を見る。
三年前。
蘇白瑶が消えた夜。
コウの失われた記憶。
争った形跡。
異常な治癒力。
そして。
――蘇白瑶しか知らない傷。
「コウ」
「何だ」
「その傷を、蘇白瑶は知っているのか」
コウは少し考えた。
「……さあ」
「見せたことは」
「ないと思う」
「思う?」
「少なくとも、覚えている限りでは」
多聞は黙った。
おかしい。
――蘇白瑶しか知らない傷。
明珠は、ずいぶん意味深な言い方をしていた。
衣の下に隠された傷を、白瑶だけが知っている。
だから多聞も、てっきり――。
だが。
これは、そういう類の傷ではない。
心臓の、すぐそば。
親密な触れあいを許す間柄の者だから知っている傷ではなく。
誰かが、コウの命を奪おうとしてつけた傷。
そこには、明確な殺意があった。
――少なくとも、そう見える。
「……あと少しだったな」
コウが多聞を見る。
「何が?」
「深く入っていたら、死んでいた」
「ああ」
コウはあっさり頷いた。
「そうだろうな」
「心の臓を狙われた傷だ」
「…………」
今度は、コウが黙った。
多聞の中で、ひとつの可能性が形を持ちはじめる。
まさか。
蘇白瑶が――。
いや。
軍神がコウを殺そうとする理由がない。
多聞はすぐに、その考えを打ち消しかけた。
だが。
もし。
もし、この傷をつけたのが蘇白瑶なら。
もう一つ。
おかしなことがある。
あの女は、軍神と呼ばれた人間だ。
人の身体の急所を知り尽くしている。
たとえ目を閉じていても外さないだろう。
それほどの女が。
至近距離から心の臓を狙って――。
なぜ。
殺せなかった。
「…………」
しかも。
多聞は、もう一度傷を見る。
狙いは外れていない。
心の臓を狙っている。
なのに――浅い。
刃をあと少し押し込めば、それで終わったはずだ。
蘇白瑶ほどの人間が。
その「あと少し」を誤るだろうか。
いや。
誤ったのではないとしたら。
――できなかった?
「…………」
多聞は、コウの胸に残る傷を見つめた。
答えは出ない。
ただ。
三年前のあの夜。
この二人の間に何かがあった。
それだけは、もう疑いようがない気がした。
三年前、ハユが姿を消した夜。コウの左胸には、心臓のすぐそばを貫きかけた傷が残されていました。
失われた記憶、血のついた銀の簪、そして一晩で塞がった不思議な傷。
前話ではハユの記憶が、今回はコウの身体が、あの夜の出来事を少しずつ語り始めます。
そして多聞が抱いた、一つの疑問。
軍神と呼ばれるほどのハユが、もし本当に心臓を狙ったのなら、なぜ仕留められなかったのか。
三年前の真相に、また一歩近づきます。




