第54話 忘川に沈む記憶のかけら
少し上流へ行ったところに、人目につかない淵があった。
旅に出てから数日。
宿に泊まれる日ばかりではない。
カナルが湯浴みをしたいと言い出したため、ハユも一緒に川へ入ることにした。
男たちは下流へ追いやった。
「絶対、こっち来ないでね!」
カナルが念を押す。
「誰が行くかよ!」
遠くから慈雨の声が返ってくる。
やがて男たちの気配が十分に遠ざかってから、二人は衣を脱いだ。
「冷たっ!」
川へ足を入れたカナルが声を上げる。
「だから言っただろう」
「でも気持ちいい!」
浅瀬で水を蹴る。
ぱしゃり、と水が跳ねた。
「姉様も!」
「私は遊びに来たんじゃない」
そう言いながら、ハユも川へ入った。
白い足先が水に沈む。
脛から膝へ。
腰へ。
冷たい水が、旅のあいだ衣の内側にこもっていた熱をさらっていく。
ハユは小さく息を吐いた。
長い旅装を脱いだ身体は、驚くほど白かった。
細い肩。
すらりと伸びた腕。
水の中へなだらかに続いていく腰の線。
華奢に見えるのに、弱々しくはない。
無駄なもののない、しなやかな身体だった。
戦場を駆け、剣を振るってきた身体であることが、不思議なくらい想像できない。
水が胸元まで満ちる。
濡れた肌を、水面から反射した光がゆらゆらとなぞった。
清らかなのに、どこか目を逸らしたくなるような艶がある。
カナルは、不思議そうにつぶやく。
「……姉様って、やっぱり女の人なんだね」
「何を言っている」
ハユが怪訝そうに振り返る。
その拍子に、濡れた髪が肩から滑り落ちた。
そして。
水面に、黒い色がゆっくりと滲んだ。
「……あ」
カナルが声を上げる。
黒く染めていた髪から、植物の染料が流れ落ちている。
墨をほんの一滴落としたような淡い色が、水の流れにほどけて消えていく。
ハユは自分の髪をひと房すくった。
黒かったはずの髪の根元から、見慣れた銀白色が現れている。
「色が落ちたか」
「落ちちゃったね」
「また染め直さないとな」
面倒そうに言って、ハユは髪を水ですすいだ。
洗うたびに、黒が薄れていく。
黒の下から銀が現れる。
一房。
また一房。
やがて、本来の色を取り戻した長い髪が、水面いっぱいにほどけた。
陽の光を受けて、白銀の糸のようにきらめく。
「わあ……」
カナルが思わず手を伸ばした。
「姉様の髪、きれい」
「そうか」
「水の中だと、もっと白く見える」
カナルが、その髪を指ですくう。
ハユは目を閉じた。
水の音。
鳥の声。
木々を抜ける風。
穏やかだった。
だから。
ほんの少しだけ、気を抜いた。
足を踏み出す。
その瞬間。
川底の石が、ずれた。
「――っ」
身体が傾いた。
水面が、一気に近づく。
ばしゃん。
水が顔にかかった。
それだけだった。
すぐに足をつく。
深さも腰ほどしかない。
何の危険もない。
なのに。
――落ちる。
突然。
頭の中に、別の景色が重なった。
夜。
雨。
暗闇。
濡れた土。
裸足の足。
息が、苦しい。
――逃げなければ。
誰から?
分からない。
ただ。
ひどく身体が熱かった。
足元が覚束ない。
それでも走った。
走って。
走って。
そして。
足の下から。
地面が――消えた。
「――!」
ハユが息を呑んだ。
崖。
落ちる。
暗い水面が迫ってくる。
その直前。
「姉様!」
現実の声が重なった。
ハユは目を開いた。
カナルが、すぐ目の前にいる。
「姉様、大丈夫!?」
「…………」
ハユは息を整えた。
ここは幽川だ。
昼間。
カナルがいる。
何も起きていない。
「……足を、少し、滑らせただけだ」
「ほんと?」
「ああ」
だが。
心臓が速い。
おかしい。
ただ水に顔をつけただけだ。
それなのに。
今のは――。
「……忘川」
ハユは呟いた。
「え?」
「いや」
幻の中を流れていた川は、忘川だった。
崖から落ちる。
暗い水面へ。
三年前の、あの夜。
――幻覚。
そう思おうとした。
だが。
本当に、幻覚なのか?
ハユは水面を見る。
揺れる自分の顔。銀の髪。淡い菫色の瞳。
その像が、水の揺らぎに崩れる。
そして、一瞬だけ、別のものが重なった。
――眼。
虹色の虹彩。
見る角度によって色を変えるそれは、ひどく美しく。
同時に、ぞっとするほど、禍々しかった。
その目を、自分は知っている気がした。
顔立ちも。声も。知っている。
なのに――。
――誰だ?
見慣れたはずの面差し。
けれど、こんな目で自分を見る男を、ハユは知らない。
いつも柔らかく細められるはずの目が、獲物を見定めるようにこちらを見下ろしている。
口元には、薄い笑み。
コウなら決して浮かべない。
不遜で。
妖しく。
ひどく愉しそうな――嗤い。
ぞくり。
身体の奥を、何かが這った。
景色が変わる。
乱れた寝台。
散らばった衣。
誰かの腕。
『妙だな』
訝しむような。
愉しむような声音。
『おまえを喰い殺すより』
逃れようとする自分の手。
それを、容易く押さえ込む腕。
『おまえを抱くほうが、興奮する』
身体が動かない。
息ができない。
――抗えない。
押しつぶされるような圧迫感。
肌に触れる、熱い指。
苦しい。
熱い。
息が、できない。
誰だ。
だれなんだ、これは?
コウの顔とコウの声、コウの腕。
なのに――ちがう。
そして。
耳元で、愉悦に満ちた声が告げる。。
『我は』
低い声がした。
人の声に、もっと巨大な何かが重なっているような。
『――虹龍なり』
「――っ!」
ハユは息を呑んだ。
水面が揺れる。
虹色の瞳が砕けた。
あとには、自分の顔だけが残っていた。
ハユは水面から目を逸らした。
「姉様?」
「もう上がるぞ」
「え?もう?」
「ああ」
「もうちょっと遊びたいー」
「いいから」
「姉様、変だよ」
「変ではない」
言い切って、岸へ向かう。
だが。
自分でも分かっていた。
――変だ。
忘川へ落ちたことは覚えている。
しかし、なぜ落ちたのかは分からない。
三年前。
気がつけば、玄国で川岸に流れ着いていた。
それ以前の記憶が、ひどく曖昧だった。
酒でも飲んだのか。
毒でも盛られたのか。
高熱を出していたのか。
分からない。
ただ。
今。
確かに見えた。
虹色の眼。
乱れた寝台。
自分を見下ろす、コウと同じ顔。
そして。
耳の奥に、あの声がまだ残っている。
『我は――虹龍なり』
その先。
もう一つ。
名前。
誰かの名が、記憶の底から浮かび上がった。
『――煌淵』
どくん。
ハユの心臓が、大きく脈打った。
「……コウ、エン……?」
自分の口からこぼれたその名を。
ハユ自身が、知らなかった。




