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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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第53話 天龍様のおやつ

 

 馬車は、龍国へ続く街道をゆっくりと進んでいた。

 車輪が小石を踏むたび、がたん、と小さく揺れる。

 その荷台で。

「ほっほっほっ」

 妙に年寄りくさい笑い声がした。

 カナルの膝の上。

 そこには、手のひらほどの小さな龍がいた。

 龍――というより。

 どう見ても、小さな角の生えたトカゲである。

「テンテン、それ私の」

「細かいことを申すでない」

 ぱく。

「あっ!」

 カナルが取ろうとした干し果実を、典禅(テンゼン)は一口で飲み込んだ。

 もぐもぐ。

『うむ。美味い』

「それ、姉様が私のために採ってくれたやつ!」

『ならば我も食う』

「なんで!?」

『我とそなたは、もはや一心同体のようなものではないか』

「そういうときだけ一心同体って言わないでよ!テンテンが食べたからって、あたしがお腹いっぱいになるわけじゃないんだからね、もう」

 典禅(テンゼン)は聞いていない。

 次は、小さな前脚で菓子を抱え込んだ。

 朱国を発つ前に、コウが買ってきた焼き菓子だった。

 ぱく。

 ぱくぱく。

 ぱくぱくぱく。

「テンテン!」

「ほっほっほっ!」

 実に楽しそうである。

『よもや、再び現身の実体を得て、このように生の食物にありつける日が来ようとはのう』

「それ私のお菓子!」

 馬車の外から声がした。

「何を騒いでんだよ」

 馬を寄せてきた慈雨(ジウ)が、荷台を覗き込む。

 そして。

 固まった。

「…………」

 典禅(テンゼン)は菓子を抱えたまま、慈雨(ジウ)を見る。

『おう、ジウよ』

「天龍」

 いつのまにか、<様>はない。

「……まだ出てんのか?」

 いつのまにか、敬語も消えた。

『なんじゃ?』

「いや」

 慈雨が眉を寄せた。

「そいつ、今日、出てきたのいつだ」

 カナルが答える。

「えーっと……朝ご飯のあと?」

「今、昼過ぎだぞ」

「そうだね」

「…………」

 最初に神降ろしをしたとき。

 典禅が姿を保てたのは、数刻ほどの、ほんのわずかな時間だった。

 しばらくすると輪郭が薄れ、すぐにカナルの中へ戻っていった。

 それが、日を追うごとに、少しずつ長くなっている。

「カナル」

「なに?」

「しんどくないか」

「全然」

「身体が熱いとか、胸が痛いとか」

「ないよ?」

 カナルは不思議そうに首を傾げた。

「むしろ最近、調子いいよ」

「…………」

 慈雨は答えなかった。

 典禅が、焼き菓子をかじりながら言う。

『当然じゃ』

「何がだよ」

『この娘と我との結びつきが、より馴染んできておる』

「馴染む?」

『うむ』

 小さな龍は満足そうに腹を撫でた。

『ゆえに、こうして顕現していられる時間も延びておるのであろう』

「…………」

『まこと、めでたいことよ』

「それ、めでたいのか?」

 慈雨が低く訊いた。

 典禅が止まった。

『……なんじゃ、その顔は』

「いや」

 慈雨はカナルを見る。

 元気そうだ。

 頬の色もいい。

 以前よりむしろ健康になっている。

 だからこそ。

 ――分からない。

 天鱗核とカナル。

 どちらが、どちらへ馴染んでいるのか。

 それとも。

 もう、その区別自体に意味がなくなりつつあるのか。

「ジウ?」

「……何でもねえよ」

 慈雨は馬を前へ進めようとした。

 そのとき。

『ジウよ』

「ん?」

『これ食うか?』

 典禅が、食べかけの菓子を差し出した。

 慈雨は目を瞬いた。

「……くれんの?」

「うむ」

「天龍、意外といいやつじゃん――」

 ぱく。

 典禅が残りを全部食べた。

『やらん』

「このクソトカゲ!」

『誰がトカゲじゃ!!』

「テンテン!また私のお菓子がなくなってる!」

「ほっほっほっほ!」

 馬車の中が騒がしくなる。

 少し前を走っていたハユが振り返った。

「何をやっている」

「姉様!テンテンがあたしのおやつ全部食べた!」

『我は食べておらぬ』

「食べたでしょ嘘つき!」

『証拠はあるかの?ほっほっ』

 口の周りに、菓子の屑がびっしりついている。

 ハユはしばらくそれを眺めて、言った。

「……龍国の守護神というのは」

『なんじゃ』

「ずいぶん庶民的だな。しかも食い意地が張っている」

『無礼者!』

 前を行くコウが吹き出した。

 街道に、カナルの笑い声が響いた。

 ただ一人。

 慈雨(ジウ)だけが、時折その小さな龍と少女を不安げに振り返っていた。

 ――最初は、ほんの数刻だった。

 それが今は、半日近く、天龍は、<こちら側>にいる。

 それが何を意味するのか。

 巫覡としての勘が、音にならない警鐘を鳴らしているような気がした。


 ◇ ◇ ◇


 馬車が進む。

 昼を少し回った頃だった。

 朝から走り続けていた馬の歩みも、少しずつゆるくなっている。

「そろそろ休むか」

 先を行っていたコウが馬を止めた。

 多聞(タモン)も頷く。

「馬にも水を飲ませた。近くに水場があるはずだ」

「水!」

 馬車の中から、カナルが勢いよく顔を出した。

「ねえ、川ないの?顔も洗いたいし、足も洗いたい!」

『我も水浴びがしたいぞ』

 カナルの肩の上で、テンテンが偉そうに胸を張る。

 慈雨(ジウ)が横目で見た。

「お前、水浴びすんの?」

『当然じゃ。天龍たるもの、常に身を清らかに保たねばならぬ』

「トカゲのくせに」

『誰がトカゲじゃ!』

 そのとき。

「――水の音がする」

 ハユが言った。

 全員が黙る。

 耳を澄ませれば、木々の向こうから、かすかに水音が聞こえていた。

 さらさらと。

 岩の間を流れるような、涼しげな音。

 街道を少し外れると、木立の向こうに光がきらめいた。

 山間を縫うように流れる、細い川だった。

 水は驚くほど澄んでいる。

 浅瀬では川底の白い石まで見え、木々の影が水面でゆらゆらと揺れていた。

「わあ……!」

 カナルが馬車から身を乗り出す。

「姉様、きれい!」

「ああ」

「ここで休もうよ!」

 言いながら、もう馬車を降りようとしている。

「待て。足元を見ろ」

 ハユに襟首をつかまれた。

「大丈夫だってば」

「お前の大丈夫は信用できない」

「ひどい!」

 それでも馬車が止まると、カナルは真っ先に川辺へ駆けていった。

 冷たい水へ手を浸す。

「つめたっ!」

 けれど、すぐに笑った。

「気持ちいい!」

 旅に出てから数日。

 宿に泊まれる日ばかりではない。

 水で顔を洗い、手足の汚れを落とせるだけでも、ずいぶん気分が違った。

「姉様、足つけてもいい?」

「まだ冷たいぞ」

「ちょっとだけ!足を少しつけるだけなら、いいよね?」

 言うが早いか、カナルは靴を脱ぎ始めた。

『我も入るぞ!』

 肩に乗っていたテンテンまで、ぴょん、と飛び降りる。

「お前は濡れて大丈夫なのか」

『我を何だと思っておる』

「トカゲ」

『天龍じゃ!第一、龍は水神ぞ!』

「見た目はトカゲだろ」

 慈雨(ジウ)が横から口を挟む。

『貴様、覚えておれよ!』

「はいはい」

 騒がしい二人を横目に、多聞(タモン)が川上を見た。

「幽川(ユウセン)だな」

 ハユが振り返る。

「知っているのか」

「ああ。龍国南西部を流れる川だ。この先でいくつかの支流と合流して、西へ向かう」

「西?」

「彪国だ」

 その国名に。

 ハユの指が、わずかに止まった。

 多聞は気づかず続ける。

「彪国へ入れば、この川は名が変わる」

「何という」

「忘川(ボウセン)」

 その瞬間だった。

 ――ざあっ。

 水の音が。

 ひどく近く聞こえた。

「…………」

 ハユは川を見た。

 澄んだ水。

 岩にぶつかって砕ける白い飛沫。

 流れていく水。

 ――忘川(ボウセン)。

 知っている。

 もちろん知っている。彪国は、10年近く過ごした国だ。

 彪国最大の大河。

 白虎軍にいた頃には、何度も渡った。

 ただ、それだけだ。

 そのはずなのに。

「姉様?」

 カナルの声で、我に返った。

「どうしたの?」

「……何でもない」

 ハユは答えた。

 だが。

 胸の奥に、妙なざわつきが残った。


今回もお読みいただき、ありがとうございます。


すっかり食いしん坊の「天龍様」になってしまったテンテン。カナルや慈雨とのやり取りは、もはや守護神というより、旅の仲間の一員ですね。


けれど、少しずつ長くなっていく顕現の時間。それは本当に、喜ばしいことなのでしょうか。


そして、一行がたどり着いた川の名は「忘川」。


穏やかな旅の風景の中で、ハユの失われた記憶が、静かに揺れ始めます。


次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。

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