第50話 旅のはじまり
龍国へ向けて出立したのは、朝だった。
虹。
羽悠。
奏――偽名は、寧々(ネネ)。
多聞。
そして慈雨。
五人。
明珠と承寧は朱国に残った。
龍影衆の情報網を維持するためでもあり、ハユたちが留守にする薬茶館を預かるためでもある。
旅支度を整え、馬を引き出し、いよいよ街道へ出ようとした。
そのときだった。
「蘇白瑶殿」
呼び止められて、ハユが振り返った。
多聞が立っている。
「なんだ」
「一つ、頼みがある」
「なんだ」
「手合わせを願いたい」
「断る」
「なぜだ」
「今から出立だ」
「だからこそだ」
「意味が分からん」
多聞は真顔だった。
「これから共に旅をする」
「ああ」
「危険があれば、互いに背を預けることもある」
「そうだな」
「ならば、誰がどの程度戦えるのか、正確に把握しておく必要がある」
「…………」
「序列を決めたい」
ハユが黙った。
慈雨が横から口を挟む。
「誰が一番強いかなんて決めてどうすんだよ」
――最強なのは、軍神に決まってるだろ。
以前、ハユに追跡され、見事に捕縛された経験のある慈雨には分かる。
この女の強さは、異様だ。
いや。
もしかすると、首領なら同等に渡り合えるかもしれない。
龍影衆の首領として、コウの実力も嫌というほど知っている。
ただし。
たとえ純粋な力量が互角だったとしても。
――首領は、この女には二〇〇%負ける。
なぜなら。
この女を相手にした瞬間、わが首領は別の意味でまったく勝てなくなるからだ。
慈雨はちらりとコウを見る。
「…………」
「なんだ、ジウ」
「いや。なんでもない」
――絶対に言わないでおこう。
多聞は慈雨の内心など知る由もなく、腕を組んだ。
「赤龍家では、強い者を知ることは最重要事項だ」
「おまえんとこの血筋の人間は頭が筋肉でできてんのかよ」
「武と力は絶対だ」
「めんどくせえな、お前!」
慈雨が叫ぶ。
カナルは楽しそうだった。
「姉様、やってあげたら?」
「お前まで何を言っている」
「だって、姉様が本気で戦うところ見るの、久しぶりだもん」
「手合わせだ。本気で戦う必要はない」
多聞の眉が動いた。
「いや」
「なんだ」
「俺は本気でいく」
「…………」
「そうでなければ意味がない」
ハユは、しばらく多聞を見た。
大柄な男だった。
無駄のない身体。
立っているだけで、鍛え抜かれているのが分かる。
何より。
目がまっすぐだった。
駆け引きもない。
遠慮もない。
ただ純粋に。
――戦ってみたい。
「……分かった」
ハユが荷を下ろした。
「一度だけだ」
多聞の顔が明るくなる。
「感謝する」
「ただし」
「なんだ」
「負けても、再戦はないからな」
「それは約束できない」
「ではやらん」
「分かった。約束する」
「早いな」
コウが笑った。
「先輩」
「なんだ」
「怪我をさせないでくださいね」
「どちらの心配をしている」
「多聞です」
「おい、コウ!」
「だってお前、本気でやるんだろう?」
「当然だ」
「なら心配する」
「俺が負ける前提で話すな!」
多聞が怒鳴った。
慈雨がぼそりと言う。
「……俺もそっちに賭けるけどな」
「何?」
「何でもねえ」
「聞こえたぞ!」
「うるせえな。早くやれよ」
カナルが二人から少し離れた場所に座った。
「ジウ、こっち」
「なんで俺まで座るんだよ」
「始まるよ」
「見りゃ分かる」
そう言いながら、慈雨も隣に腰を下ろした。
コウだけが立ったまま、腕を組む。
ハユと多聞が向かい合った。
「武器は?」
ハユが訊く。
「拳でいい」
「そうか」
「そちらは剣を使ってくれ」
「必要ない」
「…………」
多聞の顔が険しくなった。
「舐めているのか」
「いや」
ハユは淡々と答えた。
「お前の間合いなら、抜く方が面倒だ」
「…………」
「来い」
一瞬。
多聞の姿が消えた。
――速い。
地を蹴る音とほとんど同時に、拳がハユの顔面へ飛んだ。
ハユは首を傾ける。
拳が頬を掠めた。
「おお」
慈雨が声を上げる。
「多聞、結構やるじゃん」
「そうなの?」
「速い。力もある。まともに食らったら俺なら吹っ飛ぶ」
「ふうん」
カナルは二人を見る。
多聞が追う。
右。
左。
さらに踏み込む。
拳だけではない。
蹴り。
肘。
足払い。
途切れない。
ハユは避ける。
一歩。
半歩。
身体をずらす。
それだけ。
「…………」
カナルが首を傾げた。
「多聞さん、なんか余裕ない感じ」
「…………」
慈雨が隣を見る。
「お前、たまに鋭いな」
「だって」
多聞がさらに踏み込む。
ハユがかわす。
追う。
かわす。
また追う。
「多聞さん、ずっと姉様を追いかけてる」
「……まあ、そうだな」
「姉様、全然追いかけてない」
その瞬間。
多聞が深く踏み込んだ。
拳がハユの胸元へ伸びる。
今度こそ。
そう思ったのだろう。
だが。
ハユの身体が消えた。
「!」
多聞の手首が掴まれる。
引かれた。
前へ崩れたところへ、足を払われる。
天地が逆転した。
どんっ。
「ぐっ……!」
多聞の背中が地面に落ちる。
次の瞬間。
ハユの膝が、多聞の喉元すれすれで止まっていた。
「…………」
「終わりだ」
ハユが言った。
「…………」
「これが実戦ならおまえは今確実に死んだぞ」
「……ああ」
ハユが離れる。
多聞は起き上がった。
そして。
「もう一度頼む」
「断る」
「なぜだ」
「約束しただろう」
「今ので、自分の問題点が分かった」
「知らん」
「次は修正できる」
「しなくていい」
「頼む」
「嫌だ」
「俺はまだ疲れていない」
「私は疲れた」
「嘘だあ」
カナルが言った。
ハユが振り返る。
「姉様、全然疲れてないでしょ」
「…………」
「息も普通だよ」
多聞が勢いよくハユを見る。
「頼む、もう一度!」
「カナル」
「はい」
「余計なことを言うな」
「はーい」
コウが堪えきれずに笑った。
「先輩」
「なんだ」
「では、僕もお願いしていいですか」
いよいよ、龍国への旅が始まりました。
……のですが。
出発する前から、多聞が止まりません。
「共に旅をするなら、互いの力量を知っておくべきだ」
理屈はもっともなのですが、結局のところ――たぶん、軍神・蘇白瑶と戦ってみたかっただけなのでしょう(笑)。
そして、そんな多聞をあっさり地面へ転がすハユ。
本人はまったく誇る様子もなく、「終わりだ」「再戦はしない」と淡々としているあたりが、なんともハユらしいです。
一方、慈雨はすでにいろいろ分かっています。
たとえ純粋な力量なら互角だったとしても、コウがハユに勝てるのか。
……まあ、無理でしょう。
いろんな意味で。
そして最後。
「では、僕もお願いしていいですか」
さて。
多聞との手合わせを余裕で終えたハユと、龍影衆の首領であるコウ。
この二人が本気で向かい合ったら、いったいどうなるのでしょうか。
次回、もう少しだけ出発前のお話にお付き合いください。




