第48話 偽装工作
「…………」
一瞬。
部屋が静まり返った。
きょとんとしてカナルが聞く。
「ないえん?」
カナルが首を傾げた。
「なに、それ」
「お前は知らなくていい」
ハユが即座に遮る。
「妻として公にはしていないが、実質は妻同然の女ということだ」
「承寧!」
「説明しただけだ」
カナルの目が、ぱっと輝いた。
「あっ、分かった!」
嫌な予感がした。
「隠れて結婚したってこと!?隠し妻!?」
「違う!」
ハユの声が飛んだ。
それから、コウを睨む。
「余計な誤解を生むような設定ならごめんだ」
「承寧の考えすぎでしょう」
コウは笑っている。
柔らかく。
いつもの、人好きのする笑顔で。
承寧は確信する。
――こいつ、絶対に分かってやっている。
「コウ」
「なんだ」
「今なら作り直せる」
「必要ない」
「即答か」
「顧姓が一番安全だ」
「ほかにも方法はある」
「これが一番簡単だ」
「寧々だけならまだ分かる」
無駄だとは思いつつ、承寧は一度念を押すように言った。
「なぜ、羽悠にまで顧姓を与える必要がある」
「言っただろう。わたしが雇用主だからだ。顧家が身元を保障する人間だと明確になる。何が問題なんだ?」
しれっと。
本当に、しれっと言う。
ハユのこめかみに青筋が浮かんだ。
「コウ」
「はい」
「顧姓を外せ」
「嫌です」
「…………」
今度はハユが黙った。
「おまえ、今、嫌だと言ったか?」
「……いえ?」
「では外せ」
「合理的ではありません」
「おまえが合理性を語るな」
承寧が吐き捨てた。
コウは聞かなかったことにして、ハユの手から腰牌を取る。
――顧羽悠。
その三文字を眺めて、満足そうにハユへ返す。
「いい名前でしょう?」
「姓の話をしている」
「僕は気に入っています」
「おまえの好みは聞いていない!」
そのとき。
ふと。
何かに気づいたように、その青緑の瞳が止まった。
「…………」
「なんだ」
「いえ」
口元が、ゆっくり上がる。
「……これは、いいですね」
「何がだ」
「ハユ」
「…………」
ハユが眉を寄せた。
「何だ」
「ハユ」
「聞こえている」
「ハユ」
「何度も呼ぶな」
カナルが、ぱちぱちと瞬きをする。
「コウ兄さま、どうしたの?」
「いや。考えてみれば、これからは人前でも先輩を堂々と呼び捨てにできるなと思って」
ハユの目が細くなる。
コウは実に楽しそうだった。
「これまでは、さすがに人前であなたを『ハユ』と呼ぶわけにはいかなかったでしょう」
蘇白瑶。
かつて彪国第一白虎隊を率いた大将軍。
その女を「ハユ」と呼ぶ人間は、ほとんどいない。
妹のカナルと。
そして、コウくらいのものだった。
だが今は違う。
腰牌に刻まれている。
――顧羽悠。
コウの笑みが深くなる。
「……おまえ」
「はい、ハユ」
「楽しんでいるだろう」
「まさか、ハユ」
「呼ぶな」
「それは無理です、ハユ」
「コウ!」
「…………っ!」
カナルが吹き出した。
「あははは!姉様、ずっとハユって呼ばれてる!」
「笑うな!」
承寧が、こめかみを押さえた。
「……お前たち」
三人を見る。
「今、重要な偽装身分の確認をしているんだが」
「分かってる」
「全然分かってないだろう」
承寧は深く息を吐いた。
「とにかく、龍国へ入ったら間違えるな。蘇白瑶という名は絶対に出すなよ」
「ああ」
「お前もだ、コウ」
「僕?」
「嬉しそうに『ハユ』を連呼するな。不自然だ」
「なぜ」
「雇われの女傭兵の名を、そんな目で嬉しそうに何度も呼ぶ雇用主がどこにいる」
「…………」
コウが少し考える。
「日常的に親しくしている設定にすれば――」
「設定を増やすな」
承寧の声が飛んだ。
カナルがまた笑う。
ハユは額を押さえた。
「悪くないだろう、カナル?」
「うん、最高!」
コウは立ち上がった。
「では、身分の確認も済みましたし――」
「待て」
「出立の準備をしましょう」
「逃げるな!」
さっさと部屋を出ていく。
戸が閉まった。
「…………」
残された三人。
承寧はしばらく閉じた戸を見つめていた。
やがて。
「……あいつ」
深々と息を吐く。
「私が何日かけて偽装経歴を作ったと思ってるんだ」
承寧は二枚の腰牌を見る。
そして、ぼそり。
「龍国へ着いたら、絶対に面倒なことになるぞ」
カナルが楽しそうに笑った。
「楽しみだね、姉様」
第48話、お読みいただきありがとうございました。
龍国へ向かうための偽装身分が、ようやく完成しました。
……したはずなのですが。
どうやら一番楽しんでいるのはコウのようです。
「顧羽悠」。
本人は「顧家が身元を保証するため」「その方が合理的」ともっともらしいことを言っていますが、本当にそれだけなのかは、かなり怪しいところ。
そして思わぬ副産物が、堂々と「ハユ」と呼べるようになったこと。
一方、何も気づかず本気で怒っているハユ。
面白がるカナル。
すべて分かっていて頭を抱える承寧。
書いていて、とても楽しい四人でした。
さて。
承寧の最後の言葉、
「龍国へ着いたら、絶対に面倒なことになるぞ」
果たして予言となるのでしょうか。
いよいよ旅が始まります。




