第45話 名を呼ぶ
「ラン?」
呼ばれて、我に返る。
「……ああ」
「さっきから何を見ている」
「・・・あなたを」
ハユが眉を寄せた。
鸞は、ふっと笑った。
ようやく、いつもの薄い笑みが戻る。
「初めてですね」
「何が」
「あなたが化粧して、朱国の装束をまとっている姿」
「ああ」
ハユは袖を見る。
「ホウに着せられた」
「……兄上ですか」
妙に納得した。
むしろ兄以外に、誰がこの女にこんな格好をさせられるというのだ。
「似合わないか」
「いや」
鸞は、もう一度見る。
これもまた。
想定外だった。
「……美しいなと思って」
「そうか」
それだけだった。
本当に、それだけ。
照れるでもなく、喜ぶでもなく、ただ事実を聞いたように、あっさりと頷く。
鸞は、ほんの少し眉を寄せた。
――美しい。
朱国一の鬼才などともて囃される自分が。
よりによって、ずっと見続けてきた女を前にして出てきた言葉が、それだけとは。
陳腐にもほどがある。
普段なら、言葉などいくらでも出てくる。
相手の表情を読み、反応を予測し、最も効果的な言葉を選ぶ。
それくらい、考えるまでもない。
なのに今は、何も浮かばなかった。
美しい。
ただ、それしか。
まるで思考そのものが、そこで止まってしまったように。
「お前こそ、なぜここにいる」
ハユの声で、鸞は再び現実へ引き戻された。
「警備です」
「王子自ら?」
「祭りの夜は人が多い。揉め事も増えるのです」
「なるほど」
嘘ではない。
だが。
本当の理由でもない。
兄が今日、ハユとカナルを朱天祭へ誘う。
そう聞いた。
だから来た。
ただ、それだけだ。
――なぜ?
鸞は、その問いにだけ蓋をした。
考えないことにした。
「カナルを見なかったか」
ハユが聞いた。
「妹御?」
「ああ。はしゃいでいるうちに消えた」
鸞が小さく息を吐いた。
「では、一緒に探しましょう」
「警備は?」
「これも警備のうちです」
「そうか」
二人で歩き出した。
祭りの人波を縫うように、並んで歩く。
赤い灯。笛の音。太鼓の響き。笑い声。
人々の肩が触れ合うほどの雑踏の中を、しばらく二人は黙って進んだ。
「三年」
ふいに、鸞が言った。
「何が」
「瑶殿が、朱国に来てから」
「ああ」
ハユは前を向いたまま答えた。
そして、少し間を置いて。
「……いい国だった」
鸞の足が、ほんのわずかに止まった。
「何です、急に」
「別に」
ハユは、祭りの夜を見渡した。
赤い灯籠。行き交う人々。屋台から立ちのぼる湯気。遠くで鳴る笛と太鼓。
幼い頃に玄国の軍に引き取られてから、剣技を覚え、兵法を学び、軍人として生きるための術を徹底的に叩き込まれた。
彪国へ渡ってからは、戦場から戦場へ。
勝って。
進んで。
また戦った。
どこかの土地に根を下ろして暮らすということを、ほとんど知らなかった。
そんなハユにとって、朱国は、初めて妹二人で、ただ穏やかに暮らすことのできた国だった。
朝になれば薬茶館を開ける。
薬草を刻む。
客が来れば茶を淹れる。
カナルが笑う。
時折、アキョウが押しかけてきて、頼んでもいない世話を焼く。
そして――。
ハユは、隣を歩く男を見た。
「おまえにも、世話になったな」
「……私に?」
「ああ」
鸞が、わずかに眉を上げた。
ハユにとって、鸞は昔から妙な男だった。
戦場で、ほとんど言葉を交わさなくても、自分が何をしようとしているのかを読む。
敵の動きを読み、味方の意図を読み、自分でさえ勘に近いところで選んだ一手を、後から理屈にして説明してみせる。
頭が切れすぎる男だった。
少々、面倒でもある。
だが。
背中を預ける相手として、これほど楽な男も珍しかった。
「おまえは、昔から話が早かった」
「…………」
「いちいち説明しなくても、勝手に分かる」
鸞が一度、瞬きをした。
それから、少しだけ笑う。
「それは、褒めています?」
「褒めている」
「明日は雪でも降るかもしれませんね」
「朱国では雪などめったに降らない」
「それくらい珍しいという意味です」
ハユが鸞を見る。
鸞もハユを見る。
淡い菫色と、深い紅。
ほんの一瞬、人波の中で、二人の視線がぶつかった。
そのとき。
鸞の中で、何かが引っかかった。
ごく小さな違和感だった。
盤面に、一つだけ。
そこにあるはずのない石が置かれたような。
――いい国だった。
鸞は、頭の中でもう一度その言葉を転がした。
過去形。
なぜだ。
今夜の朱天祭。
いつもと違う装い。
そして、先ほどからどこか妙なハユの様子。
盤上の石は、一つでは意味を持たなくとも、二つ、三つと並べば意図を持つ。
鸞の暗深紅の瞳が、わずかに細くなった。
「瑶殿」
「なんだ」
「どこかへ行くのですか?」
ハユの目が、ほんのわずかに動いた。
それだけだった。
だが、鸞は見逃さない。
――当たりか。
「…………」
ハユは何も言わない。
ならば、と。
次に問うべきことは、いくらでもあった。
どこへ。
何のために。
誰と。
いつ発つ。
本来の鸞なら、そうやって一つずつ盤面を埋めていく。
なのに。
口から出たのは、そのどれでもなかった。
「いつ戻ります?」
言ってから、鸞自身が、ほんのわずかに黙った。
――いつ、戻る?
自分は今、何を聞いた。
行き先でもない。
目的でもない。
なぜ出ていくのかでもない。
戻ってくるのか。
そして、それはいつなのか。
自分が知りたいのは、そこなのだ。
要するに――戻ってきてほしい、と。
そう、自分は願っているのか。
そう思い至って、ランは内心、愕然とする。
「…………」
ハユは答えなかった。
明日の朝には、朱国を発つ。
龍国へ向かう。
いつ戻れるのかなど、ハユ自身にも分からない。
そもそも、戻ってくることができるのかさえ。
「ラン、私は――」
そのときだった。
「――ハユ」
聞き慣れた声がした。
ハユが振り返る。
人混みの向こうから、一人の男が歩いてくる。
濃藍の衣。
長い濡羽色の髪。
祭りの灯を受けるたび、その中に混じった暗紅の一房がちらりと覗く。
青緑の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「コウ?」
ハユが、ごく自然にその名を呼ぶ。
鸞の視線が、わずかに動いた。
――ハユ?
それはほとんど誰も呼ばないはずの蘇白瑶の呼び名だ。
虹弟は、いつから彼女をそう呼んでいる?
彪国にいる頃は、たしか、「先輩」「軍神」「仮面将軍」・・・そんなふうに呼んでいた気がする。とりわけ序列の厳しい彪国の軍では、上官を親しい名で呼び捨てにするなどありえないことだったはず。
だが。
その名を呼ばれた女は、何の違和感もなく振り返った。
まるで。
ずっと昔から、その名で呼ばれてきたように。
「瑶殿」
声が、低くなったのが、自分でも分かった。
「?」
「いつから、虹弟に名を呼ぶことを許しているのですか」
――不愉快だ。
「もう軍の人間ではないし・・・別に気にならない」
鸞は何か言いかけたが、そのまま言葉を呑み込む。
コウが二人の前までやってきた。
「探しましたよ」
そして。
一度、鸞を見る。
ほんの一瞬だった。
青緑と深紅。
二人の男の視線が交わる。
「――ハユ」
二度目。
鸞の目が、わずかに細くなった。
今度は分かった。
――こいつ。
わざとか。
朱国一の鬼才・鸞。
盤上では何手も先を読み、戦場では相手の思惑まで読む男ですが、今回はどうにも調子が狂っています。
「どこへ行くのか」でも、「なぜ行くのか」でもなく。
思わず口から出たのは、
【いつ戻ります?】
自分でも、その言葉が出て初めて気づいたようです。
そして、もう一つの想定外。
「――ハユ」
自分が「瑶殿」と呼んできた女性を、ごく自然に親しい名で呼ぶ男がいる。
しかも、呼ばれた本人も当たり前のように振り返る。
たった一つの呼び名から、鸞は、自分の知らない二人の時間があることに気づきました。
そして二度目の、
「――ハユ」
たぶん、わざとです。




