第44話 想定外の一手
「姉様、あれ何?」
カナルが指差した先に、小さな露店があった。
食べ物を売っているわけではない。
軒先から、細長い朱色の紙札が何百枚も吊るされている。
「火願札ね」
アキョウが言った。
「かがんふだ?」
「朱天祭ではね、願いを書いて火にくべるのよ」
アキョウは三枚受け取ると、二人にも渡した。
「表には、これから叶えたい願い。裏には、もう手放したいものを書くの」
「手放したいもの?」
「悲しいことでも、嫌な思い出でも、怖いことでも。古いものは炎に返して、願いは煙に乗せて朱雀様へ届けてもらうのよ」
「炎に返す?」
「朱雀様はね、百年に一度、自ら炎の中へ入るの」
アキョウは、祭りの灯を見上げた。
「その炎で古い身体を焼き尽くして、一度すべてを失う。そして、燃え尽きた灰の中から、また新しい命となって生まれてくる。不死鳥なのよ」
「死んでも、生き返るの?」
「そう。だから朱国では、火は何かを滅ぼすだけのものじゃない。古いものを終わらせて、新しいものを始めるためのものでもあるの」
アキョウは、朱色の火願札をひらひらと振った。
「だから、もういらない悲しみは火に返す。そして、これからの願いは朱雀様に託すの」
「へええ」
カナルは、改めて手の中の札を見た。
「姉様、書こう!」
「私は別に――」
「書くの!」
「……分かった」
三人は、露店の端に置かれた筆を取った。
カナルは迷いなく書き始める。
ハユはしばらく、白い筆先を見ていた。
――願い。
そんなものを考えたのは、いつ以来だろう。
やがて。
一言だけ書いた。
「姉様、何書いた?」
「言わない」
「なんで?」
「願いというのは、人に見せないものじゃないのか」
「そうなの?」
「知らん」
「適当!」
カナルの袖の横から、小さな頭がぬっと出た。
『我にもよこせ』
「テンテンも書くの?」
『当然じゃ』
「神様なのに?」
テンテンが止まった。
『…………』
「誰にお願いするの?」
『…………』
しばらく考えて。
『朱雀じゃ』
「神様のくせに、そんな他人任せでいいの?」
それでもテンテンは、前脚で器用に筆を抱えた。
やがて、妙に満足げに札を掲げる。
『美味なる供物が、毎日たらふく食えますように』
「願い、それ?」
『重要じゃ』
「さっきからずっと食べてるじゃん」
『明日の分はまだ食っておらぬ』
「そういう問題!?」
アキョウが不思議そうに、カナルとトカゲ(天龍)の様子を見つめる。
「よっぽどトカゲが好きなのね・・・なんか、楽し気に話してるように見える」
◇ ◇ ◇
やがて三人と一匹は、広場の篝火へ向かった。
次々と朱い札が炎へ投げ込まれていく。
カナルも。
アキョウも。
テンテンも。
そして最後に。
ハユは自分の札を炎へ落とした。
朱い紙が、端から黒く縮れていく。
書いた言葉が炎に呑まれ。
やがて、小さな火の粉となって夜空へ昇った。
――カナルが、自由に生きられますように。
それだけだった。
自分のためだけの願いなど、考えたことはない。
「姉様!あっちにも何かある!」
「おい、待て。走るな」
「テンテン、行こ!」
『おお!』
「待てと言っている!」
人混みの中へ、二人の姿が消えていく。
ハユは深く息を吐いた。
――そして少し後。
「……カナルは?」
ハユが言った。
アキョウが止まった。
二人で振り返る。
いない。
「…………」
「…………」
「テンテンもいないな」
「…………」
「ハク」
「言うな」
「迷子ね」
ハユは眉間を押さえた。
あれほど離れるなと言ったのに。
「アタシはこっちを探すわ」
「ああ」
「見つけたら中央の朱雀灯籠の前で合流ね」
「分かった」
二人は別れた。
人混みを縫って、ハユは歩く。
「カナル」
返事はない。
「カナル!」
珍しく声を張る。
だが太鼓と笛にかき消された。
しばらく歩いたところで。
ふいに。
「――瑶殿?」
足が止まった。
その呼び方をする人間は、一人しかいない。
振り返る。
人波の向こう。
赤い灯籠の下に、鸞が立っていた。
黒を基調とした髪はいつものようにきっちりとは結われず、やや長い前髪が無造作に目元へ落ちている。灯籠の火が揺れるたび、その黒髪の奥に暗い赤銅色が浮かんだ。
黒と深紅を重ねた衣。襟と袖には赤銅と金の細い刺繍。耳元には、小さな紅玉の耳飾り。
細身で長身。
武人のような威圧感はない。
けれど、人混みの中にいても妙に目につく。
「ラン」
ハユがその名を呼ぶ。
鸞の口元に、いつもの、何かを面白がっているような薄い笑みが浮かび――。
止まった。
「…………」
今夜のハユを見た瞬間だった。
「?」
「どうした」
「…………」
銀の髪。珊瑚の簪。白い肌。緋色の薄衣。
歩くたび、長い裾が揺れる。
こんなふうに装った蘇白瑶を、はじめて見た。
戦場では、何度も見た。
血に濡れた姿も。鎧姿も。男物の軍衣をまとった姿も。
泥まみれになって、敵兵を斬り伏せている姿も。
知っている。
――いや。
自分は、この女をずっと見てきた。
最初は、理解できなかったから。
十代の頃。
兄・鳳の傍らで軍議に加わっていた鸞にとって、戦場とは巨大な碁盤だった。
地形。兵数。兵糧。天候。敵将の性格。味方の士気。
盤上に石を置くように条件を並べれば、おのずと読むべき手は絞られる。
敵が右へ出れば、左を取る。
退路を断てば、敵はここへ動く。
ここで伏兵を置けば、三手後には勝敗が決まる。
人間も同じだった。
何を欲しているか。
何を恐れているか。
何を守ろうとしているか。
それさえ分かれば、次の一手は読める。
少なくとも。
蘇白瑶に出会うまでは、そう思っていた。
だから、見ていた。
次は何をする。
なぜ、そうする。
何を見ている。
――この女には、自分に見えていない何が見えている?
気づけば、戦場に出るたび、蘇白瑶を目で追うようになっていた。
最初は、次の一手を読むためだった。
そのはずだった。
なのに今。
戦場でも、軍議でも、碁盤の前でもない。
ただ祭りの灯の下に立っているだけの女から。
鸞は目を離せなかった。
――妙だ。
読むべき盤面など、どこにもないのに。
朱天祭、後半です。
何でも盤面のように読み、相手の次の一手まで考えてしまう鸞。
そんな彼にとって、蘇白瑶は昔から、どうにも読み切れない相手だったようです。
最初は「理解できないから見ていた」はずなのに、気づけば理由もなく目で追っている。
祭りの夜、いつもとは違う姿のハユを前にして、珍しく思考まで止まってしまいました。
さて。
天才棋士にとっての【想定外の一手】は、いったい何だったのでしょう。
そして、ハユが火願札に書いた願いは、やっぱりカナルのことだけ。
自分自身の願いを持つことを知らない彼女が、いつか自分のために何かを願う日が来るのか。
そのあたりも、これからゆっくり描いていきたいと思います。




