第42話 報告書
――蘇白瑶を、籠絡せよ。
「…………」
カナルがぱちぱちと瞬きをした。
「ろうらく?って・・・」
しばらく間があって、思いついたようにカナルが叫んだ。
「色仕掛け!?」
「どこで覚えた、そんな言葉」
ハユが睨む。
「そんなわけないでしょう。女性だとは知らなかったんですよ」
「じゃあ、女だって知ってたら色仕掛けで迫ってたかもしれないってことかよ」
「その減らず口をたたけないようにしてやろうか」
低く恫喝するようにコウが言う。
ジウは思わず口をおさえた。
「母性本能をくすぐる戦略!?年下男の魅力で押しまくるとか!?でも姉さま、それじゃ落ちない気がするけど……」
「ジウ」
射殺すような鋭さで、コウが慈雨を睨んだ。
「なんで俺だけ!?」
コウは無視して、ハユに向き直った。
「もう一度、聞きたいんです」
その声から、ふっと戯れが消える。
「なぜ、僕を傍に置いたんですか。見張るため?泳がせていただけ?」
一拍置いて。
「それとも――僕が必要でしたか?」
今度は、ハユが黙った。
「カナルが懐いていた」
「それだけ?」
「飯がうまかった」
「それだけですか?」
「役に立った」
「先輩」
「なんだ」
「僕、ちょっと傷ついてます」
「わたしも傷ついている」
言い返した瞬間、ハユの表情が固まった。
コウも目を見開く。
いつもの愛想のいい笑みが、すっと消えた。
帰れば、灯りがあった。
食事があった。
カナルの笑い声があった。
そして、いつもコウがいた。
だから、何者なのか問いたださなかった。
聞いてしまえば。
あの日々が、終わってしまうような気がしたから。
けれど。
そんなことまで、こいつに言ってやる必要はない。
「……いや。今のは撤回する」
ハユは、ふいと顔をそむけた。
コウは言葉を失ったまま、その横顔を見つめる。
「あの」
「それがおまえの責務で、使命だったのなら仕方ない」
――あ。
だめだ。
捨てられる。
反射的に、そう思った。
このひとは、怒鳴らない。
責めない。
ただ、自分の中で結論を出して、切り離す。
――引き止めなければ。
このひとに見限られる前に。
距離を置かれる前に。
どうすれば。
「撤回しないでください」
「何?」
「僕は十年近く、あなたを騙していました。あなたの傍にいながら、得た情報を龍国へ流したこともある。あなたの知らないところで、卑怯な手口を使って龍国のために動いたことも、一度や二度ではありません」
「おまえ、何を――」
「責めてください」
ハユが眉を寄せる。
「なじってください」
怒ってほしい。
傷ついたのだと、言ってほしい。
それくらいには、自分がこのひとの中にいたのだと。
せめて、そう思いたかった。
「あっさり許せるほど、僕は軽い存在でしたか」
「そういう話をしているんじゃない」
「許してください」
ハユの動きが止まった。
「……何を言っている」
「謝罪を。騙していたこと。あなたを傷つけたことを」
何度でも許しを請う。
このひとを引き止められるのなら。
無様でも、みっともなくても構わない。
――もう二度と。
僕から、離さない。
「必要なら、跪きます」
「首領!?」
「やめろ!」
ハユが思わず声を荒らげた。
「それも演技なのか。おまえはいったい、どこまで――」
――演技。
その言葉に、今度はコウが黙った。
自分でも、もう分からなかった。
何が嘘で。
何が本当だったのか。
どこまでが任務で。
どこからが、自分の意志だったのか。
「首領のほうが籠絡されてんじゃん」
慈雨が、ぼそりと言った。
◇ ◇ ◇
その夜。
朱国の一角にある書房、『日月堂』(ニチゲツドウ)。
表の戸はすでに閉じられ、客の姿はない。
昼間は書物や地図、筆墨を商う店だが、その実、ここは朱国における龍影衆の拠点の一つだった。
二階の奥。
卓の上には、何枚もの紙が広げられている。
承寧はその一枚に目を通し、無言で卓に戻した。
「なんだ」
悪びれる様子などみじんもない主の様子に、男は辟易したようにため息をつく。
王弟直属の四人の側近の中でも、実務の中核を担う男だった。
年は三十に届くかどうか。
細身で、端正な顔立ちをしている。青みを帯びた墨黒の髪はきっちりと整えられ、後ろだけを細い銀の髪留めで束ねている。白龍家の血を示すような淡い灰青の瞳は、どこか冷たい。
白と濃藍を基調とした衣にも乱れ一つない。
卓に置かれた手も同じだった。
長く、細く、わずかに骨ばった指。
剣よりも筆が似合う手だったが、紙の端がほんの少しずれているだけで直したくなるような、妙な神経質さを感じさせる。
その指が、とん、と報告書を叩いた。
「いつ報告する」
「何を」
「とぼけるな。時間の無駄だ」
承寧は冷めた目で、向かいに座る主を見た。
顧虹。
こちらもまた、目を引く男だった。
長身で細身。無駄なく鍛えられた身体に、濃藍の衣をまとっている。
長い濡羽色の髪は背で一つに束ねられ、その中に一房だけ、暗紅色の髪が混じっていた。普段は黒の中に紛れているそれが、灯火を受けた瞬間だけ、血のような深い紅を浮かび上がらせる。
青玉を思わせる青緑の瞳。
片耳には、小さな青玉の耳飾り。
整った顔立ちにはいつもの柔らかな笑みが浮かび、一見すれば、とても大陸最大の諜報組織を束ねる青年には見えない。
だが。
「天鱗核だ。十年前に消えた龍国の神器を見つけた。しかも生きた人間の中から。報告しないという選択肢はない」
「分かってる」
その青緑の瞳が、わずかに細くなる。
青年は、思考を巡らせた。
――こちらで情報を止めたとしても、いくつかの諜報の人脈を持つ龍王は、近いうちにどこからか天鱗核の場所を嗅ぎつけるだろう。
それよりは。
「こちらからから報告するぞ。いいな?」
「待て」
承寧が目を細めた。
「……何を企んでる」
「人聞きが悪い」
コウは卓上の紙を一枚引き寄せた。
紙をつまむ指は長く、しなやかだった。
承寧のそれよりわずかに大きく、剣を握る者らしい硬さがある。それでも動きには妙な優雅さがあり、紙一枚を扱うだけなのに、どこか人の目を引いた。
「天鱗核を発見した。現在、十三歳の少女の体内にあり、すでにその生命と深く結びついている。安全に分離する方法は確認できない。強引に取り出せば、宿主だけでなく天鱗核そのものを損なう可能性がある」
「それだけか」
「十分だろう」
承寧の眉が動いた。
「情報が落ちてる。少女の名は?出身は?蘇白瑶の件は?」
コウは平然としている。
「十三歳の朱国の孤児。病弱で、現在は私たちの保護下にある。それでいこう」
承寧の指が止まった。
「コウ」
「なんだ」
「事実を報告する話をしていたはずだが」
「天鱗核については事実だろう」
「少女については偽造だ」
「些細な問題だ」
「些細ではない」
承寧は報告書の角を揃えた。
一枚。
二枚。
三枚。
話している最中だというのに、ほんのわずかな紙のずれさえ許せないらしい。
「出身、身分、経歴。全部偽るつもりか」
「悪いか」
「理由は」
「カナルに危害が及ぶのは避けたい」
「……それだけか?」
「それだけ、とは」
「もう一人いるだろう」
――本当に守りたい人間が。
――隠しておきたい女が。
承寧の細い指先が、卓を二度叩いた。
とん。とん。
「蘇白瑶をどうするつもりだ」
一瞬。
コウの目から、笑みだけが消えた。
同じ顔。
同じ青緑の瞳。
なのに、それだけで別人のように見えた。
「その名は報告書に書く必要はない」
「元彪国第一白虎隊の大将軍だぞ」
「今は違う」
「だから?」
「今回の任務とは無関係だ」
「本気で言ってるのか」
「もちろん」
承寧はしばらく黙っていた。
やがて、形のいい眉間にうっすらと皺が寄った。
「では、龍国へ戻るときはどうする。少女だけ連れていくのか」
「まさか」
コウは当然のように答えた。
「蘇白瑶も同行させる」
「……そう言うと思った」
「設定は――」
コウは少し考えた。
「僕が朱国で雇った女傭兵ということに」
「は?」
「腕が立つので、少女の護衛を任せている」
「…………」
「ただ、男の護衛では少女の身の回りまでは世話できない。だから侍女も兼ねている」
「…………」
「天鱗核を保持する少女の、護衛兼侍女。悪くないだろう?」
「・・・わざとらしい」
「どこが」
「全部だ」
承寧は額を押さえた。
細く骨ばった指が眉間を揉む。
その仕草だけで、頭の中ではすでに必要な偽造書類の枚数と、関係者の口裏合わせと、それにかかる費用まで計算していることが分かる。
「まず、お前、いつその女を雇った設定にするんだ」
「朱国に来てから」
「雇用記録は」
「ない」
「報酬は」
「決めていない」
「所属は」
「私個人」
「契約期間」
「未定」
「それを世間では雇ったとは言わない」
承寧が深く息を吐いた。
「記録を入念に偽造しなければ、陛下には見破られるぞ」
「そのあたりはよろしく頼む」
ぴくり。
承寧の指が動いた。
「…………」
「承寧?」
「今、頭の中で必要経費を計算している」
「やってくれるんだな。さすがお前だ」
「まだやるとは言ってない」
「だが、もう予算を考えてる」
「黙れ」
コウが小さく笑った。
承寧は笑わない。
「コウ」
「なんだ」
「お前、私情で動いてるだろ」
「なんとでも言えばいい」
承寧は呆れたように宙を仰いで、椅子の背にもたれた。
「龍王陛下に虚偽の報告をする。少女の素性を偽る。蘇白瑶の存在を隠す。そのうえ、偽造した身分で二人とも龍国へ連れ込む」
「厳密には、違う」
「どこが?」
「陛下には、天鱗核について必要な事実を報告する。少女の素性については、身の安全を守るため情報を整理する。先輩については、今回の任務に不要なので報告しない」
「それを世間では情報操作と言う」
ぴしゃりと言われた。
それでもコウは笑っている。
承寧は、その顔をじっと見た。
「……一つ確認する」
「どうぞ」
「天鱗核を龍国へ戻すことには反対していないんだな」
「反対してない」
「少女を龍国の庇護下に置くことも」
「本人が同意するなら」
「そこにも条件をつけるのか」
「当然だ。カナルが了承していないものを、先輩が許容するはずない」
「龍国の神器だぞ」
「だからといって、あの子は龍国の所有物ではない」
承寧の目が細くなった。
コウの声は穏やかだった。
「天鱗核と一体化しているからといって、十三歳の少女まで国の所有物になるわけではない」
「…………」
「ましてや、そのために命を奪うことなど認めない」
承寧は答えなかった。
感情論。
本来なら、そう切り捨てるところだった。
だが。
天鱗核を取り出せば宿主が死ぬ。
そして宿主の死によって天鱗核まで失われる可能性がある。
ならば、宿主を生かしたまま管理する。
少なくとも現時点では、それが最も損失の少ない選択に思えた。
「……分かった」
承寧が言った。
「へえ?言い負けてくれるのか」
にやりと、青年は笑う。
「その顔をやめろ」
「もっと反対するかと」
「反対してる」
「では?」
「お前の案が、現状では一番損失が少ない。それだけだ」
承寧は新しい紙を引き寄せた。
「天鱗核を宿す少女。十三歳。朱国出身の孤児。その身辺警護には、顧虹が朱国で雇い入れた女傭兵を充てている」
さらさらと筆が走る。
「女傭兵の名は?」
「適当に考えろ。記録と戸籍の偽造も」
筆が止まった。
「便利屋じゃないぞ」
承寧は、心底嫌そうな顔で筆を置いた。
「給金を上げろ」
「もともと、財務担当はお前だ」
コウが笑った。
承寧は、やはり笑わない。
「先に言っておく」
「なんだ」
「長く隠し通すのは無理だぞ」
「そうか?」
「少女の経歴が作られたものだということも、お前が何かを隠していることも。・・・陛下は、腹の底の読めない方だ。おまえも知ってるだろう」
「知ってる」
コウはあっさり答えた。
「それでも、今はこれが最良の選択肢だ」
「どこが」
承寧の細い指が、卓上の報告書を叩く。
「言ってみろ。龍王陛下を欺いて、偽造した経歴の人間を二人も龍国へ連れ込む。そのどこが合理的なんだ」
「では、逆に聞く」
コウは椅子の背にもたれた。
「このまま二人を、朱国の山奥に隠しておくのか?」
「…………」
「天鱗核が十年前に龍国から消えたことは、他国にも知られている。龍国だけが探しているわけじゃない」
承寧の目がわずかに動いた。
「保持者が見つかったと知られれば、欲しがる人間はいくらでも出てくる。国も動く。商人も動く。裏の連中も動く」
「……なるほど?」
「先輩は強い。だが、四六時中カナルのそばにいることはできない」
コウの声が少し低くなった。
「ひとたび居場所が割れれば、山奥で薬茶を売って暮らすような穏やかな生活はできなくなるだろう」
「だから龍国へ連れていく?」
「ああ」
「よりによって、天鱗核の本来の所有国へ?」
「本来の所有国だからだ」
承寧が黙った。
「先輩が望んでいるのは、天鱗核を自分たちのものにすることじゃない」
「…………」
「カナルを生かしたまま、天鱗核と分離する方法を探すことだ」
コウは報告書へ目を落とした。
「緑龍家は、代々天鱗核を守ってきた。天龍に関する記録も、秘儀も、龍国に集まっている。もし安全に分離する方法が存在するとすれば――」
「龍国にある可能性が最も高い」
「そういうことだ」
承寧の指が止まった。
「それに」
コウは続ける。
「いつか見つかるのなら、追い詰められてから龍国へ連行されるより、こちらから先に動いた方がいい」
「…………」
「わたしが見つけ、わたしが保護し、わたしの管理下で連れ帰る」
青緑の瞳が、静かに細められた。
「そうしておけば、少なくとも最初から罪人や盗人として扱われることはない」
承寧はしばらく何も言わなかった。
「……なるほど」
「納得したか?」
「理屈はな」
「十分だ」
「だが、一番大きな危険を無視している」
「・・・兄上か」
承寧の目が細くなる。
「分かってるくせに、お前はあの女から離れたくないんだな」
「兄上の思惑など、知ったことではない」
「だが――」
「だからこそ、先輩たちの本当の素性は伏せる」
コウは静かに言った。
「天鱗核の存在は報告する。カナルの命に関わることも報告する。だが、こちらの手札を最初から全部見せる必要はない」
「…………」
「龍国の知識と庇護は利用する。だが、二人を無防備に差し出すつもりはない」
承寧は、しばらくコウを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……本当に非合理的な男だな」
「今の話を聞いて、その結論か?」
「そこまで理屈を並べておきながら、結局やっていることは、守りたい女とその妹を自分の懐に入れようとしているだけだ」
「…………」
「違うか?」
コウは少し考えた。
「結果が合理的なら、動機はどうでもいいだろう」
「開き直るな」
「それでも、ついてきてくれるんだろう?」
承寧は冷ややかな目を向けた。
「勘違いするな。私は、多門や明珠のように、お前に対して無条件に忠誠を誓っているわけじゃない」
「知ってる」
「現時点で、龍国にとって最も貢献度が高く、合理的だと判断するから、お前の側についているだけだ」
「分かってる」
「その判断が変われば、私は容赦なくお前を切る」
「かまわない」
「なら、少しは合理的に行動しろ」
コウは笑った。
「善処する」
「信用できない」
その言葉とは裏腹に。
承寧は再び筆を取った。
さらさらと。
白龍家当主は、不承不承、偽りの経歴を書き始めた。
「蘇白瑶を、籠絡せよ」
そんな命令で始まったはずなのに、どうやら籠絡されていたのはコウのほうだったようです。
ハユの「わたしも傷ついている」の一言で、いつもの余裕が一気になくなるコウ。
そして後半では、龍影衆の実務を担う承寧が本格登場しました。
隠したいコウと、全部見抜いている承寧。
結局、ハユとカナルを守るため、かなり「都合よく整理された」報告書を龍王へ送ることになります。
果たして、龍王はこの報告をどう受け取るのか。
少しずつ、物語は龍国へ向かって動き始めます。




