第41話 コウの素性
「コウ。素性を明かせ」
しん、と部屋が静まり返った。
コウは、しばらく何も言わなかった。
正面にはハユ。
その隣にはカナル。
少し離れたところに、ジウがいる。
「……先輩」
「なんだ」
「昔から思っていたんですが」
「なんだ」
「先輩に『座れ』と言われて、いい話だったためしがないんですよね」
「そうか」
「否定してくださいよ」
「いいから話せ」
「……はい」
コウは小さく息を吐いた。
確かに。
――潮時だ。逃げられない。
長いこと、<蘇白瑶拾った少年>でいた。
最初の目的は、単純だった。
――蘇白瑶を、籠絡せよ。
彼女の懐に入り、信頼を得る。
その力を、できることなら龍国のために利用する。
それだけだったはずだ。
なのに。
いつからだろう。
彼女が何を考えているのか知りたくなった。
誰にも見せない顔を、自分には見せてほしいと思った。
食事を作れば食べてほしかった。
帰れば、そこにいてほしかった。
そして――。
自分以外の誰かのもとへ行くことを、嫌だと思うようになった。
それはもう、任務とは呼べなかった。
龍国へ取り込みたいのではない。
龍影衆の手中に置きたいのでもない。
もっと個人的で。
もっと身勝手で。
おそらく、ずっと厄介な欲だった。
――このひとを、失いたくない。もう二度と。
それが任務のためではないことは、さすがにもう分かっていた。
彼女が行方知れずになった三年間。
まるで世界そのものが崩れ落ちたようだった。
あれほど探したのは、任務を果たすためだったのか。
蘇白瑶という稀有な人材を、龍国が失わないためだったのか。
――違う。
ただ。
もう一度、会いたかったのだ。
「顧虹。僕の本名です」
「名まで偽っていたわけではないんだな」
「龍国の人間です」
「それも分かっている」
「龍影衆という、龍王直属の組織があります」
「首領は、おまえか」
龍影衆。
龍王の命を受け、諜報、潜入、工作、破壊――表の軍にはできぬ任務を担う、龍国の影。
彪国の軍にいたころ、ハユもその名を何度か耳にしたことがある。
国境を越えて入り込んだ間者が、一夜にして姿を消した。
龍国への侵攻計画を進めていた部隊の情報が、作戦決行前にはすべて筒抜けになっていた。
内通者を突き止めたときには、すでに必要な情報だけを奪われ、痕跡ひとつ残されていなかった。
姿を見せない。
証拠を残さない。
だが、確実に目的だけは果たしていく。
有能にして、無情。
中でも、その首領は冷酷無比、情け容赦のない男だと聞いていた。
「・・・なにもかも、お見通しでしたか」
――結局、最初から、このひとに、すべてを見透かされていたわけか。
一瞬。
空しいような、ひどく腹立たしいような、妙な気分になった。
「ではなぜ僕を側においたんです」
「・・・それは、おまえが」
初めて会ったのは、もう十年近く前になる。
雨の中で拾った、痩せた少年。
それが三年前には、ずいぶん背も伸び、剣の腕も上がっていた。
そして今。
こうして向かい合ってみれば、もう「少年」と呼ぶには無理がある。
肩は広くなった。
声も低くなった。
何より、その眼差しが違う。
――男になったのだ。
しかも、ただの男ではない。
龍王直属の影――龍影衆の首領。
十年近く前、自分が拾ったあの少年だった。
ハユは、わずかに目を細めた。
いったい、どれほどのものを隠していたのだろう。
そして自分は、どれほど長く、この男に騙されていたのだろう。
――いや。
違う。
騙されていたわけではない。
気づいていた。
最初から、どこかおかしいとは思っていた。
身のこなしも。
物を見る目も。
何気ない会話の中で、ときおり覗かせる知識も。
行き倒れの身寄りのない少年にしては、あまりにも不自然だった。
だから本当は、分かっていたのだ。
コウには、自分に言えない何かがある。
自分のそばにいることにも、何か目的があるのだと。
ただ。
考えないようにしていた。
問いただせば、少年はいなくなるような気がしたから。
ハユは少し考えた。
「ずいぶん、聞いていた話と違う」
「それ、どういう意味です?」
ハユは、あらためてコウを見た。
何か、薄いヴェールが一枚剥がれたようだった。
十年近く傍にいた男。
知っているつもりだった。
だが、その向こうには、自分の知らない顧虹がいる。
「裏社会で暗躍する龍王直属の諜報組織の首領は、よほど暇なようだな」
ハユは腕を組んだ。
「こんな長きにわたって、私の傍から離れないとは」
コウが、わずかに目を見開いた。
「……珍しい」
「何が」
「それは嫌味ですか。それとも皮肉?」
コウの口元が、かすかに上がる。
「少しは、心が動くんですか」
「…………」
「僕はいつだって、あなたの手のひらの上で、いいように転がされている駒にすぎないと思っていましたが」
真向かいに座ったまま、コウは肘を卓についた。
そのまま、ハユから目を逸らさず、ゆっくりと身を乗り出す。
「そんな僕でも――少しは、あなたを不愉快にすることができたわけですか」
「……喧嘩を売っているのか」
「まさか」
コウは楽しそうに笑った。
「先輩が、売られた喧嘩を不用意に買わないことくらい、知っていますよ」
ある意味、こいつは自分を過小評価しすぎている、とハユは思う。
十年近く。
どこまでが本当で、どこからが嘘だったのか。
それを考えれば、胸の奥にわずかな痛みが残る。
――騙されていたことに、傷ついた。
そんなことを。
この目の前の男に言ってやるつもりは、毛頭なかった。
なかったが。
喉元まで、出そうになった言葉があった。
――返せ。
「ハユ先輩?」
――わたしのコウを、返せ。
わたしは、なにを。
すぐに、打ち消す。
返すもなにも。
あれは、龍影衆首領が自分に近づくために作った姿だったのだ。
そう考えれば、すべて辻褄が合う。
目の前にいるこの男こそが、ほんとうの顧虹なのだ。
――そう、思えばいい。
なのに。
では、ずっと自分の傍にいた、あの少年はどこへ行った?
カナルと笑い、飯を作り、自分が食事を抜けば、呆れた顔で叱った。
黙って髪を結ってくれた。
あれも。
すべて、偽りだったのか。
「・・・いい。続けろ」
コウは姿勢を正した。
「龍王は、僕の兄です」
ハユの目が、わずかに細くなる。
「姓がちがう。たしか、龍国王家の姓は・・・」
「顧姓は、母方の姓です。龍王とは年がかなり離れています。先代の王が母を見初め、妃として迎える頃には、すでに兄は王位を継いでいましたから、僕は王位争いとは無縁の立場で育ちました」
「…………」
「え?」
声を上げたのはカナルだった。
「コウにいさま、王子様なの?」
「おまえ、そこかよ」
慈雨があきれたように言う。
「そこって?」
「ふつうは、よくもだましてたわね!!とかなるだろ」
「だって兄さま、ご飯作るし、姉さまの髪とかすごく上手に結うし」
「カナル、黙っていろ」
ハユが制する。
「それで」
「はい」
「なぜ、龍国の王弟が彪国にきた」
コウの表情が変わった。
「なぜ、私に近づいた」
カナルも黙った。
コウは膝の上で指を組んだ。
少しの沈黙。
やがて、口を開く。
「……命令でした」
「誰の」
「龍王です」
ハユは何も言わない。
「当時、彪国第一白虎隊を率いていた蘇白瑶は、龍国にとって非常に重要な人物でした。軍事情報という意味でも、あなた自身の能力という意味でも」
「それで?」
「可能であれば、龍国側へ引き入れる」
「不可能なら」
「少なくとも、彪国の軍事情報を得る」
「そのために、お前を送り込んだ」
「はい」
コウは一度目を伏せた。
「僕が受けた命令は――」
そこで言葉を切った。
それから、ハユを見る。
「『蘇白瑶を、籠絡せよ』」
ついに、コウの正体が明らかになりました。
十年近く前、雨の中でハユに拾われた少年。いつも穏やかに笑い、料理を作り、カナルの面倒を見て、ハユの髪まで結っていたコウ。
その正体は――龍王の弟にして、龍王直属の諜報組織「龍影衆」の首領。
しかも、ハユとの出会いそのものが偶然ではありませんでした。
「蘇白瑶を、籠絡せよ」
それが、コウが最初に受けた命令です。
けれど、数年以上におよぶ時間の中で、任務はいつの間にか別のものへ変わっていました。
龍国へ引き入れたいのではない。利用したいのでもない。
ただ、そばにいてほしい。
もう二度と、失いたくない。
一方のハユも、「何かを隠している」と気づきながら、ずっと問いたださずにいました。
問いただせば、この少年はいなくなってしまう気がしたから。
そして、正体を知った今、思わず胸に浮かんだ、
――わたしのコウを、返せ。
騙していたコウと、騙されていたハユ。
でも、本当に十年間のすべてが「嘘」だったのでしょうか。
次回も楽しんでいただけると嬉しいです。




