第39話 巫覡(ふげき)の役目
慈雨は、そのやり取りを見つめていた。
胸の奥が、妙にざわつく。
天龍の声を聞くのは、自分のはずだった。
天龍に選ばれるのも、自分のはずだった。
なのに。
目の前で。
天龍は奏の手のひらに乗っている。
楽しそうに。
当たり前のように。
「…………」
『慈雨』
「!」
呼ばれた。
慈雨は反射的に背筋を伸ばす。
「はい!」
『そう固くなるな』
「無理です!」
『なぜじゃ』
「天龍だからです!」
『カナルを見習え』
「それは絶対に嫌です!」
「なんでよ」
『ほっほっほ』
典禅が笑った。
そして、小さな頭を、慈雨へ向ける。
『しかし、ようやったの』
「…………え?」
『ワシはこれまで、カナルの夢を借りねば、この娘と言葉を交わせなかった』
「…………」
『こうして外へ出ることもできなかった』
慈雨の目が見開かれる。
『おぬしが道を開いたのじゃ』
「俺が……?」
『うむ』
「でも」
慈雨は奏を見る。
「天鱗核は、こいつの中にある」
『そうじゃ』
「俺は……選ばれなかった」
典禅はしばらく慈雨を見ていた。
そして。
『慈雨』
「はい」
『カナルは、ワシの宿じゃ』
「…………」
『そして、おぬしは』
小さな前脚が、慈雨を指す。
『ワシが外へ出るための道じゃ』
「…………道」
典禅は、奏と慈雨を交互に見る。
『どちらが欠けても、今のワシはここにはおらん』
「…………」
慈雨は何も言えなかった。
十六年間。
天鱗核を宿すために。
天龍を自分の身体へ降ろすために。
修行してきた。
それができなかった自分は。
選ばれなかった自分は。
何者なのか。
ずっと。
分からなかった。
けれど。
「……俺が」
慈雨は自分の手を見る。
「天龍を……外へ?」
『そうじゃ』
「俺の神降ろしで?」
『そうじゃ』
「…………」
喉の奥が詰まった。
奏が慈雨を見る。
「ジウ」
「何だよ」
「嬉しい?」
「うるせえ」
「嬉しいんだ」
「うるせえ!」
『素直ではないのう』
「天龍様まで言わないでください!」
典禅が、ほっほっほ、と笑う。
『しかし困ったのう』
「何がですか」
『カナルには中にいてくれと言われ』
「言ってないよ?」
『おぬしには降りてきてほしいと十六年も思われ』
「そういう意味じゃ――」
『ワシほど偉大になると、老若男女問わずにもてすぎてのぉ』
「…………」
『何千年生きても、求められすぎる男というのはつらいものじゃのう。ほっほっほ』
――なんか。
『なんじゃ、その顔は』
「・・・・なんか、思ってたのとちがう・・・」
慈雨がつぶやいた、そのとき。
典禅の身体が。
ふっと透けた。
「え?」
奏が声を上げる。
「テンテン?」
『む』
小さな前脚を見る。
向こう側が透けている。
『……どうやら、これが限界のようじゃ』
「消えるの?」
『ワシそのものが消えるわけではない。意識が天鱗核へ戻るだけじゃ』
「そっか」
奏はほっとしたように胸を押さえた。
その言葉に、慈雨が反応した。
「……待ってください」
『なんじゃ』
「天鱗核へ戻るってことは」
慈雨は一度、言葉を切った。
「やっぱり、天龍様は天鱗核の中にいるんですよね」
『まあ、今はそう考えてよい』
「だったら」
慈雨の目が、奏へ向く。
「天鱗核を、こいつから取り出すことはできないんですか」
奏が瞬いた。
「ジウ?」
「黙ってろ」
慈雨は典禅だけを見る。
「俺たち緑龍家に伝わってる記録では、器が死ねば、天鱗核は器から離れる」
『うむ』
「なら――」
慈雨は拳を握った。
「こいつが死ねば、天鱗核はまた次の器を選べるんじゃないんですか」
「…………」
奏は黙っている。
典禅も。
しばらく何も言わなかった。
先ほどまでの、ふざけた雰囲気が消えた。
『慈雨』
「はい」
『それは、もうできぬ』
「…………え?」
典禅の声が低くなる。
『今のカナルは、器ではない』
「…………」
「え?」
奏まで自分を指さした。
「私、器じゃないの?」
『違う』
典禅は小さな身体で奏を見上げた。
『三年前。おぬしは死にかけておった』
「…………」
『覚えておるか』
「……あんまり」
『まあ、よい』
典禅は続けた。
『天鱗核は、何者かによっておぬしの中に封じられた』
慈雨の目が鋭くなる。
『そしておぬしの命が消えかけたとき、天鱗核はその力を使って、おぬしをつなぎ止めた』
「…………」
『それから三年』
典禅の小さな尾が、ゆっくりと動く。
『天鱗核の神力は、おぬしの血とともに巡り、おぬしの鼓動とともに時を重ねた』
慈雨は動かない。
『今はもう』
典禅が言った。
『天鱗核が、カナルの中にあるのではない』
「…………」
『どこまでがカナルで』
一拍。
『どこからが天鱗核なのか』
そして。
『ワシにも、もう分けられぬ』
「……そんな」
慈雨の声が掠れた。
「そんなこと、あるわけ……」
『ある』
「だって、天鱗核は――」
『神器じゃ』
「だったら!」
『神器である天鱗核が、ひとの中に封じられた。その代償として、二つの気脈は絡み合った』
慈雨の顔から血の気が引いていく。
「じゃあ」
ようやく声を絞り出す。
「……こいつを殺したら」
『天鱗核は失われる。我は永遠にこの世から抹消される』
慈雨は黙った。
十年間。
緑龍家が探し続けてきた神器。
取り戻す。
正しい器へ戻す。
そのためなら。
目の前の少女一人の命くらい。
そう思っていた。
だが。
「……じゃあ」
慈雨が奏を見る。
「どうすれば」
『何がじゃ』
「天鱗核を守るんだよ!」
声が荒くなる。
「俺はそのために育てられた!」
『うむ』
「なのに、こいつから取り出せない」
「ジウ、私を殺す前提で話すのやめて」
『ほっほっほ』
「笑い事じゃない!」
『では、答えは簡単じゃ』
「どこが!」
典禅は、ごく当たり前のことを言うように、あっさりと告げた。
『カナルを生かせ』
「…………は?」
『天鱗核を守りたいのであろう?』
「……はい」
『ならば、カナルを守ればよい』
「…………」
『今の天鱗核は、この娘とともに生きておる』
小さな前脚が奏を指す。
『ならば天鱗核を守ることと、カナルを守ることは、同じことじゃ』
「…………」
慈雨は絶句した。
奏は少し考えてから。
「じゃあジウ」
「……何だよ」
「私のこと、殺せないんだ」
「…………」
「これからずっと」
「…………」
奏の顔が。
にやあ、と笑った。
「よかった」
「何が」
「これで安心して薬を飲んでもらえる」
「なんでそうなるんだ!」
『ほっほっほ!』
「じゃあ俺は何なんだ・・・天鱗核を継ぐために覡になったのに!」
『違う』
「何が」
『ならば聞くが』
典禅は慈雨を見る。
『天鱗核を持つ者だけが、覡なのか?』
「…………」
『神と人との間に立つ。それがおぬしら巫覡ではなかったか』
「…………」
『ならば立て』
『ワシはここにおる』
『カナルもここにおる』
『おぬしの仕事は、なくなってなどおらん』
「…………」
『むしろ』
典禅が笑う。
『ようやく始まったところではないか』
天龍の身体が、まずます透けていく。
「テンテン!」
奏がぎゅっと握った。
『ぐえっ』
「カナル!潰すな!」
「だって消える!」
『死ぬ!消える前に物理的に死ぬ!』
「あ、ごめん」
手を緩める。
典禅はぜいぜいと息をした。
『まったく……神を握り潰そうとする巫女がどこにおる』
「私、巫女じゃないもん」
『それもそうじゃ』
典禅は笑った。
『慈雨。次に我を<降ろす>ときには、もうすこし長めに頼むぞ』
光がほどける。
小さな身体が、淡い粒となる。
最後に。
『ではの、二人とも』
ぽふっ。
消えた。
「…………」
「…………」
部屋が静かになった。
床には術式。
香の匂い。
そして。
何もいない。
奏が、自分の胸を押さえる。
「……戻った?」
「たぶんな」
慈雨は床の術式を見る。
何千回も描いた陣。
天鱗核が消えてからは、何のために繰り返しているのか分からなくなる日もあった。
それでも、やめなかった。
今日。
初めて。
本当に神へ届いた。
「……できた」
「うん」
「俺」
慈雨が、もう一度、自分の手を見る。
「ちゃんと、できたんだな」
「うん」
奏が笑った。
「すごかったよ、ジウ」
「…………」
「またやろうね」
「ああ」
「明日?」
「無理だ!」
「なんで?」
「俺の身体の負担も考えろ!神降ろしだぞ!」
「じゃあ明後日」
「そういう問題じゃねえ!」
「テンテン、かわいかったなあ」
「そこかよ!」
「次は頭に乗せたい」
「神を何だと思ってんだ!」
「テンテン」
「だからそれをやめろ!」
天鱗核を守るために育てられてきたジウ。
けれど、その役目は「受け継ぐこと」ではありませんでした。
カナルを守ること。
そして、天龍と人との間に立つこと。
十六年間続けてきた修行は、無駄ではなかった。
ジウの覡としての役目は、ここからようやく始まります。
……とはいえ、次の神降ろしでは、テンテンがカナルの頭に乗せられそうですが。




