第38話 神降ろし
結局。
――やる羽目になった。
緑龍家の巫覡の、神降ろし。
薬茶館の奥にある一室。
窓を閉じる。床を清める。四方に小さな灯明を置く。調合した香を焚く。
「カナル」
「はい」
「そこ」
「ここ?」
「一歩右」
「ここ?」
「行きすぎ」
「細かいなあ」
「術式に『だいたい』はないんだよ!おれの言った通りにやれよな」
「はーい」
「返事が軽い!」
床には、慈雨が描いた複雑な陣。
中心に、奏が座る。
その周囲を囲むように、古い文字と紋様が幾重にも連なっていた。
奏が興味津々で覗き込む。
「これ、何て書いてあるの?」
「触るな!」
「触ってないよ」
「顔が近い!」
「見るくらいいいじゃん」
「線を消したら最初からやり直しなんだよ!」
「ジウ、細かい」
「神降ろしだからな」
慈雨にとって、それは遊びではなかった。
薬も。毒も。祭文も。古語も。呼吸も。歩法も。印も。
すべては、このために学んできた。
天龍を迎えるため。
天鱗核に選ばれるため。
いつか自分の身体を依り代として、その声を人の世へ伝えるため。
何千回。何万回。繰り返してきたことか。
ただ。
実際に天龍を迎えたことだけは、一度もない。
当然だ。
天鱗核は、ジウが緑龍家の覡を継ぐ数年前に消えたのだから。
慈雨は、中央に座る奏を見る。
「…………」
その胸の奥に。
ある。
自分が十六年間、待ち続けてきたものが。
「ジウ?」
「何でもねえ」
慈雨は視線を逸らした。
「始めるぞ」
「うん」
「絶対に動くなよ」
「うん」
「喋るな」
「うん」
「俺がいいと言うまで、目を開けるな」
「うん」
「…………」
「…………」
「なんでちょっと楽しそうなんだよ」
奏は目を閉じたまま笑った。
「だって、テンテン出てくるんでしょ?」
「神降ろしだぞ!もっと緊張しろ!」
「はーい」
慈雨は大きく息を吐いた。
駄目だ。
集中しろ。
呼吸を整える。
一つ。二つ。三つ。
指を組む。印を結ぶ。そして。古い言葉を紡ぎ始めた。
低く。一定の調子で。それは奏の知らない言葉だった。
今では緑龍家の巫覡以外、意味を知る者はほとんどいない。
天と地を分かち、人と神との境を開き、その間に、一筋の道を作る。
慈雨の呼吸が変わる。
奏も。
言われたとおり、その呼吸に合わせる。
吸う。吐く。吸う。吐く。やがて。灯明の炎が揺れた。
「…………」
風はない。
それなのに、四つの炎が、同時に中央へ傾いた。
慈雨の眉が動く。
――来た。
肌が粟立つ。何度も訓練した。何度も想像した。
だが。
違う。
これは。
本物だ。
床に描かれた陣が、淡く光り始める。
「…………っ」
慈雨の呼吸が一瞬乱れた。
すぐに立て直す。
奏の胸元から、光が漏れた。
淡い。
だが、圧倒的な気配。
慈雨の身体が震える。
恐怖ではない。
歓喜とも違う。
もっと深いところに刻み込まれた感覚。
十六年間。
待ち続けたもの。
「…………天龍」
思わず声が漏れた。
光が強くなる。
陣の文字が次々と輝く。
「来る……!」
慈雨が息を呑む。
奏の胸元から溢れた光が、一点へ集まっていく。
天龍。
龍国が崇め続けてきた神。数千年を生きる存在。
その姿が。
今。
人の世に――
ぽと。
「…………」
「…………」
『…………』
何かが落ちた。
慈雨の目の前に。
手のひらほどの。
細長い。
小さな生き物。
奏が、そっと目を開けた。
「…………」
小さな生き物を見る。
「…………」
慈雨を見る。
もう一度、生き物を見る。
「トカゲ」
『誰がトカゲじゃ!!』
部屋に声が響いた。
「しゃべった!」
『しゃべるわ!』
奏の顔がぱっと明るくなる。
「テンテン!」
『おお、カナル。ようやく外で会えたのう』
「本当にテンテンだ!」
『だからそう言うとるじゃろう』
奏は両手で小さな龍を持ち上げた。
『こら!』
「わあ」
『こらこらこら!』
「ちっちゃい」
『ちっちゃい言うな!』
「かわいい」
『かわいいも言うな!』
奏が顔の前まで持ち上げる。
「ほんとにいたんだ」
『夢の中でもおったじゃろ!』
「でも、触れる」
『おい、待て。どこを触って――』
「尻尾」
『引っ張るな!』
「伸びる?」
『伸びんわ!』
「痛い?」
『痛いに決まっとるじゃろ!』
「へえ」
慈雨は、動けなかった。
「…………」
奏が気づく。
「ジウ?」
「…………」
「どうしたの?」
「…………天龍、様?」
小さな龍が、慈雨を見る。
『いかにも』
「…………」
『なんじゃ、その顔は』
「いや……」
『申してみよ』
「…………もっと」
『うむ』
「大きいかと」
『本体は大きいのじゃ!!』
「で、ですよね」
『何じゃその「安心しました」みたいな顔は!』
「だって……」
慈雨は頭を抱えた。
「俺、十六年、この日のために修行してきたんですけど」
『うむ』
「祭文も覚えて」
『うむ』
「薬も毒も覚えて」
『うむ』
「何万通りも型を覚えて」
『立派なものじゃ』
「それで初めて降ろした天龍が」
ちら。
「…………」
『何じゃ』
「・・・手乗りトカゲ?」
『やかましいわ!!』
奏が吹き出した。
「あははは!」
『笑うでない、カナル!』
「だって」
奏は小さな天龍を両手で包む。
「テンテン、あったかい」
『…………』
典禅が黙った。
奏も、少しだけ静かになる。
「夢じゃないんだね」
『……うむ』
「ここにいるんだ」
『うむ』
奏が微笑んだ。
「会いたかった」
『…………』
典禅の小さな尾が、ぴくりと動いた。
『そういうことを急に言うでない』
「なんで?」
『ワシにも心の準備というものがある』
「神様なのに?」
『神にもあるわい』
ついに、テンテンが夢の外へ。
十六年間修行してきたジウが、初めて迎えた本物の天龍は――まさかの手乗りサイズでした。
でも、カナルにとっては大きさなんて関係ありません。
「会いたかった」
ようやく触れられたテンテン。
そしてジウにとっても、ここから大きく何かが変わり始めます。




