第36話 実験台
やがて。
背後から。
「ねえねえ」
慈雨の肩が跳ねた。
振り返る。
奏が立っていた。
両手で、大切そうに小瓶を抱えている。
「……何だよ」
「ちょっとお願いがあるんだけど」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないよ?」
「なんのオネガイだろうが絶対に嫌だ!」
昨日から、この薬茶館での慈雨の立場は、著しく悪化している。
「ねえ、これ飲んで」
「嫌だ!」
「まだ何かも言ってないじゃん」
「お前が持ってる時点で得体の知れない薬だろ!」
カナルの手には、小さな杯。
淡い黄色の液体。
慈雨はそれを見るなり、距離を取った。
「失礼ね。新しい薬だよ」
「何の」
「気分が明るくなる」
「いらない」
「なんで?」
「俺は今、ものすごく気分が悪い」
「だからちょうどいいじゃん」
「お前のせいだよ!」
カナルが首を傾げる。
「飲んでみないと効くか分かんないんだよね」
「自分で飲め!」
「姉様に怒られるし」
「俺ならいいのかよ!」
「健康そうだし」
「人を何だと思ってる!」
「健康体の捕虜」
ぐ、と言葉に詰まる。
「死なない程度に遊んでいいって言われてるし」
慈雨は壁際まで下がる。
カナルが一歩。
慈雨も一歩。
カナルが右へ。
慈雨が左へ。
「逃げないでよ」
「逃げるに決まってんだろ!」
「大丈夫だって」
「その言葉が一番信用できねえんだよ!」
カナルは頬を膨らませた。
「昨日のは大丈夫だったじゃん」
「どこがだ!」
慈雨は叫ぶ。
「三刻もしゃっくりが止まらなかったんだぞ!」
「でも死んでない」
「基準が低すぎる!」
「じゃあ成功」
「成功じゃない!」
◇ ◇ ◇
一刻後。
「……ふ」
「ジウ?」
「…………ふふ」
カナルの目が輝いた。
「効いてきた?」
「違う……」
「笑ってるよ」
「笑って……ねえ……」
「笑ってるって」
「……ふ、ふふふ……」
「わあ」
「見るな……っ」
「すごい」
「見るなって……はは……!」
慈雨は腹を押さえる。
「くそ……なんだこれ……!」
「笑いやすくなる作用?」
「聞くな!」
「記録しなきゃ」
カナルが筆を取る。
「服用後、およそ半刻。意味なく笑い始める」
「意味なくって書くな!」
「会話は可能」
「当たり前だ!」
「怒っているのに笑っている」
「ははははは!ふざけんな!」
「面白い」
「お前……覚えてろ……!」
カナルは本当に楽しそうだった。
頬杖をついて、げらげら笑う慈雨を眺めている。
「ジウ」
「なんだよ……!」
「怒ってる?」
「見れば分かるだろ!」
「でも笑ってる」
「薬のせいだよ!」
「じゃあ怒ってないみたい」
「腹立つなああ!」
笑いながら怒鳴る慈雨を見ながら、カナルは机に突っ伏した。
「だめ……面白すぎる……」
「笑うな!」
◇ ◇ ◇
さらに翌日。
「今日は何だ」
慈雨が言った。
もはや逃げることすら諦めている。
カナルがにこにこしている。
「これはね」
「うん」
「少し感情が出やすくなるかもしれない」
「絶対嫌だ」
「なんで?」
「お前が言う“少し”はまっったく信用できない」
それでも。
なんだかんだで。
飲まされた。
「…………」
慈雨が黙っている。
「ジウ?」
「…………」
「どう?」
「…………別に」
「何もない?」
「ああ」
「失敗かな」
「だから最初から――」
慈雨の声が。
止まった。
「…………」
「?」
「…………くそ」
「なに?」
「…………」
慈雨が顔を伏せる。
肩が。
ほんの少し震えている。
「ジウ?」
「見るな」
「え?」
「見るなって言ってんだよ」
「…………」
カナルが覗き込む。
「泣いてる?」
「泣いてねえ!」
「泣いてるじゃん」
「うるさい!」
「どこか痛い?」
「違う!」
「じゃあ何?」
「知らねえよ!」
慈雨は袖で乱暴に目元を拭った。
「……俺」
「うん」
「ずっと」
「…………」
「ずっと、俺が継ぐって言われてたんだ」
カナルの表情が変わる。
「天鱗核」
「…………うん」
「物心つく前から」
ぽつり。
ぽつり。
「俺は特別なんだって」
「…………」
「緑龍家のために生まれたんだって」
「…………」
「だから」
慈雨の声が掠れる。
「頑張ったんだよ」
「…………」
「薬も」
「祭文も」
「古語も」
「毒も」
「嫌なことも全部」
「…………」
「俺が継ぐんだからって」
カナルは。
黙って聞いている。
「なのに」
慈雨が。
カナルを見る。
「なんで、お前なんだよ」
「…………」
「俺」
「ずっと」
「選ばれるって思ってたのに」
ぽろ。
涙が落ちた。
カナルが。
少し困った顔をする。
「…………ジウ」
「何だよ」
「ごめん」
「…………」
「これ、効きすぎたかも」
「そこかよ!」
「だって」
「慰めろよ!」
「どうやって?」
「知らねえよ!」
「じゃあ無理」
「お前ほんっと……!」
慈雨が目元を拭う。
カナルは少し考えて。
隣に座った。
「でも」
「…………」
「ジウが頑張ったのは、本当なんでしょ」
「……ああ」
「じゃあ、それはなくならないよ」
「…………」
「天鱗核が私にあるからって」
カナルは自分の胸を押さえた。
「ジウが覚えたことまで、私のものになるわけじゃないし」
「…………」
「薬のこと、私より詳しいし」
「当然だ」
「毒も」
「当然だ」
「祭文も」
「……当たり前だ」
「じゃあ」
カナルが笑う。
「けっこうすごいじゃん」
「…………」
慈雨は。
何も言わなかった。
「…………お前」
「なに?」
「今の、薬のせいだからな」
「何が?」
「俺がこんなこと喋ったの」
「うん」
「絶対誰にも言うな」
「分かった」
「絶対だぞ」
「うん」
カナルはにっこり笑う。
「帳面には書くけど」
「書くな!!!」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
カナルが、また、妙な顔をしてやってきた。
「ぶっふっふ」
「…………」
慈雨が薬草を刻む手を止める。
「なんだ、その笑い方」
「うぶふふふ」
「やめろ」
「一回、作ってみたかったんだよねえ」
「…………」
「ついに」
小瓶。
ことん。
「できちゃった」
慈雨の顔が引きつる。
「……何が」
カナルが。
満面の笑顔で。
「惚れ薬だよーん!」
「絶対飲まねえぞ!!」
「まだ何も言ってないじゃん!」
「お前みたいなちんちくりんの小娘に惚れてたまるか、このチビ!」
「誰がチビよ!」
「チビだろ!」
「ジウだってそんなに変わんないじゃん!」
「俺の方が背が高い!」
「精神年齢は同じくらいでしょ!」
「そんなわけあるか!」
「惚れ薬っていっても、気分がふわっとして、人と話したくなるっていう薬草を煎じただけだから」
「それのどこが大丈夫なんだ!」
「ほら」
「俺は薬物に詳しい!ほんとにそれらしい惚れ薬の作り方くらい知ってる!」
カナルの目が光る。
「ほんと?」
「…………」
慈雨が。
しまった。
という顔をした。
「教えて」
「…………嫌だ」
「教えてよ」
「嫌だ」
「じゃあ飲んで」
「なんでそうなる!」
「どっちか」
「選択肢がおかしい!」
慈雨が後ずさる。
「教えてやるから、俺を解放しろ」
「やだ」
「即答するな!」
カナルが、ふん、と鼻を鳴らす。
「姉様を殺そうとした子なんか信用しないもんねー」
「だったら俺に薬を飲ませようとするな!」
「それとこれは別」
「別じゃねえ!」
そこへ、ハユが通りかかった。
「何をしている」
「姉様!」
「軍神!」
二人同時。
「あんたの妹とめてくれ!!」
「惚れ薬の実験!」
カナルは満面の笑みで言い放つ。
「…………」
ハユは。
数秒、黙った。
そして、何も言わず踵を返した。
「待てぇぇぇ!!」
ジウ、すっかり実験台になりました。
笑わされたり、泣かされたり、秘密を帳面に書かれそうになったり。散々ですが、カナルとの距離は少しずつ縮まっている……はずです。
たぶん、まだしばらく解放されません。
次回も楽しんでいただけると嬉しいです。




