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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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第34話 カナルの玩具

 

「――返せ!」

 慈雨(ジウ)が暴れた。

 白瑶(ハクヨウ)に捻り上げられていた腕を、無理やり振りほどく。

 慈雨はまっすぐ、奏へ向かった。

「返せ!」

「え?」

「それは――」

 伸ばした手が、奏の胸元へ迫る。

「俺が継ぐはずだったんだ!!」

 その指が届くより早く、慈雨の身体が宙に浮いた。

「ぐっ――!」

 背中から地面へ叩きつけられる。

 息が詰まった。

 次の瞬間には腕を取られ、首筋に冷たい刃が当たっていた。

 白瑶だった。

「動くな」

「離せ!」

「次にカナルに手を出したら――」

 刃が、わずかに皮膚へ食い込む。

「殺す」

「姉さま!」

 奏(カナル)が声を上げる。

 だが慈雨は、そんなものなど耳に入っていないようだった。

「俺が……」

 地面を睨んだまま、掠れた声を絞り出す。

「俺が、継ぐはずだったんだ」

 白瑶の目が、わずかに細くなった。

「緑龍家は、何百年も天鱗核を守ってきた。天龍と人との間に立って、その声を龍国へ伝えてきた」

「…………」

「俺は、次代の覡(ゲキ)として育てられた」

 握りしめた拳が震える。

「祭文を覚えた。古語も、薬も、毒も、星の読み方も、方位も、斎戒も、神降ろしも……」

 声が震えた。

「全部だ」

 それは誇りなのか。

 怒りなのか。

 それとも、失ったものへの執着なのか。

 慈雨自身にも、もう分からなかった。

「何千回も、何万回も繰り返した。天龍をこの身に迎えても耐えられるように。いつか天鱗核に選ばれる、その日のために」

「…………」

「父親も、爺様も、家中の人間がそう信じてた」

 天鱗核が失われてから十年。

 緑龍家は、天龍の声を失った。

 かつて「天龍に選ばれた家」として五大龍家の中でも特別な敬意を集めていた家が、今では陰で囁かれている。

 ――緑龍家は、天龍に見放されたのではないか。

「俺に天鱗核が宿れば……」

 慈雨は唇を噛んだ。

「全部、元に戻せると思ってた」

 父も。祖父も。一族の者たちも。もう誰にも頭を下げなくていい。

 自分が天龍に選ばれさえすれば、緑龍家はもう一度、胸を張れる。

 そのために生きてきた。

 なのに。

 慈雨は、ようやく奏を見た。

「……なんで、お前なんだよ」

「…………」

 慈雨の瞳が揺れた。

「どこの誰とも分からない小娘が……なんで」

 声が掠れる。

「なんで、天鱗核を持ってるんだよ!?」

 しばらく。

 奏は何も言わなかった。

 やがて、小さく首を傾げる。

「知らないよ」

「……は?」

「だって、私が決めたことじゃないもん」

「…………」

「欲しいって言ったおぼえもないし」

「お前……」

「いつのまにかあたしの中に勝手に住みついてるんだもん」

「なんだと」

「文句があるなら、テンテンに言えば?」

「テンテン・・・」

「私に怒ったってしょうがないじゃん」

 ――このガキ、むかつく!!

 ジウが、ギリ、とカナルを睨む。

「姉さま」

 突然、奏が白瑶を見た。

「なんだ」

「この子、殺さないで」

「は?」

 慈雨が声を上げた。

 白瑶が妹を見る。

「こいつは、お前に手をかけようとした」

「うん」

「分かっているのか」

「分かってるよ。でも」

 奏は、地面に押さえつけられた慈雨をじっと見た。

「私、同じくらいの年の知り合いって、初めてだから」

「…………」

「ちょっと話してみたい」

「誰が話すか!」

「元気だし」

「聞けよ!」

「薬にも詳しいんでしょ?」

「だから何だ!」

「あたし、最近、薬材の勉強もしてみたいなーと思ってるんだ」

「…………」

 そこで初めて、慈雨の怒鳴り声が止まった。

 奏の目が、きらりと光る。

「ね。ちょうどいいかも」

「……ちょうどいいって、何がだ」

 先ほどより、慈雨の声が小さくなった。

 奏が、にこりと笑う。

「いろいろ」

「…………」

 なぜだろう。

 軍神と恐れられた女に地面へ叩きつけられ、首筋に刃を当てられているというのに。

 慈雨は今。

 目の前の少女の笑顔のほうに、得体の知れない恐怖を感じていた。

「だからね、姉さま」

 にっこりと、カナルは笑った。

「その子、私にちょうだい」

 ものすごく楽しそうな顔をしている。

「おまえが欲しいというのなら」

「ありがと、姉さま!」

「殺さない程度にな」

「はーい」

「待て!何をするつもりだ!」

 慈雨の叫びが、夜の庭に響いた。


 ◇ ◇ ◇


 翌日。

 夢の中。

 奏は、いつものように典禅のそばに座っていた。

「ねえ、テンテン」

『なんじゃ』

「薬ってさ」

『うむ』

「作って、効きそうだったら、それで完成?」

『そんなわけがあるか』

「じゃあ、どうするの?」

『実際に用いてみなければ分からぬ。どれほど効くのか。害はないのか。同じ薬でも、人によって効き方が違わぬか――確かめることはいくらでもある』

「へえ」

『本来ならば、数をそろえ、条件を分け、きちんと記録を取りながら――』

「つまり、人に飲ませて試すんだ?」

『…………』

 典禅が黙った。

「テンテン?」

『……まあ、そういうことになるの』

「ふうん」

『カナル』

「へえ……」

 奏の目が、きらきらと輝いた。

 薬には、ずっと興味があった。

 姉が薬材棚の前に立つ姿を、幼いころから何度も見てきた。

 乾燥させた葉を指先で砕き、根を刻み、匂いを嗅ぐ。

 似たような草の中から迷いなく一つを選び、量を変え、組み合わせを変える。

 同じ熱でも、同じ咳でも、姉が選ぶ薬はいつも同じではない。

 どうして分かるのだろう。

 どうして、この葉とこの根を合わせようと思うのだろう。

 奏には、それが不思議で仕方がなかった。

 一度、自分もやってみたいと言ったことがある。

『駄目だ』

 姉の返事は、一言だった。

『なぜ?』

『薬材棚には毒になるものもある。勝手に触るな』

『見るだけ』

『駄目だ』

『ちょっと匂い嗅ぐだけ』

『駄目だ』

 以来、薬材棚はほとんど姉の聖域である。

 けれど奏は、諦めてはいなかった。

 姉が調合するたび、少し離れたところからこっそり眺めていた。

 薬草の名前も、聞いたものから少しずつ覚えている。

 いつか自分でも、薬を作ってみたい。

 できることなら――姉のように。

「ねえ、テンテン」

『なんじゃ』

「薬草のこと、教えて」

『ほう?』

「姉さま、全然触らせてくれないんだもん」

『当然じゃろう。薬と毒は、紙一重だからの』

「テンテンも駄目って言う?」

『勝手に触るのが駄目なのじゃ。学ぶことまで止める必要はあるまい』

「……!」

 奏が身を乗り出した。

「教えてくれるの?」

『基礎からならな』

「調合も?」

『気が早いわ』

「作った薬が効くかどうかも調べたい」

『未熟なくせに、不用意に処方するでない』

「効能を確かめるためには、誰かに、お試しに飲んでもらうのが手っ取り早いよね?」

『…………』

 典禅が止まった。

「ね?」

『……まあ、それはそうじゃが』

「ふうん……」

『カナル』

「なに?」

『なぜ急に嬉しそうな顔をする』

「別に?」

『…………』

 嫌な予感がした。

 とても、嫌な予感がした。

 なにしろ昨日から、この家には。

 薬に詳しく、身体も丈夫で、実験台としてはちょうどよい少年が、捕らえられている。

 うふふふ、とカナルは笑う。

 『……気の毒にのう』

「なにが?」

『なんでもない』

 おそらく慈雨は、天鱗核を見つけたことを――というより、天鱗核をもつ少女に関わってしまったことを、そう遠くないうちに、心の底から後悔することになる。

 もちろん。

 彼が想像していたものとは、まったく別の意味で。


慈雨にとって天鱗核は、ただの龍国の宝ではありません。

幼いころから、いつか自分が受け継ぐものだと信じ、その日のために膨大な知識と技を身につけてきました。

ところが、ようやく見つけた天鱗核は――よりによって、何も知らない十三歳の少女の中にありました。

しかもその少女、まったく悪びれません。

「文句があるならテンテンに言えば?」

慈雨にしてみれば、たまったものではありません。

そして、そんな慈雨を待っていたのは、さらに予想外の運命でした。

天鱗核を奪い返すどころか、カナルに「ちょうだい」と言われ、白瑶からあっさり譲渡される始末。

次回から、次代の覡として十六年間みっちり修行してきた慈雨の知識が、思いもよらない方向で活用されていきます。

自分がこの日、本当に恐れるべきだったのは軍神・蘇白瑶ではなく――

「薬を作ってみたい」と目を輝かせた、その妹のほうでした。

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