第26話 兄と弟、嫌味の応酬
「ハク!」
突然。
広間に、よく通る声が響いた。
白瑶が顔を上げる。
「こんなところにいたの!」
次の瞬間。
華やかな衣が、視界いっぱいに広がった。
「鳳」
「もう! 探したじゃない!」
阿喬が、満面の笑みで、白瑶へ抱きついた。
ぎゅう。
「…………」
「ハクぅ!」
「苦しい」
「だって全然いないんだもの!」
「棋を打っていた」
「それは見れば分かるわよぉ」
言いながら。
アキョウはハユの頬へ、自分の頬をすり寄せる。
「相変わらず、すべすべねぇ」
「そうか」
「あたしに会えて嬉しい?」
「・・・別に、特には」
げんなりとした調子で、ハユは言う。
「もう、ほんとかわいいんだから!」
ぎゅう。
「苦しい」
「愛よ」
「そうか」
「…………」
その様子を、盤の向こう側から、ランは、じっと見ていた。
「…………」
じっと。
兄の腕が白瑶の腰へ回っている。
頬がくっついている。
さらに。
抱きしめている。
「…………」
やがて、アキョウの朱赤の瞳が、ちらりとランを捉えた。
「…………」
「…………」
兄弟の目が合う。
その瞬間。
阿喬の目に、愉快そうな光が宿った。
鸞は悟った。
――気づいた。
しかも、ろくでもないことを思いついた。
「あら?」
楼閣の女主人は、今しがた初めてランの存在に気づいたように、わざとらしく目を丸くした。
「まあ!」
白瑶を抱きしめたまま、にっこりと笑う。
「晨棋士じゃありませんか」
「…………」
「いつからそこにおいでに?」
ランも、にこりと笑った。
「ずいぶん前からいましたよ、アキョウ楼主」
「あらぁ。そうだったの?」
「ええ」
「全然気づかなかったわ」
「でしょうね」
ランの視線が、わざとらしく白瑶を抱きしめている兄の腕へ落ちる。
「ずいぶんと、そちらの御方に夢中でいらしたようですから」
「あら」
阿喬は、さらに白瑶へ頬を寄せた。
「だって、ハクだもの」
「…………」
「羨ましい?」
「別に?」
にこり、と笑う。
「あら、そう?」
「ええ」
「じゃあ、もう一回」
ぎゅう。
「…………」
ランの笑みが、ほんの少し深くなった。
「仲がいいんだな」
白瑶が言った。
「まさか」
ランが即答した。
「アキョウ楼主のような、天真爛漫で華やかで、なおかつ少々規格外に大柄な美女は、私の好みではありませんね」
「あら」
阿喬が胸元へ手を添え、にっこりと笑った。
「あたしだって、何を考えているのか分からない陰気な美形は好みじゃないわ。美人は好きだけど、湿っぽいのは嫌いなの」
「奇遇ですね。私も騒々しい方は苦手です」
「まあ。静かなところがお好きなのね」
「ええ。特に、責任というものから逃げ出した人間のいない場所のほうが落ち着きます」
「…………」
阿喬の笑みが、一瞬だけ止まった。
だが、すぐに。
にっこり。
「あらぁ。それなら、あなたには王宮がお似合いね。逃げ出した人間の仕事を、喜んでぜーんぶ引き受けてくださる働き者がいるもの」
「誰のせいでしょうね」
「さあ?」
「心当たりがないと?」
「ないわねえ。あたし、過去は振り返らない主義なの」
「でしょうね。振り返るだけの良心がおありなら、私も今ごろもう少し暇だったでしょうから」
「まあ、かわいそう」
「他人事のようにおっしゃるところが、実に阿喬楼主らしい」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「その面の皮の厚さだけは、昔から感服しております」
「ありがとう。あなたも昔から、可愛げのなさだけは天下一品よ」
「光栄です」
「褒めてないわよ」
「存じています」
「…………」
「…………」
二人は。
にこやかに笑い合った。
白瑶は、二人を見比べた。
「やはり仲がいいな」
「どこを見てそう思ったんです?」
「やめてよ、ハク。あたしにも選ぶ権利があるわ」
「私にもありますよ」
「あら。あんたに選ばれるくらいなら、あたし一生独り身でいいわ」
「それは朗報ですね。世のためにも、ぜひそうしてください」
「そんなこといって、あんた昔から、あたしのこと大好きなくせに」
「…………」
鸞は、笑顔のまま黙った。
白瑶は、少し考えた。
「ふたりは恋人なのか」
「違います」
「冗談はよして!」
二人同時だった。
しかも、うってかわって、真顔だった。
「瑶殿。あれほど戦局が読めるあなたが、どこをどう読んだら、わたしと楼主が恋人同士だと?」
「そうなのか」
白瑶は頷いた。
「だって、ホウが大切にしていた軍師だろう」
阿喬がぱちりと瞬く。
「戦場で、ずっと傍に置いていた。男女問わず恋人をとっかえひっかえしていたホウにしては、珍しいと思っていた」
「なーんだ。バレてたのね」
「…………」
今度はランが、ゆっくりと阿喬を見た。
「阿喬楼主」
「なあに、晨棋士?」
「ずいぶん華やかな青春をお過ごしだったようで」
「ええ。あなたと違ってね」
「…………」
「あら、ごめんなさい。触れてはいけないところだった?」
「いいえ」
鸞は、にっこり笑った。
「あなたが節操というものをお持ちでなかったことなど、とうに存じていますので」
「節操じゃなくて博愛よ」
「ものは言いようですね」
「人生は楽しまなくちゃ」
「楽しんだ結果を他人に押しつけなければ、なお結構なのですが」
「まだ根に持ってるの?」
「何のことでしょう」
笑顔だった。
ものすごく、笑顔だった。
「…………」
白瑶は二人を見比べた。
やはり、妙に親しい。
「結局、お前たちはどういう関係なんだ」
「…………」
「…………」
二人が黙った。
「昔から知っているようだが」
阿喬は扇を開いた。
口元を隠す。
だが、目元が笑っている。
「じゃあ、紹介してあげる」
うふふふ、と心底楽しそうだ。
「この、陰気で、ひねくれてて、可愛げがなくて、口を開けば嫌味ばっかりで――」
「阿喬楼主?」
「子どもの頃から何でも難なくできるものだから、すっかり性格まで可愛げなく育っちゃった、この男はね」
「ずいぶんな紹介ですね」
「でも、顔はいいでしょう?」
「自分で言うのもなんですが、あなたよりは」
「その顔、半分はあたしと同じ血からできてるのよ」
「それを言われると急に不愉快になりました」
「――あたしの弟よ」
「…………」
白瑶が止まった。
鸞の笑顔も。
止まった。
「弟」
「ああ」
阿喬が楽しそうに笑う。
「実の弟」
「…………」
白瑶は、改めて二人を見る。
言われてみれば、似ていないこともない。
鳳の瞳は、鮮烈な朱。
鸞の瞳は、黒を一滴落としたような深い紅玉。
顔立ちも。
華やかさの方向こそ違うが、目元や鼻梁には、どこか共通するものがある。
「目が似ている」
「…………」
「…………」
「あと、笑っているときほど機嫌が悪いところも」
「…………」
「…………」
今度は、二人とも黙った。
「似ているな」
「ハク」
阿喬が真顔になった。
「それ、今までで一番傷ついたわ」
「奇遇ですね」
鸞も真顔だった。
「私もです」
「そうか」
白瑶には、よく分からなかった。
だが、ひとつ、疑問が残る。
「では」
白瑶は鸞を見る。
「お前も慕容なのか」
「――」
鸞の瞳が、わずかに動いた。
阿喬が、にやり、と笑う。
「あら」
「…………」
「そこまで言ったら、もう隠せないわねえ」
鸞が小さく息を吐いた。
それから。
盤を挟んで座ったまま、白瑶を見た。
「改めまして」
先ほどまでの《晨棋士》の気怠い笑みが、ほんの少しだけ消える。
「慕容鸞と申します」
「鸞」
「ええ」
「鳳の弟」
「……その説明はできれば省いていただきたいのですが」
「なんでよ!」
「事実であることと、積極的に公表したいことは別です」
「照れちゃって」
「違います」
白瑶は首を傾げた。
「慕容鸞」
そして、あらためて、思い出す。
「朱国の第二王子か」
「ええ」
「今の朱雀軍の大将軍でもある」
「ご存じでしたか」
「名前だけは」
白瑶は鸞を見る。
「そうか」
「……もう少し驚いていただけると思っていたのですが」
「なぜだ」
「一応、第二王子ですよ?」
「ああ」
「朱雀軍大将軍です」
「ああ」
「あなたの元同僚の実の弟です」
「ああ」
「…………」
鸞は黙った。
阿喬が、ぷっと吹き出した。
「あはははは!残念だったわねえ、ラン!ハク、そういうの全っ然興味ないから!」
「知っていますよ」
「今、ちょっと期待したでしょう?」
「していません」
「顔に書いてあるわよ」
「あなたと違って、私は顔に出しません」
「出てる出てる」
「出ていません」
「仲がいいな」
「違います!」
「違うわよ!」
また。
綺麗に重なった。
白瑶は考えた。
やはり、仲がいい。
ホウとラン、ようやく兄弟だと明かせました。
似ていないようで、実はよく似ている二人。華やかで自由奔放な兄と、冷静で理屈っぽい弟。顔を合わせれば嫌味の応酬なのに、息だけは妙にぴったりです。
そして、そんな二人を見て、
「仲がいいな」
と結論づけるハユ。
たぶん、いちばん正しいことを言っています。
棋士・晨霞の正体は、朱国第二王子にして、現在の朱雀軍大将軍――慕容鸞。
かつて戦場で敵として出会った「軍神」と「軍師」が、今度は互いの素性を知ったうえで向き合うことになりました。
さて。
この再会、棋盤の上だけで終わるのでしょうか。




