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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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25/79

第25話 不可解な相手

 

 ぱちり。

 黒石が置かれる。

 ぱちり。

 白石が続く。

 ランは黒。

 ハユは白。

 序盤は、何ということもなかった。

 定石を知らないわけではない。打つ手にも迷いがない。

 だが、特別なものは感じない。

 ただ、速い。

 鸞が打つ。ほとんど間を置かず、白石が返ってくる。

 ぱちり。

「…………」

 鸞の目が、わずかに細くなる。

 考えていない?

 いや。

 違う。

 考え終わっている。

 こちらが石を置く前に、すでに、いくつかの道を見ている。

 なら。

 鸞は一手を変えた。

 定石から、ほんのわずかに外す。

 さて。

 どうする。

「…………」

 女が盤を見る。

 ぱちり。

「…………?」

 鸞の指が止まった。

 受けない。

 左辺。

 黒が圧をかけている場所を放置して、まるで関係のないところへ打った。

「そこで、よろしいのですか」

「何がだ」

「左辺です」

「ああ」

「このままでは、あなたの石が死にますよ」

「そうだな」

「助けない?」

「必要ない」

「…………」

 鸞は盤を見る。

 白の一団。

 ここまで育てた石だ。

 まだ救える。

 普通なら。

 救う。

「ずいぶん、あっさり捨てるんですね」

「守る方が損だ」

「ですが、そこまで育てた石でしょう」

 女が顔を上げた。

「だから何だ」

「…………」

「邪魔なら捨てる」

 ぱちり。

 また。

 白石が置かれた。

「…………」

 鸞は。

 盤を見る。

 何だ。

 この女は。

 定石を知らないわけではない。

 むしろ、知っている。

 知った上で、捨てている。

 なぜ。

 何のために。

 鸞の中で、何かが、むくりと起き上がった。

 ――知りたい。

 黒石を置く。白を取る。女は助けない。ならば。もう一つ。

 黒。

 白。

 黒。

 白。

「…………」

 鸞の口元から。

 いつの間にか。

 笑みが消えていた。

 代わりに、眠たげだった紅玉の瞳が、はっきりと光を帯びている。

 白瑶は。

 その目を見た。

 ――ああ。

 この目だ。

 昔と同じだった。

 分からないものを見つけたときの目。

 白瑶は、何も言わず次の石を置いた。

 ぱちり。

「…………」

 鸞が盤を見る。

 白は負けている。

 少なくとも、そう見える。

 大きな石を捨て、地を譲り、黒に取らせる。

 なのに、何かがおかしい。

 次は。

 ここ。

 鸞は黒を置く。

 白が返る。

 なら。

 こちら。

 白。

 もう一つ。

 黒。

 白。

「…………」

 鸞の呼吸が。

 わずかに変わった。

 違う。

 自分が白を追っているのではない。

 白が。

 こちらを誘っている。

 どこへ?

 読む。

 一手。二手。五手。十手。その先。

「…………!」

 右。

 塞がれる。

 ならば左。

 そこも。

 前へ。

 白がいる。

 退けば。

 ――遅い。

 気づいたときには。

 すべての道が、ない。

 ぞくり。

 背筋を、古い記憶が駆け上がった。


 ◇ ◇ ◇


 ――追え!

 馬蹄が大地を打つ。

 土煙の向こう。

 白虎隊が退いていく。

 砦を捨て、補給拠点を捨て、兵まで切り離し、逃げる。

 崩れた。

 誰もが、そう思った。

 朱雀軍は追った。

 鸞も。

 敵の意図を読んだ。

 ――はずだった。

 だが。

 途中で、気づいた。

『止まれ!』

 鸞は叫んだ。

『追うな!戻れ!』

 遅かった。

 欲しいものを差し出された。

 だから取った。

 逃げるから追った。

 自分たちの意志で。

 そして。

 気づいたときには。

 狭い峡谷。

 前。

 白虎の旗。

 後ろには退路がない。

 左右。

 逃げ道もない。

『…………』

 遠く、丘の上に、一人の将がいた。

 白虎の仮面。

 蘇白瑶(ソ・ハクヨウ)。

 その男だけが、こちらを見ていた。

 あのときも、そうだった。

 こちらが読む。

 蘇白瑶は、外す。

 ならば、その外し方を読む。

 次には、さらに外す。

 法則を見つけたと思えば、その法則そのものを捨てる。

 なぜ。

 どうして。

 何を見ている。

 ――知りたい、と思った。

 そして。

 最後まで。

 分からなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ぱちり。

 石の音がした。

「…………」

 白石。

 黒石。

 十九路の盤。

 その向こうに、銀髪の女。

 似ていない。

 何一つ、似ていない。

 白虎の仮面もない。

 声も違う。

 姿も違う。

 何より。

 女だ。

 だが。

 ――棋は。

 同じだった。

 自分の石に執着しない。必要がなければ捨てる。相手が欲しがれば、くれてやる。

 取らせる。進ませる。

 その先で、すべての逃げ道を奪う。

 この棋を。

 たしかに、知っている。

「…………」

 暗紅色の瞳が、ゆっくりと、盤から上がる。

 そして、淡い菫色の瞳とぶつかった。

「…………瑶(ヨウ)殿?」

 その名が、鸞の口からこぼれた。

「…………」

 女の指が、碁笥の中で止まった。

 一瞬だけ沈黙して、そして、白瑶は鸞の顔を見た。

「……ホウの軍師か」

「――――」

 鸞の瞳が、見開かれた。

「…………やはり」

「ああ」

「蘇白瑶(ソ・ハクヨウ)――あなたでしたか」

「ああ」

「…………」

 鸞は、目の前の女を見つめた。

 銀髪。

 白い肌。

 淡い菫色の瞳。

 女。

「…………は」

 鸞は、思わず笑った。

 蘇白瑶とは、ランにとって読めない棋譜のような存在だった。

 読めないからこそ、不可解であり、妙に自分を苛立たせる。

 この世界に、自分が「読めない」ものが存在するなど。

 許せない。

 そして、解けないからこそ、その解を探りたくなる。

 しかし3年前に突然出奔し、もはや解くことは叶わぬ棋譜になったかと思っていた。

 そして思いもかけず、あの者を読み解けなかったことが、こんなにも自分を陰鬱な気分にさせることを知った。

 ひどく、後悔した。

 ――もっと、知りたかった。

 ひそかに探した。蘇白瑶(ソ・ハクヨウ)の拾い子――顧虹(コ・コウ)が、その人脈と諜報の手腕で、軍神捜索のために大陸全土に手を回していることは知っていた。

 もし、生きているならば。顧虹(コ・コウ)より先に、見つけ出したい。

 その一心で、あれほど探して、どこにもいなかった男が。

 今、美しい女になって、目の前に座っている。

 妙に、面白い。

 ランは思わず、くつくつと笑い出した。

 白瑶が、それを見て言う。

「楽しそうだな」

「ええ」

「なぜだ」

「まだ」

 鸞は盤上へ視線を落とした。

「あなたを解けていないので」

「そうか」

「ええ」

 黒石を摘まむ。

「瑶(ヨウ)殿」

「棋会では雅号で呼ぶのでは?」

「いいえ。もはや互いに正体が分かったからには、晨霞(シンカ)と無絃(ムゲン)などと呼び合う必要はないでしょう。それよりも、続きを」

「まだ打つのか」

「当然でしょう」

 紅玉の瞳が、少年のような光を帯びる。

「むしろ――ここからです」


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

ついに、ランが気づきました。

無絃として盤を挟んでいた女こそ、三年前、戦場でどうしても読み切ることのできなかった軍神・蘇白瑶。

姿も、声も、性別さえも違う。

それでも、棋にはその人間の「思考の癖」が出る。

守るより捨てる。

取らせる。追わせる。

そして、相手が自分の意志で進んだと思った先で、すべての道を塞ぐ。

ランにとって白瑶は、ずっと【解けない棋譜】のような存在でした。

三年前、突然その姿を消したことで、もう二度と答えを知ることはできないと思っていた相手。それが今、思いもよらない姿で、自分の目の前に座っている。

ようやく再び盤上に戻ってきた、不可解な相手。

そしてランにとって、この再会が何を意味することになるのか。

どうぞ、続きをお楽しみに。

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