第24話 盤上の再会
ぱちり。
乾いた音が、広間に響いた。
「……参りました」
白石を持っていた男が、静かに頭を下げる。
周囲から、感嘆の声が上がった。
「さすが晨棋士」
「見事ですな」
「中盤に入った時点で、もう勝負は決まっていたのでは?」
「まさか」
青年は、気怠そうに笑った。
「最後まで、分かりませんよ」
その言葉を信じる者は、たぶん誰もいない。
――晨棋士。
棋士たちは通常、それぞれに雅号を持つ。
本名や身分に関わらず、棋界ではその雅号で呼び合うのが通例だった。
青年の雅号は、晨霞。
夜明けの空にたなびく、朝霞。
だが、棋界でその二文字をそのまま呼ぶ者は少ない。
畏敬の念を込めて、人々は彼を、《晨棋士》と呼んだ。
その正体が。
朱国第二王子。
朱雀軍大将軍――慕容鸞であることを知る者は、ごくわずかだった。
今宵。
鸞は王子でも、大将軍でもない。
ただ一人の棋客として、朱楼閣の棋会に紛れ込んでいた。
もっとも、ここへ来た本当の目的は、棋ではない。
「…………」
ランは碁笥へ石を戻しながら、何かを探すように、視線を泳がせた。
先ほどから、一人の女が気になっていた。
銀の髪。
淡い菫色の瞳。
美しい女だ。
まっすぐに背を伸ばし、妙に落ち着いている。
なのに、着飾る、という意識がみじんもないのが見て取れる。
簡素な薄青の衣。化粧も、装飾も、髪飾りさえない。
華やかな朱楼閣の中で、その女だけが、まるで余計な色をすべて削ぎ落としたように立っている。
女は、棋を見ていた。
一局に留まらない。
盤を見て、少しすると、次へ行く。
また見る。
そして、次へ。
「…………」
ランの目が、わずかに細くなった。
何を見ている?
石か。地か。相手の癖か。それとも――。
ふいに、女がこちらを振り向いた。
目が合った。
「…………」
「…………」
一瞬。
淡い菫色の瞳が、鸞を見た。
だが。
それだけだった。
何の反応もなく、女は再び盤へ視線を戻す。
「…………」
まさか、と思った。
女は、見られていることに気が付いたのだ。
気配を消して視線を投げていたにも関わらず。
なんという、敏感さ。
鸞の口元に。
ほんの少し、笑みが浮かんだ。
――面白い。
◇ ◇ ◇
白瑶は、その男を知っていた。
名前は知らない。
少なくとも、今、この場所で呼ばれている《晨霞》という名は知らなかった。
だが、顔は覚えている。
昔。
戦場で、鳳の傍らにいた男だ。
――朱国の天才軍師。
口数の多い男ではなかった。
軍議でも、たいてい黙っていた。
地図を見て。兵の配置を見て。将たちの話を聞いて。必要なときだけ、口を開く。
彼の戦場での采配は、常に完璧で一寸の隙もなく組み立てられており、見事だった。
そしてその目は、いつも何かを追っていた。
戦況の変化。敵将の意図。兵の心理。味方の思惑。
目の前にあるものを一つずつ拾い上げ、組み合わせ、その奥にある答えを見つけようとする。
緻密かつ極めて論理的。そういう人間に見えた。
そして。
白瑶のことも、よく見ていた。
好意ではない。
むしろ。
――嫌われていたように思う。
白瑶が定石から外れた策を取るたび、軍師は、わずかに眉を寄せた。
撤退すべきところで、兵を進めたとき。
攻めるべきところで、退いたとき。
敵将を討てる局面で、それを捨てて負傷兵を拾ったとき。
そのたびに。
あの暗紅色の瞳が、不審げに、こちらを見た。
まるで。
――なぜ、そうなる。
とでも言いたげに。
いつだったか、一度、軍議のあとに呼び止められたことがある。
『瑶殿』
『なんだ』
『先ほどの戦ですが』
『ああ』
『なぜ、あそこで兵を引いたのです』
『必要がなくなった』
『何がです』
『攻める必要が』
『…………』
軍師は黙った。
だが。
納得していないことだけは、分かった。
翌日。
また聞かれた。彼の軍略と、白瑶の兵士の采配が、あまりにもかみ合わなかった。
その次も。
さらに、その次も。
分からないものを、そのままにしておけない性分の人間なのだと思った。
世界には答えがあると、信じて疑わない男なのだと。
戦にも。人にも。その行動にも。
考えれば分かる。
読めば解ける。
その最適解を導き出すために、あらゆる兵法を学び、あらゆる角度から情報を分析する。
「…………」
白瑶は、少し離れた場所にいる男を見る。
眠たげな紅玉の瞳。
気怠そうな薄い笑み。
昔より、少し髪が長くなった。
だが。
変わっていない。
何か面白いものを見つけたときだけ、あの目が変わる。
眠たげだった瞳の奥に、ふっと光が灯る。
まるで子どもが、見たことのない玩具でも見つけたように。
――鳳の軍師。
白瑶が知っているのは、それだけだった。
本当の名も。身分も。鳳との関係も知らない。
そして。
向こうは、どうやら、自分に気づいていない。
当然だろう。
当時の白瑶は白虎の仮面で顔を隠し、男の姿をし、声まで変えていた。
ならば。
わざわざ名乗る必要もない。
白瑶は何事もなかったように。
盤へ視線を戻した。
◇ ◇ ◇
「そちらの方」
しばらくして、声をかけられた。
白瑶が顔を上げる。
鸞が立っていた。
「私か」
「ええ」
どこか人を食ったような、気怠げな笑み。
昔と変わらない。
「先ほどから、ずいぶん熱心に棋をご覧になっていますね」
「そうでもない」
「棋がお好きなのですか?」
「・・・嫌いでない、という程度だが」
「でしたら」
男は、空いた碁盤を示した。
「一局、いかがです?」
「…………」
白瑶は男を見る。
「私と?」
「ええ」
「なぜだ」
「…………」
ほんの一瞬。
男の眉が上がった。
周囲も、わずかにざわめく。
朱国随一と謳われる晨棋士から対局を申し込まれ、なぜ、と返す者は珍しいらしい。
「あなたが」
男の目が細くなる。
「少し、面白そうなので」
「そうか」
「ええ」
白瑶は盤を見る。
それから。
「一局だけだ」
席についた。
男は、盤を挟んで白瑶の向かいに座った。
「晨霞と申します」
晨霞。
夜明けの空にたなびく、朝霞。
棋士がそれぞれに持つ、雅号である。
「あなたは?」
「…………」
白瑶は、少し考えた。
本名は言えない。
棋士として問われたのなら、一つだけ、持っている名があった。
ずいぶん昔、孤雲老師のもとで修業していた頃、老師から与えられた雅号。
「――無絃」
ぴくり。
男の指が止まった。
「……無絃?」
無絃。
弦のない琴。
形に囚われず、本質を聴くという意。
白瑶自身は、その名にさほど思い入れがあるわけではない。
老師にもらった。
ただ、それだけだ。
だが、鸞にとっては違った。
「…………」
その名を、どこかで聞いたことがある。
――無絃。
かつて、鸞には、どうしても師事したい人物がいた。
孤雲老師。
何度その門を叩いても、入門を許されなかった。
それなのに、そんな老師が、ただ一人、自ら声をかけ、弟子として迎え入れた者がいた。
たしか。
その者が棋を打つときに用いていた雅号が――。
「…………無絃」
鸞が、もう一度呟いた。
「何だ」
「いえ」
眠たげだった紅玉の瞳に、ほんのわずかに、光が灯る。
「珍しい名だと思いまして」
「そうか」
白瑶は、それ以上説明しなかった。
鸞も、聞かなかった。
ただ。
盤の向こうの女を見る目だけが、先ほどまでとは、少し変わっていた。
「では――無絃殿」
鸞は黒石を一つ摘まんだ。
「一局、お相手願えますか」
「ああ」
ぱちり。
盤上に、最初の一石が置かれた。
お読みいただき、ありがとうございます。
今回は、ハユと鸞の「盤上の再会」でした。
戦場では互いに顔も名前も知らないまま、それでも相手の思考だけは強く意識していた二人。
ハユにとって鸞は、「なぜ、そうなる」と自分の采配をいつも読み解こうとしていた朱国の軍師。
そして鸞にとってハユは――まだ正体こそ分からないものの、かつてどうしても弟子入りを許されなかった孤雲老師が、自ら弟子に選んだ《無絃》。
この二人が、今度は戦場ではなく、盤の上で向き合います。
理を積み重ね、最適解を導き出す鸞。
定石に囚われず、ときに盤そのものをひっくり返すハユ。
果たして、どんな棋になるのか。
次話、二人の対局です。




