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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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第23話 天才棋士の憂鬱

 

 琴(キン)の音が止んだ。

 一瞬の静寂。

 次いで、楼を満たすほどの拍手と歓声が湧き上がった。

「阿喬(アキョウ)様!」

「今宵も見事でした!」

「もう一曲!」

 アキョウは琴から手を離し、艶やかに笑う。

「あら。今夜の主役は琴じゃないのよ」

 その指が、広間の中央を示した。

 そこには、いくつもの碁盤が並んでいる。

「せっかく朱都でも名のある棋客が集まったんですもの。今宵は存分に、腕を競っていただきましょう」

 ざわり、と空気が変わった。

 客たちが動き始める。

 碁盤を囲み、対局相手を探し、あちらこちらで、黒石と白石が碁笥から取り出されていく。

 白瑶(ハユ)は、その様子を眺めていた。

 琴。書。画。そして、棋(キ)。

 自分に不似合いなこの華やかな場所で、唯一、棋だけは嫌いではない。

 理由は単純だ。

 ――戦と同じだから。

 盤上には、地がある。敵がいる。味方がいる。守る場所。捨てる場所。攻める場所。退く場所。

 相手の意図を読み、進路を塞ぎ、逃げ道を奪い、最後に、自分の地を残す。

 戦術そのものだった。

 ただし。

 白瑶の打つ棋を、美しいと言う者はいなかった。

 定石を知らないわけではない。

 礼を知らないわけでもない。

 だが、盤を前にすれば、そんなものは、どうでもよくなる。

 理論も。調子も。美しい石の流れも。対局相手との呼吸さえ。

 必要がなければ、捨てる。

 白瑶の棋には、美も礼もない。

 あるのは。

 どうすれば、この相手を倒せるか。

 ただ、それだけ。

 生かす必要のない石は殺す。

 自分の石であっても、邪魔なら捨てる。

 敵が欲しがる場所があれば、くれてやる。

 その代わり。

 気づいたときには、ありとあらゆる逃げ道を塞ぎ、敵をかんじがらめに絡めとっている。

 かつて蘇白瑶(ソ・ハクヨウ)の師であった孤雲(コウン)老師は言った。

 白瑶と一局打ったあと、長いこと盤を眺めてから。

『瑶(ヨウ)よ』

『はい』

『おぬしの棋は、つまらんな』

『そうですか』

『風情がない』

『風情?』

『遊び心がない。殺伐としておる』

『・・・はい』

『相手への情けもない』

『情けが、必要ですか?』

 老師はしばらく黙った。

 そして。

 腹を抱えて笑った。

『――まったく。おぬしの棋は、戦そのものじゃ』


 ◇ ◇ ◇


 そして。

 その白瑶から少し離れた場所に。

 今夜。

 もう一人。

 棋(キ)を好む男がいた。

 慕容鸞(ボヨウ・ラン)である。

 朱国の第二王子。

 出奔した第一王子、鳳(ホウ)の職務を引き継いだ、朱雀軍の大将軍。

 細身の、すらりとした長身だった。

 黒を基調とした髪はやや長く、きっちりと結い上げることもなく、無造作に顔へかかって いる。

   灯火を受けるたび、その黒髪には暗い赤銅の色が浮かんだ。

 細く整った顔立ち。

 耳元には、華美ではないものの、どこか癖のある細身の耳飾りが揺れている。

 そして何より目を引くのは、その瞳だった。

 慕容王家直系の男子に現れる、紅玉の瞳。

 ただし、鳳(ホウ)の鮮烈な朱赤とは違う。

   黒を一滴落としたような、深い紅。

 葡萄酒とも、熟れた柘榴とも似た、暗い紅玉の色だった。

 その目はいつもわずかに眠たげで、口元にも気怠そうな薄い笑みがある。

 飄々として、つかみどころがない。

 だが。

 ひとたび戦局を読み始めれば、その瞳から笑みは消える。

 人の思惑も。戦場の動きも。盤上の一手も。

 すべてを解きほぐし、その先にある答えを見つけるまで、あらゆる手を使って徹底して敵を追い込む。

 鳳(ホウ)が、華やかに燃え上がり、誰もが振り返る炎のような美貌なら。

 鸞(ラン)は――熾火。

 炎が消えたあとも、暗がりの底でひそかに熱を残す。

 そんな妖しさを孕んだ、美貌の男だった。

 そして棋において、朱国でこの男の右に出る者はいない。

 若くして国手に並ぶと評された、朱国随一の棋客でもある。

 もっとも。

 鸞(ラン)は普段、朱楼閣にはほとんど姿を見せない。

 別に、この場所が嫌いなわけではない。

 楼主が誰なのかも、知っている。

 阿喬(アキョウ)。

 朱都でも名を知られた女楼主。

 琴の名手。

 派手な衣を好み、男とも女ともつかぬ装いで客を煙に巻き、気が向けば酒を飲み、気が向けば琴を弾く。

 気が向かなければ店さえ人に任せてどこかへ消える。

 その正体が。

 朱国第一王子。

 そして、自分の実の兄――鳳(ホウ)であることも。

 もちろん知っていた。

「…………」

 鸞(ラン)は酒杯を傾けながら、遠目に阿喬(アキョウ)を眺めた。

 ――相変わらず、わが兄ながら、理解の範疇を超える。

 気だるげに頬をつき、柘榴色の瞳を細めて、楼主がにこやかに棋客たちに挨拶する様子を眺める。

 兄が王宮を出たのは、もう随分前になる。

 誰にも告げず。

 王子という身分も、軍での地位も、すべて放り出して。

 消えた。

 ちょうど、蘇白瑶(ソ・ハクヨウ)が彪国軍から姿を消した頃だった。

 後日、兄を見つけたとき、ランは当然、問うた。

 なぜ軍を捨てたのか。

 なぜ王宮へ戻らないのか。

 兄は、こともなげに答えた。

『だって、ハクがいない戦場なんてつまんないんだもの』

 それだけだった。

 長年積み上げてきた軍歴も。

 将軍としての名声も。

 第一王子として背負っていたものも。

 まるで、着古した衣でも脱ぎ捨てるように。

『それに、あたし、前から一度こういうことやってみたかったのよね』

 そう言って兄は、女物の衣の袖をひらひらさせて笑った。

 兄を理解することは、やめた。

 そんなことに労力を使うだけ、無駄だ。

 そう思った。

 連れ戻そうとは思わなかった。

 兄が自分の意志でそうしているのなら、好きにすればいい。

 ゆえに。

 鸞(ラン)は知らないふりをした。

 王宮にも報告しなかった。

 以来。

 表向きは、単に、楼主と棋客の関係だ。

 それでいい。

 ただ、一つだけ、兄に言いたいことがあるとすれば。

「…………」

 ランは遠目に兄を見つめながら、酒を仰ぐ。

 ――王位まで捨てる必要があったのか。

 第一王子が消えたとなれば、次に何が起こるか。

 当然、第二王子へ王位継承の話が回ってくる。

『次代の王として――』

『殿下こそ――』

『第一王子がお戻りにならぬ以上――』

 迷惑だった。

 実に。

 迷惑だった。

 ランは王になりたいなどと思ったことはない。

 軍略を学び、戦場を読み、国の行く末を考える。

 それはおもしろい。

 だからこそ、戦場で、長らく軍師として兄の隣に立った。

 だが。

 玉座に座りたいかと問われれば、話は別である。

「…………兄上」

 誰にも聞こえない声で呟く。

「いつか必ず、この借りは返していただきますよ」

 遠くで。

 アキョウがくしゃみをした。

「やだ。誰か噂してる?」

 客たちが笑う。

 そんな兄の楼へ。

 なぜ今夜に限って顔を出したのか。

 理由は。

 棋会――だけではない。

 ランには、ここへ来なければならない、別の目的があった。

 だが。

 その目的とはまったく関係のないところで。

 ランの暗紅色の目が、ふと、一人の女を捉えた。

 銀髪。

 簡素な薄青色の衣。

 華やかな朱楼閣の中で、まるで、そこだけ世界の色が抜け落ちたようだ。

 化粧もない。装飾もない。髪飾りさえない。

 何一つ身につけていないのに。

 妙に、目についた。

 女は、碁盤を見ていた。

「…………」

 ランも、その盤へ視線を移した。

 このときはまだ、知らなかった。

 まさか、その女が。

 かつて、自分が何度足を運んでも弟子入りを許されなかった孤雲(コウン)老師に、ただ一人、向こうから望まれて弟子となった人間であることを。

 彪国(ヒョウコク)の常勝将軍。

 《軍神》と恐れられた、白虎の仮面の将であることを。

 そして何より。

 軍略の定石をことごとく外れ、それでも勝つ。

 天才と称された鸞(ラン)が、どうしても読み切ることのできなかった男。

 ――蘇白瑶(ソ・ハクヨウ)そのひとであることを。


お読みいただき、ありがとうございます!

第23話「天才棋士の憂鬱」でした。

今回は、朱国第二王子・慕容鸞(ボヨウ・ラン)が本格登場。

兄・鳳(ホウ)が王宮も軍も放り出してしまったせいで、王位継承の話まで回ってきてしまった苦労人です。

そして実は、朱国随一の棋客でもあります。

一方のハユも、棋を「戦と同じ」と考えるタイプ。

ただし、定石や美しさよりも「どうすれば相手を倒せるか」しか考えていない、非常に殺伐とした棋を打ちます。

そんな二人が、同じ朱楼閣に。

しかもランはまだ、目の前の銀髪の女が、かつて自分がどうしても読み切れなかった《軍神》・蘇白瑶その人だとは知りません。

天才棋士と、定石を外して勝つ軍神。

この二人が盤を挟んだら、果たしてどうなるのか。

次話もお楽しみいただけたら嬉しいです!

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