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仮面の軍神は恋を知らない ~三年前に捨てた元部下が、わたしを離してくれない理由~  作者: 春野まゆき


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22/80

第22話 棋会にて

 

 朱楼閣は、ただ酒を飲み、歌舞を楽しむためだけの場所ではない。

 朱都に暮らす文人、商人、官吏、武人。

 時には王侯貴族までが身分の垣根を越えて集い、芸と知を交わす。

 いわば、この都における文化交流の場だった。

 書。

 画。

 琴。

 棋。

 茶。

 この五つは、教養ある者が嗜むべき五大文芸とされている。

 その日、朱楼閣では、そのうちの一つ――棋(キ)を楽しむための会が催されていた。

 棋とは、縦横に線を引いた盤上に黒白の石を置き、互いの地を奪い合う遊戯である。

  一手ごとに陣を広げ、相手の道を塞ぎ、ときには己の石を捨てながら、より広い地を得た者が勝つ。

 盤上に必要なのは、先を読む知略と決断である。

 文人たちはそれを、己の知略を競う雅な遊戯として愛した。

 同時に棋は、古くから文人や軍略家にも好まれてきた。

 もっとも。

 客たちの視線は、まだ碁盤には向いていなかった。

 琴の音が流れていた。

 高く。

 低く。

 時に水が岩間を流れるように。

 時に風が松の梢を渡るように。

 華やかな楼のざわめきさえ、その音が響くたび、不思議なほど静まっていく。

 奏でているのは、この朱楼閣の楼主。

 阿喬(アキョウ)――かつての名を鳳(ホウ)といったが、すでにその名が背負う大義と誉は捨て去っていた。

 琴。

 正確には、古琴。

 鳳は、その名手でもある。

 長い指が七本の弦を撫でる。

 爪弾き、押さえ、滑らせる。

 一つの音が消えきらぬうちに、次の音が重なった。

 客たちは酒杯を置き、聞き入っている。

 灯籠の明かり。

 磨き込まれた柱。

 色鮮やかな衣。

 香炉から立ちのぼる白い煙。

 卓上には季節の花が飾られ、菓子は花弁の形に整えられている。

 華やかなもの。

 珍しいもの。

 優れたもの。

 朱楼閣には、人心を奪うほど贅を尽くした美しいモノが、これでもかというほど集められていた。

 その中で。

「…………」

 蘇白瑶(ソ・ハクヨウ)は、ひどく居心地が悪そうだった。

 そもそも、自ら望んで、このような場所へ来たわけではない。

 妹の奏(カナル)の仕事に付き合わされたからだ。

 この国において、茶は単なる飲み物ではない。

 良い茶葉を選び、水を選び、器を選び、香りを聞き、色を眺め、味わう。

 客に合わせて茶を選び、季節や時刻によって淹れ方を変える。

 それもまた、貴族や文人たちに求められる教養の一つだった。

 ゆえに。

 書や画、琴や棋を愛する者が集う朱楼閣と、茶は切っても切れない。

 そして今夜。

 棋会の客に供される茶の一部に、姉妹の薬茶館から卸したものが使われることになっていた。

 もっとも、白瑶たちが扱うのは、ただの茶ではない。

 薬茶だ。

 冷え、疲労、不眠、胃腸の不調。

 白瑶にとって茶とは、薬効を得るための手段である。

 効けばいい。

 香りが良いに越したことはないが、それは二の次だった。

 しかしカナルは違う。

『姉さま。薬茶だって、茶なんだよ』

 そう言って。

『効くだけじゃなくて、飲みたいと思ってもらわなきゃ』

 今夜の棋会への納品を決めた。

 薬として必要だから飲むのではない。

 美味しいから。

 香りが好きだから。

 また飲みたいから。

 そう思って手を伸ばしてもらえる薬茶を作る。

 カナルに言わせれば、今夜はそのための《顧客調査》らしい。

 白瑶には、よく分からない。

 病人に飲ませて効けば、それでいいのではないか。

『それじゃあ、病気が治ったら二度と買ってもらえないでしょう!』

 怒られた。

 難しい。

 商売というものは、やはり軍略より難しい。

 そんなわけで。

 カナルは今、薬茶の説明をしながら、客たちの反応を熱心に観察している。

 一方。

 頻繁に薬茶館を開けるわけにはいかないということで、店番はコウに任せ。

 薬効について質問されたときのために連れてこられた白瑶は。

「…………」

 帰りたかった。


 ――こういう場所は、苦手だ。

 嫌い、というほどではない。

 ただ。

 自分には必要がない。

 ハユは昔から、何かを足していくことより、削っていく方が得意だった。

 装飾はいらない。

 化粧もいらない。

 華美な衣も。

 身分も。

 名声も。

 軍神という呼び名も。

 必要がなくなれば、捨てる。

 戦場でも同じだった。

 守れない陣は捨てる。

 不要な荷は捨てる。

 勝利に必要のないものは、どれほど惜しくとも切り離す。

 そうすれば。

 最後に残るものが見える。

 何かを持てば、それを失うことを恐れる。

 何かに名を与えれば、その名に縛られる。

 ならば。

 持たなければいい。

 できるだけ軽く。

 できるだけ何もないまま。

 どこへでも行けるように。

 白瑶は、そうやって生きてきた。

 三年前も。

 そうだった。

 軍服を捨てた。

 剣を捨てた。

 《軍神》という名を捨てた。

 白い仮面も置いてきた。

 そして。

 ――虹(コウ)も。

「…………」

 琴の音が、一つ。

 長く尾を引いた。

 白瑶は茶杯へ視線を落とした。

 あのとき。

 なぜ、何も言わず去ったのか。残酷な仕打ちであることを承知の上で。

 自分でも、よく覚えていない。

 ただ、この少年の前から消えねばならない、と。

 何か見たような、何か聞いたような気がする。

 しかしそれは、ぼんやりとした記憶の断片でしかない。

 ともに来いと言えば、虹は、是と答えただろう。

 おそらく。

 何も聞かずに。

 当然のように荷を持ち、白瑶の隣を歩いただろう。

 それが、分かっていた。

 だが。

 ――これ以上、傍に置いてはいけない。

 そんな気がした。

 理由など、考えなかった。

 考える前に、切り離した。

 それは白瑶にとって、いつものことだった。

 不要なものを捨てる。

 自分を縛るものを捨てる。

 そうして空いた場所には、何も置かない。

 何も持たなければ、何にも囚われない。

 それが、自由というものだと、白瑶は思っている。

 だから。

 虹も、置いてきた。

 ――不要だったからではない。

「…………」

 白瑶は、わずかに眉を寄せた。

 では、なぜ。

 そこまで考えて、やめた。

 三年前と同じだった。

 考える前に、切り離す。

 それでいい。

 そう、思っていた。


お読みいただきありがとうございます!

今夜の舞台は、朱楼閣の《棋会》。

華やかな衣も、名声も、身分も。

必要のないものは、すべて捨ててきたハユ。

戦場でも、人生でも。

彼女が得意なのは、何かを手に入れることではなく――捨てることでした。

三年前も。

軍服を捨て、剣を捨て、《軍神》の名を捨て。

そして、コウも置いてきた。

けれど。

――不要だったからではない。

では、なぜ?

その答えを、ハユ自身もまだ知りません。

そして今夜始まる《棋会》。

盤上でもまた、ハユの「捨てる強さ」が姿を現します。

次話もよろしくお願いします!

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