第2話 元軍神、客を気絶させる
翌日の午後。
蘇白瑶の薬茶館に、久しぶりの客が来た。
奏にとっては、喜ぶべき出来事だった。
本来なら。
「おい!」
大柄な男が、木戸を蹴るようにして入ってきた。
粗末な褐色の袍。
腰には酒瓢。
顔は赤い。
「この薬、全然効かねえぞ!」
奥で薬棚を整理していた奏は、嫌な予感がした。
白瑶は男を見た。
「三日前に来たな」
「ああ!」
「腰痛」
「そうだ!」
「酒を控え、朝晩一包ずつ服用しろと言った」
「だから、あんたが調合した薬を飲んだんだよ!」
「薬袋を見せろ」
「あ?」
「残りだ」
男が布袋を卓へ投げた。
空だった。
白瑶の眉が、わずかに寄る。
「七日分を三日で全部飲んだのか」
「早く治ると思ってな!」
「一日二包と言った」
「細けえこと言うな! 効かなかったんだから金を返せ!」
「責任転嫁するな。薬は正しく使わなければ効かない」
「うるせえ!」
男が卓を叩いた。
どん、と鈍い音がして、青磁の湯呑みが跳ねる。
その瞬間。
白瑶の淡い菫色の瞳が、すっと細くなった。
「……その卓は」
「あ?」
「私が作った」
「知るか!」
「三日かかった」
「だから何だ!」
白瑶は手にしていた薬匙を置いた。
「私の身長、腕の長さ、肘の位置に合わせて幅と高さを決めた。薬を量り、刻み、調合するとき、最小限の動きですべてに手が届く」
「は?」
「薬研を置く位置も、天秤までの距離も計算した。立ったまま調合しても腰に負担がかからず、長時間作業しても集中力が落ちない」
白瑶は卓の縁を指先でなぞった。
「木材も選んだ。薬液が染みにくく、刃物を使っても傷みにくい。三日かけて削り、磨き、脚の高さを一分の狂いもなく揃えた」
「だから何なんだよ!」
「要するに」
白瑶は男を見た。
「これは、私が最高の状態で薬を調合するための装備だ」
「……装備?」
「丹精込めて作った私物に、乱暴するな」
「ごちゃごちゃうるせえよ! 早く薬代を返しやがれ!」
男が白瑶の胸ぐらへ手を伸ばした。
白瑶は、その手を見た。
――警告はした。
次の瞬間。
どん。
男は床に寝ていた。
白瑶は静かに見下ろす。
「……話を聞かないからだ」
「ハユねえさまぁぁぁぁ!!」
奥から奏が飛び出してきた。
「何をしたの!?」
「気絶させた」
「見れば分かる!」
「安心しろ。死んでいない」
「そういう問題じゃない!」
奏は男の鼻先へ指を当てた。
呼吸あり。
手首を取る。
脈も正常。
綺麗なまでの失神だった。
この姉は、こういうところだけ異様に手際がいい。
「ねえさま」
「なんだ」
「お客様だよ」
「暴漢だ」
「その前にお客様!」
「卓を壊そうとした」
「壊れてない!」
「壊れてからでは遅い」
「だからって気絶させないで!」
白瑶は、どうにも納得していない。
「軍なら拘束する」
「ここは軍じゃありません!」
「では、どうする」
「まず話を聞く!」
「話を聞かなかったのは、その男の方だ」
「それでも殴らない!」
「殴っていない」
「え?」
「鳩尾を指で突いただけだ」
「もっと悪い!」
奏は頭を抱えた。
ふと。
さっきの白瑶の言葉を思い出す。
「……ところで」
「なんだ」
「ねえさま、あの卓に三日もかけたの?」
「ああ」
「必要だった?」
「必要だった」
「買えばよかったじゃない」
「私に合う寸法のものがなかった」
「その三日間、お店閉めてたよね?」
「ああ」
「その三日間の売上は?」
「…………」
白瑶が黙った。
「ねえさま」
「なんだ」
「それを、機会損失っていうの」
「……きかい、そんしつ?」
「うん」
奏は言ってから。
止まった。
「…………」
「カナル?」
「待って」
「どうした」
「私……」
奏は、自分の口を押さえた。
「今、何て言った?」
「機会損失」
「そう。それ」
白瑶が首を傾げる。
「お前が言ったのだろう」
「そうなんだけど……」
知らない。
そんな言葉。
習ったこともない。
なのに。
意味が分かる。
店を閉めている間に、本来得られたはずの利益を失うこと。
――機会損失。
「……何、これ」
「カナル」
まただ。
頭の奥に、別の言葉が浮かぶ。
――顧客。
――需要。
――価格。
――原価。
――利益。
――固定費。
――集客。
――リピーター。
――ブランド。
「……っ」
奏は額を押さえた。
知らない。
こんな言葉。
なのに、意味だけが次々と頭へ流れ込んでくる。
それどころか。
景色まで見えた。
空へ届きそうな建物。
夜なのに昼のように明るい街。
見たこともない速さで走る乗り物。
巨大な店。
棚いっぱいに並んだ商品。
人々は、小さな板のようなものを指で触れている。
「……なに、これ」
「カナル」
白瑶が奏の肩を支えた。
「座れ」
「待って」
「顔色が悪い」
「違うの」
「何がだ」
奏はゆっくりと顔を上げた。
店を見る。
何度も見てきた風景。
色褪せた柱。
半分消えた看板。
十二の空席。
整然と並んだ薬箪笥。
白瑶の作った薬。
今までと、何も変わらない。
なのに。
――まったく違って見えた。
街道から、ここまで徒歩一刻以上。
看板は読めない。
価格表示なし。
商品名なし。
宣伝なし。
常連客、ほぼなし。
無料で薬を渡す。
店主は客を気絶させる。
そして。
店主が三日かけて作業卓を作っている間、店そのものが閉まっている。
――最悪だ。
「……ハユねえさま」
「どうした」
「分かった」
「何が」
「どうして、うちにお金がないのか」
「私も知っている」
「え?」
「客が少ない」
「違う!」
奏は卓を叩いた。
「全部だよ!」
「全部?」
「立地も!値段も!商品も!接客も!宣伝も!仕入れも!何もかも!」
白瑶は黙った。
しばらく、本気で考える。
「……そんなにか」
「そんなにです!」
奏は帳簿を引き寄せた。
数字を見る。
不思議だった。
昨日までは、
――金がない。
それしか分からなかった。
なのに、今は違う。
どこから金が入り。
どこへ消え。
何を減らし。
何を増やせばいいのか。
数字と数字が、勝手につながって見える。
いや。
数字だけではない。
薬。
客。
場所。
評判。
白瑶という薬師。
この店そのもの。
すべてが、見えない糸でつながっていく。
「私……」
胸の奥が熱い。
心臓とは違う場所で、何かが脈打った。
ひとつ。
ふたつ。
そして。
ぐらり。
世界が傾いた。
「カナル!」
白瑶の声が遠ざかる。
最後に見えたのは、自分へ伸ばされた姉の手だった。
そして。
意識が闇へ沈む、その寸前。
どこか遠いところから。
ひどく偉そうな声が聞こえた。
『――遅いぞ』
「……え?」
『ようやく来たか、人の子よ』
奏の意識は、そこで途切れた。
お読みいただきありがとうございます!
戦場では《軍神》だった姉。
そしてどうやら妹にも、何か妙なものが目覚めたようです。
「機会損失」「顧客」「需要」「原価」「利益」――。
十三歳の奏が知るはずのない言葉たちは、いったいどこから来たのか。
そして最後に聞こえた、謎の声。
ここから、破産寸前の薬茶館をめぐる物語が少しずつ動き始めます。
それにしても白瑶。
お客様を気絶させるのは、たぶん接客としては正しくありません。
次話もお付き合いいただけたら嬉しいです。




