第1話 プロローグ~軍神を籠絡せよ
「――蘇白瑶を籠絡せよ」
龍王の言葉が、静かな室内に落ちた。
少年は片膝をついたまま、頭を垂れている。
青みを帯びた黒髪。その一房だけが、暗い紅に染まっていた。
少年の名は顧虹という。
龍国の影を束ねる諜報組織、《龍影衆》の若き首領である。
「蘇白瑶」
龍王がその名を繰り返す。
「彪国の白虎隊を率いる将。素性、年齢、出自、すべて不明。戦場では白虎面をつけ、その素顔を知る者はいない」
ただ一つ、分かっていることがある。
――強い。
あまりにも、強い。
敵国の兵は、その者をこう呼んだ。
《軍神》。
「殺すのではないのですね」
虹が尋ねた。
「殺すな」
龍王は答えた。
「懐へ入れ。信用させろ。その者が何を望み、何を恐れ、何を守ろうとするのか――すべて暴け」
そして。
「蘇白瑶を、こちらの手の内に落とせ」
「御意」
少年は頭を垂れた。
それが、始まりだった。
*
数日後。
彪国軍の行軍の進路上に、一人の少年が倒れていた。
汚れた衣。
痩せた身体。
空腹で震える指先。
馬の蹄が止まる。
「生きているか」
頭上から声がした。
虹は薄く目を開ける。
白い白虎面が、こちらを見下ろしていた。
そして。
軍神は、少年を拾った。
*
それから数年。
ある朝。
仮面将軍・蘇白瑶は、消えた。
軍から。
彪国から。
コウの前から。
何の前触れもなく。
何の言葉も残さず。
残されていたのは、白い白虎面だけだった。
密命は、果たされなかった。
《龍影衆》は大陸中へ放たれた。
それでも蘇白瑶は見つからない。
一年。
二年。
そして――三年。
コウはまだ、探している。
それが密命だからなのか。
それとも。
別の理由なのか。
その答えを、彼自身、まだ知らない。
◇ ◇ ◇
蘇白瑶は、金がない。
正確に言えば――金はあった。
三年前までは。
傭兵として十年近く戦場を渡り歩き、最後には彪国軍で《軍神》の称号まで与えられた。
報奨金も俸禄も、ほとんど手をつけていない。
酒にも、宝玉にも、華美な衣にも興味がなかった。
軍を退くころには、自分でも正確な額を把握していないほどの銀子が貯まっていた。
これだけあれば、妹と二人、一生穏やかに、不自由なく暮らせる。
白瑶はそう思った。
なのに。
――三年で、ほぼなくなった。
「ハユねえさま」
十三になったばかりの妹、奏が、帳簿から顔を上げた。
肩口まで伸びた烏羽色の髪が、くるりと跳ねる。
奏の髪には強い癖がある。毛先はいつも好き勝手な方を向き、ころころと豊かに変わる少女の表情そのもののようだった。
丸みの残る頬。
大きな菫色の瞳。
小柄で華奢な身体。
幼い頃、「ハクヨウ」という発音が難しかったのか、いつの間にか姉の呼び名は「ハユ」になった。
「なんだ」
対する姉は、声にも顔にもほとんど表情がない。
白瑶は薬草を刻む手を止めなかった。
月光を溶かしたような白銀の髪。
白磁のような肌。
細い肩から、すらりと伸びた長い手足。
女としては背が高い。
妹とはまるで似ていないように見えて――瞳だけは同じだった。
淡い菫色。
やや切れ長の目の形も、長い睫毛も、目尻の線もよく似ている。
白瑶が滅多に見せない笑みを浮かべたとき、その目尻がほんのわずかに下がることを、奏だけは知っていた。
けれど今、その淡紫の瞳には何の感情も浮かんでいない。
白瑶は薄青色の長袍の袖を肘までまくり、乾燥させた黄耆を一定の幅に刻んでいる。
その所作には、一切の無駄がない。
軍服と白い仮面を捨てた今の白瑶は、《白鬼》と恐れられた軍人というより、俗世離れした美貌の女薬師にしか見えなかった。
「お金がないんだけど」
「知っている」
「知ってたの!?」
山深い薬茶館に、奏の声が響いた。
築年数など、もはや誰にも分からない古い木造の建物である。
色褪せた朱塗りの柱。
黒ずんだ太い梁。
格子窓。
重い両開きの木戸。
けれど、一歩中へ入れば、店の奥だけは別世界だった。
壁一面を占める薬箪笥には、大小百を超える引き出しが並ぶ。
黄耆。
陳皮。
甘草。
桂皮。
枸杞。
白瑶の細い字で記された札が、一つ一つに差し込まれている。
棚には青花の薬壺や白磁の甕。
硝子の瓶には、乾燥させた木の実や花。
梁からは束ねた薬草がいくつも吊るされ、奥の炉では銅の薬罐から白い湯気が細く立ち上っていた。
桂皮と陳皮の、ほのかに甘く苦い香り。
古い。
だが、汚くはない。
薬を扱う場所だけは、白瑶が異様なほど几帳面に整えている。
問題は、その手前だ。
丸卓が三つ。
椅子が十二脚。
――すべて空席。
「だから働いている」
白瑶は刻み終えた黄耆を竹籠へ移した。
「働いてるけど、儲かってないよね?」
「……そうなのか?」
「そうなのか、じゃない!」
奏は頭を抱えた。
白瑶には、よく分からない。
毎朝、夜明け前に起きる。
山へ入り、薬草を摘む。
洗う。
干す。
刻む。
煎じる。
患者が来れば脈を診る。
薬を調合する。
必要なら鍼も打つ。
働いている。
間違いなく働いている。
なのに、なぜ金がないのだろう。
「昨日のおばあさん」
「うん」
「薬代を払ってない」
「夫を亡くしたばかりだそうだ」
「その前の木こりのおじさん」
「子が五人いる」
「その前の旅人!」
「財布を盗まれたと言っていた」
「それ、たぶん嘘だから!」
白瑶は少し考えた。
「だが、本当だったら困るだろう」
「…………」
奏は天井を仰いだ。
この姉は、戦場では恐ろしいほど頭が切れたという。
千の兵で一万を退けただの。
三日三晩、敵陣を駆け抜けただの。
敵兵は白い仮面を見ただけで戦意を失っただの。
それが、ほんの三年前までの話だ。
北の玄国で育ち、西の彪国へ派遣され、十六の頃にはすでに軍で名を知られていた。
声を低く抑え、細身の身体を男物の軍装に包み、顔の上半分を白銀の白虎面で覆っていた。
白い外套と長い銀髪をなびかせて戦場を駆ける姿は、まるで少年神のようだったという。
誰も、《軍神》の正体が少女だとは考えなかった。
生まれつき身体が弱く、幼い頃の大半を玄国の病児院で過ごした奏にとって、それはいまだに姉ではなく、どこか遠い誰かの物語のように聞こえる。
「ハユねえさま」
「なんだ」
「戦争って、どうやって勝ってたの?」
「敵の補給路を断つ」
即答だった。
「兵站を潰す。水と食料を断ち、相手が選べる手を減らす。正面からぶつかるのは最後だ」
奏は姉をじっと見た。
「……ちゃんと考えられるじゃない」
「当然だ」
「だったら、なんで自分の補給路は断たれてるのよ!」
白瑶は黙った。
薬草。
帳簿。
奏。
順番に見る。
「……確かに」
「確かに、じゃないって、もう!」
白瑶はいかにも不思議そうに首を傾げた。
その顔を見て、奏はため息をつく。
この姉は、頭が悪いわけではない。
むしろ、その逆だ。
戦術。
武術。
人体。
薬学。
必要だと認識した分野については、常人では追いつけないほど考える。
ただし。
興味がないものについては、驚くほど何も考えない。
そして金は、明らかに後者だった。
◇ ◇ ◇
すべての始まりは、三年前。
白瑶は突然、彪国軍を辞めた。
理由は誰にも告げなかった。
当時、奏は十歳。
生まれつき身体が弱く、熱を出すことも多かった。
白瑶は妹を連れ、人里から遠く離れた南の山中で暮らすことにした。
静かな場所。
清らかな水。
豊富な薬草。
自分自身が薬師となって、奏の身体を診る。
そのために買ったのが、この薬茶館である。
『山ひとつ、薬草園つき。清流あり。霊気清浄。療養にはこれ以上ない土地でございます』
商人はそう言った。
白瑶は即決した。
軍で貯めた銀子の半分以上を支払った。
後になって知った。
――相場の十倍だった。
しかも「山ひとつ」と言っても、大半は崖。
薬草園は半分以上荒れ地。
清流は確かにあったが、雨季になると濁流へ変わり、山道の橋を流す。
建物は立派な薬箪笥こそ残っていたものの、屋根には穴。
木戸は軋む。
看板の文字は半分消えている。
そして何より。
「人が来ない!」
奏が格子窓を勢いよく開けた。
眼下には、幾重にも重なる青い山。
竹林。
谷。
白い雲。
鳥の声。
人影――なし。
「静かでいい」
「商売には最悪なの!」
「私は気に入っている」
「そういう問題じゃない!」
白瑶がここを気に入っていることは、奏にも分かっている。
朝は山霧が立つ。
昼には木漏れ日が薬草園へ落ちる。
晴れた日は、中庭の丸卓で茶を飲めば、遠くの山並みまで見渡せる。
夜になれば、都では見えないほど多くの星が出る。
療養には、確かにいい。
ただし。
商売するには、致命的に立地が悪かった。
そして、姉の金銭感覚は壊滅的である。
案の定、残りの金も順調になくなった。
薬草栽培に投資した。
詐欺だった。
新しい街道ができると言われ、麓の土地を買った。
できなかった。
腹を空かせた孤児に金を渡した。
翌日、孤児が七人になった。
全員に渡した。
三日後には二十三人になった。
さすがの白瑶も、その辺りで何かがおかしいと気づいた。
遅かった。
「普通、子ども一人に銀子を一枚ずつ渡す?」
「腹いっぱい食える」
「ひと月は食べられる額よ!」
「それはよかった」
「よくない!」
「なぜだ」
「慈善事業じゃないんだから!」
奏は卓に突っ伏した。
白瑶は首を傾げる。
金は使えばなくなる。
道理だ。
なくなれば稼げばいい。
実に単純な話だった。
「それで」
白瑶は新しい薬草へ手を伸ばした。
「あと、どれくらいある」
奏がゆっくり顔を上げる。
「何が?」
「金だ」
「……聞きたい?」
「ああ」
奏は帳簿を見る。
何度数えても変わらない。
「銀子、三枚」
「うん」
「銅銭、二十一文」
白瑶の手が止まった。
「……少ないな」
「だから言ってるでしょ!!」
奏の声に驚き、屋根の上にいた山鳥が一斉に飛び立った。
ばさばさと羽音が遠ざかる。
そのあと。
薬茶館には、恐ろしく静かな時間が戻ってきた。
白瑶はしばらく帳簿を眺めた。
「今日の夕餉は」
「ある」
「明日は」
「たぶん」
「明後日は」
「知らない」
「…………」
白瑶は考えた。
兵糧残量。
二日。
補給予定。
なし。
収入。
不明。
なるほど。
これは――。
「カナル」
「なに」
「かなり危険な状況ではないか?」
奏は両手で顔を覆った。
「だから、朝からずっとそう言ってるのよ!!」
かつて若くして敵国の兵を震え上がらせた《軍神》は。
二十二歳になった今。
生まれて初めて、「明日の食費」という敵と向き合っていた。
お読みいただきありがとうございます!
戦場では最強。
でも商売は壊滅的。
そんな元《軍神》・白瑶の第二の人生は、まさかの破産寸前から始まりました。
本人は静かに薬草を摘み、お茶を飲んで、妹と穏やかに暮らしたいだけなのですが――どうやら、そう簡単にはいかないようです。
次話から、薬茶館の立て直しが少しずつ始まります。
……たぶん。
妹の奏には、ぜひ頑張ってもらいたいところです。
更新は週1~3話ほどを予定しています。
書き進み具合によっては、もう少し多めに更新することもあるかもしれません。
白瑶と奏の山暮らしを、気長にお付き合いいただけたら嬉しいです。




