第13話 変わらぬ音色
昼過ぎ。
三人は町へ下りた。
奏は楽しそうに先頭を歩いている。
蘇白瑶は渋々その後ろを歩き、虹は二人分の荷物を持って、ハユの隣に並んで歩きながら、いつものように笑っている。
山を下りるのは久しぶりだった。
白瑶は人混みが好きではない。
露店の呼び声。
馬車の車輪。
香辛料。
焼いた肉の匂い。
次々とすれ違う人々。
「姉さま」
「なんだ」
「もう少し愛想よくして」
「している」
「どこが?」
「怒っていない」
「基準が軍人なのよ!」
虹が横で笑った。
「先輩に笑顔を求める方が酷ですよ」
「超絶美人の仏頂面なんて迫力ありすぎよ。逆に怖くて客が寄ってこないわ」
「先輩の笑顔なんて、僕は三回くらいしか見たことありません」
「数えていたのか」
「ええ」
「ひまだな」
「ひどいですね」
奏は二人の会話を聞きながら、こっそり笑った。
三年ぶりに会ったばかりなのに。
もう、ずっと前から三人で暮らしていたような気がする。
それが。
少し、嬉しかった。
「――ここ」
奏が足を止めた。
大通りから一本入った先。
そこだけ、街の色が変わったようだった。
高い朱塗りの門。
幾重にも重なる軒。
昼だというのに軒先には色鮮やかな灯籠が並び、長い房が風に揺れている。
漂ってくるのは、酒臭さではない。
沈香。
花。
上等な茶。
どこか甘く、艶のある香り。
門の上には、流麗な金文字。
――《朱楼閣》。
「町で一番大きな花楼なんだって」
三人は朱華楼へ足を踏み入れた。
昼間だというのに、楼の中では多くの人間が働いていた。
華やかな衣をまとった女。
茶器を運ぶ少年。
楽器を整える楽師。
料理を運ぶ下働き。
客も、ちらほらいる。
白瑶の視線が自然と人々の身体へ向いた。
歩き方。
肌。
唇の色。
呼吸。
声。
咳。
「…………」
「姉さま?」
「三人」
「え?」
「あの女は喉を傷めている。階段を上がっている女は右の足首を庇っている。奥の者は眠れていない」
奏の目が輝いた。
やっぱり。
ここには、薬茶館の客になり得る人がいる。
そのときだった。
――びぃん。
低い弦の音が落ちた。
「…………」
奏が振り返る。
古琴だった。
楼の奥。
薄い簾の向こうで、誰かが弦を弾いている。
もう一音。
深く。
静かに。
音が、楼のざわめきの底を縫っていく。
「……きれい」
奏が呟いた。
けれど。
きれい、だけでは足りなかった。
華やかではない。
大きな音でもない。
それなのに。
次の一音を待ってしまう。
弦を弾く指。
しなやかに返る手首。
余韻まで惜しむように、ゆっくり音が揺れる。
深い。
艶がある。
甘いだけではない。
苦みも。
寂しさも。
喜びも。
人生の何もかもを一度口へ含み、ゆっくり味わってから飲み込むような音だった。
気づけば。
楼の空気が変わっていた。
働いていた女が足を止める。
茶を運んでいた男も。
酒杯を持った客も。
男も。
女も。
誰もが知らず、その音へ引き寄せられている。
目が離せない。
そして。
白瑶の足も止まっていた。
「……姉さま?」
返事がない。
白瑶は、簾の向こうを見ていた。
いや。
男の顔を見ているのではない。
右手。
ただ、その手だけを見ている。
親指。
人差し指。
中指。
弦を弾き。
次の音へ移る、その直前。
手首が、ごくわずかに外へ返る。
「…………」
知っている。
昔から。
<あの男>は、そうやって弾いた。
◇ ◇ ◇
『無駄な動きだ』
『うるさい』
戦の前夜。
火の落ちた陣営。
赤い軍装を解いた若い男が、古琴の前に座っていた。
大胆かつ自由奔放で、大陸で屈指の統率力を誇る男だった。
その一方で、書や画や琴を愛し、美しいものを愛でるのを生涯の悦びとしていた。
時になにを考えているのか分からぬ底の知れない人物でもあった。
『弦へ移る前に、手首が外へ流れている』
『琴くらい好きに弾かせろ』
『剣なら隙になる』
『これは剣じゃない。楽器だぞ』
朱雀軍を率いた若き将軍。
舞うように振るうその男の剣は、《鳳剣》と呼ばれた。
朱国の第一王子。
慕容鳳。
◇
「……ホウ」
白瑶の唇から、思わずその名前がこぼれた。
ぴくり、とコウの眉が動く。
ちょうど、そのとき。
最後の一音が鳴った。
長く。
深く。
余韻だけが、空気に残る。
誰も、すぐには動かなかった。
音は消えたのに。
まだ耳の奥に残っている。
簾のすきまから、琴を弾いていた女が見えた。
長い髪。
朱から黒紅へ色を重ねた華やかな長衣。
髪には上質な簪。
目元には、ごく薄く朱の化粧紅が引かれている。
紅玉のような瞳。
遠目に見れば、絶世の美女にも見える。
だが、立ち上がれば分かる。
背が高い。
肩も。
手も。
身体の骨格は、明らかに鍛えられたものだった。
女は豪奢な細工の扇で口元を隠しながら、三人へ一瞥をくれた。
そのままカナル一行とすれ違おうと、した。
「…………!」
一歩、通り過ぎた。
そして。
戻ってきた。
「――ちょっと待って」
「…………」
白瑶が眉を寄せる。
女は白瑶の正面に立った。
見る。
上から。
下まで。
もう一度、上まで。
「まあ」
女は、口元を隠していた扇をぱちりと閉じた。
それまで半分ほど隠されていた顔が、あらわになる。
――美しい。
まず目を引くのは、まなじりを赤く染めた大きな瞳だった。
長い睫毛の下で、艶を含んだ黒い瞳がきらきらとよく動く。
すっと通った鼻梁。紅を引いた唇。輪郭はすっきりと細く、華やかな装いにも決して負けていない。
傾国の美女。
ただし。
――大きい。
女としては背の高い白瑶と並んでも、その頭二つぶんほど大きい。
華奢に見せる衣をまとってはいるが、肩はしっかりしているし、手足も長い。
すらり、というには存在感がありすぎた。
遠目には、艶やかな大輪の牡丹。
近くで見れば。
――ずいぶん立派な牡丹だった。
「まあまあまあまあ!」
その大柄の美女が、大きな身体を弾ませるようにして白瑶へ迫った。
「なに、この子!どこの子!?いいじゃない!」
「…………」
声まで大きい。
周囲の客が一斉に振り返った。
だが、女は気にも留めない。
「銀髪!肌も真っ白!その目、何色!?菫!?まあ嫌だ、綺麗!しかも背が高い!」
大女は、白瑶の周囲をぐるりと一周した。
「いいわねえ!」
「何がだ」
「全部よ!」
即答だった。
「すてき!好みだわ!」
やたらとテンションが高い。
そして次の瞬間、声が低く落ちた。
「なのに何その格好?」
今度は不機嫌だ。
「素材に対する冒涜だわ!」
「…………」
「飾り気なし!化粧なし!髪なんて結んだだけ!せっかくの銀髪に簪の一本もない!その服も何!?山へでも入るの!?」
「薬師なので、山には毎日のように入っている」
「・・・入るのね」
女は天を仰いだ。
「もったいない!だめじゃないの、お肌が荒れるわ!!」
「別に気にしないが・・・」
「だめ!あなたが気にしなくても、あたしは困るわ!」
「なぜだ」
「美しいものが粗末に扱われていると腹が立つのよ!」
「お前には関係ないだろう」
「あるわよ!」
「なぜだ」
「私が気に入ったから!」
「…………」
理屈になっていない。
カナルはぽかんとそのやり取りを見つめている。
コウは。
ものすごく嫌そうな顔をしていた。
大女はそんな二人など完全に眼中外のようで、ただ白瑶の顔を覗き込んだ。
「ねえ。あなた、名前は?」
白瑶は答えなかった。
代わりに。
じっと、女の顔を見た。
華やかな化粧。艶やかな衣。高く結い上げられた髪。耳元で揺れる、大ぶりの飾り。
声も。姿も。
記憶の中とは、ずいぶん違う。
けれど。
白瑶は、ためらいなく呼んだ。
「ホウ」
「…………」
女の動きが止まった。
朱楼閣の楼主。
その名を阿喬という。
朱都でも指折りの美女と謳われる、大柄で華やかな女主人。
その女を、ハユは迷いなく「鳳」と呼んだ。
その顔から。
一瞬だけ。
笑みが消えた。
「…………」
はじめて。
二人の目が。
かちりと合った。
お読みいただきありがとうございます!
薬茶を売り込みに訪れた朱楼閣。
そこでハユが耳にしたのは、三年ぶりの懐かしい琴の音でした。
姿も、装いも、ずいぶん変わったけれど――
音色は、変わらない。
「ホウ」
三年前に姿を消した軍神と、かつての戦友。
ようやく再会です。
次話もよろしくお願いします!




