第10話 暗殺者、雇われる
「ところでコウ兄さま」
奏の声に、虹は顔を上げた。
「なんだい」
「さっき、休暇中って言ったよね?」
「ああ」
「しばらくうちにいるって」
「そのつもりだよ」
その会話を聞きながら。
薬箪笥の前で茶葉を仕分けていた蘇白瑶の手が、ぴたりと止まった。
嫌な予感がする。
「じゃあさ」
奏が、にっこり笑った。
「ちょっとした小遣い稼ぎなんて、どう?」
「どんな?」
「うち、人手が足りないの」
「カナル」
白瑶がすかさず口を挟んだ。
「人を雇う金はない」
「だから!」
奏がびし、とコウを指さす。
「住み込み!」
「はい?」
「三食つき!」
「・・・その三食、僕が作るんだよね?」
「細かいことは気にしない!」
「かなり重要だと思うけど」
「カナル」
白瑶が咎める。
だが、奏はまったく気にしない。
「給金は――」
帳簿を見る。
残金を見る。
閉じる。
「……出世払いで!」
「カナル」
今度は、コウがにこやかに言った。
「それは雇用とは言わないよ?」
「え?」
「単なる無償奉仕」
「コウ兄さまなら大丈夫!」
「何を根拠に」
「昔、姉さまの世話してたでしょう?」
虹は黙った。
確かにしていた。
戦場から帰ってきた白瑶の装備を片づける。
飯を食わせる。
破れた衣服を繕う。
薬を飲ませる。
放っておけば夜通し軍議を続ける白瑶から書簡を取り上げ、無理やり寝台へ押し込む。
……思い返すと、部下というより、ほとんど世話係だった気がする。
「先輩」
「なんだ」
「僕、昔から思っていました」
「何をだ」
「あなた、僕がいないと生活できないんじゃないですか?」
「三年間できた」
「できてない、できてない!」
奏が即座に割って入る。
「破産寸前だから!」
虹の顔が止まった。
「破産?」
「まだしていない」
「寸前!」
奏が帳簿を差し出した。
虹は数字を見る。
黙った。
もう一度見る。
「……先輩」
「なんだ」
「この山、いくらで買ったんです?」
白瑶が答えた。
虹の笑顔が消えた。
「…………騙されていますよ」
「知っている」
「知ってるんですか?」
「後で知った」
「後で知ってどうするんですか……」
虹は額を押さえた。
駄目だ。
この人は。
三年前から、こういうところだけ何一つ変わっていない。
生活能力がなさすぎる。
――籠絡対象。
ふと。
その言葉が頭をよぎる。
そうだ。
自分は、この人を籠絡するために近づいた。
龍国から失われた天鱗核を探し出す。
必要なら、その保持者を殺してでも奪還する。
そのために白瑶の懐へ入り込んだ。
そのはずなのに。
「……仕方ない」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
カナルの顔が輝く。
「じゃあ!」
「休暇の間だけだよ」
「やった!」
「給金はいらない。その代わり、寝る場所くらいは確保したいな」
「もちろん!すぐに屋根裏部屋をきれいにする!」
「食費は?」
「……現物支給!」
「で、それ、僕が作るんだよね?」
「よろしくお願いします!」
「カナル」
白瑶が低い声で呼んだ。
「勝手に決めるな」
「だって、人手が増えるんだよ?」
「必要ない」
「必要ある!」
「ない」
「ある!」
「ない」
「ある!」
「…………」
虹は二人を眺めた。
姉妹だ。
顔立ちも性格もまるで違うのに、こういうところだけ妙に似ている。
「先輩」
「なんだ」
「僕は構いませんよ」
「虹」
「薪割りも、買い出しも、料理もできます。客が来れば給仕もします」
「コウにいさま最高!」
「お前は将軍だろう」
「休暇中の、ね」
「…………」
白瑶はしばらく虹を見つめた。
そして。
「目的は何だ」
空気が変わった。
虹の笑みが、ほんのわずかに止まる。
奏も姉を見る。
「本当は、何をしに来た」
淡い菫色の瞳が、虹を射抜いていた。
鈍いようでいて。
こういうところだけは、昔から異様に鋭い。
虹は白瑶を見返した。
「決まっているでしょう」
虹は、いつものように笑った。
「先輩を――」
一拍。
「探しに来たんですよ」
嘘ではない。
ただ。
すべてでもない。
と、いうことに、していた。
本当は、蘇白瑶を見つけること、それがすべてだった。
◇ ◇ ◇
その夜。
白瑶と奏が寝静まったあと。
虹は一人、薬茶館の屋根に座っていた。
月明かりが山々を青白く照らしている。
「……何をやっているんだ、僕は」
三年間、探した。
ようやく見つけた。
再会して、まだ数刻。
それなのに。
なぜか。
籠絡対象の家で、住み込みで働くことになっている。
「コウ兄さまー!」
突然、眼下から声がした。
「…………」
「明日の朝、薪割りお願いねー!」
虹は目を閉じた。
「……はいはい」
答えてから。
我に返る。
暗殺者が。
籠絡対象の家で。
明日の薪割りを頼まれている。
「……頭を冷やせ」
自分に言い聞かせる。
明らかに。
冷静ではない。
――自分には使命がある。
龍国のため。
失われた天鱗核を取り戻すため。
そのために、ここへ来た。
白瑶と再会するためではない。
昔のように世話を焼くためでもない。
まして。
薪を割るためでは、断じてない。
「…………」
そのときだった。
虹の目が、すっと細くなる。
薬茶館の奥。
奏が眠っている部屋から。
淡い光が漏れていた。
「……?」
青白い。
水面に月光を散らしたような。
鱗が幾重にも重なって輝くような。
揺らめく光。
虹は立ち上がった。
息を呑む。
「……まさか」
知っている。
実物を見たことはない。
それでも。
龍国王家に連なる者なら、幼い頃から何度も聞かされてきた。
龍影衆が、長い年月を費やして追い続けてきた。
すべての始まり。
失われた龍国の至宝。
――《天鱗核》。
虹は音もなく屋根から降りた。
光の源へ近づく。
眠っている少女の、心臓のあたり。
間違いない。
白瑶ではない。
「……カナル?」
喉から、かすれた声が漏れた。
奏の中に、天鱗核がある。
その瞬間。
すべてが。
ひっくり返った。
蘇白瑶が、天鱗核を持っている。
そう疑ったから、近づいた。
懐へ入り、信用を得た。
必要ならば、奪うつもりだった。
そのために、自分は蘇白瑶を籠絡しようとした。
だが。
違った。
天鱗核を持っていたのは、白瑶ではない。
虹は、眠る少女を見つめた。
昼間の声が、耳の奥に蘇る。
『コウ兄さま!』
何の疑いもなく。
嬉しそうに、自分へ抱きついてきた。
幼い頃から何度も見舞った。
菓子を持っていった。
遊び相手になり、眠れない夜には本を読んだ。
すべて。
白瑶の信頼を得るためだった。
そう。
そのはずだった。
虹は、無意識に拳を握った。
「……なぜ」
カナルの中に、天鱗核が。
以前はこんな気配は感じなかった。
カナルは虚弱で、10まで生きられないと言われていた。
それが今は。
頬には血色があり、よく笑い、山道さえ元気に歩いている。
そして、その心臓のあたりから、失われた龍国の至宝が、脈打つように光を放っている。
――白瑶が突然、軍を去ったことと関係があるのか?
何があった。
コウは記憶をたどる。
三年前。
蘇白瑶は突然消えた。
そういえば。
あの夜。
蘇白瑶が姿を消す、前の夜。
自分は――何をしていた?
「…………」
虹の眉が寄った。
思い出せない。
そんなはずがない。
記憶には自信があった。
一度見た顔を忘れることはない。
数年前に目を通した報告書の数字も、交わした会話も、必要とあればすぐに引き出せる。
それは《龍影衆》を率いる者として身につけた能力であり、生来の資質でもあった。
三年前のこととて、例外ではない。
あの日、白瑶が何を食べたか。
どの薬を煎じたか。
何時頃に天候が崩れたか。
どの兵から、どんな報告を受けたか。
思い出そうと思えば、思い出せる。
なのに。
あの夜だけが、ない。
蘇白瑶が姿を消す、前の夜。
そこだけが、刃物で切り取られたように、不自然なほどすっぽりと抜け落ちている。
「…………なぜ?」
何か。
とても大切なことを、忘れているような――。
記憶の奥で、何かが疼いた。
一瞬。
白い指。
銀の髪。
熱。
――ひどく近くに、淡い菫色の瞳。
「……?」
掴もうとした瞬間、それは消えた。
虹は額を押さえる。
――今は、それどころではない。
目の前には、何年も探し続けた《天鱗核》がある。
天鱗核を探し出し、龍国へ取り戻す。
それが《龍影衆》に下された密命。
何を犠牲にしても。
――取り戻せ。
ずっと、そのために生きてきた。
虹は、眠る奏へ手を伸ばした。
あと少し。
指先が、その胸元へ届く。
『コウ兄さま!』
「…………」
手が、止まった。
天鱗核は、ここにある。
ようやく見つけた。
何年も。
龍影衆が、大陸中を探し続けたもの。
それが今。
手を伸ばせば届く場所にある。
なのに。
虹は、その手を下ろした。
「……は」
いつものように笑おうとして。
笑えなかった。
眠る奏は、何も知らない。
自分が何者なのかも。
なぜ白瑶へ近づいたのかも。
その胸の中に、何があるのかも。
何一つ知らず、ただ、自分を、兄と呼んで慕う。
虹はしばらく、その寝顔を見つめていた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……どうしましょうか、ハユ先輩」
蘇白瑶の最愛の妹。
天鱗核を取り出すには、少女の心臓を抉るしかない。
虹は、もう一度。
奏の胸元に揺らめく青白い光を見た。
お読みいただきありがとうございます!
休暇中の大将軍、薬茶館に就職しました。
給金なし。
三食つき(ただし自分で作る)。
住居は屋根裏。
業務内容は給仕、料理、買い出し、薪割りなど。
……暗殺者とは。
そして、ようやく見つけた《天鱗核》。
探し続けてきたものは、ずっとハユではなく、カナルの中にありました。
手を伸ばせば届く。
けれど、そこにいるのは――自分を「コウ兄さま」と呼ぶ少女。
さらに、三年前の「あの夜」だけが抜け落ちているコウの記憶。
どうやら三年前、まだ何かあったようです。
次話もよろしくお願いします!




