⭐︎第76話花園に刃は見えず
母から「王妃殿下がお茶の席を設けられるそうよ」と聞いた時、ヴェルシアナはそれほど大きなものを想像していなかった。
王妃と親しい夫人が何人か集まり、季節の菓子でもつまみながら近況を話す。その程度だと思っていたし、セレフィアも「古くから王家とご縁のある方が何家か」としか言わなかったので、わざわざ人数を尋ねることもしなかった。
だから王城へ到着し、案内された扉の向こうを見た瞬間、ヴェルシアナは危うく足を止めるところだった。
茶室ではない。
高い硝子天井を持つ広間の奥には温室が続き、午後の陽光が何枚もの窓を抜け、白い石床へ柔らかな影を落としている。円卓がいくつも並び、その間を侍従や給仕が静かに行き交い、席についているのも夫人たちだけではなかった。
年配の当主、若い令嬢、令息、それにすでに家督を譲ったらしい老貴族までいる。
ざっと見ただけでも、三十人近い。
隣を歩く母へ、ヴェルシアナは顔を動かさず声だけを落とした。
「お母様」
「なあに?」
「何家か、と伺った覚えがございます」
「ええ」
セレフィアは何の問題もないように頷いた。
そこでようやく意味が分かった。
「……人数ではなかったのですね」
「聞かれなかったもの」
口元が楽しそうに笑っている。
どうやら最初から分かっていたらしい。
ヴェルシアナは一瞬だけ抗議したくなったが、その間にも広間の何人かがこちらへ気づき始めていた。
ここで母に何か言う方が目立つ。
なら、もう仕方がない。
短く息を入れ、肩から余計な力を抜く。
淡い青灰色のドレスは、遠目には静かな色合いに見える。その代わり、袖口と裾へ細く入れられた銀糸が歩くたびに光を拾い、銀の髪の下で、水面に細い波が走るような輝きを生んだ。
最初に集まった視線の理由くらい、ヴェルシアナにも分かる。
珍しい銀髪と赤紫の瞳に、アルセリード公爵家の一人娘という立場。それでいて、まだ六歳なのだから、話だけは耳にしていても実際に見るのは初めてという人間もいるのだろう。
一人が気づけば、その隣が振り向き、さらに向こうでは会話の途中で視線がこちらへ流れる。小石を落とした池の波紋が静かに広がるように、彼女の到着は声を立てることなく広間の端まで伝わっていった。
けれど、見られているからといって歩幅を変える必要はない。
エルダ夫人なら、こういう時こそ急ぐなと言う。
裾が気になっても足元を見ない。視線を集めたからと笑いすぎず、背を無理に伸ばすのではなく、ただ崩さない。
そうやって母の半歩後ろを進んでいくと、最初は顔へ集中していた人々の視線が、少しずつ別のところへ移っていった。
立ち方や歩き方、顔を上げる位置。
幼い少女を眺めていたはずの目が、途中から公爵令嬢を見る目に変わっていく。
その変化は声にならない。
だからこそ、かえって分かりやすかった。
王妃の前まで進み、セレフィアに続いて礼を取る。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
深すぎず、浅すぎない角度で身体を傾け、礼を終えて顔を上げるところまで、すでに身体が覚えている。
王妃はそんなヴェルシアナを見て、穏やかに目を細めた。
「来てくれて嬉しいわ。少し驚いたでしょう?」
ばれていた。
ヴェルシアナはほんの一拍考えてから答える。
「……少しだけ」
近くから小さな笑いが漏れた。
「母からは、もう少し小さなお席を想像するようなお話を伺っておりましたので」
「あら。わたくしは何家かいらっしゃると申し上げたでしょう?」
横からセレフィアが涼しい顔で入ってくる。
「次からは、家数と人数の両方を確認することにいたします」
王妃まで笑った。
張りつめていた視線が、そこで少しだけ柔らかくなる。
それでよかった。
目立たないように縮こまる必要もなければ、逆に自分から場を取りに行く必要もない。
ヴェルシアナは母とともに席へ向かった。
茶会は、最初の印象ほど堅苦しくはなかった。
一人の話を全員が聞く形式ではなく、円卓ごとに幾つもの会話が生まれ、それが隣の席へ渡り、また別の話へ変わっていく。
庭園の花、領地から届いた果実、王都で評判になっている焼き菓子、最近改修された王城東棟の客室。
ヴェルシアナは話を振られれば答えたが、自分から古い王城の話題へ寄せることはしなかった。
それでは、あまりに分かりやすすぎる。
何かを知りたい時ほど、それだけを見てはいけない。
父に教わったことの一つだ。
誰が話したか、その時に誰が黙ったか、ある家の名前が出た時に誰の視線が動いたか。言葉そのものよりも、言葉が置かれた場所を見る。
そう考えると、目の前の茶会も先ほどまでとは違って見えた。
誰かが笑えば、その笑い方に親しさが出る。別の家の話になると、それまで会話へ入っていた者が一歩引き、逆にほとんど口を開かなかった者が何気ない一言だけを挟むこともある。
社交の場は、綺麗に整えられた布の表側に似ている。
けれど、オルティアが刺繍を読む時のように、少し見方を変えれば、その下でどの糸とどの糸が結ばれているのかが見えることもある。
しばらくして、王妃が東棟の話を始めた。
「窓を少し広げただけなのに、随分明るくなったのよ」
「東側は比較的新しい区画ですものね」
一人の侯爵夫人が応じる。
「西側でしたら、そう簡単にはいかなかったでしょう」
「特に北西は難しいそうね」
王妃が何気なく言った。
ヴェルシアナの意識だけが、静かにそちらへ向く。
カップの縁へ指を添えたまま、すぐには顔を上げない。
「まだ古い壁が多く残っているのでしたか?」
若い令嬢が尋ねた。
「それだけではなかったと思うのだけれど……わたくしも詳しくは知らないの」
「北西部でしたら、昔からあまり容易には手を入れない場所だったと聞いておりますわ」
少し離れた席から声がした。
レヴァンシェ伯爵家のエレノア夫人だった。
白いものの混じった髪を丁寧に結い上げ、年齢を重ねても背筋が崩れていない。細い指でカップを扱う所作にも、王宮へ長く出入りしてきた者らしい落ち着きがあった。
「容易ではない?」
王妃が聞き返す。
「祖母から聞かされた昔話に近いものではございますけれど、古い造りを残したまま新しい区画を足してきたため、一ヶ所を変えると別の場所まで具合が悪くなることがあったそうです」
「建物というのは、長く使うほど面倒になるものだな」
近くの老伯爵が笑った。
「我が家など、壁を外したら、その後ろからさらに古い壁が出てきたぞ」
周囲から笑いが起こる。
エレノアも穏やかに笑ったが、その後に続いた言葉だけは、先ほどまでより少し低かった。
「ただ、北西については……繋がりを切らない方がよい場所がある、と祖母は申しておりました」
ヴェルシアナはそこで初めて顔を上げた。
繋がり。
建物について語る言葉としては、少し妙だった。
壁を壊すなでも、部屋を残せでもない。何かと何かが繋がっている状態そのものを崩すな、と言っているように聞こえる。
「何と何を繋いでいたのでしょう?」
別の夫人が興味深そうに尋ねた。
エレノアは僅かに首を傾ける。
「そこまでは存じませんの。わたくしが子供の頃に聞いた話ですので、祖母自身も、どこまで意味を承知していたのか分かりませんわ」
滑らかな返答だった。
不自然なところはない。
けれど言葉を終える直前、エレノアの視線がほんの僅かに右へ流れた。
ヴェルシアナは目で追わなかった。
その代わり、位置だけを意識する。
そこにいたのは、ハルセイン侯爵家の前当主夫人、マルグリットだった。
先ほどまで庭園の話をしていた老婦人で、今もエレノアの方を見てはいない。ただ、持ち上げかけていた銀匙が、皿へ触れる前にほんの一瞬だけ止まった。
本当に、それだけだった。
気づかなければ、何も起こっていないのと変わらない。
だが、二人は同じ言葉に反応した。
ならば覚えておけばいい。
ヴェルシアナはカップを置き、ようやくエレノアへ視線を向けた。
「まあ。よくご存じなのですね」
問いにはしない。
単なる感心に聞こえるよう、柔らかく言葉を置く。
エレノアもこちらを見た。
「祖母が若い頃に、王城へ務めておりましたので。わたくしも幼い頃は、その時代の話をよく聞かされておりました」
「でしたら、今のお城しかご存じない方とは、同じ場所をご覧になっても少し違って見えるのでしょうね」
「違って見える、でございますか」
「はい」
ヴェルシアナは微笑む。
「今では壁に見える場所でも、昔は扉だったかもしれませんもの」
その瞬間、近くの空気が僅かに薄くなった。
会話が完全に止まったわけではない。遠くではまだ誰かが笑っている。それでも、ヴェルシアナの周囲にいた数人が同時に黙ったのは分かった。
エレノアの瞳も、ほんの少しだけ細くなる。
当たりに触れた。
そう判断した瞬間、ヴェルシアナは踏み込まなかった。
「もっとも、古いものを見ておりますと、つい何にでも理由があるように思えてしまいますけれど」
自分から温度を下げる。
「王城中の壁を疑い始めたら、帰る頃には日が暮れてしまいそうです」
王妃が笑った。
「それは困るわね。レオルディス公爵に叱られてしまうもの」
「本日はすでに一度、お父様に無茶をしないと誓わされておりますので、これ以上約束を増やしたくはございません」
今度は、少し大きめの笑いが起きた。
「まあ」
「公爵がそこまで?」
「よほど心配されたのね」
先ほどまで古い王城へ向いていた会話の温度が自然に下がり、代わりに、普段は表情の読みにくいことで知られるアルセリード公爵が娘へ何を言ったのかという、害のない興味へと形を変えていく。
ヴェルシアナはその流れへ逆らわなかった。
自分から開いたものは、自分で閉じる。
知りたいことがあるからといって、場にいる全員を自分の都合へ付き合わせるわけにはいかないし、何より、ここで北西について質問を重ねれば、せっかく見えた小さな反応まで警戒の向こうへ隠れてしまう。
しかし、話題が変わっても、空気まですべて元へ戻ったわけではなかった。
入室した時には銀髪や瞳へ向けられていた視線が、今はヴェルシアナの表情へ残っている。
次に何を言うのか。
何を見て、どこまで気づいているのか。
そんな目だった。
ほどなく会話は王都の商店や今年の祭りへ移り、先ほどまで黙っていた老伯爵が焼き菓子を一つ手に取ったところで、ヴェルシアナへ声をかけた。
「アルセリード嬢は、古い建物がお好きなのかな?」
「好き、と申しますか……最近、残っているものを見るのが面白いと思うようになりました」
「残っているもの?」
老伯爵が興味を示す。
ヴェルシアナは少し考えた。
「名前が変わっても、物そのものは急には消えませんでしょう?」
老伯爵の眉が僅かに上がった。
周囲でも、別の話をしていた数人がこちらへ耳を向ける。
「建物でも、道具でも、帳簿でも、呼ばれ方が変わったからといって、昨日まであったものが突然なくなるわけではございません。ですから、今の名前だけを見て見つからなくても、別のところには形が残っていることもあるのだと思います」
「帳簿まで見るのか」
「私より、ずっと得意な者がおります」
「では、その者に任せる?」
「はい。私が苦手なところまで抱えるより、その方が早いですから」
老伯爵はそこで答えず、数秒だけヴェルシアナを見た。
六歳の子供から返ってくるとは思っていなかった言葉だったのかもしれない。
向かいにいた夫人も僅かに目を見開き、隣の令嬢はヴェルシアナから老伯爵へ視線を移している。
ヴェルシアナには、そこまで意外なことを言ったつもりはなかった。
自分より得意な人がいるのなら、任せればいい。
それだけだ。
だから周囲の反応がよく分からず、ほんの少し首を傾げる。
その仕草を見た老伯爵が、堪えきれないように笑った。
「レオルディス殿は、随分面白い娘を育てたものだ」
「育てたのは、わたくしもですけれど?」
セレフィアがすぐに入る。
「これは失礼を」
再び笑いが起きた。
そこから、少し妙なことになった。
一人の若い令嬢がヴェルシアナの髪について尋ねたのをきっかけに、別の夫人も言葉を向けてくる。
「本当に綺麗なお色ね。光の下ですと、少し青く見えますわ」
「ありがとうございます。母も、それを理由に今日はこちらのドレスを選んだようです」
「あら、よく分かっているじゃない」
セレフィアが楽しそうに言う。
次には、学んでいるものについて聞かれた。
礼儀や歴史、魔法について次々に話を向けられたものの、ヴェルシアナは必要以上に詳しく答えようとはせず、知らないことには知らないと答え、話し相手が言葉を続けるなら最後まで聞いた。
ただ、それだけのつもりだった。
それでも、気づけば彼女の席の周囲には小さな輪ができている。
先ほどまで別の卓にいた者まで、いつの間にか話へ加わっていた。
少し離れたところにいるセレフィアへ目を向ける。
母は助けに来るどころか、紅茶を飲みながら楽しそうにこちらを眺めていた。
完全に任せるつもりらしい。
若い伯爵令息が尋ねた。
「アルセリード嬢なら、昔の王城を見れば、何か分かったりするのですか?」
「まさか」
ヴェルシアナはすぐに否定した。
「私が壁を見ただけで昔のことまで分かるのでしたら、歴史を研究なさっている方々からお仕事を奪ってしまいます」
周囲から笑いが漏れた。
「では、どうやって調べるのです?」
「分からないので、比べるのではないでしょうか」
ヴェルシアナはそこで一度、周囲を見た。
思っていたより多くの人間がこちらを見ている。
小さな茶会のつもりで来たはずなのに、いつの間にか別の卓にいた者まで会話を聞いていた。
硝子天井から落ちる午後の光は、銀の髪へ触れるたび白く弾けるのではなく、その表面を滑るように淡く流れ、深い赤紫の瞳には広間の明るさが小さく映り込んでいる。
ヴェルシアナ自身は、その姿を見ることができない。
けれど、彼女を囲む者たちには見えていた。
まだ幼い少女が、大勢の注目を集めたことに浮き足立つでもなく、かといって借り物の威厳で自分を大きく見せるでもなく、問われた言葉を一つずつ受け止めている。
銀の髪に目を引かれた者ほど、その後に続く静けさとの落差から目を離せなくなった。
「今の形を一つ見ただけでは、それが昔からそうだったのか分かりませんもの。同じ頃の帳簿や、建物や、家に残った話を並べて、それでも同じところへ行き着くなら……その時に初めて、少しくらい信じてもよいのだと思います」
言い終えてから、それ以上は足さなかった。
知性を見せるために話しているわけではない。
ただ、自分がどう考えているのかを聞かれたから答えた。
それなのに、周囲には数秒の静けさが残った。
若い令息は返事を忘れたようにヴェルシアナを見つめ、年配の夫人は隣の人物へ何かを囁いてから、もう一度こちらを見る。
老伯爵は先ほどのようには笑っていなかった。
少し眩しいものでも見るように、静かに目を細めている。
ヴェルシアナはさすがに居心地が悪くなった。
目立ちに来たわけではない。
その時、王妃の声が飛んできた。
「ヴェルシアナ」
「はい」
「今日は楽しめている?」
助かった。
「はい。想像していたものとは、かなり違いましたけれど」
「まだ人数のことを言っているの?」
「大切なことですので」
王妃が笑う。
「では次は、本当に小さなお席へ招きましょう」
「その際は、何名ほどでしょうか」
「そこまで確認するようになったのね」
「学習いたしました」
広間に笑いが広がり、それまでヴェルシアナの周囲へ集まっていた人々も自然に離れ始めた。
誰かは元の席へ戻り、別の者は菓子を取りに立つ。
先ほどまで一人の少女へ集まっていた場の重心が、糸を緩めた結び目のようにほどけ、再びいくつもの小さな会話へ分かれていった。
ヴェルシアナはそこで、ようやくゆっくり息を吐く。
話を終える機会をくれた王妃には、あとで心の中だけで感謝しておこう。
そう思って席へ戻ろうとしたところで、声を掛けられた。
「アルセリード嬢」
エレノア夫人だった。
先ほどより近いところに立っている。
ヴェルシアナは向き直った。
「はい」
「昔のものへ、ご興味がおありなのですね」
「最近、少し気になっているだけでございます」
「でしたら、一つだけ」
エレノアはそこで僅かに間を置いた。
その視線が一度、マルグリットの方へ向く。
今度は先ほどほど隠すような動きではなかった。ヴェルシアナに見られても構わないと考えたのか、それとも、先ほどのやり取りを経て何かを渡してもよいと判断したのかまでは分からない。
「今ある名前だけで、お探しにならない方がよろしいでしょう」
ヴェルシアナは何も言わず、続きを待った。
「場所も、役目も、長く続けば呼び方が変わります。今では一つにまとめられているものが、以前はいくつかに分かれていたこともございますから」
「……ありがとうございます」
ヴェルシアナは静かに頭を下げた。
「覚えておきます」
「ええ。それがよろしいと思いますわ」
それだけだった。
北西の何を知っているのか、祖母は王城で何をしていたのか、なぜマルグリットを見るのか。尋ねたいことを挙げれば幾つもあったが、今ここでそのすべてを求める必要はない。
相手が自分から一つ差し出したのなら、その一つを受け取ればいい。
さらに手を伸ばせば、次には何も渡してもらえなくなるかもしれない。
ヴェルシアナは礼をして、その場を離れた。
茶会が終わる頃には、硝子天井から差し込む光が白さを失い、淡い金色へ傾いていた。
席を立つ。
それだけで、広間のいくつかの場所から自然に視線が集まった。
入ってきた時にも見られていた。
けれど、もう同じではない。
最初に人々の目を引いたのは銀の髪であり、赤紫の瞳であり、公爵令嬢という肩書きだった。けれど今は、そのどれか一つではなく、それらすべての内側にいるヴェルシアナ自身を見ようとする視線がある。
あの少女は何を見ていたのか。
なぜあそこで聞くのをやめたのか。
次に会った時には、何を話すのだろう。
声にはならない興味が、幾重にも重なって彼女の背中へ向けられていた。
ヴェルシアナは振り返らない。
王妃の前まで進み、静かに礼を取った。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。随分と人気者になっていたわね」
「予定外でございました」
「嫌だった?」
ヴェルシアナは少し考えた。
「……少々、疲れました」
王妃が吹き出す。
近くにいた夫人たちからも笑いが漏れた。
「正直でよろしい」
「ですが、楽しかったです」
それは本当だった。
少なくとも、来なければ得られなかったものがある。
「またいらっしゃい」
「はい。次は人数も楽しみにしております」
「まだ言うのね」
最後にもう一度だけ笑いが生まれる。
それで終わりにした。
北西の話へ戻らず、古い役職についても尋ねず、最後まで王妃の茶会へ招かれた公爵令嬢として席を離れる。
母と並んで広間を出ると、扉が閉じるにつれて、さきほどまでのざわめきが遠くなった。
しばらく二人分の足音だけが廊下へ続いた後、セレフィアが横を見る。
「聞かなかったのね」
「何をです?」
「エレノア夫人のお話の続き」
やはり母には分かっていた。
「今は、聞かない方がよいと思いました」
「どうして?」
ヴェルシアナは歩きながら少し考えた。
「話したくない方から答えだけをいただいても、次から何も話していただけなくなりそうでしたので」
セレフィアはすぐには返事をしなかった。
窓から差す夕方の光が、二人の足元を長く伸ばしている。
「……それ、誰に教わったの?」
「特には」
「そう」
母は前を向いた。
けれど、口元には少しだけ笑みが残っている。
「上手だったわよ」
長い褒め言葉ではなかった。
だからこそ、その一言はすんなり胸へ入った。
「ありがとうございます」
それからセレフィアは、歩きながら知っている範囲のことを話した。
レヴァンシェ家は、かつて王城内の管理に関わる役目を担う者を出していた。一方のハルセイン家も、古い時代には王都の一部や王家所有地との関わりが深かったらしい。
ただし、どちらも現在は当時と同じ役目を持っておらず、組織や呼び名も何度か変わっているという。
その日の夜、屋敷へ戻ったヴェルシアナはミレーヌとオルティアを呼んだ。
机の上へ紙が広げられる。
「何かございましたか?」
ミレーヌが筆記具を手にする。
「二つ、家名を覚えてきました」
ヴェルシアナは順番に告げた。
「レヴァンシェ伯爵家。それから、ハルセイン侯爵家です」
ミレーヌが書き留める横で、オルティアも王城の装飾布を写した紙を開いた。
「こちらでも古い意匠を探してみます。今の家紋と同じでなくても、昔の意匠に繋がるものがあるかもしれません」
「お願いいたします」
ミレーヌは二つの家名を書き終えたところで顔を上げる。
「どうして、その二家なのですか?」
ヴェルシアナは昼間の光景を思い出した。
エレノアが一瞬だけ動かした視線と、その先で皿へ触れる前に止まった銀匙。
「一人が、もう一人を見たんです」
それだけ答えた。
ミレーヌは少し考えたものの、それ以上は尋ねず、再び紙へ視線を落とした。
翌朝。
ヴェルシアナがいつものように本を開いて間もなく、ミレーヌが部屋へ入ってきた。
足音は乱れていない。
それでも、いつもより僅かに歩幅が大きい。
その違いだけで、何かを見つけたのだと分かった。
「ヴェルシアナ様」
一冊の古い帳簿が机へ置かれる。
「ございました」
ヴェルシアナは読んでいた本を閉じた。
「どちらの家が?」
「どちらでもありません」
思わず顔を上げる。
ミレーヌは帳簿の頁を開き、古い役職名の並ぶ箇所へ指を置いた。
「お二家から遡っていく途中で、こちらへ繋がりました」
王城内の管理に関するらしい役職が、年代ごとに並んでいる。
似たものが幾つかあり、途中から名前が変わり、別の役目とまとめられている箇所もあった。
その中の一つだけ、ヴェルシアナには聞き覚えがない。
「これは?」
「王城北西部の維持に関わっていた役目だと思われます」
「思われる?」
「後の記録で、別の役職へ統合されております。そこまでは不自然ではありません」
ミレーヌが次の頁を開く。
さらに一枚。
名前が変わっても、支出と人員を追えば仕事そのものが完全に消えたわけではないことが分かる。
ヴェルシアナも数字を順番に見ていき、途中で僅かに眉を寄せた。
「……人数が合いませんね」
「はい」
ミレーヌの指が一つの年で止まる。
「ここから、一人分だけ合わなくなります」
ヴェルシアナはその年代を見る。
九十一年前より少し前。
地下の維持費がまとまり始め、やがて名前を失っていく流れと、ほとんど同じ時期だった。
帳簿へ目を落としたまま、ヴェルシアナはしばらく動かなかった。
これまで見つかっていたのは、支出の名前が変わり、その後に金額そのものまで姿を消していく痕跡だった。そこへ今度は、王城側で役職がまとめられたにもかかわらず、人員だけが一人分きれいに繋がらないという、別の空白が重なったことになる。
地下で見つけたものと、王城に残ったもの。
最初は遠く離れていたはずの二つが、九十一年前という一点へ近づくにつれて、別々の糸ではなくなり始めていた。
ヴェルシアナは帳簿の行を指先でゆっくり追う。
昨日の茶会で自分が口にした言葉が、今になって別の形で返ってくる。
今の形だけを見ても、昔から同じだったとは限らない。
名前が変われば、その前に何と呼ばれていたのかが見えにくくなり、役目がまとめられれば、かつてどこで枝分かれしていたのかも分からなくなる。そして、それが人についても同じなのだとしたら、帳簿の上ではたった一人分しかない空白の向こうにも、確かに名前を持ち、何かを担っていた人間がいたはずだった。
地下で見つけた巨大な構造は、最初は石と魔力だけでできた謎に見えていた。
けれど地上から辿るほど、その輪郭の奥には人の姿が増えていく。
王城に残る古い区画も、役目を変えた家々も、名前を失った支出も、数え直した時にだけ浮かび上がった一人分の空白も、それぞれ単独では意味を持たない小さな痕跡にすぎない。
それでも、それらが同じ時代へ向かって重なっている。
九十一年前に王城から失われたものは、おそらく一つではない。
そして、その中には物や金だけではなく、今はまだ名前すら見えていない誰かが、何をして、誰と関わり、なぜその役目から姿を消したのかという、人ひとり分の人生まで埋もれているのかもしれなかった。




