第75話 王城へ続くもの
「もし、少し変な話を聞いても、驚かないでくださいね」
そう前置きしたヴェルシアナに、アレクシスはすぐには返事をしなかった。
つい先ほどまで、彼が気にしていたのはヴェルシアナの腕だった。医師には問題ないと言われたことも、痛みはほとんど残っていないことも伝えたのに、それでも自分の目で確かめるまでは納得できなかったらしい。
ヴェルシアナの言う「大したものではありません」は、自分自身のことになると基準が甘いから信用しづらいとまで言われてしまったので、地下での行動を振り返れば強く反論できる材料も少ない。
「そう言われると、余計に身構えた方がいい気がするんだけど」
「そこまでのことではございません。少なくとも、今すぐ王城が沈むようなお話ではありませんので」
「今すぐ、なんだね」
余計なところを拾われた。
どう返そうかとヴェルシアナが考えているうちに、扉の外で控えめな足音が止まり、侍従が入室の許可を求める声がした。
父が来たのだと分かり、ヴェルシアナは背筋を整える。
アレクシスも、それまでよりわずかに姿勢を正した。
ほんの少し前までそこにいたのは、友人の怪我を自分の目で確かめようとする少年だった。
けれど扉が開き、レオルディス・アルセリード公爵が室内へ入った瞬間、静かな湖面へ広がっていた波紋が収まるように、アレクシスの表情から私的な色が薄れていく。
完全に消えたわけではない。
それでも、必要な時に自分の立場へ戻れるのは、彼がずっと王太子として育てられてきたからなのだろう。
レオルディスは二人へそれぞれ一礼すると、卓上へ薄い報告書を置いた。
「陛下への第一報は済んでおります。殿下にも、現時点で共有可能な範囲をご説明いたします」
「お願いします」
アレクシスの声も、先ほどより少し低くなる。
ここから先は、地下で見つけた奇妙なものを友人へ話す時間ではない。
あの場所で起きたことは、すでに王家が正式に扱うべき問題へ変わっている。
レオルディスは報告書を開き、まず古代施設の位置と調査経路について説明した。
ヴェルシアナたちが足を踏み入れた場所が単独の地下室ではなく、さらに古い構造へ接続していたこと。内部には現在一般に使われているものとは異なる形式で組まれた魔力の流路があり、それが一つの場所だけで完結せず、幾方向にも枝分かれしていたこと。
そして、その中でも特に太い一本が王都方面へ延びていたこと。
アレクシスは黙って聞いていた。
レオルディスの説明には余分な推測がない。
確認できたものと、まだ可能性の域を出ないものが明確に分けられているため、どこまでが事実なのかを見失わずに済む。
やがて彼の指が、報告書へ添えられた簡易図面の一点で止まった。
「その後の方位照合では、この主流路の延長方向が王都中央部と重なる可能性が高いと見ています」
アレクシスの視線が図面へ落ちる。
「中央部」
「はい」
レオルディスはそこで一度だけ間を置いた。
「さらにその延長を取れば、王城方向へ向かっている可能性があります」
アレクシスはすぐには顔を上げなかった。
驚いていないはずはない。
けれど感情を先に言葉へするのではなく、紙の上へ引かれた線を目で追っている。
この城は、彼にとって単なる建物ではない。
生まれ育った場所であり、王族として暮らし、いずれ自分が守る側へ立つ場所でもある。
だからこそ、その地下へ正体の分からない古代構造が繋がっているかもしれないという事実は、ヴェルシアナが受け取るよりもずっと重いのだろう。
少しして、アレクシスが顔を上げた。
「どこまで確認できているの?」
「方向までです。王城地下への物理的な接続そのものは、まだ確認されておりません」
「では、王城の下まで続いていると決まったわけではない」
「その通りです」
アレクシスはもう一度図面を見る。
「王城側から確認することは?」
レオルディスの答えは早かった。
「現段階では避けるべきでしょう」
アレクシスは反発せず、理由を求めるように視線だけを向ける。
レオルディスは報告書の頁を一枚めくった。
「内部構造は、現在一般に用いられている魔術設備とは大きく異なります。不用意に王城側から掘削、あるいは魔力干渉を行えば、地下でまだ機能している経路へどのような影響を与えるか判断できません」
「まだ動いているものがあるんですね」
「完全に停止しているとは考えにくい、というのがヴィクトル殿の見解です」
その言葉を聞いたアレクシスの視線が、一瞬だけヴェルシアナへ向いた。
ほんの少し前に、怪我は本当に大丈夫なのかと確かめていた時と同じ目だった。
けれど今は、そこへ別の意味も混じっている。
ヴェルシアナは、まだ生きているかもしれない古代構造の中にいた。
しかも一度はそこから切り離され、石造りの獣の形をした門番とまで向き合っている。
改めてその事実を意識したのかもしれない。
「もう無理に入り込もうとはいたしませんよ」
何か言われる前にヴェルシアナが告げると、アレクシスは少しだけ眉を上げた。
「まだ何も言ってないけど」
「お顔に出ておりました」
「ヴェルシアナの方こそ、僕の顔から何でも読み取ることにしてない?」
「便利ですので」
アレクシスの口元がほんのわずかに緩んだ。
そのやり取りをレオルディスは止めなかったが、やがて静かに娘へ視線を向ける。
そこには叱責らしい鋭さはなかった。
むしろ、いつもの父より少しだけ言葉を選んでいるように見えた。
「ヴェルシアナ」
「はい」
「今回、お前が悪かったと言いたいわけではない」
意外な切り出し方に、ヴェルシアナは瞬きをした。
レオルディスは卓上の報告書へ指を置いたまま続ける。
「あの状況で何もしなければ、もっと悪い結果になっていた可能性もある。お前たちがよくやったことも、私は理解している」
それは、地下から戻ってきた時にも聞いた言葉だった。
だからこそ、その先に何が続くのかは少しだけ分かった。
「だが、お前にできたことと、私がお前をもう一度同じ危険へ送りたいと思うかどうかは、別の話だ」
声はいつも通り落ち着いている。
それなのに、その一言だけが妙に重かった。
「地下の調査は、こちらで引き受ける。お前の力を疑っているからではない」
レオルディスの目がわずかに細くなる。
「二度と同じような危険な目に遭ってほしくないだけだ」
ヴェルシアナはすぐには返事をしなかった。
能力を否定されたのなら、きっと何か言い返していただろう。
六歳だから、子供だからという理由だけで遠ざけられたのなら、少しくらい不満も覚えたはずだ。
けれど父は、あの場で三人がしたことを認めたうえで、それでも行かせたくないと言っている。
それなら、反論の形が見つからなかった。
「……承知しました」
「本当にか?」
間髪を入れずに返ってきた。
ヴェルシアナは思わず父を見る。
いつもと変わらない顔をしている。
「はい」
「誓ってだな?」
「……お父様」
「答えなさい」
どうやら、ここだけは曖昧に終わらせてくれないらしい。
ヴェルシアナは一度だけ息を吐いてから、父の目を見た。
「誓います。許可もなく、危険な地下施設へ入り込むような真似はいたしません」
そこでようやく、レオルディスの肩からほんのわずかに力が抜けた。
見逃してしまいそうな変化だった。
「ならいい」
それだけ言って報告書へ視線を戻す姿を見れば、最初からヴェルシアナの能力について話していたわけではなかったのだと分かる。
ただ心配だったのだ。
娘がまた、帰ってこられないかもしれない場所へ行くことが。
隣では、アレクシスも少しだけ安堵したように息を吐いていた。
二対一なら分が悪い。
ヴェルシアナは諦めて話を戻すことにした。
「地下については、お父様たちへお任せいたします。ただ、もう一つ気になっていることがございます」
レオルディスがこちらを見る。
アレクシスの表情も戻った。
ヴェルシアナは卓上へ、別に持ってきていた写しを広げる。
「ミレーヌが見つけた古い帳簿です」
紙面には、かなり昔の支出項目が並んでいる。
北西水路見回り、地下灯火用油、補修鉄材、石材、人夫日当。
今だけ見れば、どれも特別な言葉ではない。
けれど年代順に記録を追うと、それらの項目はいくつかずつまとめられ、やがて《北西区画維持費》という一つの名称へ統合されていた。
さらに時代が進むと、その名前自体も帳簿から消えている。
それでも支出全体を比較すると、同程度の差額だけは長く残り続けていた。
名前を変えても、使った金そのものは痕跡を残す。
それを見つけたのがミレーヌだった。
「そして、およそ九十一年前。この差額まで消えています」
アレクシスは資料を受け取ると、先ほどの図面より長く目を通した。
「その頃に、地下施設が閉じられたということ?」
「まだ、そこまでは言えません」
ヴェルシアナはすぐに答えた。
「この支出があの施設の維持費だったという証拠はありませんし、施設そのものが九十一年前に閉鎖されたと確認できたわけでもございません。ただ、地下灯火用油や補修鉄材といった項目がまとめられ、名前を失い、最後には費用そのものまで消えていく流れと、現在見つかっている地下構造を無関係と決めつける理由もありません」
アレクシスは小さく頷き、もう一度数字へ目を落とした。
「九十一年前……」
口にしたのは、それだけだった。
けれど、その数字を覚えたのだと分かる。
五十年前でも百年前でもない。
九十一年前という妙に半端な距離は、「大昔」と片づけるには少し近く、直接知る者を探すには遠すぎる。
それでも家の記録まで辿れば、その頃に生きた人間の名前へ届く可能性はある。
レオルディスは資料へ目を落とした。
「王家側でも、その時期の記録を洗い直します」
「僕も確認していい?」
アレクシスが尋ねる。
レオルディスは即答せず、少し考えてから答えた。
「陛下と相談のうえで、殿下が閲覧される範囲を整理することになるでしょう」
「分かりました」
アレクシスは不満そうな顔をしなかった。
王太子だからといって、王城にある記録をすべて好きな時に開いていいわけではない。
少なくとも彼自身は、その境界を当然のものとして理解している。
前世の感覚なら、自宅の物置を探るくらいの気軽さで考えてしまいそうになるが、ここに保管されているのは王家の私物だけではない。外交、軍務、財政、各家との取り決めまで含まれている。
知る必要があることと、勝手に知っていいことは違う。
レオルディスはその後、騎士団による安全確認や、ヴィクトルを中心とした魔法構造の解析について説明した。
地下に関して、ヴェルシアナたちの役割はいったん終わる。
そう理解した時、胸の奥にはわずかな名残惜しさも残った。あそこまで追いかけた謎の続きを、自分の目で確かめたい気持ちはあるし、古代構造へ触れた時に感じた奇妙な魔力の流れも、まだ鮮明に覚えている。
けれど、それ以上に父の判断が正しいことも分かっていた。
今回は帰ってこられた。
《織環》によって崩れかけた流れが留められ、そのわずかな時間をディルヴァンが迷わず走り切り、ヴェルシアナも既に存在していた魔力の流れへ触れて、その向きを逸らした。
誰か一人の力で切り抜けたわけではない。それぞれが自分にできることを選び、その判断が一つの形として噛み合ったからこそ、三人はあの場所から帰ってこられたのだ。
けれど、一度うまくいったからといって、次も同じ三秒を作れる保証などどこにもない。
地下へ戻ることそのものが目的になってしまえば、きっと大切なものを見失う。
話が一段落した頃には、窓から差し込む光が少し傾いていた。
ヴェルシアナが立ち上がると、アレクシスも椅子から腰を上げる。
「ヴェルシアナ」
「はい?」
「最初に言っていた話」
何のことかと思ったが、すぐに思い出した。
「変な話を聞いても驚かないで、というものですか」
「十分変だったよ」
ヴェルシアナは少し考える。
「では、先にお伝えしておいて正解でしたね」
「そういうことにしておく」
その声には、さっきまでの王太子としての硬さが少しだけ薄れていた。
ヴェルシアナもようやく肩の力を抜いた。
アレクシスと別れた後、レオルディスはこのまま王城に残り、国王との追加の打ち合わせへ向かうことになっていた。
ヴェルシアナは父と廊下の途中まで同行したものの、そこから先は公的な話になる。
「控えの間で待っていなさい。帰りは私の馬車を使う」
「承知しました」
「それと、先ほどの約束を忘れるな」
「まだ数分しか経っておりません」
「なら覚えているな」
「……はい」
満足したらしい父を見送り、ヴェルシアナは侍女に案内されて控えの間へ戻った。
今回、王城へ同行していたのはヴェルシアナとミレーヌだけではない。
オルティアもまた、地下施設で《織環》を得た当事者として王城まで来ていた。
ただ、王家への第一報はレオルディスを中心に行い、必要になった場合のみ《織環》について本人から補足する段取りになっていたため、到着後はミレーヌと共に控えの間で待っている。
今回はそこまで話が進まなかったらしく、扉を開けた時には、オルティアは窓辺の椅子で薄い本を読んでいた。
先にヴェルシアナへ気づいたのはミレーヌだった。
すぐに椅子から立ち上がり、顔を見たあと、腕へ視線を移し、最後に歩調まで確かめる。本人は無意識なのだろうけれど、何を確認しているかは、その順番だけでも分かるようになっていた。
「ただいま戻りました」
「お疲れ様でございました」
その声を聞いて、オルティアも本から顔を上げる。
「思っていたより長くかかりましたね」
「父からの説明もございましたので」
「王城まで来た以上、短くは済まないと思っておりましたけれど」
本を閉じて立ち上がったオルティアは、ごく自然な動作でヴェルシアナの前まで来た。
それから何かを言うでもなく、地下で負傷した側の腕へ一度だけ目を落とす。
ミレーヌも同じところを気にしているのだから、二人に挟まれると逃げ場がない。
「医師にも父にも問題ないと言われております」
「存じております」
オルティアはすぐに答えた。
「それでも、自分で確かめるくらいは構わないでしょう?」
叱るような口調ではなかった。
地下で一緒にいたからこそ、何事もなかったという報告だけでは足りないのだろう。
ヴェルシアナが腕を軽く動かしてみせると、オルティアはその動きを最後まで見てから、ようやく小さく息を吐いた。
「でしたら、今はそれでよしといたします」
「随分と厳しい判定ですね」
「ヴェルシアナ様がご自分へ甘い分を含めております」
どうやら、こちらについてはアレクシスと意見が合うらしい。
反論するほど自信もなく、ヴェルシアナは曖昧に微笑んでおいた。
その横で、ミレーヌは卓上の帳簿をこちらへ寄せる。
「腕はもう問題ないと伺いました」
「はい」
「ですので、今度は休息不足の方を気にしております」
ヴェルシアナは思わず瞬きをした。
「心配する場所が移動したのですか」
「一つ減りましたので」
「まだ残っているのですね」
「もちろんです」
淡々とした声だったが、眉はほんの少しだけ下がっていた。
その表情を見ると、強くは言えない。
「きちんと休みます」
「では、そのお言葉も覚えておきます」
今日だけで随分と約束を記録されている。
けれどミレーヌはそこで話を終えず、すぐに帳簿を開いた。
オルティアも再び椅子へ腰を下ろし、閉じた本を膝の端へ置く。
「それで、王城でのお話はいかがでした?」
「地下そのものについては、父たちが正式に調査を進めることになりました。私たちが戻る必要はありません」
その言葉を聞いた瞬間、ミレーヌの肩からわずかに力が抜けた。
オルティアも声には出さなかったが、膝の上で重ねていた指を少しだけ緩める。
「ヴィクトル先生方が調べてくださるのでしたら、その方がよいと思います」
そう言ってから、オルティアは自分の左肩へほんの一瞬だけ視線を落とした。
服の下にある《織環》の紋は、今は落ち着いている。
「私も、使い方が分からないまま勝手に試すつもりはございません。あの時は必要だったとはいえ、まだ何ができて、何をすれば危険なのかすら分かっておりませんもの」
「それを聞いて安心しました」
ヴェルシアナが素直に返すと、オルティアはわずかに眉を上げた。
「そのお言葉は、ヴェルシアナ様ご自身にも適用してくださいませ」
「……努力いたします」
「誓っていただいた方がよろしいでしょうか」
「本日はもう、お父様へ一度誓っておりますのでご容赦ください」
何の話をしていたか知らないはずのオルティアが少しだけ目を丸くし、その後、納得したように頷いた。
「それでしたら十分です」
これ以上追及される前に、ヴェルシアナはミレーヌの開いた帳簿へ視線を落とした。
そのミレーヌが、古い支出の並ぶ頁へ指を置く。
「では、こちらは調べても構わないのでしょうか」
「帳簿ですか?」
「はい。地下へ入らないことと、記録を調べることは別かと思いまして」
確かにそうだ。
ミレーヌは頁を数枚戻し、古い支出が細かく記された箇所を示した。
「王家や公爵家側の帳簿だけを追っていると、項目名がまとめられたところから先が難しくなります」
「《北西区画維持費》ですね」
「はい。ただ、支払った側で名前が変わっていても、受け取った側まで同じ名前になっているとは限りません」
その一言で、ヴェルシアナの視線が止まった。
オルティアも、帳簿の数字そのものは専門外だろうに、話の意味を追うように少し身を寄せる。
「受け取った側」
「油を買ったのであれば、売った商家があります。鉄材を仕入れたのであれば、それを卸した工房か商会がございますし、石材を運ばせたのであれば、輸送を請け負った者もいたはずです」
ミレーヌの指が数字の列をゆっくり辿っていく。
「こちらの記録から項目名が消えていても、相手側の記録まで同じ形で消えているとは限りません」
見えなくなったものを、ずっと同じ側から探していた。
支払った側から追えないのなら、受け取った側を辿る。
考えてみれば単純な話なのに、ヴェルシアナにはその発想がなかった。
「どこから調べるのがよいと思います?」
ミレーヌはすぐには答えず、並んだ項目を一つずつ見比べた。
石材や鉄材は用途が広すぎる。人夫日当についても、当時どのような形で人を集めていたかによっては、相手側の記録そのものが残っていない可能性がある。
そうして一つずつ可能性を削っていった末に、彼女の指が《地下灯火用油》の文字で止まった。
「油からがよいと思います。地下で使用する灯火用として一定量を継続的に仕入れていたのであれば、取引先がある程度限られていた可能性があります。納入先や数量が商家側へ残っていれば、そこから別の記録へ繋げられるかもしれません」
ヴェルシアナは帳簿からミレーヌへ視線を移した。
「では、そこから調べましょう」
「よろしいのですか」
「ミレーヌが一番可能性が高いと考えたのでしょう?」
「はい」
「でしたら、最初はその判断に乗ります」
彼女の目元が、ごくわずかに柔らかくなった。
大袈裟に喜ぶわけではない。
自分で考えて出した答えが、そのまま次の行動として扱われたことを、静かに受け取ったような表情だった。
「油を扱っていた商家が分かれば、その家の帳簿だけでなく、当時どの地域へ多く卸していたかも見られるかもしれませんね」
オルティアが口を挟んだ。
ミレーヌが頷く。
「はい。もし同じ時期に特定の場所だけ量が増えていれば、手掛かりになると思います」
「それでしたら、家名が残っていなくても紋章や意匠から辿れる場合もあるかもしれません。古い商家ほど、贈答品や帳面の表紙へ自家の印を使うことがありますから」
今度はヴェルシアナが二人を見る番だった。
同じ帳簿を見ているのに、拾う場所が違う。
ミレーヌは数字と取引を見る。
オルティアは形や意匠を見る。
自分一人では、どちらも同じ精度では拾えない。
「では、油の納入先候補と、その商家に残っている古い印や意匠の両方を見た方がよさそうですね」
「はい」
「そう思います」
二人の返事が重なった。
その日のうちに商家の記録まで探し始めるのは難しいため、まずはアルセリード家へ戻ってから当時の納入先候補を洗い出すことになった。
話を終えた頃には、レオルディスから使いが来ていた。
追加の打ち合わせが長引くため、ヴェルシアナたちは先に公爵家の馬車で戻ってよいらしい。
三人は侍女に案内され、王城の出口へ向かった。
来た時とは少し違う廊下を通る。
王城は増改築を何度も重ねているため、同じ場所へ向かうにも幾つか道があるらしく、今回案内された側には古い時代の装飾が多く残っていた。
壁には歴代の王族や重臣を描いた肖像画が並び、その間を埋めるように、古い装飾布や紋章旗が掛けられている。
ミレーヌは歩きながらも、先ほど話した油商の候補を頭の中で整理しているのか、時折小さく指を動かしていた。
一方、オルティアの視線は何度か壁際へ向かっている。
最初の二、三枚は、単純に刺繍が気になるのだろうと思った。
彼女なら王城の古い意匠に目を止めても不思議ではない。
だから、前を歩いていたオルティアが突然足を止めた時も、ヴェルシアナは最初、その延長だと思った。
「……少々、お待ちください」
声の調子が違った。
ヴェルシアナとミレーヌも足を止める。
「どうなさいました?」
オルティアは答えず、壁に掛けられた一枚の古い装飾布を見上げていた。
深い色の布地へ銀糸と淡い金糸が使われ、中央には古い王家の紋章、その周囲を植物とも波とも取れる模様が囲っている。
王城にある品としては、特別目立つものではない。
それでもオルティアは、他の布へ向けていた時より明らかに長く視線を留めていた。
やがて一歩だけ近づき、触れないぎりぎりの距離で縁取りを目で追い始める。
「何かございました?」
ヴェルシアナが隣へ並ぶ。
「まだ、分かりません」
オルティアはそう答えながらも視線を外さない。
どこから糸を入れ、どこで返し、どの順番で重ねたのか。
完成した模様の表面ではなく、その下にある手順を見ている。
地下の紙片を読んでいた時と同じ目だった。
「こちらです」
オルティアが示したのは、縁の一角だった。
ヴェルシアナは少し顔を寄せる。
「普通の模様に見えますけれど」
「見た目だけなら、そうです」
「違うのですか?」
「この線はここから入って、一度こちらで返されています。それから下へ落として、別の線の裏へ回しているように見えます」
言われても、正直よく分からない。
それを完全には隠せなかったらしい。
オルティアの目元が少しだけ和らいだ。
「ヴェルシアナ様、今のところは分かっていらっしゃいませんね」
「残念ながら、刺繍についてはオルティア様と同じ目を持っておりませんので」
「そう素直に仰られると、少し困ります」
「分からないものを分かったことにしても、後で困るだけでしょう?」
オルティアは小さく頷き、再び縁取りへ視線を戻した。
ミレーヌも隣まで来て布を見上げたものの、こちらは帳簿ほど明確には分からないらしく、二人の会話を邪魔せず静かに聞いている。
「綺麗に見せるだけでしたら、この位置で返す必要はないのです。もっと短く、自然に繋げられます」
「つまり、わざわざ遠回りしている?」
「はい」
遠回りという言葉が妙に耳へ残り、ヴェルシアナも改めてその縁取りへ目を向けた。
オルティアは今度、一つの模様だけでなく、その周囲まで含めて視線を動かしていく。
少し経ってから、静かに口を開いた。
「……似ています」
「何にです?」
オルティアは一度だけヴェルシアナを見返した。
「地下で見たものに」
ミレーヌの表情も変わった。
「地下の構造と、ですか?」
「同じものではありません」
オルティアはすぐに否定する。
「少なくとも、私には同じものには見えません。ただ、線をどう繋ぐかという考え方が近いような気がします」
もう一度、古い装飾布へ目を向ける。
さっきまでただの模様だったものが、少し違って見えた。
もちろん、地下の古代構造と同じではない。
銀紫の光もなければ、魔力の流れも感じない。ただの糸でしかないのに、線が一度離れ、別の線の下を潜り、違う場所で戻ってくる流れには、確かにどこか覚えがある。
考え方という言葉は、不思議なくらい腑に落ちた。
同じ記号ではないし、同じ術式でもない。それでも、どの線をどこへ渡し、どこで返し、どの順番で重ねるかという発想だけが、形を変えて残っている。
地下でしか見たことがないと思っていたものが、王城の廊下に掛かる古い布の中へ、何食わぬ顔をして紛れ込んでいる。
ヴェルシアナはしばらくその縁取りを見上げた。
廊下には人が行き交っている。
侍従が音を立てずに通り過ぎ、少し離れた場所では貴族らしい男女が挨拶を交わしていた。壁には歴代の人物を描いた肖像画が並び、その下には時代ごとに異なる意匠や家紋が残っている。
ほんの少し前まで、それらは王城らしい景色でしかなかった。
けれど今は、違って見える。
これまで追っていたのは、地下に残されたものばかりだった。
古代の流路、閉じた扉、石造りの門番、王都へ延びる太い線。それらがあまりにも日常から離れた光景だったせいで、いつの間にか地下だけで完結する謎として考えていたのかもしれない。
けれど、あれを造ったのは人間だ。
石がひとりでに積み上がったわけではなく、油が自分から地下へ運ばれたわけでもない。鉄を打った者がいて、資材を数えた者がいて、そのための金を支払った者がいる。設計した者がいて、維持した者がいて、何らかの理由で使うことをやめた者もいたはずだった。
あれほど大きな仕組みなら、関わった人間が一人や二人で済むはずがない。
商家があり、職人がいて、役人がいて、貴族がいて、王家がいる。そして今はまだ名前すら知らない誰かも、そのどこかにいたのだろう。
その人々は、地下と一緒に消えてしまったわけではない。
地上で暮らし、家へ帰り、誰かと話し、帳簿を書き、布へ模様を残し、それぞれの人生を続けたはずだ。
ヴェルシアナは、オルティアが見つけた古い縁飾りへもう一度目を向けた。
地下の調査そのものは、父たちへ預ければいい。
無理に同じ場所へ戻る必要はない。
地下に残ったものを直接追えなくても、人間が地上へ残した痕跡なら辿ることができる。
九十一年前に何があったのか。
誰があの仕組みを使い、誰が最後に手を離したのか。
答えが地下にしかないとは限らない。
むしろ、これまで見る場所を狭めすぎていたのかもしれなかった。
あの道を造り、支え、そしていつか使うことをやめた人々は、最初からずっと――地上で生きていたのだから。




