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破滅したくない元男の悪役令嬢ですが、なぜか男女問わず好かれていきます ~攻略対象は男友達のつもりなのに、同性の令嬢との距離まで近すぎるようです~  作者: 0JOY
第1部 第三章 古き道を辿る者たち

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閑話 王太子はまだ知らない

王城の朝は、静かに始まる。


 窓の外では庭師たちが植え込みの間を行き来し、まだ高く昇りきらない陽が白い外壁を淡く照らしていた。廊下を通る侍従たちの足音も一定で、扉の向こうから聞こえる声にも慌ただしさはない。


 けれど王城では、何かが起きたからといって、必ずしも誰かが廊下を走るわけではなかった。


 むしろ重要な話ほど、静かに動く。


 一枚の書類を抱えた文官が普段とは違う部屋へ入り、しばらくして手ぶらで出てくる。いつもなら開いている扉が閉ざされ、反対に滅多に使われない会議室へ朝から灯りが入る。


 誰も声を荒らげていなくても、昨日までと違うことはある。


 王太子として学ぶようになってから、アレクシスはそうした小さな変化にも自然と目が向くようになっていた。


「殿下」


 教師の声に呼ばれ、窓から視線を戻す。


 机の上には、王都周辺の街道と領地を記した地図が広げられている。


「こちらの街道が冬季に使用できなくなった場合、王都への物資輸送をどのように維持なさいますか」


 北から王都へ伸びる主要街道の脇には規模の小さな道が二本あり、一方は川沿いを通り、もう一方は複数の領地を跨いで王都へ入っている。


「こちらへ振り分けます。ただ、全部を一つへ寄せれば今度はそちらが詰まりますから、川を使える時期であれば水運にも分けます」


「領主間の調整は?」


「先に必要です。道だけ決めても、途中で止められれば意味がありません」


 教師は小さく頷くと、今度は地図の上へ細い棒を置いた。


 橋が一つ落ちた場合、積雪が予想より早かった場合、途中の領地が不作となり、そこへも食糧を回す必要が生じた場合。


 条件が一つ増えるたび、同じ地図の上でも使える道が変わっていく。


 アレクシスは順に答えながら、紙の上を走る細い線を目で追った。


 道が塞がれれば別の道へ流し、一つへ集まりすぎるなら二つに分け、途中で問題が起こるならその手前で調整する。


 そうして考えているうちに、以前ヴェルシアナと交わした会話がふと浮かんだ。


 道そのものについて話したわけではない。


 これから先、何を選ぶのか。


 立場があることで選びやすくなるものと、反対に選びにくくなるもの。


 そういう話をした時、ヴェルシアナはすぐには答えず、赤紫の瞳を少し伏せて考えてから、自分の言葉を置いていた。


 アレクシスが王太子であることを忘れてはいないのに、その肩書きだけを相手にしているわけでもない。


 だから自分も、時々は王太子として用意された答えではなく、本当に考えていることを話せた。


「殿下。では、この橋も使用できない場合は?」


「え?」


 教師の棒は、先ほどとは別の橋を押さえていた。


 アレクシスは一度地図を見直し、すぐに条件を拾い直す。


「……すみません。こちらですね」


「はい」


「それなら南側へ一度迂回させます。距離は伸びますが、こちらの宿場を使えば――」


 答えながら、机の端へ置いていた指をそっと戻した。


 授業中に同じ条件を聞き返したのは、今日初めてだった。


 教師は何も言わず、そのまま次の条件へ移る。


 アレクシスも意識を戻したところで、扉の外から足音が近づいてきた。


 部屋の前で止まり、三度のノックが響く。


 入室を許可すると、侍従が静かに一礼した。


「失礼いたします」


 授業中に入ってくる以上、急ぎか、少なくとも予定に関わる連絡なのだろう。


「陛下より、本日午後の予定について変更がございます」


「父上の?」


「はい」


 差し出された予定表を受け取る。


 午後に予定されていた父との時間が、少し後ろへ移されていた。


 国王の予定が変わること自体は珍しくない。


「来客?」


「レオルディス・アルセリード公爵閣下がお見えになります」


 予定表を追っていた指が、その名前の上で止まった。


 ほんの僅かな間を置いて続きを見たあと、アレクシスは一度最後まで目を通し、なぜかもう一度レオルディスの名前まで視線を戻した。


 レオルディスが王城を訪れること自体は珍しくない。父と直接言葉を交わす機会もこれまでに何度となくあり、その名前だけなら二度確認するようなものではなかった。


 けれど、少し前に耳へ入った話がある。


 ヴェルシアナたちが古い地下施設へ入ったこと。そこで予想外の事態が起こったものの、全員が戻り、大きな怪我もなかったこと。


 アレクシスのところまで届いているのは、その程度だった。


 何が見つかったのかまでは知らない。


 予定表の端を押さえていた親指が、無意識に紙を撫でた。


「ヴェルシアナも?」


 侍従が僅かに顔を上げる。


 問いが早かったことに、そこで自分でも気づいた。


 それでも取り消す必要はなかった。


「アルセリード公爵令嬢も、ご一緒と伺っております」


「そう」


 予定表を机へ置く。


 その位置が少し曲がっていたので、アレクシスは角を揃え直した。


「分かりました。ありがとう」


 侍従が退出する。


 扉が閉じるまで見送ってから、アレクシスは地図へ視線を戻した。


 レオルディスだけなら、父へ報告すべき政務上の話なのだろう。


 そこへヴェルシアナも同行する。


 ならば少なくとも、彼女自身が直接関わったことについて話す可能性は高い。


「殿下」


「はい」


 今度はすぐ教師を見る。


「続きをお願いします」


 王太子としてなら、待てばいい。


 レオルディスが父へ何を報告するのか、先回りして知る必要はない。自分にも共有すべき内容なら、いずれ正式な形で伝えられる。


 その判断に迷いはなかった。


 けれど授業が終わり、教師へ礼を述べて地図を畳みかけた時、アレクシスは折り目を一つ間違えた。


 すぐに直せる程度のことだったし、教師も気づいた様子はない。


 それでも、畳み直した地図を侍従へ渡すまで、頭の片隅には同じ名前が残り続けていた。


 ヴェルシアナ。


     ◇


 昼食の席では、温かいスープが出た。


 父は別の予定があり、アレクシスは教師の一人と簡単な話をしながら食事を進めていた。


 午前中に扱った街道について話題を振られれば答えられるし、別の領地の収穫量について尋ねられれば、以前読んだ数字も思い出せる。


 会話そのものに問題はなかった。


 ただ、侍従が新しい皿を運んできた時、廊下の向こうから「アルセリード」という声が微かに聞こえた。


 スプーンが止まる。


 顔を上げたが、扉は閉じていて続きまでは聞こえなかった。


「殿下?」


 向かいから呼ばれ、アレクシスは手元へ視線を戻した。


「ごめんなさい。何の話でしたか?」


「南部の収穫量についてです」


「ああ、そうでした」


 続きを答えながら、止めていたスプーンを再び動かす。


 口へ運んだ頃には、先ほどまで立っていた湯気が少し薄くなっていた。


     ◇


 食後、次の部屋へ向かう途中で、西側の資料室から木箱が運び出されているのが見えた。


 古いものらしく角には細かな傷があり、金具の一部も黒ずんでいる。二人の文官が箱を抱え、その後ろを帳面を持った別の文官が歩いていた。


「それは?」


 三人が足を止める。


「殿下」


 先頭の文官が一礼した。


「古い施設記録の確認を命じられております」


「施設記録?」


「はい。現在、関連する年代の記録を集めているところでございます」


 アレクシスの視線が、木箱の側面へ落ちた。


 色褪せた札が貼られている。


 文字までは読めない距離だった。


 一歩近づけば見える。


 そう思ったものの、足は動かなかった。


「分かりました。呼び止めてごめんなさい」


「とんでもございません」


 文官たちは再び歩き始める。


 数歩進んだところで、アレクシスも反対方向へ向かった。


 聞こうと思えば、もう少し聞ける。


 誰が命じたのか、何の施設なのか、どの年代を調べているのか。札を見せてもらうことだってできるだろう。


 王太子という立場を使えば、答える側も拒みはしない。


 けれど、知ることのできる立場にいるのと、何でも今すぐ知るべきなのとは違う。


 父からも教師たちからも、何度も教えられてきた。


 王太子という立場は、王城にある全ての扉を好きに開けるための鍵ではない。どの扉を、いつ開くべきかを考えるためのものだ。


 角を曲がる直前、アレクシスは一度だけ振り返った。


 古い木箱は、ちょうど別の扉の向こうへ消えるところだった。


     ◇


 午後。


 父との予定が後ろへ動いたことで空いた時間を、アレクシスは図書室で過ごしていた。


 窓辺の席へ本を一冊持っていき、栞を外す。


 十頁ほど進んだところで、同じ段落をもう一度読んでいることに気づいた。


 指を一行上へ戻し、今度は最後まで読んでから頁をめくる。


 しばらくすると、窓の外から馬車の車輪が石畳を踏む音が聞こえた。


 アレクシスの指が、頁の端で止まった。


 王城へ馬車が入ってくることなど、日に何度もある。


 一台目はそのまま通り過ぎた。


 視線を本へ戻す。


 少しして、また車輪の音が近づいた。


 今度は顔を上げた。


 車寄せへ入ってきた馬車の扉には、アルセリード公爵家の紋章がある。


 アレクシスは本へ栞を挟んだ。


 椅子から腰を浮かせる。


 そのまま立ち上がりかけて、止まった。


 自分が迎えに行く予定はない。


 レオルディスは父への報告のために来ている。王太子が私的な理由で車寄せまで出ていけば、相手にも余計な気を遣わせるだろう。


 ゆっくり座り直したものの、本はもう開かなかった。


 窓の向こうで馬車の扉が開く。


 先に降りたレオルディスが周囲を一度見渡し、それから振り返った。


 続いて、小さな靴が踏み台へ乗る。


 銀色の髪が見えた。


 アレクシスはいつの間にか、椅子の肘掛けへ指をかけていた。


 ヴェルシアナが地面へ降りる。


 淡い色のドレスを身につけ、髪も王城へ上がるのに相応しく整えられていたが、アレクシスの目はそこをほとんど追わなかった。


 馬車から降りる足取りに乱れはないか、右腕を不自然に庇っていないか、階段へ向かう時に歩幅が狭くなっていないか。距離があるため細かな傷までは分からないが、それでも確かめられるものを一つずつ拾っていく。


 ヴェルシアナがレオルディスから何かを言われ、顔を上げた。


 普通に答えている。


 そのまま歩き始め、足取りにも大きな違和感はない。


 そこでようやく、アレクシスの指が肘掛けから離れた。


 背もたれへ身体を預ける。


 机の上には、栞を挟んだ本がそのまま置かれていた。


 一度手を伸ばしたものの、開くことはできなかった。


 無事だとは聞いているし、大きな怪我もないと報告されていた。


 それでも、自分の目で歩く姿を見るまで、どこかでその言葉だけを完全には信じ切れていなかったらしい。


 地下施設で何が見つかったのか、何が起きたのか、どうしてレオルディスが今日ここへ来たのか。


 午前中から考えていた疑問はいくつもある。


 なのに銀色の髪が王城の中へ消えたあと、最初に胸へ浮かんだのは、それらのどれでもなかった。


 よかった。


 その一言は、声には出さず胸の内へ沈めた。


     ◇


 レオルディスとヴェルシアナが父の執務室へ入ってから、しばらく時間が経った。


 アレクシスは同席していない。


 今回の報告はまず国王へ向けられるものであり、王太子だからといって父が受ける全ての報告へ席を置くわけではなかった。必要なら呼ばれるし、そうでなければ待つ。


 その判断自体に不満はない。


 自室へ戻ったアレクシスは、午前中に使っていた地図をもう一度広げた。


 街道と川、領境、その間を渡す橋まで、紙の上にはいくつもの道が細い線となって重なっている。人が作り、使い、必要がなくなれば閉じられ、ときには名前だけを失って記録の奥へ沈んでいくものもあるのだろう。


 午前中には物資をどう流すか考えるための地図だった。


 けれど、古い施設記録が運び出されるところを見た今は、同じ線の下にもまだ別の道が眠っているような気がして、アレクシスの視線は自然と王都の辺りへ戻っていた。


 今ある道が、昔から同じ形で存在していたとは限らない。


 王城だって、建てられた時から何一つ変わらずここにあるわけではないだろう。


 指先が王都を示す印の近くで止まり、そのまま城の位置まで滑りかける。


 途中で手を上げた。


 地下施設について、自分が実際に知っていることは少ない。


 王城と関係があるとも聞いていないし、古い記録が動いたことと、レオルディスが父へ会いに来たことさえ、同じ理由だと確定したわけではない。


 分からないところへ勝手に線を足せば、最後には自分が作った地図を本物だと思い込む。


 そこまで考えて、アレクシスは地図を閉じた。


 数歩離れ、窓まで歩く。


 庭を見下ろしてから机へ戻り、閉じた地図へもう一度目を向けた。


 開かなかった。


 代わりに別の本を取ろうと棚へ向かったところで、扉が叩かれる。


 足がすぐに止まった。


「殿下」


「はい」


 返事が、自分でも分かるくらい早かった。


 侍従が入室し、一礼する。


「アルセリード公爵閣下から陛下へのご報告が終わりました」


「父上は?」


「引き続き、公爵閣下とお話がございます」


「ヴェルシアナは?」


 まただ、と聞いてから気づく。


 今日、自分は彼女のことになると問いが一つ早い。


 侍従は何も指摘せず答えた。


「公爵令嬢は、別室でお待ちでございます」


 アレクシスは棚へ伸ばしかけていた手を下ろす。


「疲れていない?」


「少なくとも、すぐにお休みになるご様子ではございませんでした」


「怪我の具合は?」


 そこまで尋ねて、侍従が答えられることではないと気づいた。


「……ごめんなさい。それは本人に聞きます」


 侍従が静かに頭を下げる。


 アレクシスは一度だけ窓の外へ目を向け、それから言った。


「会っても大丈夫か、確認してもらえますか」


「かしこまりました」


 侍従が退出する。


 扉が閉まったあとも、アレクシスは先ほどまで座っていた椅子へ戻らなかった。


 窓辺まで歩き、庭を見下ろす。


 数分も経っていないはずなのに、一度だけ時計へ目を向けた。


 それから再び外を見る。


 地下で何があったのかも、古い施設記録がなぜ動いているのかも、レオルディスが父へ何を報告したのかも、まだ知らない。


 王太子として知る必要があるなら、いずれ正式な説明を受ける。


 そこは待てる。


 なのに、本人の顔を見て声を聞くことだけは、報告で代わりにならなかった。


 やがて足音が戻ってくる。


 アレクシスは扉が叩かれる前に、そちらへ顔を向けていた。


「殿下。公爵令嬢より、問題ないとのお返事をいただきました」


「ありがとう」


 今度は間を置かず、廊下へ出た。


     ◇


 別室までの道は、何度も歩いたことがある。


 右へ曲がり、長い窓の前を通り、階段の手前で左へ入る。


 迷うような場所ではない。


 それでも今日は、普段より廊下が長く感じられた。


 途中で顔見知りの文官から礼を受ければ、いつも通り足を止めて返す。侍女が大きな花瓶を運んでいれば、通り過ぎるまで待つ。


 走ったりはしない。


 王城の中で、王太子が理由もなく急ぐわけにはいかない。


 ただ、花瓶を抱えた侍女が通り過ぎた瞬間、次の一歩だけが少し大きくなった。


 自分で気づき、二歩目から元へ戻す。


 古い施設のことも気になっている。


 運ばれていた記録箱も、父とレオルディスがまだ話している理由も知りたい。


 けれど、それらは扉を開けて最初に尋ねることではなかった。


 やがて侍従が一つの扉の前で立ち止まり、軽く叩いた。


 中から返事がある。


 取っ手が下がり、ゆっくりと扉が開く。


 窓辺の椅子に座っていたヴェルシアナが、音に気づいて顔を上げた。


 銀色の髪が肩から滑り、赤紫の瞳がこちらへ向く。


「殿下」


 いつもと変わらない声だった。


 それだけで、車寄せからでは確かめられなかったものが一つ埋まる。


 声に無理はない。


 顔色も、遠目で見た時ほど気にならない。


 アレクシスは部屋へ入り、彼女の前まで歩いていった。


「ヴェルシアナ」


 王太子として聞くべきことなら、あとで聞けばいい。


 今ここにいるのは、地下から帰ってきた友人だ。


「怪我、本当に大丈夫?」


 ヴェルシアナは一度だけ目を瞬かせた。


「はい。ご心配をおかけしました」


「腕は?」


「少し痛みは残っていますけれど、先生からも問題ないと言われています」


「見せてもらってもいい?」


 言ってから、アレクシスは一度だけ手を止めた。


 無理に確かめることではない。


 ヴェルシアナもそれを分かっているのか、少しだけ袖を持ち上げ、怪我をした辺りを示した。


「本当に大したものではありませんよ」


「大したものじゃないって、ヴェルシアナが言うと少し信用しにくい」


「どういう意味でしょう」


「自分のことになると、基準が少し変わるから」


 ヴェルシアナがわずかに眉を寄せる。


 けれど否定の言葉がすぐには出なかったので、アレクシスは少しだけ笑った。


「やっぱり」


「……今回は、本当に大丈夫です」


「うん」


 今度は素直に頷く。


 窓越しに歩く姿を見ても、報告を聞いても、まだどこかに残っていたものが、その返事でようやく沈んでいった。


 アレクシスは向かいの椅子へ座った。


 そこで初めて、ヴェルシアナの方から口を開く。


「殿下は、どこまでお聞きになっています?」


「地下へ行ったことと、何かあったこと。それから、みんな無事に戻ったっていうところまで」


 ヴェルシアナの目が僅かに細くなる。


「思っていたより、少ないですね」


「そうみたい」


「気になりませんか?」


「気にはなるよ」


 アレクシスは少しだけ間を置いた。


「でも、父上がまだ話していないなら、たぶん今はその時じゃないんだと思う」


 ヴェルシアナは何も言わず、こちらを見る。


 その視線は、以前二人で将来の話をした時によく似ていた。


 正解を確かめるためではなく、続きを待つ目。


「それに」


「それに?」


「今日は先に、ヴェルシアナが無事かどうかを聞きたかったから」


 言葉にした途端、ヴェルシアナの表情が止まった。


 ほんの一瞬だけ。


 それから視線を少し逸らす。


「……それでしたら、もうご確認いただけたかと」


「うん。確認できた」


 アレクシスは笑う。


 ヴェルシアナは何か言い返そうとしたようだったが、結局小さく息を吐いただけだった。


 静かな時間が一つ落ちる。


 気まずくはない。


 むしろ、こうして言葉がなくても座っていられることを、アレクシスは以前より自然に感じていた。


 王太子として何かを判断する必要もなく、公爵令嬢として何かを答えてもらう必要もない。


 ただ、友人が帰ってきた。


 今は、それを確かめられれば十分だった。


 やがてヴェルシアナが窓の外へ視線を移した。


「殿下」


「なに?」


「もし、少し変な話を聞いても、驚かないでくださいね」


 アレクシスは目を瞬かせる。


「それ、先に言われると余計に気になるんだけど」


「私もそう思いました」


「じゃあ言わない方がよかったんじゃない?」


「……そうかもしれません」


 珍しく素直に認めたので、今度こそアレクシスは声を立てて笑った。


 ヴェルシアナも困ったように目を伏せる。


 その時。


 遠くで鐘が鳴った。


 王城の午後を告げる、いつもの音だった。


 アレクシスはまだ知らない。


 レオルディスが父へ持ち込んだ報告の中に、九十一年前に途切れた記録があることも、ヴェルシアナたちが見つけた古い地下の道が王都へ向かっていたことも。


 そして、その先を慎重に確かめた大人たちが、一つの可能性として王城の名を挙げたことも知らない。


 朝から何度も見ていた地図の、その紙の上には描かれていない道が、自分の暮らす城の足元まで伸びているかもしれないことを。


 王太子は、まだ知らなかった。

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