⭐︎閑話 ただのヴェルシアナ
ディルヴァン・ヴァレンティスがヴェルシアナ・アルセリードを初めて見た時、最初に目についたのは顔立ちよりも、立ち方の方だった。
銀色の髪も、深い赤紫の瞳も珍しい。庭園の色の中では自然と目を引くし、整った顔立ちをしていることくらい、九歳のディルヴァンにも分かる。
けれど、それ以上に気になったのは、まだ六歳だというのに身体の軸がほとんどぶれないことだった。
歩く時に足元を見ない。人へ向き直る時も首だけを先に動かさず、身体ごと自然に向きを変える。手の位置も、背筋も、何かを意識して整えているというより、それがもう普段の動きへ馴染み始めているように見えた。
剣を習っている人間なら、相手がどう立っているかには自然と目が向く。
そういう意味で、ヴェルシアナは分かりやすく高位貴族の娘だった。
隣には若草色の服を着た少女がいて、少し離れたところにはアレクシスもいる。
名前はすでに聞いていた。
なら、確かめるのに遠回りする必要もない。
「お前がヴェルシアナ?」
声をかけた瞬間、隣の少女――ミレーヌの肩がわずかに揺れた。
ヴェルシアナも一拍だけ黙り、それから赤紫の瞳をまっすぐこちらへ向ける。
「……初対面の公爵令嬢へのお声がけとして、それで正しいと思っていらっしゃいます?」
声は静かだった。
不機嫌そうに睨まれたわけでもないのに、礼儀として間違っているのはこちらだということだけは妙にはっきり伝わってくる。
ディルヴァンは肩へ預けていた木剣を下ろした。
そこを直せと言われたのなら、直せばいい。
背筋を整え、今度はヴァレンティス家の長男として教えられてきた形で礼を取る。
「失礼した。ディルヴァン・ヴァレンティスだ。初めまして、ヴェルシアナ・アルセリード公爵令嬢」
「ヴェルシアナ・アルセリードです。よろしくお願いいたします、ヴァレンティス様」
返された礼は綺麗で、先ほどの一言を引きずる様子もない。
こちらが直したなら、それで終わり。
その切り替え方が少し気に入った。
「ディルヴァンでいい」
「初対面でそこまで省略いたしません」
今度の返事には、ほとんど間がなかった。
ディルヴァンは思わず笑った。
「じゃあ、そのうちでいい」
ヴェルシアナはわずかに眉を上げたものの、それ以上は追及しなかった。
礼儀にはきっちり線を引くくせに、その線を相手との間へ立てる壁にはしないらしい。
こちらが言えば返してくる。
アレクシスから「ちゃんと挨拶できるなら最初からそうすればいいのに」と呆れられれば、ディルヴァンが理由を返し、その横からヴェルシアナまで口を挟む。
会ってからまだ半刻も経っていないのに、気づけば三人で普通に話していた。
その頃には、最初に彼女の目にあった慎重さも少し薄れていた。
ヴァレンティスという家名を聞いた辺りからだった気がする。
「なんか、急に警戒されなくなった気がする」
気になったので、そのまま口に出した。
ヴェルシアナは少しだけ視線を逸らし、ヴァレンティス家のことを思い出したからだと答えた。
たぶん、それだけではない。
そう思ったものの、困ることでもなかったので深くは追わなかった。
むしろ、その後の方が面白かった。
ディルヴァンが木剣を使い、魔力を乗せた動きを見せた時。
標的へ結ばれた細い紐だけを断ち、柱には傷一つ残さず剣を止める。
普段なら、速さか威力へ目を向けられる。
けれどヴェルシアナは、切れた紐ではなくディルヴァンの身体を見ていた。
「……脚から腰へ移して、そのあと肩と腕ですか?」
思わず、そちらを見る。
「分かるんだ」
「何となくです。ずっと全身を強くしていたわけではありませんよね?」
踏み込みの直前に脚へ寄せ、腰から肩へ繋ぎ、最後に腕と木剣へ必要な分だけ乗せる。
一度しか見せていない。
それでも、かなり近いところまで拾われた。
「もっと威力の方に驚くかと思った」
「壊さなかったことの方が驚きました。力を出すだけより、その方が難しいのでしょう?」
そこを見るのか、とディルヴァンは思った。
強い一撃を見れば、普通は結果へ目が行く。
けれどヴェルシアナは、剣が届くまでの途中を見ている。
どう力が通り、どこで減り、どこへ残ったか。
派手ではないものを拾う目をしていた。
その日のうちに、今度はヴェルシアナの魔法も見たいという話になり、やがて勝負をする流れになった。
剣では自分が有利すぎる。
魔力量だけなら、今度はヴェルシアナが有利になる。
それでは面白くないから、どちらか一方の得意だけでは決まらない課題を第三者に作ってもらうことになった。
そして帰り際。
将来の話の中で、ヴェルシアナは何気なく言った。
「では、楽しみにしております」
振り返ると、銀色の髪が風に揺れ、その向こうから赤紫の瞳がこちらを見ている。
「あなたが、これからどれくらい強くなるのかを」
その時だけ、返事が少し遅れた。
強いと言われること自体は珍しくない。
ヴァレンティス家の長男として幼い頃から剣を握り、魔力の扱いも習ってきた。同年代より自分が先へいることくらい、誰かに言われなくても分かっている。
だから今の自分を褒められても、そこまで驚かない。
けれど、これから先を楽しみにされたことはあまりなかった。
お前なら強くなる、と決めつけるわけでもない。
強くなれ、と求めるわけでもない。
本人にもまだ分からない先を、ただ見てみたいと言われた。
その言葉は、思いのほか長く残った。
◇
最初の勝負の日。
微量の魔力を一定に保つ課題では、ディルヴァンが先に成功した。
必要な量だけを指先へ送り、余分を漏らさない。そういう細かな操作なら昔から得意で、三十秒の維持もそれほど難しくはない。
一方でヴェルシアナは苦戦していた。
少なく流したつもりで光が強くなり、下げれば今度は弱くなる。ほんの少し動かしただけなのに変化が大きく、見ているこちらにも扱いづらそうなのが分かった。
それでも彼女は途中で投げ出さず、石の光を睨むように見つめながら少しずつ調整し、最後にはきちんと規定の明るさへ収めた。
「できたじゃん」
成功を告げられた直後に声をかけると、ヴェルシアナはまだ石を見ながら返した。
「あなたより随分時間がかかりました」
「でも、できた」
「それはそうですが」
その顔は、成功を喜ぶより先に次の改善点を探しているように見えた。
二つ目は逆だった。
一定量以上の魔力を一度に流し込む黒い石を前に、ディルヴァンは何度か出力を上げてようやく反応させたのに、ヴェルシアナはかなり抑えたつもりの一度目で成功させた。
「それ、ずるくない?」
「生まれつきです」
「俺の制御だって、結構生まれつきだぞ」
「でしたら、お互い様ですね」
言われてみれば、その通りだった。
だから笑った。
勝負らしくなったのは、最後の木箱からだった。
内部に薄いガラス球が入っていて、箱を壊さず、球も割らずに仕掛けを解く。
ディルヴァンは迷わず魔力を使った。
ごく細く絞った流れを内部へ送り込み、返ってくる反応から仕掛けの位置を探る。目で見えない場所へ指先を伸ばして、内側から箱の形を確かめるような方法だ。
途中までは自分の方が早かった。
仕掛けを二つ見つけた頃には、普通に勝てると思っていた。
ところが隣では、ヴェルシアナがまだほとんど魔力を使っていない。
蓋を見て、銀線を追い、側面へ視線を移し、最後には箱そのものを持ち上げた。
底に隠された印を見つけた時、ディルヴァンは思わず手を止めた。
「……そこにあると思わなかった」
「あなたはどうしていたのです?」
「上から魔力を流して、中で反応する場所を探してた」
ヴェルシアナの目が少しだけ明るくなる。
「面白いですね」
「今それ言う?」
「だって面白いでしょう?」
勝負の途中なのに、本当に楽しそうだった。
自分とは違うやり方を見つけたことまで、勝ち負けと同じくらい面白がっている。
その横顔を見た瞬間、ディルヴァンの方も少し気分が上がった。
結局、箱を先に開けたのはヴェルシアナだった。
銀線の違いから順番を読み、内部のガラス球へ直接魔力を流してしまう印を避け、最後に中央へ繋いで仕掛けを解いた。
蓋が開き、無傷のガラス球が姿を見せる。
数秒それを見つめたあと、ヴェルシアナは顔を上げた。
「……勝ちました」
普段より声が弾んでいた。
口元にも、隠しきれていない笑みがある。
あんなに分かりやすく嬉しそうな顔をするのかと、ディルヴァンは少し意外に思った。
「……そんな顔するんだな」
「どのようなお顔です?」
「すげえ嬉しそう」
ヴェルシアナは一度だけ目を瞬かせたが、すぐに誤魔化そうとはしなかった。
「……嬉しいですよ。勝負でしたから」
その答えを聞いてから、自分の箱へ視線を戻した。
悔しい。
そこは誤魔化す必要もなかった。
制御なら自分の方が上手いと思っていたし、途中までは実際に先へ進んでいた。それでも最後は違う見方をしたヴェルシアナに抜かれた。
けれど、その悔しさの中には嫌なものが混じっていなかった。
自分は内側から探った。
ヴェルシアナは外から読んだ。
同じものを前にしても、最初から見ている場所が違う。
なら、もう一度やれば次はどうなるのか。
その方が気になった。
「……次は、俺が先に見つける」
箱から顔を上げると、ヴェルシアナはすぐこちらを見た。
「でしたら、私はあなたが見つけなかったものを探します」
その言葉が、妙にしっくりきた。
こちらの得意へ寄せてくるわけでも、自分のやり方が正しいと言うわけでもない。
自分には自分の見方があり、彼女には彼女の見方がある。
そのまま競えばいい。
だから次もやりたいと思った。
◇
森では、その関係が少しずつ勝負以外の場所へ広がった。
ディルヴァンは、動きながら考える方が性に合っている。
道が分かれていれば先を見に行き、何かが動けば自分で近づき、危険かどうかもなるべく自分の目で確かめたい。
父からは何度も、速さと焦りを混同するなと言われてきた。
言っていることは分かる。
それでも、立ち止まっている間にしか得られないものがあるのと同じように、動いた先でしか拾えないものもある。
そう思っていた。
森の中でも、茂みの向こうに何かあると感じれば自然と足がそちらへ向いた。
その時、少し後ろから声が飛ぶ。
「ディルヴァン様、止まってください」
なぜ、と聞くより先に足が止まった。
直後、進もうとしていた場所の草が大きく揺れ、隠れていた何かが動く。
踏み込んでからでも避けられたとは思う。
けれど、その分だけ一手増える。
「よく分かったな」
「見えたわけではございません。あそこだけ、風の流れが少しおかしかったので」
それだけ説明すると、ヴェルシアナはもう別の方を見ていた。
自分が気づいたことを褒めてほしい様子もなく、止まらせたことを気にしている様子もない。
必要だったから言った。
それだけらしい。
その後も、似たようなことは何度か起きた。
もちろん、ヴェルシアナが何でも先に見つけるわけではない。ディルヴァンの方が早い時もあれば、二人とも見落としかけることだってある。
それでも、自分には拾えないものを彼女が拾う時があるという感覚は、少しずつ身体に馴染んでいった。
だから次に急な声が飛んだ時も、理由を聞く前に動けた。
◇
ルシアンを見ていて、似たことを考えたこともある。
弟は昔から静かで、よく見てから動く。
ディルヴァンが窓を開けてすぐ外へ出るなら、ルシアンは硝子に映った空や庭まで眺めてから、開けるかどうかを決めるようなところがあった。
兄弟でも、見ているものはかなり違う。
ただ、ルシアンは見つけたものを胸の内へしまうことが多かった。
好きなものも、嫌なものも、相手がどう受け取るかを先に考えてしまい、自分の答えを後ろへ置く。
兄として気にはなっていた。
けれど、「好きにすればいい」と言えば解決するほど簡単な話でもない。
そんな弟が、ある日自分で選んだ服を着ていた。
「それ、好きなの?」
何気なく聞くと、ルシアンは一度だけ自分の服へ視線を落とした。
前ならもう少し長く考えたかもしれない。
その日は、顔を上げて答えた。
「うん。僕は、好きだと思う」
ディルヴァンの耳に残ったのは、服そのものより「僕は」の方だった。
それから、弟が自分の答えを口にする場面を何度か見るようになった。
ヴェルシアナと話したから全部変わったなどとは思わない。
ルシアンが選んだことは、ルシアンのものだ。
ただ、彼女と話した後の弟が、自分の考えを一度きちんと手の中へ取り戻しているように見えることはあった。
ヴェルシアナは、答えを代わりに決めない。
相手が考えている時には待ち、出てきた言葉を簡単には笑わない。
弟には、たぶんその距離が合っている。
だからルシアンが彼女の近くにいることを、ディルヴァンは嫌だと思わなかった。
◇
その一方で、ルシアンと話すヴェルシアナを見ていると、時々小さな違いに気づいた。
言葉遣いの問題ではない。
ヴェルシアナは誰に対しても、相手に応じた礼を崩さない。
自分に対してもそうだ。
違うのは、言葉が出てくるまでの僅かな間だった。
ルシアンへ返す時、ほんの一瞬だけ考えることがある。
どこまで踏み込むのか。
どう言えば相手を困らせないのか。
見えない線の位置を確かめるように、一拍だけ置いてから話す。
アレクシスと話している時にも、似たものが見えることがあった。
二人はすでに十分親しい。
普通に笑い合うし、互いの考えを話すこともある。
それでも時折、ヴェルシアナは静かな水面へ手を伸ばす直前のように、ほんの僅かだけ慎重になる。
理由は分からない。
わざわざ聞こうとも思わなかった。
ただ、自分に対しては、その間がほとんどない。
「ディルヴァン様、また勝手に先へ行きましたね」
「見えるところにいただろ」
「見えていれば、勝手に動いてよいという意味にはなりません」
「ちゃんと考えてる」
「考えてから動くまでが速すぎるのです」
返ってくる言葉に迷いがない。
勝負をすれば普通に勝ちたがり、先に解けば嬉しそうにする。こちらが無茶をすればその場で注意し、自分が危ないことをした時に逆に指摘されると、納得しきれない顔を見せる。
礼儀には厳しいくせに、礼儀の向こうに壁がない。
その感じが、ディルヴァンには楽だった。
自分も彼女の前では、ヴァレンティス家の長男として一つ一つ言葉を整える必要がない。
勝ちたいなら勝ちたいと言える。
負ければ悔しいと言える。
気になるものがあれば先へ行き、止められれば理由を聞く。
それで関係が崩れる気がしなかった。
最初の勝負で「悔しい」と言った時、ヴェルシアナは気を遣って勝ちを小さく見せたりしなかった。
自分にはできないやり方をディルヴァンがしていたと、そのまま認めただけだ。
あれくらいがちょうどいい。
正式な場へ出れば、彼女はきっと誰が見てもアルセリード公爵家の娘として振る舞う。
姿勢も、視線も、言葉も、そのために身につけたものがきちんとある。
それをディルヴァンも分かっている。
けれど自分が彼女を見る時、肩書きはいつも名前の後からついてくる。
先にいるのは、勝負で笑い、森で風を拾い、こちらが無茶をすればすぐ怒るヴェルシアナだった。
◇
地下施設へ入ってからは、一人で先へ行くことの方が、むしろ遠回りになる場面が増えた。
古い機構の流れをヴェルシアナが見て、オルティアはそれを糸や縫い目のように読み取る。
どこが表で、どこが裏なのか。
どこを留めれば崩れず、どこを繋げば別の道が生まれるのか。
ディルヴァンには見えないものを、二人は別々の方法で拾っていく。
最初の頃なら、そこへ自分の役目を探そうとしたかもしれない。
けれど、今は探す必要がなかった。
二人が見つけた一瞬へ、最短で身体を運べる。
そこには自信がある。
全部を理解してから動く必要もない。
ヴェルシアナが急に止まれと言えば止まり、オルティアが三つ目の線を押さえると言えば、その時間を使う。
そうやって何度か一緒に動くうちに、誰が何を見ているかをいちいち確かめなくても、身体の中へ順番ができていた。
だから巨大な門番を前にして、オルティアが言った時も同じだった。
「三秒です」
銀紫の光が古い経路へ食い込み、崩れかけていた流れを辛うじて留めている。肩の印は熱を持ち、額にも汗が浮かんでいたが、オルティアの目は自分の手元から逸れない。
三秒しかない、とは思わなかった。
オルティアが三秒と言うなら、三秒ある。
ディルヴァンは石床を蹴った。
同時に、門番の身体を走っていた魔力が僅かに揺らぐ。
ヴェルシアナが触れたのだと分かった。
正面から押し返すのではなく、すでに流れている力の縁へ手をかけ、本来向かうはずの方向から一瞬だけ外している。
大きな川をせき止めるのではなく、岸辺へ細い逃げ道を切り、その僅かな変化だけで流れの形を変えるようなやり方。
そこに開いた隙間へ、身体を滑り込ませる。
一歩目で重心を落とし、振り下ろされる腕の軌道を肩の動きから読む。避けるためだけに横へ逃げれば次の踏み込みが遅れるため、足を外へずらしながら腰の向きだけを残し、短剣が弾かれた反動まで次の動作へ繋げた。
外殻を掠める。
深くは入らない。
その手応えを確かめ終える頃には、もう視線は次の一点へ移っている。
オルティアの銀紫の線が三本。
その間を、ヴェルシアナがずらした魔力の流れが通っている。
胸部の奥。
そこだけ、門番を満たしていた光が薄い。
見つけたのが誰かなど考えなかった。
自分がそこへ届けばいい。
二歩目。
横薙ぎに振られた腕の下へ潜りながら右足を踏み替え、身体を沈めた勢いをそのまま腰から肩へ送り直す。短剣を逆手へ返す間にも軌道を細かく変え、相手の動きに合わせて最短の線だけを残した。
石片が頬の横を抜けた。
見る必要はない。
正面にある一点だけで十分だった。
踏み込む。
短剣を伸ばす。
その瞬間、届かないと分かった。
地下調査用に持ち込んだ刃は短い。
本来の長剣なら届いたかもしれないが、今ここにないものを考えても意味がない。
あと半歩。
ただ、その半歩を入れれば三秒を越える。
次の瞬間、風が短剣の脇へ滑り込んだ。
身体を押す風ではなかった。
背中から前へ運ぶためでもない。
いまディルヴァンが描いている斬撃の線だけを選び、その先へ細く伸びていく。
誰の風なのか確かめる必要はなかった。
初めて森で「止まって」と言われた時には、足を止めたあとで理由を聞いた。
今では、その一拍すらいらない。
ヴェルシアナが道を作るなら、そこを走ればいい。
ディルヴァンは踏み込んだ足の角度を僅かに変え、肩を開きすぎないまま手首で最後の軌道を修正した。風が作ったほんの僅かな延長へ刃先を重ね、その距離を最初から自分の剣筋に含まれていたかのように使い切る。
刃が外殻を越えた。
硬い抵抗が手へ返り、その直後、感触が変わる。
内部へ届いた。
門番の身体を走る光が乱れ、振り上げられていた腕が途中で止まる。巨体が傾き始めるより早く足を抜き、着地の勢いで身体を捻って倒壊する範囲から外れた。
背後で石を揺らす重い音が響いた。
そこでようやく振り返る。
◇
オルティアは肩で息をしながらも、立っていた。
その隣にいるヴェルシアナは少し顔色が悪い。
なのに本人は、自分の状態より先にオルティアへ視線を向けている。
見慣れてきた、と言えば怒られるかもしれない。
人のことを先に見る癖だけは、どうにも直りそうにない。
ディルヴァンは短剣を下ろし、二人の方へ歩いた。
「ヴェルシアナ」
呼べば、赤紫の瞳がこちらへ向く。
初めて会った日に、自分の魔力の流れを拾った目。
仕掛け箱の底まで見た目。
森の風の違いを見つけた目。
ルシアンが答えを出す時には、急かさず待っていた目。
そして今、自分が走るための道を見つけた目。
「次も道、頼む」
一瞬だけ、ヴェルシアナの目が丸くなる。
すぐにその表情はいつものものへ戻った。
「ええ。その代わり、きちんと走り切ってくださいませ」
「任せて」
それ以上はいらなかった。
次も同じ形になるとは限らない。
ヴェルシアナが走るなら、自分が道を空ける側へ回ることもあるだろう。オルティアが前へ出るなら、彼女が手を動かす時間を稼げばいい。
昔の自分なら、誰より先へ行くことを考えた。
今も速くなりたいし、強くなりたい気持ちは変わらない。
むしろ今日の一撃を振り返れば、足運びも剣の角度もまだ直せるところが見える。本来の長剣があればどう届かせるか、次に同じ距離が生まれた時には風を待たずどこまで踏み込めるか、考えたいことはいくらでもあった。
そのたびに、初めて会った日に言われた言葉が頭の隅へ戻ってくる。
あなたが、これからどれくらい強くなるのかを。
未来の自分がどこまで行くかなど、ディルヴァンにも分からない。
けれど、その途中にはたぶん何度も、ヴェルシアナがいる。
勝負をすれば本気で勝ちに来て、先に答えへ辿り着けば隠しきれず嬉しそうにし、無茶をすれば間を置かず怒る。
こちらが見落としたものを見つけるくせに、自分一人では届かない場所もある。
その時には、たぶんこちらを使う。
それでいい。
アレクシスと話す時にも、ルシアンと話す時にも、ヴェルシアナは時々言葉の前へ僅かな間を置く。
相手を大事にしていないからではない。
むしろ逆で、たぶん何かを壊さないように考えている。
けれど自分へ向けられる言葉には、その迷いが少ない。
それがなぜなのかは、今も知らない。
ディルヴァン自身も、特に知ろうとは思っていなかった。
彼女の前では、自分も似たようなものだからだ。
ヴァレンティス家の長男としてどう見えるかより先に、勝ちたい時は勝ちたいと言い、悔しければ悔しいと言う。
先へ行こうとして怒られれば言い返し、それでも本当に止まれと言われれば止まる。
最初に会った日、「信用なんてこれから増やせばいい」と軽い調子で言った。
あの時は、次の勝負を取りつけるための言葉くらいにしか考えていなかった気がする。
今では、背後から来た風へ身体を預ける時に、振り返りもしない。
そう考えると、少しだけ可笑しかった。
誰が見ても、ヴェルシアナ・アルセリードは公爵家の娘だ。
人の多い場所へ出れば銀髪も赤紫の瞳もよく目立ち、立ち姿や所作を見れば、幼いなりに積み重ねてきたものが分かる。
ディルヴァンも、そのことを忘れているわけではない。
ただ、自分の前では、礼儀の向こうに壁がない。
最初に見えるのは公爵家の名ではなく、勝負で本気になり、風の違いを拾い、無茶をすればこちらへ文句を言う本人の方だった。
だから呼ぶ時も、たぶんこれからずっと同じだ。
ヴェルシアナ。
それだけで、十分に通じる。




