⭐︎閑話 公爵家の娘
アルセリード公爵家へ戻ったヴェルシアナが最初に通されたのは、自室ではなく、医師が待つ客間だった。
地下施設で受けた傷は幸いどれも浅く、手や腕には細かな擦り傷が残っているものの、歩行に支障はなく、魔力を使い続けた疲労も休めば回復する範囲だと診断された。それでも、医師が最後の道具を鞄へ戻すまで、レオルディスは一度も席を立たず、診察が終わると記録へ目を落としたまま短く告げた。
「今日はもう休め」
ヴェルシアナは椅子に座ったまま、少しだけ眉を寄せる。
「ですが、お父様。地下で見たものについて、まだ整理できていないことがございます」
「明日でいい」
「細かな部分を忘れる可能性も――」
「お前が一晩で忘れる程度のことなら、ヴィクトルもグランセル家もヴァレンティス家も覚えている」
あまりに正しい。
何か返そうとして言葉を探しているうちに、レオルディスはもう診察記録の次の頁へ視線を移しており、少なくともこの件について議論の余地はないらしい。
「……分かりました」
「ああ」
心配しているとも、無茶をするなとも言わないが、診察が終わるまで同じ部屋にいた父親が言うのだから、その短い言葉の中に含まれているものくらいは、ヴェルシアナにも分かるようになっていた。
立ち上がりかけたところで、気になっていたことを思い出す。
「オルティア様は?」
「グランセル侯爵が連れて帰った。ヴィクトルが診たあと、自家の医師にも診せるそうだ」
「ディルヴァン様は」
「ヴァレンティス公爵が連れて帰った」
「左腕は――」
「骨に異常はないと聞いている」
そこまで先回りされれば、もう続けることもない。レオルディスが書類から目だけを上げて他には、と問いかけてきたため、ヴェルシアナは少しだけ考えてから首を横へ振った。
「……ございません」
「なら休め」
「はい」
今度こそ素直に頭を下げると、扉の前で待っていた侍女が一礼し、自室まで案内するため先に歩き出した。
長い廊下へ出れば、窓の向こうでは夕暮れの光が庭園の木々を淡く染めていた。地下では時間の感覚が曖昧になっていたせいか、ただ日の傾きを見るだけで、ようやく地上へ戻ってきたのだという実感が身体へ落ちてくる。
ディルヴァンの腕には少なくとも骨の異常がなく、オルティアの肩に残った銀紫の印については気になるものの、ヴィクトルが今日の使用を禁じただけで緊急の処置を求めなかった以上、今すぐ何かが起きるわけではないのだろう。
三人とも帰れたという事実を改めて確かめたところで、地下を出てから無意識に残っていた力が、ようやく肩から少し抜けた。
「お嬢様」
前を歩いていた侍女が、自室の少し手前で足を止める。
「こちらで少々お待ちいただけますでしょうか」
近くを通った別の使用人へ小声で湯や着替えについて指示を出しているのを聞き、ヴェルシアナもようやく自分の格好を思い出した。
地下を歩き回り、そのまま戻ってきたのだ。
壁際に置かれていた大きな鏡へ目を向けた瞬間、さすがに言葉が出なかった。
銀色の髪には細かな埃が残り、きちんと整えられていたはずの髪型も崩れ、何本かが頬へ張りついている。淡い色の外出着には土が付き、裾にも地下でついた汚れが残っていた。
これで先ほどまで父親と普通に話していたのかと思うと、少しだけ妙な気分になるほど、想像していたよりもひどい姿だった。帰ってきた時に使用人たちがいつもより静かだったのは、この姿のせいだったのかもしれない。
頬へ落ちていた髪を指先で払った、その時だった。
少し離れた廊下の途中で、ナディア・セレグランが足を止めていた。
教育補佐として幼い頃からヴェルシアナの傍に置かれてきた女は、すぐには声をかけず、鏡の前に立つ少女を静かに見ていた。
髪は乱れ、衣装には土がつき、手の甲には小さな擦り傷まで残っている。本来なら客人の目へ触れさせるような姿ではないはずなのに、夕暮れを受けた銀髪は薄闇へ溶ける月光のような艶を失わず、頬へかかった一房の向こうから覗く深い赤紫の瞳にも、疲労に沈まない静かな光が残っていた。
整えられているから美しいのではなく、宝石や衣装がその容姿へ価値を足しているのでもない。むしろ土埃に汚れ、飾りを失った今だからこそ、ナディアにはよく分かった。
目を引くのは、少女自身なのだ。
ヴェルシアナが鏡から離れたところで、一人の使用人が廊下を通ろうとした。
少女は相手の進路へ気づくと、ほんの半歩だけ位置をずらした。恐縮した使用人が足を止めて頭を下げれば、ヴェルシアナも顎を僅かに引いて応じ、そのまま待たせていた侍女へ身体を向け直す。
ほんの数秒の出来事だったが、ナディアの視線はその動きを追っていた。
どこまで避ければ相手を萎縮させず、どの程度の礼なら身分差を崩さず、それでも無視したようには見せないのか。それを一つずつ考えてから動いているようには見えず、身体の方が先に答えを知っている。
背筋は伸びているのに、肩へ余計な力は入っていない。顎は僅かに引かれ、歩き始めても足元へ視線を落とさず、それでいて裾を踏むこともなかった。
どれも、お嬢様なら、できて当然とされることばかりだった。
ただ、その当然を最初から持っていたわけではないことを、ナディアは知っている。
お嬢様が高い熱を出され、その後しばらくして礼法の稽古へ戻られた頃のことを、ナディアはよく覚えていた。
エルダ夫人が床へ一本の紐を真っ直ぐに伸ばし、ヴェルシアナはその上を歩くだけで何度も足を止められていた。
歩幅を直せば肩が揺れ、肩を意識すれば視線が落ち、足元を見ないようにすれば今度は裾へ意識が向きすぎる。ようやく最後まで歩けたと思ったところで顎の位置を指摘され、また最初の場所へ戻されることもあった。
ただ歩くと言ってしまえば、それだけの稽古だったのに、ヴェルシアナは何度も失敗し、途中からはエルダ夫人に命じられるより先に、自分から「もう一度、お願いできますかしら」と言うようになった。
褒められたいからでも、誰かへ見せるためでもなく、できないものを、できないままにしておきたくない。少なくともナディアの目には、そう見えた。
それは礼法だけではなかった。
歴史の年号を間違えれば正しい答えを覚え直し、教師から指摘されても相手を責めるのではなく、自分の誤りを確かめる。失敗した使用人がいれば、誰を罰するかより先に何が起きたのかを見る。
ナディアは、そんな少女へ何度も甘い言葉を差し出してきた。
お嬢様は悪くない。
お嬢様が間違えるはずがない。
何かが上手くいかなかったのなら、それは周囲がお嬢様へ相応しく振る舞えなかったから。
幼い子供なら、そちらを選ぶ方がずっと楽だったはずだ。
それでもヴェルシアナは、少しずつその言葉へ顔を向けなくなった。
できなければ覚え、間違えたなら直し、分からなければ聞く。
言葉にすれば単純な繰り返しでしかないが、魔法の訓練をした日にも礼法の稽古はあり、友人と過ごした日にも教師との授業はあり、大きな出来事が何もなかった朝にもヴェルシアナは椅子へ座り、歩き、書き、話し、公爵令嬢として求められるものを一つずつ身体へ入れていった。
そういう時間は、誰かの記憶へ強く残るものではない。
新しい魔法を覚えるわけでもなく、危険な敵へ立ち向かうわけでもない。以前はできなかったことが、稽古を重ねるうちにほんの少しずつ自然になっていく程度の変化なら、毎日見ている者ほど気づきにくい。
だからこそナディアは、土埃に汚れた少女の何気ない半歩を見て、ようやく気づいた。
あの日、床へ引かれた一本の線は、もう必要ないのだ。
「お嬢様」
声をかけると、ヴェルシアナが振り返った。
夕暮れの光を受けた銀髪が柔らかく輪郭を縁取り、その奥にある深い赤紫の瞳が一瞬だけ丸くなったあと、すぐに穏やかに細められる。沈み始めた陽の中では白銀の髪だけが細い光を拾い、その中央にある瞳の色は、夜を迎える直前の薔薇へ最後に残った赤のように深く、幼い顔立ちへ不思議なほど強い印象を残していた。
「ナディア」
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。留守の間、ありがとうございました」
ヴェルシアナはきちんと身体を向けて礼を返した。
衣服は汚れ、髪も乱れている。それでも、その礼だけを切り取れば、どこへ出してもアルセリード公爵家の令嬢だった。
「お怪我は、もうよろしいのですか」
「大したものではございません。先生にも診ていただきました」
「左様でございますか」
「ご心配をおかけしました」
ナディアの視線が、少女の手の甲へ残る擦り傷へ落ちる。大したものではないというのは本当なのだろうが、それでも何もなかったわけではなく、安全な屋敷を出ていった少女が、今日は傷を作って戻ってきた。
「皆、お嬢様のお帰りをお待ちしておりました」
その言葉に、ヴェルシアナは廊下の向こうへ目を向けた。
仕事をしていた使用人の一人がこちらを見ていたが、視線が合うと慌てて手元へ顔を戻す。ヴェルシアナはそれを咎めることもなく、少し考えてからナディアへ視線を戻した。
「それなら、明日にでも皆へ顔を見せた方がよいでしょうか。今日は休めと、お父様に言われてしまいましたので」
わずかに困ったような顔には、つい先ほどまでの整った所作とは違う六歳の少女らしい幼さが残っていて、その両方が同じ一人の中にあることを、ナディアは少し不思議に感じた。
「では、公爵閣下のお言葉に従っていただくのがよろしいかと存じます」
「やはり、そうなりますよね」
ちょうど自室の準備を終えた侍女が戻ってくる。
ヴェルシアナは礼を言って歩き出したものの、二歩ほど進んだところで何かを思い出したように足を止め、振り返った。
「ナディア」
「はい」
「ただいま」
今度のそれは、公爵令嬢として使用人へ返すための整った挨拶とは、少しだけ響きが違った。
ナディアは一瞬だけ返事を遅らせる。
「……お帰りなさいませ、お嬢様」
ヴェルシアナは小さく笑ってから自室へ向かい、その銀色の背中が廊下の角へ消えるまで、ナディアは何も言わずに見送っていた。
◇
翌朝、朝食を終えたヴェルシアナは自室の机へ向かい、地下で見たものを記憶が鮮明なうちに書き出していた。
巨大な門番が施設そのものから魔力を供給されていたこと、オルティアが得た《織環の針》、中央に現れた地図と王都へ向かって伸びていた太い経路、その線が王城の地下へ続いているように見えたこと、そしてルシアンが見つけた等間隔の印。
ペン先は何度か紙の上で止まったが、それは記憶が曖昧だからではない。自分が実際に見たものと、そこから考えたことを混ぜないためだった。
地図の線が王城の方角へ向かっていたことは確認できている。しかし、それが現在の王城地下へ本当に接続しているかは分からず、九十一年前に消えた維持費と古代施設の停止に関係がある可能性についても、現段階では仮説にすぎない。
ヴェルシアナは紙の中央へ細い線を引き、片側へ確認できた事実を、もう片側へ推測を書き分けていった。
二つ目の項目を書き終えたところで、扉が叩かれる。
「どうぞ」
「失礼いたします」
聞き慣れた声とともに入ってきたのはミレーヌだった。
両腕には数冊の帳簿が抱えられている。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます、ミレーヌ」
ヴェルシアナは返事をしてから帳簿へ視線を向けたが、ミレーヌは机へ来てもそれを置こうとしなかった。
ただ、こちらを見ている。
顔を見たあと、肩へ視線が移り、そこから腕を辿って手の甲へ落ちる。薄く残った擦り傷のところで目が止まった。
「……ミレーヌ?」
「昨日、先生に診ていただいたのですよね」
「はい。大した怪我はございませんでした」
「本当に?」
普段なら、そこで終わったかもしれない。
今日は違った。
「腕は痛くありませんか。肩もです。魔力を使いすぎたと伺いましたけれど、気分が悪くなったりはしていませんか」
「どれも問題ありませんよ」
「頭痛は?」
「ありません」
「眩暈は?」
「それもありません」
答えるたびに、ミレーヌの表情から僅かずつ力が抜けていく。
それでも完全には安心できないらしく、帳簿を机へ置くと、いつもなら向かい側へ回るところを、今日はヴェルシアナの椅子のすぐ横まで来た。
「手を見せていただいてもいいですか」
「手ですか?」
「擦り傷が」
言われるまま差し出すと、ミレーヌは触れる直前で一度指を止め、痛くないかを確かめるようにヴェルシアナの顔を見てから、傷のないところをそっと支えた。
手の甲へ残っているのは、本当に小さな傷だった。医師からすれば処置すら必要ないものだろうが、それでもミレーヌは眉を寄せた。
「地下では、もっと危ないこともあったのですか」
「まあ……多少は」
「多少」
「全員、無事に帰ってきましたから」
「それは結果です」
思ったより強く返され、ヴェルシアナは瞬いた。
ミレーヌも言ってから少しだけ口を閉じたものの、謝りはしなかった。
「無事に帰ってこられたことは、本当に良かったと思っています。でも、それで危なくなかったことにはなりません」
声は大きくなく、むしろ普段と変わらないほど静かなのに、差し出された手を支える指だけは離れなかった。
「……心配をおかけしました」
「はい」
そこは否定しないらしい。
「とても心配しました」
今度は、ヴェルシアナの方が言葉を止めた。
ミレーヌは視線を落としたまま、傷のない場所へ指を添えている。
「昨日、お嬢様が戻られたことは聞きました。先生にも診ていただいて、大きなお怪我はないと聞いています。でも……」
そこで一度だけ言葉を探すように黙り、やがて顔を上げた。
「聞いただけでしたから」
その一言で十分だった。
大丈夫だと報告を受けることと、自分の目でヴェルシアナを見ることは、ミレーヌにとって同じではなかったのだろう。だから朝から帳簿を抱えてここへ来て、数字を見るより先に顔を確かめ、腕を確かめ、今は小さな擦り傷まで確かめている。
「大丈夫ですよ、ミレーヌ」
ヴェルシアナは今度こそ、彼女の目を見て言った。
「ちゃんと帰ってきましたから」
ミレーヌはすぐには頷かず、ヴェルシアナの顔をもう一度見て、それからようやく小さく息を吐いた。
「……はい」
返事とともに手は離れたが、ミレーヌはそのまま隣にいた。
ヴェルシアナから答えだけを与えられているわけではない。数字を見ればどう思うかを問われ、違和感を口にすれば最後まで聞いてもらい、自分で考えたことを、考える価値のあるものとして扱ってもらっている。
だからこそ今、ミレーヌは何冊もの帳簿を抱えてこの部屋へ来ている。
けれど今日は、それだけではなかった。
無事だとは聞いていた。それでも顔を見て、声を聞いて、怪我の具合まで自分の目で確かめるまでは落ち着かなかったのだろう。
いつもより近い距離も、何度も傷へ戻る視線も、本人は特別なことをしているつもりなどないのかもしれない。ヴェルシアナも、そこへ別の意味を探そうとはしなかった。
ただ、心配だから近くにいる。
それで十分だった。
「それで……」
ミレーヌが帳簿へ手を伸ばした。
けれど頁を開く前に、もう一度ヴェルシアナを見る。
「本当に、今日は調べ物をして大丈夫なのですか?」
「大丈夫です」
「休んだ方がいいのではありませんか」
「昨日はきちんと休みました」
「夜は?」
「寝ましたよ」
「何時頃ですか」
「ミレーヌ」
「はい」
「先生より確認が細かくなっています」
少し困って言うと、ミレーヌは一瞬だけ黙った。
「……先生は、お嬢様が無理をされるところまでは診察してくださらないと思いますので」
返す言葉がない。
ヴェルシアナが黙ったのを見て、ミレーヌはようやく帳簿を開いた。
それでも、いつものように向かい側へは座らなかった。
ヴェルシアナの隣に椅子を寄せ、二人で同じ頁を見られる位置に座る。
「九十一年前だけを見るのでは、足りないと思いました」
「維持費が消えた時期ですね」
「はい。ただ、消えた数字そのものより、その数字を動かしていた人を見た方がいいかもしれません」
ミレーヌの指が、一つの項目から別の頁へ移る。
「《北西区画維持費》という名前が消える前には、石材、補修用の鉄材、地下灯火用の油、人夫の日当が別々に記録されていました。それが一つへまとめられたあと、今度は項目名そのものが消えています」
「けれど、差額は残った」
「はい。しばらくは」
ミレーヌは別の帳簿を開き、二つの数字が並ぶ箇所へ指を置く。
「そして、およそ九十一年前に、その差もなくなっています。ただ、同じ時期に取引の記録から消えている商家がいくつかあります」
ヴェルシアナが身を乗り出しかけると、その瞬間、ミレーヌの手が先に帳簿をこちらへ寄せた。
「お嬢様は、そのままで」
「……ありがとうございます」
別に身を乗り出した程度で傷が悪化するわけではないが、今日は反論しない方がいい気がした。
「商家が消えているのですか?」
「廃業しただけかもしれません。代替わりで名前が変わった可能性もありますし、アルセリード家との取引だけをやめた可能性もあります。ですから、まだ意味があるとは言えません」
ミレーヌはそこで断定せず、頁を押さえていた指を少し下へ滑らせる。
「ただ、地下灯火用の油を納めていた商家と、補修鉄材を扱っていた商家については、もう少し追ってみたいと思っています。施設そのものの記録が消されていても、そこへ物を運んでいた側の記録まで同じように消えているとは限りませんから」
「なるほど……」
ヴェルシアナは机の上に置いていた自分の紙へ手を伸ばした。
横に置いて比較しようとしただけだった。
ところが、ペンを取るより先にミレーヌの手が伸びてきた。
「私が書きます」
「これくらいはできますよ?」
「存じています」
「でしたら――」
「今日は私が書きます」
丁寧なのに、譲る気配がない。
ヴェルシアナはミレーヌを見た。
ミレーヌもこちらを見ている。
しばらくして、ヴェルシアナはペンから手を離した。
「……お願いします」
「はい」
ミレーヌは満足そうにするでもなく、当然のようにペンを受け取った。ただ、文字を書き始めた横顔は、部屋へ入ってきた時より少しだけ柔らかくなっていた。
ヴェルシアナはその横で帳簿を見つめる。
地下では、自分が魔力の流れを見た。オルティアには糸の重なりが見え、ルシアンは繰り返される印を拾い、ディルヴァンは身体を通せる一瞬の道を見つけた。
そして地上へ戻ったミレーヌは、数字が途切れた場所から、その向こうへ続いていた人間の道を探そうとしている。
誰も同じ方法では見ていないからこそ、一人では届かなかった先へ手が伸びる。
「お願いします、ミレーヌ」
「はい。もう少し調べてみます」
「ただし、無理はしないでくださいね」
ペンが止まった。
ミレーヌはゆっくり顔を上げる。
「それは、お嬢様にも申し上げてよろしいでしょうか」
声は穏やかだったが、今日に限ってはあまりにも説得力があった。
「もちろんです」
「では、次に危険な場所へ行かれる時は、戻ってきてからではなく、その前にも無理をなさらないでください」
「……それは少し難しいお願いでは?」
「難しくても、申し上げます」
ミレーヌはそう言ってから、ヴェルシアナの手の甲へもう一度目を向けた。さっき確認したばかりの傷だが、それでも気になるらしい。
「怪我をしてから大丈夫だと言われても、心配する方は大丈夫ではありませんから」
ヴェルシアナは、一瞬だけ言葉を失った。
ミレーヌは大仰なことを言ったつもりなどないのだろう。ただ本当に、そう思っているだけなのだ。
「……分かりました」
「本当ですか?」
「できる限り気をつけます」
「できる限り、ですね」
「これ以上は約束できません」
ミレーヌは少し困ったように息を吐いたが、最後には小さく頷いた。
「では、今はそれで構いません」
そうして再び帳簿へ視線を戻したあとも、二人の椅子の距離は変わらなかった。
肩が触れるほどではない。それでも同じ数字を覗き込むには十分に近く、ヴェルシアナが頁へ手を伸ばせば、ミレーヌの指が先に紙をこちらへ寄せる。
ヴェルシアナは特に気にしなかったし、ミレーヌも、その近さへ別の意味を求めてはいない。
ただ、大切な友人が無事に帰ってきたことを自分の目で確かめても、心配というものはそう簡単には消えてくれない。
だから今日は、いつもより少しだけ近くにいる。
それだけのことだった。
◇
昼を少し過ぎた頃、セレフィアが娘の部屋を訪れた。
机の上へ広げられた紙と帳簿を見た瞬間、彼女の足が止まる。
「ヴェルシアナ」
「はい、お母様」
「あなた、今日は休んでいるのではなかったかしら」
「昨日は休みました」
セレフィアは一度だけ瞬きをしたあと、柔らかく笑った。
「そういうところ、お父様に似てきたわね」
「それは褒めていただいているのでしょうか」
「どうかしら」
答えないまま近づいてきた母親が、娘の前で足を止める。
「立ってちょうだい」
「……なぜでしょう」
「いいから」
言われるまま立ち上がると、セレフィアは娘の肩へ軽く手を置き、顔色から腕、足元まで確かめるように眺めた。
「お母様?」
「本当に大丈夫そうね」
「先生にも問題ないと言われております」
「なら、ちょうどいいわ」
何がちょうどいいのかと聞く前に、セレフィアが一通の封書を差し出した。
厚みのある上質な紙の端には、王家を示す印がある。
「王城からですか?」
「ええ」
封を開くと、内容は長くなかった。
地下施設で確認された事柄について、レオルディスとともに王城へ来るよう求めるものだった。
予想していなかったわけではないが、日付を確認したところで指が止まる。
「三日後……随分早いですね」
「王城の地下へ知らない道が伸びているかもしれないのですもの。むしろ三日待つだけ穏やかでしょう」
「それもそうですね」
ヴェルシアナが封書を閉じると、その手元を見ていたセレフィアが娘の銀髪を一房だけ指へ取った。
「少し伸びたわね」
「そうでしょうか」
「ええ。今回は上げすぎない方が綺麗かもしれないわ」
話が変わった。
しかも、嫌な方向へ。
「お母様。私は報告に行くのですが」
「知っているわ」
「でしたら――」
「報告に行く公爵令嬢が、何を着ても同じだと思っているの?」
言葉に詰まった。
公爵家の一人娘が父親とともに王城へ出向く以上、誰と会うか分からない。最低限ではなく、立場に相応しい装いが求められるのは当然だった。
「……お任せします」
「あら」
セレフィアの目が少し丸くなる。
「本当に? 私は嬉しいけれど、あなたが着るものなのよ」
「分かっております」
「でしたら、あとで何着か持ってこさせるわ。その中から好きなものを選びなさい」
そう言いながらも、セレフィアの指はまだヴェルシアナの銀髪を一房つまんでいた。
おそらく母の頭の中では、もう髪型から衣装までいくつか候補が出来上がっている。
「お母様は、どれがよろしいと思います?」
尋ねると、セレフィアの指が止まった。
「私?」
「はい」
「……私が選んでもいいの?」
思った以上に嬉しそうな声が返ってきた。
ヴェルシアナは少しだけ笑う。
「選んでいただいて構いません。ただし、私にも一度見せてくださいませ」
「もちろんよ。あなたが嫌なら別のものにしましょう」
そう言った直後には、セレフィアの視線が娘の髪から肩、袖口へと忙しく動き始めていた。
「でも、そうね……この髪なら淡い色も綺麗だけれど、王城でしょう? 少し深い色を入れてもいいかもしれないわ。髪は全部上げない方がいいわね。あなたの銀髪は光が当たった時が一番綺麗なのだから――」
「お母様」
「なあに?」
「楽しそうですね」
セレフィアは一度口を閉じたものの、否定はしなかった。
「……だって、着てほしいものはたくさんあるのだもの」
それでも、着なさいとは言わない。
ヴェルシアナは母のそんなところを分かっていた。
「では、その中から一番おすすめのものを持ってきてくださいませ」
「一番?」
「何着も並べられると、選ぶのが大変ですから」
「まあ。それなら本当に一番を選ばなくてはいけないわね」
セレフィアは急に難しい顔になり、もう一度娘の髪へ視線を戻した。右から見て、少し首を傾げ、今度は左へ回り込もうとする。
「お母様、まだ何も着ておりませんよ」
「だから考えているのよ。髪を先に決めるか、ドレスを先に決めるかで全然違うでしょう?」
「そういうものですか」
「そういうものです」
妙にきっぱりと言い切られてしまった。
地下施設の仕組みを考えていた時とはまるで違う種類の真剣さだが、本人にとってはこちらも相当に重大な問題らしい。
やがてセレフィアは銀髪から指を離すと、今度は頬へ触れないぎりぎりのところで手を止めた。
「……でも、本当に、何もなくてよかった」
それまで弾んでいた声が、少しだけ静かになった。
ヴェルシアナは母を見る。
視線はもう髪にも衣装にも向いていなかった。
「昨日、帰ってきたあなたを見た時は、服も髪もひどいことになっていたでしょう」
「そこまででしたか」
「そこまでよ」
即答された。
ヴェルシアナ自身、鏡を見て相当だとは思ったが、母親からするとさらに評価が厳しいらしい。
「だから三日後は、私がとびきり綺麗にしてあげたいの」
セレフィアの指先が、今度こそ娘の頬へそっと触れる。
「元気な顔で王城へ行って、元気な顔で帰ってきてちょうだい。それなら私は、あなたに似合う服を考えて待っていられるから」
ヴェルシアナはすぐには答えなかった。
衣装の話をしていたはずなのに、結局母が言いたかったことは、たぶんこちらなのだろう。
「……はい」
頬に添えられた手へ、自分の指を軽く重ねる。
「帰ってまいります」
「ええ」
セレフィアはそれ以上何も足さなかった。
ただ、重なった娘の小さな手を親指で一度だけ撫でてから、名残惜しそうに離す。
「では、一番を選んでくるわ」
「お願いします」
数歩進んだところで、セレフィアが振り返った。
「ヴェルシアナ」
「はい?」
「やっぱり二着になったら、ごめんなさいね」
「一番とは」
「最後まで迷ったら、二つとも一番でしょう?」
「それは駄目だと思います」
真顔で返すと、セレフィアは楽しそうに笑った。
「では、努力するわ」
今度こそ扉が閉じる。
静かになった部屋で、ヴェルシアナはしばらくその扉を見ていた。
以前なら、母親が選んだ服を着ることについて、もう少し身構えていたかもしれない。
今は、そうでもない。
何を着たいのかと聞いてくれることも、自分が嫌だと言えば別のものへ変えてくれることも知っている。そのうえで、それでも母が自分に着せたい服をあれこれ考えているのだと思えば、全部を断る理由もなかった。
たぶん三日後には、セレフィアが散々迷った末に選んだ一着が届くのだろう。
それを着て王城へ行き、帰ってきたら感想くらいは伝えよう。
そこまで考えてから、ヴェルシアナは手元の封書へもう一度目を落とした。
王城。
地下の地図で見た時には、遠くへ伸びる一本の線の先にあった場所へ、今度は自分が地上から向かうことになる。
アレクシスもいるだろうか。
その考えが浮かんでも、会わない方法を探そうとは思わなかった。
そもそも彼自身が王城の地下にそんな機構が残っていることを知っているのかさえ分からない。もし初めて知ることになるのなら、彼は何を思うのだろう。
これまで互いの進む道や立場について話した時のように、またアレクシス自身の考えを聞くことになるのかもしれない。
恋愛や婚姻という話になれば、今でも考えたくはない。
けれど、彼と話すことまで避ける理由はなかった。
ヴェルシアナは封書を机の端へ置くと、書きかけだった地下の記録へ戻った。
◇
三日後。
アルセリード公爵邸の正面には王城へ向かう馬車が用意され、玄関広間では使用人たちが最後の確認を進めていた。
ナディアも、その列の中にいた。
階段の上から小さな足音が聞こえた時、誰かが声をかけたわけでもないのに、広間の空気が僅かに変わった。
使用人たちの視線が自然と上へ向かう。
ヴェルシアナが現れた。
その瞬間、近くにいた若い侍女が、手にしていた布を畳む動きを止めた。
銀髪はすべてを結い上げるのではなく、一部だけが細く編まれて後ろへ流され、残りは肩の後ろへ柔らかく落ちている。窓から差し込む朝の光が触れるたび、白銀の髪は春先の水面へ陽が走るように細く輝き、その内側にある深い赤紫の瞳は、淡い色彩の中へ一滴だけ落とされた濃い葡萄酒のように鮮やかだった。
整った顔立ちはまだ幼く、頬にも六歳らしい柔らかさが残っているからこそ、その瞳と立ち姿の静けさが際立つ。
選ばれた衣装も、少女を大人に見せようとはしていなかった。
年齢に似合わない宝石を重ねることもなく、色合いも形も六歳の令嬢に相応しい。それでも生地と仕立ては一目で上等だと分かり、袖口や裾には、近づかなければ気づかないほど細かなアルセリード家の意匠が縫い込まれている。
けれど、誰も最初に見たのは衣装ではなかった。
衣装が少女を飾っているというより、少女がそこへ立つことで、初めて衣装まで完成したように見えた。
ヴェルシアナは階段を下り始める。
ナディアの目が、自然とその足元へ向かった。
少女自身は、一度もそこを見ない。
一定の歩幅で段を下り、背筋は伸びているのに肩には力がなく、顎を僅かに引いたまま視線は階段の先へ向けられている。途中で使用人が頭を下げれば、足を止めて大仰に応じることも、気づかなかったふりをすることもなく、視線と小さな動きだけで礼を返して通り過ぎた。
ナディアの記憶に、あの日の一本の紐が重なった。
お嬢様が高い熱を出され、その後しばらくして礼法の稽古へ戻られた頃。
エルダ夫人が床へ伸ばした一本の線の上を、ヴェルシアナは何度も歩いていた。歩幅を直され、視線を直され、肩を直され、それでも最後まで上手くいかなければ最初へ戻り、何度目かの失敗のあとには自分から頼んだ。
「もう一度、お願いできますかしら」
あの日と同じ少女が、今は誰にも何も言われず、階段を下りてくる。
エルダ夫人の指示棒も、床に目印となる紐もない。それでも歩幅は乱れず、視線も落ちず、あれほど意識しなければできなかったものが、もう一つずつ考える必要のない所作になっていた。
最後の一段へ足を置いた時、朝の光が銀髪の上を滑った。
細く編まれた白銀が光を拾い、揺れた髪の隙間から深い赤紫の瞳が正面を向いた瞬間、玄関広間のざわめきがほんの僅かに薄くなる。
ヴェルシアナは気づかないままレオルディスの前まで進み、適切な距離で足を止めた。
「お待たせいたしました、お父様」
「いや」
レオルディスは娘を一度だけ見た。
髪から衣装へ視線を下ろし、最後にもう一度顔へ戻してから、扉の方へ身体を向ける。
「行くか」
「はい」
ヴェルシアナは、その隣へ自然に並んだ。
ナディアの近くにいた若い侍女は、まだ少しだけ見惚れていた。先輩の侍女に袖を引かれてようやく手元へ目を戻したが、その直後にも一度だけヴェルシアナの方を見てしまい、今度は自分で慌てて視線を下げている。
誰も失礼なほど見つめはしない。
けれど、一度見てしまえば、もう一度目が行く。
銀髪が美しいからでも、赤紫の瞳が珍しいからでもない。もちろん、その容姿だけでも十分に人目を引いたが、本当に視線を止めているのは別のところだった。
六歳の少女がアルセリード公爵の隣に立って、少しも場へ飲まれていなかった。
背丈は父親の半分ほどしかなく、身体もまだ小さい。それでも、自分が誰の娘で、どこへ向かい、どう振る舞うべきなのかを理解している者だけが持つ静かな落ち着きがそこにはあり、レオルディスの隣という場所さえ、少女を小さく見せるのではなく、その輪郭を際立たせていた。
ナディアはそこで、僅かに息を止めた。
いつの間に、ここまで。
魔法を学んでいる姿は見ていたし、友人たちと過ごす姿も、地下施設から傷を作って戻ってくる姿も見た。
けれど、その間にあった何も起きない日々まで、意識したことはなかった。
礼法を学び、歴史を覚え、食事の席で手の位置を直され、客人が来れば挨拶をする。間違えれば覚え直し、上手くできなければもう一度繰り返す。
誰も語らない時間の中でも、ヴェルシアナは公爵令嬢として求められるものから逃げなかった。
その積み重ねが、今、目の前で形になっている。
そしてナディアは少女の横顔を見つめながら、かつて自分が何度も与えた言葉を思い出した。
お嬢様は間違わない。
悪いのは周囲だ。
あなたは何も直さなくていい。
それだけではない。
いずれ王国でもっとも尊い立場へ進むのだと、幼いヴェルシアナへ何度も語っていた。
王太子の隣へ立つのは、あなたであるべきだ。
本人が何を望んでいるのかを確かめるより先に、まるでそれだけが正しい答えであるかのように差し出していた。
アルセリード公爵家の娘なのだから、いずれ王太子の隣に立つのだから、それに相応しくあればいい。
そんな言葉で、少女が進む先まで決めようとしていた。
けれど今、目の前にいるヴェルシアナは、その頃とは違う。
誰かに隣へ立たされる少女ではなかった。
間違えたなら直し、できないなら繰り返し、自分が見たものを自分で考え、分からないことは分からないまま受け止めたうえで、次に何をするのかを選んでいる。
地下で危険に直面した時でさえ、誰かに言われた道をただ歩いたのではない。
自分で見て、考えて、仲間へ道を作った。
それは、ナディアがかつて少女へ思い描いていた姿とは違っていた。
王太子の隣へ立つために磨かれる公爵令嬢ではない。
誰かの隣に立つために、自分を整えてきたのでもない。
どこへ立つのかを自分で選んだ時、そこで恥じることなく立っていられるように、少女は一つずつ自分のものにしてきたのだ。
その違いに気づいた瞬間、ナディアは何も言えなくなった。
玄関の扉が開く。
外から差し込んだ朝の光が、ヴェルシアナの銀髪を一瞬だけ明るく染めた。白銀の髪は流れ込む光を受けて細い川面のように揺らめき、その隣に立つレオルディスの深い色の衣装と並ぶことで、かえって少女の輪郭だけが鮮やかに浮かび上がる。
そこでヴェルシアナが足を止めた。
彼女は振り返り、並んでいる使用人たちを一度見渡す。
「行ってまいります」
幼い声だったが、それでも妙に力むことなく、広間の端まで自然に届いた。
「行ってらっしゃいませ、お嬢様」
ナディアが頭を下げると、周囲の使用人たちも続く。
ヴェルシアナは僅かに頷き、父親とともに屋敷を出ていった。
扉が閉じて広間へ静けさが戻ったあと、先ほどから何度も視線を奪われていた若い侍女が、堪えていた息をようやく吐き出すように呟いた。
「……すごい」
あまりにも小さな声だったが、ナディアには聞こえた。
誰も叱らなかった。
たぶん、同じことを思った者が他にもいたからだ。
ナディアは閉じた扉を見つめた。
六歳の少女が、何もかも一人でできるはずはない。地下へ入る時には大人の力が必要で、魔法ではヴィクトルに遠く及ばず、剣を持たせればディルヴァンの足元にも届かない。知らないことも、できないことも、これから学ばなければならないことも山ほどある。
それでも不思議なほど、人の目を引いた。
地下では魔力の流れを読み、仲間が走るための道を作った少女が、剣も魔法もない屋敷の玄関へ立てば、今度はただ歩き、立ち、言葉を交わすだけで公爵家の娘として人の視線を受け止めている。
そのどちらか一方ではなかった。
ヴェルシアナ・アルセリードという少女は、見えるところでも、誰にも注目されない日常の中でも、自分に必要だと思ったものを一つずつ身につけてきた。
そして今、それはもう「王太子の隣へ立つための資質」などという、誰かが決めた一つの未来へ収まるものではなくなっている。
どこへ行くのか、誰の隣へ立つのか、その場所で何を選ぶのか。
ナディアが先に答えを与えられるものではない。
王家という言葉だけで決められるものでもなければ、アルセリードという家名だけで縛れるものでもない。
選ぶのは、あの少女自身なのだろう。
ナディアは、もう見えなくなった馬車の方角へ視線を向けた。
それでも一つだけ、確かなことがある。
ヴェルシアナが自分で選んだ場所へ立つ時、そこにいる者たちは、きっと一度は彼女を見る。
最初は銀糸を束ねたような髪へ目を奪われ、次に深い赤紫の瞳へ視線を止める。公爵家の令嬢として隙なく整えられた所作を見れば、六歳という年齢との不釣り合いさに驚く者もいるだろう。
けれど、それだけならば、いつか見慣れる。
本当に目を離しにくくさせるものは、その奥にある。
誰かから与えられた答えをそのまま受け取るのではなく、自分で考え、間違えれば直し、できなければ繰り返し、それでも足りなければ、また「もう一度」と言えること。
あの日、床へ一本の紐を伸ばされ、何度も最初へ戻された少女は、もう足元を見ていなかった。
王城へ向かう馬車の中でも、きっと同じだろう。
その先に誰がいて、どんな場所へ続いているのか分からなくても、ヴェルシアナは自分の目で前を見る。
ナディアがかつて思い描いた未来とは違う場所へ進むとしても、自分で選んだ道を、自分の足で歩いていく。
それこそが今のヴェルシアナ・アルセリードを、ただ美しいだけの公爵令嬢では終わらせないものだった。




