閑話 花園の女主人
「――アルセリード公爵令嬢は、どちらに?」
その問いが落ちた時、セレフィアは紅茶へ角砂糖を一つ沈めたところだった。
白い塊が琥珀色の底へゆっくり消えていくのを見届けてから、銀の匙を一度だけ回す。
「ヴェルシアナでしたら、あちらに」
視線だけを向けると、広間の中央近くには銀髪の少女を囲む小さな輪ができていた。
「ああ、あちらでしたか」
男は笑った。
四十をいくらか越えた頃だろう。灰褐色の礼装は華美ではないが、生地も仕立ても一目で上等と分かり、胸元の飾りも控えめながら家格を隠すつもりはない。
「一度、ご挨拶をと思いまして」
「まあ」
セレフィアも笑う。
「娘に?」
「ええ。これまでなかなか機会がございませんでしたので」
「そうでしたのね」
紅茶を一口。
男も笑みを崩さない。
「随分と聡明なお嬢様だとか。先ほどのお話も少し聞こえてまいりましたが、とても六歳とは――」
「あら」
セレフィアの目が、男の肩越しへ向いた。
「ちょうどよかったわ」
呼ばれたわけでもないのに、一人の伯爵が足を止める。
「何でしょう?」
「先日お話しされていた南部の葡萄園ですけれど、こちらの方もご興味がおありだったはずですわ」
突然話を向けられた男が、ほんの一瞬だけ言葉を失う。
しかし伯爵の方は、すでに喜んで話し始めていた。
「それは奇遇ですな。ちょうど今年から新しい栽培法を試しておりまして」
「……ほう。それは興味深い」
「ぜひお聞かせくださいませ。わたくしも気になっておりましたの」
セレフィアが空いた席へ手を添える。
断るほどの理由はない。
男は座り、伯爵も向かいへ腰を下ろすと、そのまま葡萄の品種や土壌の話が始まった。
セレフィアは何事もなかったように二口目の紅茶を飲んだ。
少し離れた場所で、扇が開く音がする。
「相変わらずね」
老婦人が一人、隣へ座った。
「何がでしょう?」
「何でもないわ」
セレフィアは首を傾げる。
老婦人は答えず、扇の向こうで笑っていた。
広間の中央から、別の笑い声が上がる。
二人の視線が自然にそちらへ向いた。
ヴェルシアナだった。
何を言ったのかまでは聞こえない。
けれど王妃が笑い、老伯爵が肩を揺らし、その周囲にいた令嬢たちまで口元を押さえている。
「あの子、あなたに似たのかしら」
「顔でしたら、そう言っていただけると嬉しいわ」
「顔の話をしていると思う?」
「違いました?」
扇の向こうから、小さな溜息が返ってくる。
セレフィアは笑った。
その間にも、一人の侯爵夫人がヴェルシアナの方へ向かおうとしている。
夫人の後ろには、同じくらいの年頃の少年がいた。
セレフィアの視線がそちらへ向いたのは、ほんの一瞬だった。
「そういえば」
老婦人へ顔を戻す。
「リゼット様がお探しでしたわよ」
「わたくしを?」
「ええ。先日の夜会のお話を聞きたいと」
「まあ、あの子ったら」
老婦人が振り返る。
その先に、ちょうどヴェルシアナへ向かっていた侯爵夫人がいた。
「あら、あなた」
呼び止められ、侯爵夫人の足が止まる。
「先日のことで聞きたいことがあるのよ。少しいいかしら?」
「え、ええ。もちろんですわ」
後ろについていた少年も、母親と一緒に立ち止まった。
セレフィアは何も言わず、空いた皿へ小さな焼き菓子を一つ取る。
「……今のも?」
隣から声がした。
「美味しいですわよ、これ」
「菓子の話ではないわ」
「あら」
一口かじる。
バターの香りが強い。
「本当に美味しい」
老婦人がとうとう笑った。
「あなたと話していると、自分が何を見たのか分からなくなるわ」
「それは大変」
「誰のせいよ」
セレフィアは答えなかった。
広間では、いくつもの会話が流れている。
庭園の花。
領地の収穫。
婚約。
商会。
王城の改修。
人から人へと言葉が渡り、笑い声が重なり、席が入れ替わるたびにドレスの裾が花弁のように揺れる。
その中を、一人の男が歩いていた。
先ほどから三度目だった。
一度目は王妃を見ていた。
二度目はレヴァンシェ伯爵夫人を見ていた。
三度目には、ヴェルシアナへ視線を向けた後、広間の端にいる二人の貴族へ目をやった。
セレフィアはカップを置く。
「王妃殿下」
たまたま近くを通った王妃へ声をかけた。
「なあに?」
「先ほど、グレイヴ卿がお探しでしたわ。西部の件で少しお話があるとか」
「グレイヴ卿が?」
「ええ」
王妃が広間を見渡す。
すぐに侍従が一人、近づいた。
「お呼びでしょうか」
「グレイヴ卿をこちらへ」
「かしこまりました」
侍従が離れていく。
セレフィアは王妃と二言、三言交わしてから、自分の席へ戻った。
しばらくして、先ほどの男の前へ別の貴族が現れる。
二人はごく自然に挨拶を交わし、そのまま握手をすると、何事もなかったように会話へ移っていった。男は途中で一度だけヴェルシアナの方を見たが、その頃には話を切り上げてこちらへ向かえるような空気ではなくなっている。
やがて別の者まで会話へ加わり、男の立つ場所そのものが、少しずつ広間の反対側へずれていった。
それから彼がヴェルシアナの近くへ来ることはなかった。
老婦人の扇が、ゆっくり閉じる。
「セレフィア」
「はい?」
「あの方、あなたのお嬢様と一言も話せなかったわね」
セレフィアは広間を見た。
男はすでに別の卓で誰かと笑っている。
「そうでした?」
「最初から話させる気がなかったでしょう」
「まさか」
微笑む。
「王妃殿下のお茶会ですもの。皆様、お好きな方とお話しなさればよろしいでしょう?」
「ええ。そうね」
老婦人は一度頷いた。
「話せるものなら」
セレフィアの指が、カップの取っ手へ触れる。
一瞬だけ二人の目が合った。
先に逸らしたのは老婦人だった。
その頃には、ヴェルシアナの周囲にできていた輪も少しずつ大きくなっていた。
最初に集まったのは、銀髪を間近で見ようとする若い令嬢たちだった。
そこへ年配の夫人が加わり、さらに老伯爵が話を振り、いつの間にか別の卓にいた者まで耳を傾けている。
人が増えているのに、ヴェルシアナは慌てていない。
相手の言葉が終わるまで待ち、聞かれたことへ答え、時折わずかに首を傾げる。
それだけで、なぜか相手の方が次の言葉を選び始める。
「あの子、ずいぶん見られているわね」
老婦人が言った。
「ええ」
「心配ではないの?」
セレフィアは娘を見た。
硝子天井から落ちる光が銀髪を滑り、頭を動かすたび色を変える。その姿だけなら、広い花園の中央へ置かれた白い花のようにも見えた。
けれど、その花は自分へ向けられた視線を知らないふりをしながら、誰がどこで言葉を止めたのかまで見ている。
「まだ大丈夫ですわ」
「まだ?」
「ええ」
それだけ答えた。
老婦人は何か言いたそうにセレフィアを見る。
しかしその時、ヴェルシアナの方で笑いが起きた。
王妃まで声を上げて笑っている。
少し遅れて周囲もほどけていく。
ヴェルシアナの近くに集まっていた者たちは、それぞれ元の席へ戻り始めた。
セレフィアの目が細くなる。
「……あら」
「何?」
「自分で終わらせましたわね」
ほんの少し、嬉しそうだった。
「何を?」
今度はセレフィアが老婦人を見る。
「さあ?」
「あなたたち親子、本当に似ているわ」
「まあ。嬉しい」
「褒めていないわよ」
そう言いながらも、老婦人は笑っていた。
やがて広間の向こうで、ヴェルシアナが立ち上がる。
銀の髪が、硝子天井から落ちる夕方の光を拾った。
何人もの顔がそちらへ向く。
ヴェルシアナは気づいているのかいないのか、歩幅を変えない。
王妃の前まで進み、礼をする。
六歳の少女には少し大きすぎる広間の中で、その小さな姿だけが不思議なくらい埋もれなかった。
セレフィアは何も言わず、それを見ていた。
「綺麗ね」
隣で老婦人が呟く。
「ええ」
「あなたが選んだドレス?」
「もちろん」
「そこは即答なのね」
「大切ですもの」
今度は二人で笑った。
ヴェルシアナが王妃と何かを話し、また周囲から笑いが起こる。
その声を聞きながら、セレフィアは立ち上がった。
「では、わたくしも行ってまいります」
「セレフィア」
呼び止められる。
振り返ると、老婦人が閉じた扇を膝へ置いていた。
「今日、何人動かしたの?」
セレフィアは瞬きをする。
「人を駒のように仰らないでくださいませ」
「では、何人に声をかけた?」
「たくさんの方とお話しいたしましたわ」
「……そういうところよ」
呆れた声だった。
セレフィアは微笑んだまま、娘の方へ歩き出す。
その途中で一人に挨拶し、別の夫人へ笑いかけ、すれ違った若い令嬢のドレスを褒める。
どれもほんの数秒のことだった。
それなのに、誰も彼女の足を止めず、逆に彼女が進む先だけが自然に空いていく。
前にいた者が横へ寄り、その隣では別の会話が始まり、通り道を塞いでいた二人まで何気なく位置を変える。
まるで最初から、そこに一本の道が通っていたかのようだった。
老婦人は、その背中を扇の向こうから眺めていた。
今日、広間で最も多くの視線を奪ったのは、間違いなく銀髪の公爵令嬢だった。
けれど、その少女へ誰が近づき、誰が近づけず、誰と誰が言葉を交わし、どの話題がどこで別の方向へ流れていったのか。
そこまで覚えている者は、おそらくほとんどいない。
見えていたのは、美しい花々と笑顔ばかりだった。
誰かが誰かを押したわけでもなければ、強い言葉で道を塞いだ者もいない。
それでも、伸びかけた枝はいつの間にか別の方角を向き、まだ咲かせたくない蕾の上には、最後まで強い日差しが落ちなかった。
花園とは、そうやって形を変える。
風に揺れているように見せながら、どこへ水を流し、どの枝へ光を与えるかを知っている者の手によって。
老婦人はゆっくり扇を閉じた。
「……怖い母親だこと」
その言葉が届く頃には、セレフィアはもう娘の隣に立っていた。
ヴェルシアナへ何かを囁かれ、ほんの少し目を細める。
それから何事もなかったように笑って、二人並んで広間を出ていく。
最後まで、誰かを追い払った者などいなかった。
ただ今日一日、セレフィア・アルセリードが望まなかった場所へ踏み込めた者もまた、一人としていなかった。




