第77話『消されたものは、ひとつではない』
翌朝、ヴェルシアナが朝食を終えて部屋へ戻ると、机の上には見慣れない帳簿が一冊増えていた。
革張りの表紙は黒に近い焦茶色で、角は丸く擦れ、背には何度も補修された跡がある。新しい糸の隙間から古い綴じ穴が覗いているところを見ると、一度や二度ではなく、長い年月のあいだ誰かの手を渡ってきたものらしい。
その横に立つミレーヌは、いつもより少しだけ背筋を伸ばしていた。
「ヴェルシアナ様。ございました」
「どちらの家が?」
「どちらでもありません」
予想していなかった答えに、ヴェルシアナの手が椅子の背で止まった。
昨日の茶会で覚えてきたのは、レヴァンシェ伯爵家とハルセイン侯爵家という二つの名である。そのどちらでもないのなら、ミレーヌは家そのものではなく、そこから伸びていた別の何かを拾ったのだろう。
ミレーヌは帳簿を開き、あらかじめ紙片を挟んでいた頁を示した。
「二つの家を調べていたところ、昔の役職名が出てきました。レヴァンシェ伯爵家から王城へ出ていた方の記録と、ハルセイン侯爵家が関わっていた土地の記録、その両方に同じ名称がございます」
細い指先が、古びた文字の一行で止まる。
《北西区画補任官》。
聞き覚えはなかった。
王城に存在する役職をすべて知っているわけではないが、少なくとも現在使われている名称ではない。
「こちらが、後の記録です」
ミレーヌが数頁進めると、先ほどと同じ位置にあった名称が消え、《王城営繕補佐》という別の役職へ変わっていた。
「統合されたのですか?」
「おそらく。ただ、変なのです」
ミレーヌはそう言って、別の紙を帳簿の横へ置いた。
古い人員記録を書き写したものらしく、名前と役職が縦に並び、その脇にはミレーヌ自身の字で小さく数字が振られている。
ヴェルシアナは統合前と統合後を順に見比べ、それから念のためもう一度数え直した。
「……人数が合いませんね」
「はい。こちらから、一人分だけ繋がらなくなります」
ミレーヌの指が、一覧の下部で止まる。
退職したのか、亡くなったのか、あるいは別の部署へ移ったのか。どの可能性も考えられるが、少なくとも目の前の資料には、それを示す記述がない。
役職だけは次の名称へ引き継がれているのに、そこに所属していた人間のうち一人だけが、その先の記録へ現れなかった。
「いつ頃です?」
「地下の維持費が消えた九十一年前より、少し前です」
ヴェルシアナは顔を上げた。
ミレーヌも、すぐには何も言わない。
時期が近い。
それだけなら偶然で済ませられるが、偶然ではないと決めるには、まだ材料が少なすぎる。
「消えた方のお名前は?」
「まだ分かりません。こちらは人数しか残っておりませんので」
「では、名前が残っている方から逆に辿れますか?」
「やってみます」
「お願いします」
帳簿を抱え直したミレーヌの視線は、すでに次に探すべき棚へ向いていた。
その姿を見ながら、ヴェルシアナは昨日エレノア夫人から告げられた言葉を思い出す。
今ある名前だけで、探さない方がいい。
役職の名が変わった。
そこに属する人数も変わった。
ならば、九十一年前の前後で形を変えたものは、他にもあるのかもしれない。
「ミレーヌ」
「はい」
「地下の維持費が別の項目へまとめられ始めた時期と、この役職が統合された時期を並べられますか?」
「すぐに確認いたします」
返事が早い。
必要な帳簿を頭の中で選び終えているのだろう。
ヴェルシアナはもう一つ頼みかけて、そこで口を閉じた。
一人で全部拾う必要はない。
「それから、オルティア様にもお見せしたいものがあります」
◇
「似ています」
昼を少し過ぎた頃。
オルティアは二枚の紙へ淡紫色の髪を垂らしながら、じっと模様を見比べていた。
一枚は、昨日王城で目にした古い織物の意匠を、ヴェルシアナが記憶を頼りに描き直したもの。もう一枚は、アルセリード家の資料庫から見つけた古い装飾の写しである。
描いた本人からすれば、丸と線が複雑に絡み合った図案にしか見えない。
けれどオルティアの目は、花や葉の形そのものではなく、その下を走る線の順序を追っていた。
「ここをご覧くださいませ」
細い指が円の外側を辿る。
「こちらは一度外へ出た糸が、この部分を潜ってから内側へ戻っています。王城でご覧になったものも、ヴェルシアナ様のお話どおりでしたら、通し方そのものは近いはずです」
「同じ意匠ですか?」
「いいえ」
オルティアは迷わず首を振った。
「似ていますが、同じものではありません。花の形も違いますし、外側の飾りも異なります。ただ、糸をどこから入れ、何を潜らせ、どこへ戻すか。その考え方が近いのです」
ヴェルシアナには、やはり花にしか見えない。
オルティアには、その裏を走る道が見えている。
「家紋でしょうか」
「それも違うと思います。少なくとも現在のレヴァンシェ伯爵家とハルセイン侯爵家の紋章には、この形はございません」
「現在の、ですか」
「はい。ですから、もっと古いものを見たいです」
オルティアは紙を少し回しながら、線の交差を目で追う。
「刺繍だけでなく、婚礼衣装や贈答品、家に残された古い布地でも構いません。家紋そのものが変わっていても、当時好まれていた模様や、同じ刺繍師が使った癖まで一緒に消えるとは限りませんから」
昨日聞いた言葉が、また別の角度から姿を現した気がした。
今の名前だけを見るな。
今の形だけを見るな。
どうやらそれは、帳簿にも役職にも、布の模様にも当てはまるらしい。
「でしたら――」
「でも」
柔らかな声が、窓際から入った。
二人が振り向く。
資料を手にこちらへ歩いてきたルシアンは、今日は淡い藤色の上衣に、細い銀糸の刺繍が入った白い襟を合わせていた。
肩にかかる淡い髪は窓辺の光を透かすたび柔らかく色を変え、白い頬と長い睫毛の影を際立たせている。線の細い顔立ちは年頃の令嬢たちの中へ紛れてもほとんど違和感がなく、むしろ何も知らない者が見れば、少し物静かな美少女だと思う方が自然だろう。
紙を両手で持って歩く仕草まで妙に品がよく、ヴェルシアナは一瞬だけ、窓辺からどこかの令嬢が近づいてきたような錯覚を覚えた。
「同じではありません」
オルティアが目を細める。
「今、そう申し上げたところです」
「あ……すみません」
「いいえ。続けてくださいませ」
ルシアンは少しだけ困ったように睫毛を伏せた後、手にしていた紙を二枚の横へ置いた。
そこには、小さな記号がいくつも描き写されている。
地下で見つけた、一定の間隔で並んでいた反復記号だった。
王城へ向かっているように見えた太い流路のそばで、ルシアンだけが拾ったものだ。
「これと、少し似ています」
示された一つを見て、ヴェルシアナは眉を寄せた。
「どこがです?」
「ここです」
ルシアンは迷わず、古い意匠の外側を指した。
装飾だと思っていた小さな突起が三つ、ほぼ同じ間隔で並んでいる。
その横へ、地下の記号を書き写した紙を重ねた。
「形は違います。でも、この三つだけ間隔が同じです」
オルティアも紙へ顔を寄せる。
「……本当ですね」
「地下のものは四つあります」
「こちらは三つですわ」
「はい。だから、同じではありません」
ルシアンはそこで終わらせず、持ってきた資料の中からもう一枚を取り出した。
「でも、こちらには四つあります」
今度こそ、ヴェルシアナも身を乗り出す。
古い紋章集の片隅に描かれている、小さな飾り。
円でもなければ、花でもない。
盾の縁を飾るだけの、ごく細かな意匠だった。
そこに四つ、ほぼ等間隔で小さな印が並んでいる。
「どこの家です?」
「家ではありません」
ルシアンが頁の上部を指した。
古い文字で、かつて王城に存在した役職の印だと記されている。
その名称を読んだ瞬間、ヴェルシアナの視線が止まった。
《北西区画補任官》。
今朝、ミレーヌが見つけたものと同じだった。
しばらく、三人の間に言葉が落ちなかった。
ヴェルシアナは机の上へ広げられた紙を見渡す。
ミレーヌが拾ったのは、人と数字だった。
役職がまとめられた時、そこから一人分だけ人数が繋がらなくなる。
オルティアが拾ったのは、表からは見えにくい線の通り方だった。異なる意匠の中に、似た考え方で糸が巡っている。
そしてルシアンは、そのどちらより小さなものを見つけた。
地下の流路沿いに置かれた記号と、失われた王城の役職印。
似ている。
だが、同じではない。
その違いをルシアンが見つけてくれたことの方が、ヴェルシアナには重要に思えた。
「偶然、でしょうか」
ルシアンが尋ねる。
「分かりません」
それでいい。
似ているから同じだと決めてしまえば、自分の欲しい答えに現実を寄せることになる。
「まだ、繋げないでおきましょう」
「賛成です」
オルティアもすぐに頷いた。
ヴェルシアナは役職印に並んだ四つの点を指先で示す。
「ただ、別々に調べ続ける理由にはなりました」
ミレーヌは役職と金。
オルティアは布と古い意匠。
ルシアンは印と紋章。
同じものを全員で眺める必要はない。それぞれが最もよく見える場所から辿った方が、おそらく拾えるものは多い。
「では、わたくしは古い布を探します」
オルティアは早々に自分の紙を引き寄せた。
「王城のものだけではなく、二家の古い贈答品も見たいですね。家紋が変わっていても、刺繍師まで一緒に変わったとは限りませんから」
「僕は、役職印を見てみます」
ルシアンも続く。
「似ている印が他にもあるなら、四つ並んでいることに意味があるのか、それともただの飾りなのか、少しは分かるかもしれません」
「ミレーヌには、引き続き人員と支出をお願いします」
「承知いたしました」
三人がそれぞれ紙を手元へ引いた。
ヴェルシアナの前だけが空く。
それを見て、一瞬だけ妙な気分になった。
けれど、悪くない。
自分には見えないものを、自分よりよく見える人間が拾ってくれる。
地下でも同じだった。
ヴェルシアナ一人では、あの巨大な流れを読み切ることはできなかった。オルティアが構造を読み、ディルヴァンが開いた道を迷わず走ったから、最後まで届いたのだ。
地上では、扱うものが変わっただけなのかもしれない。
魔力の流れではなく、人が残したものの流れを読む。
少なくとも今回は、剣を抜く必要も、地下を走る必要もなかった。
◇
最初に戻ってきたのは、ミレーヌだった。
夕方、窓から差し込む光が机の端まで伸びた頃、彼女は朝とは別の帳簿を抱えて部屋へ現れた。
「ヴェルシアナ様」
声を聞いただけで、何か見つかったと分かった。
「ありました?」
「はい。ただ……少し違いました」
机へ置かれた帳簿は、王城のものではない。
「商会の記録ですか?」
「正確には、王都で古くから油を扱っていた商家に残っていた取引控えの写しです」
油。
その一語だけで、九十一年前の帳簿にあった《地下灯火用油》が頭の中へ浮かぶ。
ミレーヌが頁を開いた。
「地下の維持費から灯火用油という名称が消える少し前まで、ほぼ同じ量の油が定期的に納められています」
「どこへ?」
「それが、分からないんです」
届け先の欄に、王城の名はない。
北西区画とも書かれていなかった。
代わりに記されているのは、ヴェルシアナが一度も聞いたことのない名称だった。
《第四受取所》。
「第四……」
昼間ルシアンが見つけた四つの印が頭をよぎったが、ヴェルシアナはそこで思考を止めた。
数字が同じというだけで結びつけるには早い。
「この名前は、いつまで使われています?」
「こちらです」
ミレーヌの指が古い文字の列を下っていく。
《第四受取所》という名は何年も続いた後、ある年を境に《王城北西物資受取》へ変わり、さらに後になると、その名称さえ消えて王城全体の物資費へまとめられていた。
「金額は?」
「そこが、気になりました」
ミレーヌは別の紙を横へ置き、三つの記録を並べる。
「名前が変わった最初の年は、金額がほとんど同じです」
《第四受取所》の名が消えた翌年、その分とほぼ同額が《王城北西物資受取》に現れている。
その名称が消えた後にも、王城全体の物資費の中へ、それまでの支出に近い増額が見つかった。
「こちらは名前が違います。でも金額が合います」
ミレーヌの指が、三つの数字を順番に辿った。
名称は二度変わっているのに、使われている金は形を変えながら残り続けている。
そして、その流れは九十一年前で途切れた。
それまで別の名へ移るたびに、ほぼ同額の支出が次の項目へ姿を現していたのに、その年を境に増額分そのものがなくなり、別の項目へ移された形跡も見当たらない。
地下の維持費が帳簿から消えていく時期と、王城の古い役職が統合された時期、さらに油の納入先が二度名前を変えた末に金額ごと消失する時期までが、完全に同じではないにせよ、九十一年前という一点の周囲へ少しずつ集まり始めていた。
「偶然にしては、多いですね」
ヴェルシアナが呟いても、ミレーヌはすぐには頷かなかった。
もう一度数字を見直し、前後の頁まで確認してから、ようやく顔を上げる。
「まだ、偶然ではないとは言えません」
「ええ」
その慎重さがありがたかった。
欲しい答えへ数字を曲げないからこそ、ミレーヌに任せられる。
「ですが、もう一つございます」
ミレーヌが頁を戻した。
《第四受取所》。
その横に、小さな印が押されている。
古いインクは滲み、中央部分はほとんど潰れていたが、外周に置かれた四つの小さな点だけは、かろうじて形を残している。
ヴェルシアナは、その印をしばらく見つめた。
昼間見た役職印とは違う。
地下の記号とも違っている。
それでも、また四つあった。
背筋の奥を、冷たい指先で一度だけなぞられたような感覚が走る。
同じものが、そのまま残っているわけではない。
むしろ、そこが奇妙だった。
役職は別の名称へ変わり、支出は別の項目へ移され、物資の受取先も呼び方を変えている。古い意匠は本来の意味を失ったまま装飾の中へ紛れ、印も用途に応じて形を変えながら、それでも完全には消えず、ほんの一部だけを残していた。
誰かが一枚の紙から一つの言葉を黒く塗り潰したような、分かりやすい消え方ではない。
人が働く場所が変わり、役目が別の役目へ吸収され、商人が荷を届ける先の名前も変わっていく。その変化が一度ではなく何年もかけて積み重なれば、最後に残るのは、かつてそこに何があったのかを知らなければ異常とさえ思えない数字や模様だけなのだろう。
だから、今まで見えなかった。
地下の維持費だけが、九十一年前に突然消えたのではないのかもしれない。
王城の役目も、人員も、物資の流れも、その前後で少しずつ形を変えている。
しかも、それぞれを単独で見れば不自然ではない。役職が整理されることも、予算の名目が変わることも、古い取引先が消えることも、長い年月の中では十分に起こり得る。
けれど、それらが同じ時代の周囲へ重なり始めた時、初めて別の輪郭が見えてくる。
ヴェルシアナは机の上へ散らばった紙を見渡した。
まだ答えには遠い。
何が起きたのかも、誰が決めたのかも、なぜそうする必要があったのかも分からない。
それでも、地下で巨大な流路を見上げていた時には石と魔力の向こうへ隠れていたものが、地上から辿ることで少しずつ人の形を取り始めている。
あの場所を造った者がいた。
維持するために油を運んだ者がいて、それを受け取る役目を持つ者がいた。必要な金額を帳簿へ記し、王城の中で誰かがその仕事を管理し、また別の誰かが次の者へ引き継いでいたはずだ。
そして九十一年前、その人々の仕事は一斉に消えたのではなく、名前を変え、別の役目へ溶け込み、いくつもの場所で少しずつ見えなくなっていった。
ヴェルシアナの指が、《第四受取所》の古い印の上で止まる。
これまで追っていたのは、一つの地下施設が失われた理由だった。
けれど本当に消えていったものが、施設だけではなかったのだとしたら。
探すべきなのもまた、一つではなかった。




