第6話 わたくしの未来を、勝手に決めないで
翌朝、目を覚ました俺は、薄いカーテンの向こうから差し込む朝の光を眺めながら、昨夜最後に紙へ書いた一文を思い出していた。
『自分で決める』
文字にしてしまえば、驚くほど当たり前の言葉だった。
前世の俺なら、そんなものをわざわざ人生の指針として掲げることすらなかっただろう。昼に何を食べるか、休日をどう過ごすか、誰と付き合うか、どんな仕事を選ぶか。大きさの違いこそあっても、自分のことは自分で考えて決めるものだと思っていたし、少なくとも他人から「これを好きになりなさい」と言われて、そのまま自分の気持ちになるとは考えたこともなかった。
けれど、ヴェルシアナ・アルセリードという少女として生き始めてから、まだ数日しか経っていないというのに、その当たり前が決して簡単ではないことを思い知らされている。
公爵家の娘として生まれれば、着る服一つにも家格が絡み、誰と親しくするかにも意味が生まれ、まだ会ったことすらない王太子との将来まで「相応しい」という言葉によって少しずつ形を与えられていく。
その一つひとつは、おそらく悪意から生まれたものばかりではない。
両親は娘の幸せを願っているし、使用人たちは公爵令嬢へ失礼がないよう気を配り、教育係も少なくとも表面上はヴェルシアナのためを思って助言をしている。
だからこそ厄介なのだ。
誰かから無理やり押しつけられたものなら、反発することは簡単だ。
けれど「あなたのため」と差し出されたものを、子供が何年も受け取り続けていたら、それが自分の願いなのか、誰かが望んだ姿なのか、その境目はきっと少しずつ曖昧になっていく。
昨日までのヴェルシアナは、どこまで自分の意思で生きていたのだろう。
そんなことを考えていると、扉の向こうから控えめなノックが響いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
「ええ。どうぞ」
扉が開き、着替えを抱えたミレーヌが入ってくる。
初日に比べれば、彼女の足取りからはかなり緊張が抜けていた。
もちろん、主人と使用人という距離は崩していないし、言葉遣いも丁寧なままだ。それでも、俺が何か言うたびに身体を強張らせていた頃とは違い、今は少なくとも「次に何を怒られるのだろう」と怯えながら近づいてくるようなことはない。
「おはようございます、ヴェルシアナお嬢様。本日のお加減はいかがでございますか?」
「おはよう、ミレーヌ。よく眠れましたし、もう熱の影響もほとんどありませんわ」
「それは何よりでございます」
寝台から足を下ろすと、ミレーヌが自然な動作で室内履きを揃えてくれる。
たったそれだけの世話にも、以前のヴェルシアナなら何の疑問も抱かなかったのだろう。
誰かが服を用意する。
誰かが食事を作る。
誰かが部屋を整える。
それらを一つずつ意識してみると、この生活は驚くほど多くの人間に支えられている。
「ありがとう」
声を掛けると、ミレーヌはもう驚かなかった。
それでも口元には、ごく小さな笑みが浮かぶ。
「恐れ入ります」
俺が礼を言うことに彼女が慣れるのが先か、彼女が礼を言われて少し嬉しそうにすることに俺が慣れるのが先か。
そんなことを考えながら身支度を進めていると、ミレーヌが机へ目を向けた。
「昨夜は、お勉強をなさっていたのですか?」
「少しだけ、忘れたくないことを書いていましたの」
「お熱が下がったばかりですので、あまり夜更かしはなさらないでくださいませ」
「気をつけますわ」
言われて、少し可笑しくなる。
七歳の少女に生活習慣を心配される三十代会社員というのも、なかなか複雑な状況だ。
もっとも、今の見た目だけなら、世話を焼かれて当然の五歳児なのだが。
机の上には、昨夜使った練習帳が置かれている。
その間には、薔薇の棘を落とした件、何人かの教師が替わった件、北棟へ移された侍女見習いのこと、フィオルネ家のリュネアとの茶会、そしてナディアが王太子について語った内容を、できるだけ事実だけに絞って書き残してあった。
これは証拠ではない。
まして、誰かを告発するための記録でもない。
自分自身が後から都合よく記憶を作り替えないためのものだった。
一度「ナディアは怪しい」と思ってしまえば、彼女の行動すべてを疑いたくなる。その思い込みのまま証拠を探し始めれば、最初から自分が欲しい結論しか見えなくなるかもしれない。
それでは駄目だ。
俺が元のヴェルシアナと違う道を選ぶのなら、少なくとも人を嫌ったという理由だけで、その人間を悪者に仕立てるような真似だけはしたくなかった。
◇
朝食の席には、今日も父と母が揃っていた。
数日前までなら、この二人は「ゲームの悪役令嬢の両親」という曖昧な情報でしかなかった。
父のレオルディスは権力者で、原作では冷たい印象が強かった。母のセレフィアに至っては、存在こそ知っていても、どんな声で笑い、娘へどのように接していたのかなど、ほとんど記憶に残っていない。
けれど、実際に向かい合って食事をしてみれば、それだけではないことが少しずつ分かってくる。
父は口数が少ない代わりに、こちらが食事をきちんと取っているか何度も視線を向けてくる。
母はもっと分かりやすく、娘の変化を嬉しそうに眺め、ときどき父の無愛想さを面白がってからかう。
ゲームの画面では背景に押し込まれていた人間たちにも、こうして確かな生活があった。
「昨日は、フィオルネ家のご令嬢と楽しく過ごせたそうね」
セレフィアが紅茶を口元へ運びながら尋ねた。
「はい。リュネア様は、とても話しやすい方でしたわ」
「それはよかったわ。あの子は少し人見知りをするから、あなたと上手くお話しできるかフィオルネ夫人も心配していらしたのよ」
人見知りだけが理由ではなかったと思う。
少なくとも、昨日初めて会った時のリュネアは、明らかに以前のヴェルシアナを警戒していた。
ただ、それを今ここで母へ報告する必要はない。
「刺繍がお上手でした。今度、薔薇の作り方を教えてくださるそうですの」
「まあ、それは素敵ね」
セレフィアは何の引っかかりもなく喜んだ。
その反応を見て、俺は昨日から気になっていたことを試してみることにした。
「お母様は、わたくしがリュネア様から刺繍を教えていただいても構いませんの?」
「もちろんよ。どうして駄目だと思うの?」
本当に不思議そうな顔だった。
「昨日、ナディアから、わたくしには専門の先生がいるのだから、リュネア様から教えていただく必要はないと言われましたの」
事実だけを伝える。
ナディアがおかしいとは言わない。
俺がどう思ったかも付け加えない。
両親がどう受け取るのかを見たかった。
「まあ。そんなことを言ったの?」
セレフィアの眉が僅かに寄る。
「はい」
「ナディアらしいと言えば、らしいけれど……少し堅く考えすぎですわね。お友達同士で教え合うことまで止める必要はありませんのに」
悪意を疑っている様子はない。
教育熱心なナディアが少々行き過ぎただけだと思っているらしい。
父も同じように流すのかと思ったが、レオルディスは食事の手を止めた。
「それだけか?」
「え?」
「ナディアは、それ以外に何か言ったのか」
声は静かだったが、目だけがこちらを見ている。
「フィオルネ家とは家格が違うから、こちらからあまり近づきすぎる必要はないと仰っていました。それから、わたくしにはもっと相応しい方がいるとも」
「相応しい?」
母が聞き返す。
「王太子殿下ですわ」
その名前を口にした瞬間、それまで穏やかだった食卓の空気がわずかに変わった。
劇的な変化ではない。
ただ、母の目が明らかに見開かれ、父は驚くというより、何かを考えるように視線を落とした。
俺はその反応を見逃さなかった。
「ナディアが、そう言ったのか」
「はい。王太子殿下のお隣へ立つことが、わたくしには最も相応しいと」
「あなた」
セレフィアが夫を見る。
そこには先ほどまでの軽い調子がなかった。
「でも、あの話はまだ――」
そこまで言ったところで、母は自分の失言に気づいたらしい。
言葉を止める。
「あの話?」
尋ねると、今度は両親がほとんど同時にこちらを見た。
父はしばらく考えたあと、隠す必要はないと判断したのか、ゆっくり口を開いた。
「まだ正式に決まった話ではないが、王家から、お前と王太子殿下を将来的に婚約させてはどうかという打診が以前から出ている」
予想していたはずなのに。
実際に聞くと、胃の奥へ重いものが落ちた。
原作では、ヴェルシアナは王太子の婚約者だった。
当然、その関係が十五歳になって突然決まったはずはない。
幼い頃から婚約していた可能性は、考えれば分かることだった。
それでも、ゲーム本編の十年前である今この時点ですでに話が進んでいるとは思っていなかった。
「もう、決まっているの?」
「いや」
父は迷わず否定した。
「少なくとも、私はまだ正式な返事をしていない」
その言葉に、無意識のうちに入っていた力が少し抜ける。
「どうして?」
「お前がまだ幼いからだ。王家との婚姻がアルセリード家にとって重要な意味を持つことは否定しないが、五歳の娘へ今すぐ将来を決めさせる必要はないと考えている」
意外だった。
原作では、ヴェルシアナ自身が王太子との婚約を誇り、自分こそ将来の王妃になる人間だと当然のように振る舞っていた。
だから俺は、公爵家も積極的にその婚姻を望み、娘へそう教え込んだのだと勝手に想像していた。
けれど、父の考えは少し違うらしい。
「それなら、わたくしが嫌だと言ったら?」
昨日ナディアへ投げたのと、同じ問いを父へ向ける。
レオルディスは即答しなかった。
けれど、その沈黙はナディアの時とは違った。
答えを避けているというより、幼い娘へどこまで正確に説明するべきかを考えているように見えた。
「まず理由を聞くだろう」
やがて父は言った。
「王太子殿下を知らないうちから嫌だと言うのであれば、なぜそう考えるのかを確認する。家同士、そして王家との事情もある以上、お前の一言だけですべてを決めるとは約束できない」
現実的な答えだった。
むしろ、それでいい。
五歳児の「嫌だから嫌」で国同士に近い話が全部消えると言われた方が怖い。
「だが、お前の意思を無視して、勝手に婚姻を決めるつもりもない」
父は続けた。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった警戒が少しだけ緩んだ。
「本当に?」
「ああ」
「わたくしも同じですわ」
母が穏やかに微笑む。
「王太子殿下がどれほど素晴らしい方であったとしても、あなたが不幸になってしまえば意味がありませんもの。もちろん家の事情を完全に無視することはできませんけれど、あなた自身の気持ちを聞かずに決めるつもりはありませんわ」
昨日、ナディアは「皆が望んでいる」と言った。
父も母も、この婚姻を喜ぶはずだと語った。
けれど、本人たちに聞いてみれば、その言葉と事実は完全には一致していない。
王家との婚姻話が存在すること自体は本当だった。
ただし父も母も、まだ決めてはいなかった。
誰かから聞いた解釈を、そのまま本人の意思だと思い込まない。
たったそれだけのことで、見える景色がまるで違ってくる。
「ヴェルシアナ」
父の声に思考を戻される。
「なぜ、急に王太子殿下との婚姻を気にした?」
当然の疑問だった。
ここでナディアを告発するような言い方は避けたい。
「昨日、ナディアへ、王太子殿下と結婚したくないと言ったらどうなるのかを聞いてみましたの」
「何と答えた?」
「まだ殿下を知らないから、実際にお会いすれば分かると」
父の目がわずかに細くなる。
「それだけか?」
「はい。ただ、少し不思議に思ったのです」
「何がだ?」
「ナディアはいつも、わたくしの気持ちを一番に考えていると仰います。でも、わたくしが王太子殿下を選びたくないかもしれないと言った時だけ、その気持ちはまだ正しくないもののように扱われた気がしましたの」
母が黙った。
父も口を挟まない。
だから、俺はもう少しだけ続けた。
「わたくしは、王太子殿下が嫌いなわけではありません。まだお会いしたことすらありませんもの。ただ、好きになる前から、好きになることが正しいと言われるのは……少し変な気がいたしますわ」
言い終えてから、少しだけ心配になる。
五歳児としては、考えすぎているだろうか。
ただ、熱を出して死ぬかもしれないと思ったことで、今までとは違うことを考えるようになったという説明はすでにしている。
その延長で押し切るしかない。
父はしばらく何も言わず、やがて静かに頷いた。
「そうか」
「お父様?」
「お前がそう感じたことは覚えておこう」
それ以上は言わなかった。
けれど、表情は朝食を始めた時より少しだけ厳しくなっている。
ナディアを疑ったとまでは言えない。
それでも父の中に、小さな違和感を残すことはできたようだった。
◇
朝食の後は、エルダ夫人による礼法の稽古が待っていた。
今日も容赦はなかった。
「お嬢様、歩幅が少し広くなっております。昨日できていたことを、本日できなくしてはいけません」
「はい」
「右肩を下げないように。それから、足元へ視線を落としすぎです」
「分かりました」
最初の頃なら、これだけ細かく注意されれば嫌にもなったかもしれない。
実際、身体の動かし方を一つずつ意識しながら歩くだけでも、思っていた以上に疲れる。
それでも今は、この人の厳しさを不快だとは思わなかった。
昨日できなかったことができれば褒める。
間違えれば直す。
俺が公爵令嬢だからという理由で、失敗を失敗ではないことにしない。
むしろ、そういう人が身近にいることをありがたいと思い始めている。
「昨日より、立ち姿は安定してまいりました」
稽古の途中、エルダ夫人が不意に言った。
「本当ですの?」
「ええ。ただし、そこで気を抜けばすぐ戻ります」
「……ありがとうございます」
褒める時まで厳しい。
けれど、それが妙に嬉しい。
そこでふと思った。
こういう大人は、元のヴェルシアナのそばにもいたのだ。
エルダ夫人は、昨日今日突然現れたわけではない。
以前から彼女を教えていた。
つまり元のヴェルシアナには、正しいことを言ってくれる人間が一人もいなかったわけではない。
いたのに、その声が届かなかった。
その違いは大きい。
「エルダ夫人」
「何でしょう」
「以前のわたくしは、お稽古をよく嫌がっていたそうですね」
夫人の眉が僅かに動いた。
「どなたからお聞きになったのですか?」
「皆さんの反応を見ていますと、何となく分かりますわ」
半分は本当だ。
エルダ夫人は少し考えたあと、取り繕うことなく頷いた。
「そうでございますね。正直に申し上げれば、あまりお好きではありませんでした」
「わたくしが怒った時は、どうなさっていたの?」
「必要なことは必要だと申し上げておりました」
「それでも嫌がったら?」
「お稽古そのものが中止になったこともございます」
「ナディアが止めたの?」
名前を出した瞬間、エルダ夫人の視線が少し鋭くなった。
「なぜ、ナディア様のお名前を?」
「昨日、少しお話をしたからですわ。ナディアは、わたくしが嫌がることを無理に続ける必要はないという考えのようでしたので」
夫人はすぐには答えなかった。
同じ公爵家に出入りする人間のことを、主人の娘の前で悪く言うのは難しいのだろう。
「ナディア様は、お嬢様のお心を大切になさる方でございます」
選ばれたのは、かなり慎重な言葉だった。
「エルダ夫人は、わたくしの気持ちを大切にしてくださらないの?」
「もちろん大切にしております」
「でも、嫌だと言ってもお稽古を続けるのでしょう?」
「必要であれば」
迷いのない答えだった。
「何が違うのですか?」
尋ねると、エルダ夫人は姿勢を正し、こちらを真正面から見た。
「お嬢様がお嫌だと思われることと、お嬢様に必要のないことは、同じではないからでございます」
その答えは、思っていたよりも深く胸へ残った。
「幼い頃は、苦手な食べ物も、難しい勉強も、面倒に思う作法もあるでしょう。しかし嫌だからとすべてを遠ざけてしまえば、最後に残るのは、お嬢様がお好きなものだけになります」
「好きなものだけでは、駄目なの?」
「好きなものだけを与えてくれるほど、世の中はお嬢様に優しくはございません」
厳しい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「それに、お嬢様が将来多くの人の上に立たれるのであれば、聞きたくない言葉を聞く力も必要です。周囲の者が、お嬢様がお喜びになることしか口にしなくなった時こそ、最もお気をつけになるべきでしょう」
思わず息を止めた。
それは、今まさに俺が考えていたことだった。
「エルダ夫人」
「はい」
「わたくしの先生は、今まで何人くらい替わりましたの?」
夫人は少しだけ目を細めた。
「なぜ、そのようなことをお尋ねになるのですか?」
「昨日、お屋敷を見て回った時に、何人か替わったことがあると聞きました。熱を出す前のことを、少し整理しておきたいのです」
最近、この説明に頼りすぎている気もする。
そろそろ記憶の曖昧さを盾にするのは控えた方がいいだろう。
エルダ夫人はしばらく考えたあと、記憶を辿るように答えた。
「読み書き、歴史、音楽、それから礼法の補佐などを含めますと、この二年ほどで七名ほどでしょうか」
七人。
想像以上だった。
「皆、わたくしが嫌がったから?」
「いいえ。本当に教え方に問題があった者もおりましたし、ご家庭の事情で辞められた方もおります。ただ、少なくとも三名ほどは、お嬢様との関係を理由に外されております」
「最終的に決めたのは、お父様かお母様?」
「左様でございます」
そこは当然だろう。
「では、ナディアは?」
今度は、夫人の沈黙が少し長かった。
「ナディア様は、お嬢様の日々のご様子を旦那様と奥様へ報告する役目も担っておられます」
「教育だけではないの?」
「教育補佐というお立場ではございますが、お嬢様がお生まれになって間もない頃から長くお側におりますので、旦那様方からの信頼も厚い方です」
そこで、ようやく一つの構造が見えた。
ナディアは単なる教師ではない。
ヴェルシアナの日常を見て、その内容を両親へ届ける窓口でもある。
ならば、彼女が何をどう伝えるかによって、両親の判断が変わる可能性は十分にある。
「エルダ夫人は、ナディアのことをどう思っていますの?」
「お答えしづらい質問でございますね」
「そうですわよね」
ミレーヌですら答えることを怖がったのだ。
大人なら、なおさら立場がある。
それでもエルダ夫人は少し考えたあと、完全に避けることはしなかった。
「わたくしは、以前から少々厳しすぎると言われております」
「ナディアに?」
「はい」
「辞めるように言われたことは?」
「直接はございません」
直接は。
その言い方が気になった。
「では、間接的には?」
エルダ夫人は僅かに目を見開いた。
五歳児にしては踏み込みすぎたかもしれない。
しかし彼女は誤魔化さず答えてくれた。
「二度ほど旦那様から、お嬢様の負担にならない範囲で指導するように、と申しつけられたことがございます」
おそらく父には悪意などなかった。
娘が苦しんでいると報告されれば、少し加減してやってくれと言うのは、父親としてむしろ自然だろう。
問題は、その前にどんな報告が届いていたのかだ。
昨日の歴史教師と同じように、ヴェルシアナ本人の言葉より「厳しく当たられている」という部分だけが強調されていたのだとすれば、父はナディアが見せた情報の中から判断していただけなのかもしれない。
また一つ。
元のヴェルシアナが作られていった仕組みが見えた気がした。
「エルダ夫人」
「はい」
「これからも、わたくしが間違っていたら、きちんと教えてください」
夫人が少し目を見開いた。
「わたくしが怒ったとしても、です」
言いながら、自分でも少し怖くなる。
今の俺は、前世の記憶が鮮明だ。
けれど、これから十年生きる。
その間に、この世界の価値観へ慣れ、公爵令嬢として扱われることにも慣れ、今は嫌だと思っているものを当たり前だと感じるようになる可能性はある。
自分だけは絶対に変わらないなどと、自信満々に言えるほど俺は自分を信用していなかった。
「もし、わたくしが間違っているのに、怒るからという理由で誰も何も言わなくなったら、その方がきっと困りますもの」
エルダ夫人はしばらく俺を見つめたあと、静かに頭を下げた。
「承知いたしました。お嬢様がどれほどご不快になられたとしても、必要であると判断したことは申し上げましょう」
「……できれば、ほどほどにお願いしますわ」
俺がそう付け加えると、いつもほとんど表情を崩さない夫人の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「善処いたします」
その「善処」がまったく信用できない。
けれど。
それでいい。
俺に必要なのは、何をしても褒めてくれる人間ではない。
間違えた時に、間違っていると言ってくれる人だ。
◇
その日の夕方、ナディアはいつも通り俺の部屋を訪れた。
「本日もお稽古、お疲れ様でございました」
「ありがとうございます」
「エルダ夫人から、よく頑張っておられたと伺いましたわ。さすがお嬢様でございます」
「まだ、たくさん間違えましたけれど」
「お嬢様はまだ五歳でいらっしゃいますもの。その年齢であれほどできれば十分でございます」
以前なら、素直に気持ちよく聞けた言葉だったと思う。
今は少し違う。
褒められること自体が悪いわけではない。
ただ、彼女の言葉にはいつも、「できなかった部分を見なくてもいい」という方向へ俺を導く響きがある。
「でも、間違えたことは間違えたことですわ」
「もちろんでございます」
「ですから、エルダ夫人に直していただきました。ありがたいことですわね」
ナディアは微笑んだままだったが、その瞳に一瞬だけ何かが過った。
不満だったのか。
意外だったのか。
それとも、俺が考えすぎているだけなのか。
まだ判断はしない。
「ところで、お嬢様」
ナディアは自然に話題を変えた。
「王太子殿下のお話でございますが、本日、王宮より使者がお越しになっております」
心臓が僅かに強く鳴った。
「使者が?」
「はい。旦那様へ、王家から正式なお話があるようでございます」
昨日、父から聞いた非公式の打診。
おそらくそれが一段進んだ。
「そうですの」
なるべく表情へ出さないように答える。
エルダ夫人に教わっている礼法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「お嬢様、どうぞお喜びくださいませ」
「まだ内容を伺っておりませんのに?」
問い返すと、ナディアはほんのわずかに言葉を止めた。
「きっと、良いお知らせでございますから」
「良いかどうかは、お話を聞いてから決めますわ」
できるだけ穏やかに言う。
「そうでしょう?」
「……もちろんでございます」
笑顔は変わらなかった。
けれど、もう一つだけはっきりした。
ナディアは、俺と王太子が結びつくことを歓迎している。
単に高位貴族の令嬢として当然の未来だと思っているだけなのか、それともセレグラン家を含めた別の事情があるのかは分からない。
ただ、少なくとも彼女の中では、俺が自分で考えるより先に「喜ぶべき出来事」として答えが決まっている。
だからこそ、俺はその答えを借りない。
父が話を聞いてくれると言った以上、まずは自分で内容を聞く。
その上で考える。
今の俺にできるのは、それだけだった。
◇
夜になると、父から書斎へ来るよう呼ばれた。
レオルディスの書斎へ入るのは初めてだった。
壁一面に本棚が並び、重厚な机の上には書類が整然と積まれている。装飾は屋敷の他の部屋に比べれば控えめで、華やかさより実用を優先した空間に見えた。
そこには父と母だけでなく、見知らぬ男が一人座っていた。
四十代ほどだろうか。
深い紺色の衣服を纏い、胸元には王家の紋章が留められている。
「ヴェルシアナ、こちらへ」
父に呼ばれ、教わった通りに進んで礼をする。
「ごきげんよう」
男が穏やかに笑った。
「初めまして、ヴェルシアナ嬢。私は王室侍従長補佐を務めております、アルトリウス・ヴェルネンと申します」
名前は覚えておく。
ゲームでは聞いたことがない。
「初めまして。ヴェルシアナ・アルセリードですわ」
礼を返すと、アルトリウスは満足そうに頷いた。
「お噂以上に、利発なお嬢様でいらっしゃる」
褒められているはずなのに、最近の俺はこういう言葉を以前ほど素直に受け取れなくなっている。
それが良い変化なのか、疑い深くなっているだけなのかは、まだ分からない。
「本日は、公爵閣下へ先ほどお伝えした件について、お嬢様にもご挨拶をと思いまして参りました」
アルトリウスの言葉を受け、父が俺を見る。
「ヴェルシアナ。王家から、王太子殿下との婚約について正式な打診があった」
やはり来た。
ゲームの知識として知っていた未来が、目の前の大人の言葉として告げられると、重みがまるで違った。
原作では、ヴェルシアナは王太子の婚約者だった。
その立場に執着し、ヒロインを敵視し、最後にはその関係そのものが彼女を破滅へ近づけていく。
俺が最初に立てた生存計画だけを考えるなら、この場で断ってしまうのが一番簡単だ。
王太子との婚約がなければ、少なくとも原作最大級の破滅要因の一つを消せる。
だが、俺はその考えをすぐ口にはしなかった。
昨日、自分で決めると書いたばかりだ。
原作で危険だったからという理由だけで、事情も相手も知らずに拒絶するなら、それは結局、自分の目で何も見ずに人生を決めるという点では同じなのかもしれない。
「お返事は、もうなさったの?」
「まだだ」
父が答える。
「まず、お前に話すと王家へ伝えた」
その言葉に、アルトリウスの眉がほんの僅かに動いた。
この世界で、五歳の娘の意見を婚姻に反映させることがどの程度一般的なのか、俺にはまだ分からない。
少なくとも王家の使者には、少し意外だったらしい。
「王太子殿下は、このお話をご存じなの?」
俺が尋ねると、今度はアルトリウスが明確に驚いた。
「ええ。殿下もまだお若くいらっしゃいますので、婚姻が持つ意味をすべてご理解されているわけではございませんが、お話そのものはお聞きになっております」
「殿下は、何と仰っているの?」
「王家とアルセリード公爵家にとって良いことなのであれば、と」
その答えを聞いて、妙な感覚を覚えた。
それは、ほんの少し前までの俺が言いそうな答えでもあったからだ。
大人が良いと言うなら。
家のためになるなら。
自分にはまだよく分からないけれど、そういうものなのだろう。
王太子もまた、まだ子供なのだ。
原作では完成された攻略対象として登場する。
王太子としての責任感が強く、聡明で、悪役令嬢ヴェルシアナとは最終的に激しく対立する少年。
けれど今はまだ、彼もその人物になる十年前にいる。
それは考えてみれば当然のことだった。
元のヴェルシアナが十五歳の時点で突然「悪役令嬢」として生まれたわけではなかったように、王太子だって十五歳の攻略対象として突然完成するわけではない。
彼にも、この十年がある。
「お父様」
「何だ」
「このお話は、すぐに決めなければいけませんの?」
「いや。王家も、本日中に返事を求めているわけではない」
「でしたら」
一度、考える。
断る。
それが一番安全かもしれない。
けれど、本当にそれが俺自身の選択なのか。
俺はまだ王太子本人を一度も見ていない。
ゲームの中の十五歳の彼しか知らない。
それなのに、原作で自分を嫌う人間だからという理由で五歳の少年まで避けるのは、今のヴェルシアナをゲームの悪役令嬢と同じ人間だと決めつけるのと、何が違うのだろう。
「一度、王太子殿下にお会いしてから考えることはできませんか?」
部屋の中が静かになった。
母は驚いたあと、少しだけ嬉しそうな表情を浮かべ、父は俺の意図を測るようにこちらを見つめている。
アルトリウスも、五歳児からそんな提案が出るとは思っていなかったらしい。
「理由を聞いてもいいか?」
父が尋ねる。
「お会いしたこともない方と、将来結婚するかもしれないと言われても、わたくしにはまだ何も分かりませんもの」
これは本心だった。
前世では男だったから王子に恋愛感情を抱く理由がない、という最も大きな事情だけは説明できないけれど、それを抜きにしても、五歳児が会ったこともない相手との婚約へ即答できないのは自然だろう。
「殿下がどのような方なのか、自分でお会いしてから考えたいですわ」
父はしばらく俺の顔を見たあと、ゆっくり頷いた。
「もっともだ」
「公爵閣下」
アルトリウスが父へ視線を向ける。
「王家には、娘と殿下を一度顔合わせさせ、その後で改めて話をしたいと返答する」
「……承知いたしました。陛下にもそのようにお伝えいたします」
婚約を回避できたわけではない。
むしろ自分から、原作で最も避けたいと思っていた相手と会う選択をした。
数日前の俺なら、馬鹿なことをしていると思ったかもしれない。
けれど不思議と、後悔はなかった。
俺が避けたいのは王太子という人間そのものではない。
彼へ執着し、周囲を傷つけ、その末に自分まで破滅する未来だ。
ならば、相手がどんな人間なのかを知ることまで恐れる必要はない。
むしろ原作を知っているというだけで、この世界に生きている本人を最初から決めつけてしまう方が危険だろう。
「ヴェルシアナ?」
セレフィアの声に顔を上げる。
「どうしたの? 少し難しい顔をしていたわ」
「いいえ」
俺は少し考えてから笑った。
「王太子殿下にお会いするのが、少し楽しみになっただけですわ」
半分は嘘で、半分は本当だった。
怖くないと言えば嘘になる。
原作のヴェルシアナが最も強く執着した相手であり、その関係が彼女を破滅へ導く大きな要因になった人物なのだから。
けれど同時に、知りたいとも思う。
ゲームの物語が始まる十年前、まだ誰の攻略対象でもない幼い王太子は、どんな少年なのだろう。
そして元のヴェルシアナは、いつ、どのように彼を好きになり、その感情を「自分だけの正しい未来」へ変えていったのか。
もしその始まりが今から訪れるのだとしたら、これは俺にとって初めて立つ、本当の意味で大きな分岐点になる。
婚約はまだ決まっていない。
恋もまだ始まっていない。
原作であれほど固く見えた関係も、この時点では何一つ完成していない。
ならば、ここから先にある未来も、最初から一つしか存在しないわけではないはずだ。
俺はこの世界へ来た夜、処刑台へ送られないために原作をできるだけ避けようと決めた。
それは今も変わっていない。
ただ、数日間この世界で人と話し、元のヴェルシアナがどのように形作られていったのかを知り始めたことで、「避ける」という言葉の意味だけが少し変わっていた。
何も知らずに逃げることではない。
誰かが決めた正しさにも、原作という未来にも、自分の判断そのものを預けないこと。
まず見て、考えて、自分で選ぶ。
そして間違えたのなら、その時に直せばいい。
元のヴェルシアナが最後までできなかったことを、今の俺は一つずつやっていくしかない。
その最初の大きな相手が、どうやら王太子になるらしかった。




