第5話 正しさは、誰かに与えられるものではない
翌日から、俺は少しだけ周囲の見方を変えることにした。
何か特別なことを始めたわけではない。五歳の身体で誰かを尾行するつもりもなければ、夜中に書斎へ忍び込んで秘密の書簡を探すような真似をする気もない。そもそも、この屋敷の構造すらようやく覚え始めたばかりの人間が、いきなり大人たちの思惑を暴こうとする方が無謀だろう。
ただ、人が口にした言葉だけではなく、その人がなぜその言葉を選んだのかを考えるようにした。
前世でも、似たようなことはしていたと思う。
会社にいれば、同じ「大丈夫です」という言葉でも中身は違った。仕事を任せた先輩が余裕のある顔で言う「大丈夫」と、明らかに仕事を抱えすぎている後輩が笑いながら口にする「大丈夫」では、文字に起こせば同じでも意味はまるで違う。
だから俺は、言葉そのものより、その時の表情や立場、前後の行動を見る癖があった。
それを特別な才能だと思ったことはない。
けれど、今の俺には、その程度の癖でも十分役に立つらしい。
ナディアは、いつも優しい。
声を荒らげることもなければ、こちらを力ずくで従わせようとすることもない。何かを勧める時には柔らかく理由を説明し、最後には必ず「お嬢様がお望みになるのであれば」と選択を委ねる。
一見すれば、理想的な教育係にすら見える。
しかし何度かやり取りを重ねてみると、その言葉には奇妙な癖があった。
彼女は選ばせる前に、必ず「選びやすい道」を用意している。
その道を選べば褒められ、別の方へ進もうとすれば、相手を否定するのではなく「お嬢様にはまだ難しいかもしれません」「もっと相応しいものがございます」と、自然に元の道へ戻そうとする。
命令されている感覚がないからこそ、気づきにくい。
もし前世の記憶がなく、昨日までのヴェルシアナとしてそれを聞いていたなら、俺だって疑わなかったかもしれなかった。
「お嬢様。こちらの方がお似合いになると存じます」
午後の礼法の稽古を終えて自室へ戻ると、ナディアが二着のドレスを俺の前へ並べていた。
一着は淡い青色。
もう一着は、目を引く深紅。
今日は夕方から、母の知人であるフィオルネ伯爵夫人が、娘を連れて茶会へ訪れることになっているらしい。
公的な催しではない。
母親同士が親しく、その子供たちも顔を合わせる程度の、ごく私的な茶会だと聞いている。
「どちらでも構いませんけれど」
俺が答えると、ナディアは待っていたように深紅のドレスへ手を添えた。
「でしたら、こちらになさいませ。アルセリード家のお嬢様には、このくらい華やかなお色の方がお似合いですもの」
言われて、二着を見比べる。
確かに赤い方が豪華だ。
胸元や袖には細かな刺繍が施され、裾には何層もの布が重ねられている。五歳児が着る服にしては恐ろしく手が込んでいるが、公爵家ならこれが普通なのかもしれない。
「お客様のお嬢様は、おそらく淡い色のお召し物でいらっしゃるでしょうから、並ばれた時にもお嬢様の方がよく映えますわ」
「それは、何か大切なことなの?」
尋ねると、ナディアはほんの一瞬だけ俺の顔を見たあと、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろんでございます。高位の家にお生まれになった令嬢は、自然と周囲から注目されるお立場です。言葉になさらずとも、ご自分がどのような家の人間であるのかを示すことも、立派な社交の一つでございます」
服装も政治の一部。
それ自体は分からなくもない。
前世でも、場に合った服装というものはあった。高級店へジャージで入る人間がいれば目立つし、仕事の商談なら服装一つで相手へ与える印象は変わる。
この世界では、それがもっと露骨なのだろう。
「相手の方より、目立った方がいいの?」
「少なくとも、アルセリード家のお嬢様が見劣りするようなことは避けるべきでございます」
「お母様は、どちらを選ぶようにと?」
「奥様は、お嬢様のお好きな方をと仰っておりました」
「でしたら、青にしますわ」
答えた瞬間。
ナディアの指が、深紅のドレスの上で止まった。
「……青でございますか?」
「ええ。こちらの方が軽そうですもの。それに今日は、お母様のお知り合いとのお茶会なのでしょう?」
華やかな赤より、淡い青の方がどう見ても楽そうだった。
単純な理由だ。
「ですが、お嬢様。フィオルネ家は伯爵家でございます。アルセリード公爵家とは家格に差がございますので、ある程度は――」
「家格が違うと、わたくしはあちらのお嬢様より派手な服を着なければならないの?」
質問すると、ナディアが僅かに言葉を止めた。
ほんのわずかな間。
ここ数日で、何度も見た反応だった。
「必ずしもそういう意味ではございません。ただ、お嬢様にはお嬢様に相応しい威厳というものがございます」
「威厳は、服の色で見せるものなの?」
五歳児が尋ねてもおかしくないよう、なるべく純粋な疑問として口にする。
ナディアは少し考えたあと、困った子供を可愛がるような笑みを浮かべた。
「お嬢様には、まだ少し難しいお話かもしれませんね」
なるほど。
答えにくい時は、俺が幼いという話に戻すらしい。
「では、大きくなってから教えてくださいな。今日は青にいたしますわ」
「……かしこまりました」
笑顔は崩れない。
けれど、自分が勧めたものとは違う選択をされたことを、まったく気にしていないようにも見えなかった。
「ミレーヌ、お願いできます?」
「はい、お嬢様」
ドレスを受け取るため一歩前へ出たミレーヌと目が合う。
彼女の口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
何が嬉しいのかは分からない。
ただ、以前ならナディアの勧めにそのまま従っていた俺が、自分で選んだこと自体を喜んでいるようにも見えた。
◇
フィオルネ伯爵夫人が娘を連れて到着したのは、それから一時間ほど後のことだった。
母に呼ばれて客間へ入ると、まず目に入ったのは彼女の向かい側へ座っている小さな少女だった。
俺と同じくらいの年頃だろう。
蜂蜜を薄い光へ溶かしたような柔らかな金髪を肩口まで伸ばし、淡い藤色のドレスを纏っている。両手は膝の上できちんと揃えられていたが、指先だけが強く重なっており、緊張していることはすぐに分かった。
「ヴェルシアナ、こちらへいらっしゃい」
セレフィアに呼ばれ、俺は昨日から教わっている歩幅を意識しながら部屋へ進んだ。
背筋を伸ばし、足元ばかり見ない。
歩き方一つでこれほど頭を使う生活になるとは前世では想像もしなかったが、昨日よりは少し自然に身体が動く。
「こちらはフィオルネ伯爵夫人。それから、ご令嬢のリュネア様ですわ」
リュネア。
記憶の中を探してみるものの、やはりゲームには登場していなかったと思う。
「初めまして、ヴェルシアナ様」
少女が立ち上がり、丁寧に膝を折った。
綺麗な礼だった。
素人の俺でも分かるくらい、俺よりずっと上手い。
「初めまして。ヴェルシアナ・アルセリードですわ」
エルダ夫人から教えられたことを思い出しながら礼を返す。
膝の角度。
背中。
視線。
たぶん大丈夫。
少なくとも、あの細い指示棒で床を叩かれるほど酷くはないはずだ。
「まあ」
フィオルネ伯爵夫人が嬉しそうに微笑んだ。
「ヴェルシアナ様は、本当にお美しくなられて。以前お会いした時より、またお母様に似てこられましたわね」
「ありがとうございます」
そう返すと、横にいるセレフィアが明らかに嬉しそうな顔をした。
この人は本当に分かりやすい。
「リュネアも、本日を楽しみにしていたのですよ」
「お母様……」
名指しされたリュネアが恥ずかしそうに俯く。
「本当ですの?」
俺が尋ねると、少女は少し迷ってから顔を上げた。
「はい。あの……ヴェルシアナ様は、薔薇がお好きだと伺ったので」
薔薇。
昨日ミレーヌから聞いた話が頭を掠める。
元のヴェルシアナが庭師に怒り、庭の薔薇から棘が取り除かれた出来事。
ただ、今目の前にいるリュネアがそれを知っているとは限らない。
「それで……これを」
彼女が隣に置いていた小さな箱を、恐る恐る差し出した。
蓋を開ける。
中に入っていたのは、布で作られた薔薇の髪飾りだった。
淡い青の花弁へ、朝露のように細い銀糸が縫い込まれている。宝石をふんだんに使った高価な品ではないが、一枚一枚の花弁が丁寧に重ねられており、子供が作ったものとは思えないくらい綺麗だった。
「わたくしが作りました」
「リュネア様が?」
「はい。少しだけ、お母様にもお手伝いいただきましたけれど……」
言葉の端に、誇らしさと不安が同居している。
頑張って作った。
でも、公爵令嬢へ贈るには粗末なのではないか。
そんなことを考えているのかもしれない。
「とても綺麗ですわね」
素直にそう言うと、リュネアの目が大きくなった。
「……本当に?」
「ええ。花弁の色も綺麗ですし、銀の糸も素敵ですわ」
偶然にも、今日選んだ青いドレスによく合いそうだ。
セレフィアも同じことを思ったらしい。
「まあ、本当。今日のお召し物にぴったりですわね」
「そうですね」
何気なく部屋の後ろへ目を向けた時、ナディアが僅かに視線を動かした。
本当に小さな変化だった。
もし朝、彼女が勧めた深紅のドレスを着ていたなら、この髪飾りは少しだけ浮いていただろう。
もちろん、それだけで何かを疑うのは飛躍しすぎている。
ナディアが贈り物の色を事前に知っていた証拠などないし、そもそも深紅のドレスを選ばせようとした理由も、彼女なりの貴族社会の常識で説明できる。
だから、今は偶然でいい。
ただ、覚えておく。
「つけてもよろしい?」
俺が尋ねると、リュネアの緊張が一気にほどけた。
「はい!」
ミレーヌが髪飾りを受け取り、銀色の髪へ丁寧に留めてくれる。
鏡がないので自分では見えないが、母親と伯爵夫人の表情を見る限り、悪くないらしい。
「よく似合っているわ、ヴェルシアナ」
「ありがとうございます」
そしてリュネアへ向き直る。
「大切にしますわ」
少女の頬がぱっと明るくなった。
「はい!」
ただ贈り物を受け取り、礼を言った。
それだけの、ごく普通のやり取りだ。
それなのにリュネアがここまで安心した顔をするということは、彼女もまた俺――以前のヴェルシアナがどういう子供だったのかを知っているのかもしれなかった。
◇
大人たちが本格的に話を始めると、俺とリュネアは庭へ出ることになった。
もちろん完全な二人きりではなく、少し離れたところにミレーヌとフィオルネ家の侍女、それにナディアまで控えている。子供二人が庭を散歩するだけにしては大袈裟な人数だが、高位貴族の令嬢ともなればこれが普通なのだろう。
「ヴェルシアナ様は、普段は何をなさっているのですか?」
並んで歩きながら、リュネアが尋ねた。
「最近は礼法とお勉強ばかりですわ。まだ覚えることがたくさんありますの」
「すごいです」
「すごくありませんわ。むしろ今まできちんとやっていなかった分を、これから覚えなくてはいけないだけですもの」
「そうなのですか?」
少女が不思議そうに首を傾げる。
危ない。
以前の自分を知らない人間ならまだしも、過去に何度か会っているらしい相手へあまり変なことを言いすぎるのも不自然だ。
「もっと真面目に、という意味ですわ」
「なるほど」
素直に納得してくれた。
助かる。
「リュネア様は、何がお好きなの?」
「わたくしは刺繍が好きです」
「ああ。だから、あの髪飾りがお上手なのね」
「はい。お花なら、いくつか作れます。薔薇が一番好きですけれど、鈴蘭も――」
好きなものの話になった途端、先ほどまでの緊張が嘘のように言葉が増えた。
こういうところも普通の子供だ。
俺としても話しやすかった。
王太子でもなければ、攻略対象でもない。
原作のイベントへ繋がる危険人物でもない。
ただ同じくらいの年齢の少女。
それだけで、妙に気が楽だった。
「ヴェルシアナ様は、刺繍はなさらないのですか?」
「まだ、ほとんどやったことがありませんわ」
「でしたら、今度わたくしがお教えしましょうか?」
「本当に?」
「はい。薔薇でしたら――」
「リュネア様」
柔らかな声が、少女の言葉へ重なった。
ナディアだった。
「ヴェルシアナお嬢様には、すでに専門の教師がいらっしゃいますので」
「あ……」
リュネアの顔から、さっきまでの楽しそうな色が僅かに消えた。
「申し訳ございません」
「なぜ謝りますの?」
俺が尋ねると、リュネアは戸惑ったようにこちらを見る。
「その……余計なことを申し上げてしまったので」
「刺繍を教えてくださると言ってくださっただけでしょう?」
「それは……」
「お嬢様」
今度はナディアが俺へ向き直る。
「フィオルネ家のご令嬢へ、そのようなお手間を取らせるわけにはまいりません」
「でも、リュネア様は嫌ではありませんのよね?」
直接尋ねる。
リュネアはナディアと俺を交互に見たあと、控えめに頷いた。
「はい。わたくしは……むしろ、ご一緒にできたら嬉しいです」
「でしたら、今度お願いしたいですわ」
「はい!」
すぐに笑顔が戻った。
ナディアはそれ以上何も言わなかった。
ただ、そのやり取りを見ながら、俺の中には新しい疑問が残った。
教師についてならまだ分かる。
公爵令嬢には、公爵令嬢に相応しい技術を教える専門家が必要だという考え方なのかもしれない。
けれど、同年代の少女から趣味として刺繍を教わることまで止める必要があるだろうか。
問題は技術ではなく、俺が誰かから「教えてもらう側」に立つことなのか。
それとも、単純に他の子供と親しくなること自体を歓迎していないのか。
まだ分からない。
けれど昨日までより、少しだけ輪郭は濃くなった。
◇
庭の奥にある小さな噴水へ辿り着いた頃には、リュネアの緊張もかなり解けていた。
石造りの縁から細い水が流れ落ち、午後の日差しを受けた水面が細かな光を庭へ反射させている。
「きれい……」
リュネアが素直な感嘆を漏らした。
「ヴェルシアナ様のお家は、本当にすごいですね。わたくしのお家にも噴水はありますけれど、こんなに大きくありません」
「広すぎて、わたくしもまだ全部は分かりませんわ」
「え?」
驚いた顔をされ、少し笑う。
「昨日、屋敷を見て回った時にも、ミレーヌがいなければ迷っていたと思いますもの」
「ヴェルシアナ様でも迷うのですか?」
「もちろん。わたくしだって、一度見ただけで何でも覚えられるわけではありませんわ」
リュネアは一瞬呆けたあと、くすりと笑った。
その笑顔を見て。
ふと気づく。
最初に客間で会った時、彼女は明らかに俺を警戒していた。
今は随分と自然に話している。
「リュネア様」
「はい?」
「最初、緊張していらしたでしょう?」
聞いてから、もう少し遠回しに聞くべきだったかもしれないと思った。
けれど、リュネアは正直だった。
「……少しだけ」
「わたくしが怖かった?」
少女が答えに詰まる。
「怒りませんから、教えてくださる?」
それでも少し迷ったあと、彼女は小さく頷いた。
「少し……怖かったです」
「どうして?」
「以前、別のお茶会で、ヴェルシアナ様がお怒りになっているところを見たことがあって……」
なるほど。
やはり何かある。
「わたくしは、何をしたの?」
「ヴェルシアナ様がなさったのではなくて、別のご令嬢が……お菓子を先に取られたのです」
「それだけ?」
「はい」
頭が痛くなってきた。
正確には俺がやったことではないが、これからこの身体で生きていく以上、完全に他人事として扱うわけにもいかない。
「ヴェルシアナ様が、最初に選ぶつもりだったお菓子を取られたとお怒りになって、そのご令嬢が泣いてしまったのです」
「それで?」
「ナディア様が、ヴェルシアナ様を待たずにお菓子へ手を伸ばした方が悪いと仰っていました」
また、ナディアだった。
庭師の薔薇。
読み書きの教師。
昨日の歴史教師。
そして今度は、子供同士の茶会。
一つひとつは小さくても、同じ方向へ揃いすぎている。
「そのご令嬢は、その後どうなったの?」
「次のお茶会には、いらっしゃいませんでした。その次も……お見かけしていません」
俺は噴水の水面へ視線を落とした。
こうして少しずつ、周囲から人が消えていったのだろう。
元のヴェルシアナ自身は、誰かを永遠に追い払ったつもりなどなかったのかもしれない。
ただ腹を立てただけ。
不愉快だと口にしただけ。
けれど、公爵家の令嬢が怒れば周囲の大人が動く。
ナディアが「お嬢様は悪くない」と説明し、相手側の家も問題を避けるために距離を取る。
結果として、彼女の周囲には自分へ逆らわない人間だけが残っていく。
それは本人にとって快適だったかもしれない。
でも同時に。
恐ろしく孤独な環境でもある。
「……教えてくださって、ありがとう」
俺が言うと、リュネアが驚いたように目を丸くした。
「怒らないのですか?」
「どうして怒るの?」
「だって……ヴェルシアナ様の悪いお話をしてしまいました」
「悪いことをしたなら、悪い話になるのは仕方ありませんわ」
答えながら、朝食の席で父が言った言葉を思い出した。
間違えたなら直せばいい。
失敗したなら、次に同じことをしないよう覚えればいい。
「以前のわたくしが良くないことをしたのなら、今度は同じことをしなければいいのでしょう?」
リュネアは、しばらくこちらを見つめていた。
「……変わりましたね」
「そう?」
「はい。前より、ずっと話しやすいです」
その言葉を聞いた時、胸の奥がほんの少し温かくなった。
生存のため。
恨まれないため。
最初はそれだけだった。
けれど、こうして目の前の子供が安心したように笑っているのを見ると、自分が選び直したものに意味があったのだと思える。
「でしたら、よかったですわ」
自然に笑って答えた。
◇
茶会が終わり、フィオルネ伯爵夫人とリュネアを見送ったあと。
自室へ戻ると、ミレーヌが髪から青い薔薇の飾りを外してくれた。
「こちらは、どうなさいますか?」
「しまっておいてくださいな。できれば、傷まないように」
「かしこまりました」
「大切にしたいの」
そう付け加えると、ミレーヌは嬉しそうに微笑んだ。
「はい。きちんと保管いたします」
その時、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様。ナディアでございます」
「どうぞ」
入ってきたナディアは、今日も変わらず柔らかな笑顔を浮かべていた。
「本日はお疲れ様でございました。リュネア様とも、随分親しくなられたようでございますね」
「ええ。とても良い方でしたわ」
「そうでございますか」
言葉だけなら、何の問題もない。
けれど、その後に続くものがあるような気がして、俺は黙って待った。
予想通りだった。
「ただ、お嬢様。今後、あまりご自身からフィオルネ家のご令嬢へ近づきすぎる必要はないかと存じます」
「なぜ?」
「家格が違いますので」
今度は、随分はっきり言った。
「家格が違うと、仲良くしてはいけませんの?」
「いけないというわけではございません。ただ、アルセリード公爵家は王家に次ぐ名門でございます。どなたと親しくなさるかということも、時にはお嬢様ご自身の価値を周囲へ示すものになります」
「リュネア様と仲良くすると、わたくしの価値が下がるの?」
「そのように直接的な意味ではございません」
ナディアは少し困ったように笑う。
「ただ、お嬢様には、もっと相応しいお方がいらっしゃるということです」
「たとえば?」
尋ねた瞬間。
ナディアの表情が、僅かに明るくなったように見えた。
「王太子殿下などは、まさにそうでございましょう」
胸の内側が、ひやりと冷えた。
ついに出た。
この世界へ来てから、俺ができるだけ考えないようにしてきた人物。
原作においてヴェルシアナが最も執着し、そして破滅へ向かう最大の原因の一つとなった王太子。
「わたくし、まだ王太子殿下にはお会いしたことがないのでしょう?」
「ええ。ですが、いずれ必ずお会いになります」
「なぜ?」
「お嬢様ほどのお方であれば、王太子殿下のお隣へ立たれることが最も相応しいからでございます」
あまりにも自然な口調だった。
まるで、太陽が東から昇ることを説明するように。
そこに疑う余地などないという言い方だった。
俺は、すぐには返事をしなかった。
ゲームの中でヴェルシアナが王太子へ執着する姿を、ずっと恋愛感情の暴走だと思っていた。
もちろん、最終的には彼女自身が彼を好きになったのだろう。
けれど。
もし五歳の頃から、「あなたには王太子しか相応しくない」と言われ続けていたら。
王太子の隣こそ、自分が立つべき場所。
そこへ行くことこそ、正しい未来。
それが本人の意思より先に、周囲から与えられていたとしたら。
十五歳になってヒロインが現れた時、ヴェルシアナが感じたものは単なる嫉妬だけだったのだろうか。
好きな人を奪われる。
それだけではない。
幼い頃から「あなたのものだ」と教えられてきた未来そのものを、突然別の少女に奪われる。
もしそう感じたのなら。
あの異常なほどの執着にも、少し違う顔が見えてくる。
「ナディア」
「はい」
「王太子殿下と結婚することは、もう決まっているの?」
尋ねると、彼女は少しだけ驚いた。
「いいえ。まだ正式なお話ではございません」
「なら、決まってはいないのね」
「もちろんでございます。ただ、両家にとっても王国にとっても、大変良いお話になるでしょう」
「お父様もそう思っているの?」
「旦那様も、悪いお話とはお考えにならないはずです」
「お母様も?」
「奥様もきっと、お嬢様が最高のお立場へ進まれることをお喜びになります」
相変わらず、微妙に断言を避けている。
父と母が実際に何と言ったかではなく、「そう考えるはずだ」というナディアの解釈ばかりだ。
「でしたら」
一度、息を整える。
「わたくしが嫌だと言ったら?」
その問いだけは、ナディアもすぐには返せなかった。
「……お嬢様?」
「わたくしが王太子殿下と結婚したくないと言ったら、それでも殿下のお隣がわたくしに相応しいの?」
声を荒らげたわけではない。
責めてもいない。
ただ、聞いた。
だからこそ、ナディアが答えに迷ったことがよく分かった。
「お嬢様は、まだ王太子殿下をご存じではございません」
「ええ。それは分かっていますわ」
「実際にお会いになれば、きっとお考えも変わるかと」
「それは、わたくしが会ってから決めることではありませんの?」
数秒。
静かな時間が流れた。
ナディアはやがて、いつもの笑顔を浮かべる。
「いずれ、お嬢様にもお分かりになりますわ」
答えではなかった。
けれど。
その答えなかったという事実が、俺には十分だった。
ナディアは俺の気持ちを第一に考えているわけではない。
彼女の中には先に、「ヴェルシアナはこうあるべきだ」という完成図がある。
誰よりも高い位置に立ち。
格下の人間とは距離を置き。
間違いを指摘する者を遠ざけ。
そして最後には、王太子の隣へ立つ。
彼女は、その道こそがヴェルシアナにとって最善なのだと信じているのか、それとも別の目的があってそこへ誘導しているのか。
そこまでは、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
原作で見たヴェルシアナの王太子への執着は、十五歳になって初めて生まれたものではないのかもしれない。
恋を知るより前から、「王太子を選ぶのが正しい」という種が植えられていた。
そして何年もかけて水を与えられた末に、それが本人の願いなのか、周囲から与えられた願いなのかさえ区別できなくなっていたのだとしたら。
少しだけ。
ヴェルシアナという少女が、また違って見えた。
「分かりましたわ」
俺はそれ以上追及しなかった。
問い詰めるには、まだ早い。
自分が気づいたことをナディアへ知られる必要もない。
今はただ、覚えておけばいい。
俺が王太子について否定的な可能性を口にした時。
初めて彼女が、俺自身の意思をそのまま受け入れなかったということを。
◇
夜になり、屋敷全体が静けさに包まれた頃。
俺は自室の机へ向かっていた。
文字の練習用として渡された紙を一枚取り出し、今日までに知ったことを、できるだけ不自然に見えない形で記録していく。
もちろん、「ナディアが怪しい」などとそのまま書くほど馬鹿ではない。
もし誰かに見られれば、こちらが彼女を警戒していることをわざわざ教えることになる。
だから、記録するのは事実だけにした。
いつ。
誰が。
何をした。
その結果、何が変わった。
薔薇の棘が落とされたこと。
教師が何人か替わったこと。
侍女見習いが北棟へ移されたこと。
フィオルネ家のリュネアと会ったこと。
そして、ナディアが王太子こそ自分に相応しいと話したこと。
書き始めてみると、五歳の手では思った以上に時間がかかった。
頭の中では漢字で浮かぶのに、この世界の文字は当然別物で、まだ習ったばかりの文字を一つひとつ思い出しながら書かなければならない。
おかげで文章というより、子供の覚え書きに近いものになった。
むしろ、その方が都合はいい。
誰かに見られても、熱を出した後に自分の周囲へ興味を持った子供が、覚えたことを書き留めている程度にしか見えないだろう。
ペンを置いて、紙を眺める。
まだ何も解決していない。
ナディアの目的も分からない。
セレグラン男爵と会っていた理由も分からない。
両親が、王太子との婚姻について実際にどこまで考えているのかも知らない。
けれど、転生した初日に比べれば、少なくとも一つだけ考え方が変わっていた。
あの日の俺は、原作で危険だったものさえ避ければ生き残れると思っていた。
王太子へ近づかない。
ヒロインを虐めない。
使用人を敵に回さない。
危険なイベントを避ける。
それだけでいいと考えていた。
今は、それでは足りないことが分かる。
なぜヴェルシアナが王太子へ執着したのか。
なぜ人の忠告を聞けなくなったのか。
なぜ周囲から人が離れていったのか。
その原因が十五歳よりずっと前から積み重なっているのなら、俺が変えるべきなのも「結果」だけではない。
そこへ至るまでの選択そのものだ。
誰かから「あなたにはこれが相応しい」と言われた時、それをそのまま自分の願いだと思わない。
誰かから「あなたは悪くない」と言われた時、本当にそうなのか一度考える。
周囲が自分へ逆らわなくなった時、それを自分が正しい証拠だと勘違いしない。
そんなことは、前世ではわざわざ決意するほどのものでもなかった。
けれど、この家では違う。
俺には、人の意見を変えられる立場がある。
嫌だと言えば物が取り替えられ、人が動き、場合によっては誰かの仕事まで変わる。
だからこそ、自分で考えることを放棄した瞬間に、その力は簡単に誰かへ利用されるのだろう。
紙の端に、まだ不慣れなこの世界の文字で短い一文を書いた。
『自分で決める』
書いてみると、ひどく当たり前の言葉だった。
前世の俺なら、わざわざ紙へ残すことなどなかっただろう。
それでも今のヴェルシアナにとっては、たぶん大切なことだった。
王太子を好きになるかもしれない。
嫌いになるかもしれない。
将来、誰かと結婚するかもしれないし、一人で生きる道を選ぶかもしれない。
その時に何を選ぶとしても。
ナディアが言ったからでも。
公爵家に相応しいからでも。
原作でそうだったからでもなく。
自分で見て、自分で考えて、自分で選びたい。
それが間違いだったなら、その時に直せばいい。
父が朝食の席で言った通りに。
間違えることと、間違ったまま進み続けることは、きっと同じではない。
俺は乾き始めたインクをしばらく眺めたあと、紙を練習帳の間へそっと挟んだ。
悪役令嬢として死にたくない。
そのために始めたはずの生存計画だった。
けれど、今は少しだけ違う。
生き残った先で、自分がどんな人間になるのかまで、誰かに決められるつもりはなかった。
五歳のヴェルシアナには、まだ選べることなどそれほど多くない。
それでも十年後の自分を形作るものが、今日のような小さな選択の積み重ねなのだとしたら。
少なくとも、その一つ目くらいは。
自分の手で選んでみようと思った。




