第4話 優しい言葉ほど、疑ってかかれ
ミレーヌは、すぐには答えなかった。
胸元で組んだ小さな手へ視線を落とし、何かを言いかけては飲み込む。その横顔には、質問の意味が分からないという戸惑いではなく、どこまで口にしてよいのかを慎重に測っている者特有の迷いが浮かんでいた。
七歳の少女が、主人の教育を任されている大人について意見を求められているのだ。しかも相手は、その教育係から何年も教えを受けてきた公爵令嬢。たとえ思うところがあったとしても、簡単に口にできるはずがない。
「急がなくていいですわ」
俺がそう言うと、ミレーヌは少しだけ顔を上げた。
「あなたが思っていることを、そのまま聞きたいだけなの。わたくしが望みそうな答えを選ぶ必要はありませんわ」
「……わたくしが、思っていることを」
「ええ」
口にしてから、自分でも少し可笑しくなった。
昨日までのヴェルシアナなら、おそらくこんな問い方はしなかったのだろう。欲しい答えがあるなら、それを相手にも言わせる。自分の気分を害さない言葉だけを周囲へ求める。
それは、ナディアが俺へしていたことと似ている。
だからこそ今は、できるだけ逆を選びたかった。
ミレーヌはしばらく黙ったあと、ようやく意を決したように口を開いた。
「ナディア様は……とても、お嬢様を大切になさっております」
随分と慎重な入り方だった。
「そう」
「いつもお嬢様のことをお褒めになって、お嬢様がお嫌がりになることがあれば、すぐに止めるよう他の方へ仰います。それに、お嬢様がお怒りになると……」
そこで声が途切れる。
「怒ると?」
ミレーヌの指先が、きゅっと重なった。
「……お嬢様のお気持ちはもっともだと、仰います」
「毎回?」
「わたくしが知る限りでは、ほとんど」
なるほど。
昨日の出来事だけが特別だったわけではないらしい。
「何か、覚えていることはありますの?」
できるだけ誘導しないように尋ねると、ミレーヌは少し考え込んでから、ゆっくりと言葉を探した。
「以前、お嬢様がお庭で遊んでいらした時のことでございます。庭師の方が育てていた薔薇に触れようとなさったのですが、まだ枝に棘が残っておりましたので、庭師の方が危ないから近づかないようお願いしたことがございました」
「それで、わたくしが怒ったのね」
「……はい」
想像はつく。
四歳か五歳のヴェルシアナなら、「どうしてわたくしが触れてはいけませんの」とでも言って、止められたこと自体に腹を立てたのだろう。
「ナディアは、どうしたの?」
「庭師の方へ、お嬢様を不快にさせたことを謝るよう仰いました。そのあと、お嬢様が二度とお怪我をなさらないようにと……薔薇の棘も、その日のうちに全部落とされました」
思わず黙り込んだ。
庭師は、怪我をさせたわけではない。むしろ危ないから止めた。それなのに子供が怒った結果、庭師の側が謝り、庭の方が作り替えられた。
一つだけ見れば、本当に些細な出来事だ。
大きな怪我人が出たわけでもなく、誰かが職を失ったわけでもない。公爵家ほどの庭園なら、薔薇の棘を落とすこと自体も大した作業ではなかったのかもしれない。
けれど、幼いヴェルシアナがそこから何を学ぶかを考えると、話は変わる。
自分が嫌だと言えば、周囲の方が変わる。
自分が怒れば、その怒りには必ず正当な理由が与えられる。
そして、その正当化を大人が代わりにしてくれる。
「他にもありますの?」
俺が尋ねると、ミレーヌの表情がわずかに硬くなった。
「……ございます」
「聞かせて」
「お嬢様が以前、読み書きのお稽古を途中でお嫌になったことがありました。先生が、最後の一頁だけは終わらせましょうと仰ったのですが……」
そこでミレーヌは一度言葉を止める。
「その先生は、三日後からいらっしゃらなくなりました」
「辞めさせられたの?」
「わたくしには分かりません。ただ、その日の夜にナディア様が、お嬢様のお部屋で『あのようにお嬢様のお気持ちを理解できない者は、教師に相応しくありません』と仰っていたのは覚えております」
昨日の歴史教師と同じ構図だった。
「次にいらした先生は、お嬢様がお嫌がりになると、すぐお稽古を終わらせておりました」
これで少なくとも、ナディアが教師を替える話を持ち出したのは今回が初めてではないと分かった。
元のヴェルシアナは、嫌なことがあるたびに自分が変わるのではなく、周囲の方が取り替えられる環境で育っていたらしい。
もちろん、高位貴族の家なら教師を替えること自体は珍しくないのかもしれない。教え方が合わないこともあるし、子供との相性だってある。
問題なのは、そのたびに「お嬢様の側には何も問題がない」という説明が添えられていることだ。
そこまで考えた時、俺は別の疑問に気づいた。
「ナディアは、お父様やお母様にも同じように話していたの?」
「……おそらくは」
ミレーヌは自信がなさそうに答えた。
「わたくしは旦那様方がお話をなさる場所へ入れる立場ではございませんので、詳しくは分かりません。ただ、ナディア様はよく旦那様や奥様のお部屋へ報告へ行かれております」
昨日のことが頭を過った。
俺はナディアへ、教師を替える必要はないとはっきり伝えた。それなのに父親へは、「歴史教師がヴェルシアナへ厳しく当たった」という情報だけが届いていた。
単なる報告の行き違い。
そう考えることもできる。
けれど、こうして過去の話を並べると、少なくともナディアが自分の解釈を挟んだうえで情報を伝えている可能性は高そうだった。
「ミレーヌ」
「はい」
「ナディアのことが嫌いなの?」
あえて直接聞いた。
ミレーヌは驚いたように目を見開き、すぐに首を横へ振る。
「い、いえ。そのようなことは……!」
「では、怖い?」
今度は返事が遅れた。
ほんの一瞬ではあったが、答えを選んだその間の長さが、言葉以上に雄弁だった。
「……少しだけ」
やがて落ちた声は、消え入りそうなほど小さかった。
「どうして?」
「ナディア様は、お嬢様がお怒りになると、誰が原因だったのかを必ずお尋ねになるのです」
「誰が原因だったのか、を?」
「はい。それで、わたくしたちにも何があったのかを話すように仰います。もし何かを隠したら、それはお嬢様を欺いたことになる、と」
聞けば聞くほど、嫌な仕組みだった。
ヴェルシアナが怒る。
ナディアが原因を探す。
使用人たちは、誰が何をしたのかを報告する。
そして幼いヴェルシアナには、自分が腹を立てた責任を負う「誰か」が毎回提示される。
ただの子供の癇癪だったはずのものに、後から明確な加害者が作られていく。
それを何度も繰り返せば、怒りは自分の感情ではなく、「誰かが自分へ不当に何かをした結果」だと思うようになるだろう。
「昨日のカップも?」
俺が尋ねると、ミレーヌは少しだけ視線を下げた。
「……はい」
「もし、わたくしが昨日怒っていたら、あなたはどうなっていたと思いますの?」
その問いに、ミレーヌの顔色が僅かに変わった。
「分かりません」
答えは早かった。
たぶん、嘘だ。
「本当に?」
「…………」
栗色の瞳が揺れる。
追及しすぎるべきではないかと迷った頃、ミレーヌの方から小さく口を開いた。
「以前、別の侍女見習いの方が、お嬢様の髪飾りを落として壊してしまったことがございました」
「その方は?」
「北棟へ移されました。ご来客の少ない場所のお仕事になりまして、それからは、お嬢様のお側へ来ることはなくなりました」
解雇ではない。
追放でもない。
それでも、幼いヴェルシアナの怒り一つで、その人の仕事と生活が変わったことには違いない。
おそらく本人は、それを大事だとは思っていなかったのだろう。
気に入らないから遠ざける。
それを大人たちが実行してくれる。
そんなことが日常になれば、人を遠ざけることへの抵抗も徐々に薄くなっていく。
「……そういうことでしたのね」
思わず息を吐く。
考えれば考えるほど、根が深い。
ただし、一つだけまだ分からない。
ナディアは、何のためにそんなことをしているのか。
単純にヴェルシアナへ気に入られたいだけなら理解できる。高位貴族の令嬢へ取り入るため、耳障りのいい言葉ばかり与える教育係など、前世の感覚でも想像はつく。
けれど昨日、ナディアは俺の意志を無視してまで、歴史教師を替える方向へ父親へ話を持っていった。
機嫌取りだけが目的なら、俺が教師を残したいと言った時点でそれに合わせる方が自然だ。
それなのに、そうしなかった。
ということは。
ヴェルシアナが我儘でいること自体に、ナディア側の利点があるのかもしれない。
「ミレーヌ。今のお話を、誰かへしたことはありますの?」
「ございません」
「どうして?」
尋ねると、ミレーヌは少し戸惑ったような顔をした。
「……悪いことだと思っていなかったからです」
意外な答えだった。
俺が黙っていると、彼女は慌てて続ける。
「い、いえ、その……昨日までは、それが普通なのだと思っておりました。ナディア様はお嬢様をお守りしているのだと、ずっと思っていましたので」
言われてみれば当然だった。
俺は前世の価値観と比較できるから異常に見える。
しかし、この屋敷で育った七歳の少女にとっては、それが最初から日常だったのだ。
主人が怒る。
教育係が主人を庇う。
失敗した使用人が責任を取る。
誰も疑問を口にしない。
比較するものがなければ、それを変だと思う理由もない。
「でしたら、どうして今は気になったの?」
そう尋ねると、ミレーヌはしばらくこちらを見つめた。
「昨日……お嬢様が、わたくしの手を先に見てくださったからです」
その答えに、胸の奥へ小さな重みが落ちた。
「カップよりも、わたくしの怪我の方が大切だと仰ってくださいました。今までは、ナディア様から、お嬢様のお気持ちを一番に考えることが正しいのだと教えられていました。でも昨日は、お嬢様ご自身がわたくしのことを先に考えてくださったので……どちらが正しいのか、分からなくなったのです」
俺はすぐには答えなかった。
正解を教えることは簡単だ。
「人の方が大切に決まっている」と言えば済む。
けれど、それでは結局、ナディアが与えた正しさを俺の正しさへ置き換えるだけだ。
この子自身が考えることが大切なのではないかと、そう思った。
「ミレーヌは、どう思いますの?」
「わたくしが?」
「ええ。昨日あなたが怪我をした時、割れたカップとあなたの指と、どちらを先にした方がよかったと思う?」
ミレーヌはすぐには答えず、しばらく自分の右手を見つめていた。
やがて、まだ幼さの残る声で言う。
「……指だと思います」
「なぜ?」
「カップは、同じものを用意できるかもしれません。でも怪我は痛いですし……もしもっと深く切っていたら、大変だったと思います」
「なら、それがあなたの答えですわ」
「わたくしの……答え」
「ええ。少なくとも、わたくしが昨日そうしたのは、あなたの手の方が大切だと思ったからです。でも、あなたまで同じことを考えなければならないわけではありませんわ」
ミレーヌは俺の言葉を確かめるように何度か瞬きをしたあと、ほんの少しだけ笑った。
昨日まで、この少女は俺の前でほとんど笑わなかった。
こうして頬を緩めれば、何のことはない、ごく普通の七歳の女の子だった。
その当たり前のことをようやく見られた気がして、俺も少しだけ口元を緩めた。
◇
ミレーヌから話を聞いたからといって、すぐにナディアをどうこうするつもりはなかった。
七歳の少女が嘘をついていると思っているわけではない。
ただ、人間の記憶というものは、立っている場所によって見え方が変わる。まして俺は、この世界の常識や公爵家の慣習をほとんど知らない。自分の価値観だけで「ナディアは悪人だ」と決めつけ、父親へ訴えて権力で排除してしまえば、それは理由が違うだけで、元のヴェルシアナと大して変わらない。
気に入らない人間がいる。
だから、自分の立場を使って遠ざける。
そんなやり方を避けるために今まで考えてきたのだから、ここで同じことをするのは馬鹿げている。
必要なのは、もう少し確かな情報だった。
ナディアが日頃どのように動き、誰と話し、教育係としてどこまでの権限を持っているのか。さらに言えば、本当にヴェルシアナを我儘なまま育てることで、彼女自身に何か利点があるのか。
もっとも、五歳の身体でできることには限界がある。
屋敷の中を勝手に嗅ぎ回れば、すぐに誰かへ見つかる。帳簿や書簡を見せてほしいと頼んでも、なぜそんなものに興味を持つのかと怪しまれるだろう。
それなら、五歳児らしい理由で屋敷を歩けばいい。
午後の読み書きの授業が終わったあと、俺は母親のところへ向かった。
「屋敷を見て回りたい?」
セレフィアは、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「はい。昨日からお部屋とお稽古のお部屋しか見ておりませんので、せっかく元気になりましたし、少し歩いてみたいのです」
半分は本当だ。
この屋敷について何も知らないのは、今後生活する上でも不便すぎる。
「もちろん構いませんけれど……では、わたくしも一緒に参りましょうか?」
それは困る。
母親が隣にいれば、使用人たちが本音に近いことを口にする可能性はさらに下がるだろう。
「お母様は、お仕事がございますでしょう?」
「まあ」
「ミレーヌと一緒に参りますわ。お屋敷の中でしたら、迷ってもすぐ戻れますもの」
言ってから、少し理屈っぽすぎたかと心配した。
ところがセレフィアが反応したのは別の部分だった。
「ヴェルシアナが、ミレーヌと?」
「はい」
「……そう」
母親は、ふっと嬉しそうに笑った。
「仲良くなったのね」
「仲良く……ですか?」
「だって、あなたが自分から誰かと一緒に行きたいと言うなんて珍しいのですもの」
また一つ、元のヴェルシアナについて知らなかったことが増えた。
どうやら以前の彼女は、年の近い子供をわざわざ自分から誘うような性格ではなかったらしい。
「では、お願いしましょう。ただし、疲れたらすぐにお部屋へ戻るのですよ」
「ありがとうございます、お母様」
頭を下げると、セレフィアの表情がさらに柔らかくなる。
どうにもこの家では、普通に礼を言うだけで家族や使用人の反応が目に見えて変わる。
ゲームだったら好感度管理が簡単すぎる、と一瞬思った。
けれど、それは裏を返せば、今までのヴェルシアナがそれほど当たり前の言葉を口にしてこなかったということでもある。
そう考えると、あまり笑えなかった。
◇
ミレーヌに案内され、俺は午後の公爵邸を歩いた。
朝にも通った中央棟には家族の居室や食堂があり、東棟は主に来客を迎えるために使われる。北棟には使用人の居室や仕事場が多く、さらにその奥には厨房や洗濯場、物置、裏庭へ抜ける通路が続いていた。
前世では、一つの家を維持するためにこれほど多くの人間が働いている光景など見たことがない。
料理人が昼食後の片付けをし、侍女たちは大量の布を抱えて廊下を行き交い、裏庭では庭師たちが道具を整えている。少し離れた場所からは馬の鳴き声が聞こえ、別の廊下では書類を抱えた文官らしき男たちまで足早に歩いていた。
アルセリード公爵家というものは、一つの家庭というより、小さな組織に近いのかもしれない。
そして、その組織の人間たちは、俺の姿を見るたびに僅かに緊張した。
「おは……いえ、こんにちは、お嬢様」
「お加減はもうよろしいのでございますか?」
「ご苦労様です」
俺がそう返すと、今度は別の意味で驚かれる。
厨房にいた中年の女性など、俺が「いつもありがとうございます」と言った途端、手にしていた包丁を危うく落としかけたほどだった。
「お嬢様が、わたくしどもにそのようなお言葉を……」
「そんなに珍しい?」
反射的に聞き返すと、女性の顔がさっと青ざめた。
「い、いえ! 決してそのような意味ではございません!」
「あ……怒っているわけではありませんわ。ごめんなさい」
さらに謝ったことで、今度は完全に固まられた。
難しい。
評判を改善しようとしているだけなのに、普通の行動一つひとつが事件になる。
とはいえ、屋敷を歩き回る目的はそれだけではなかった。
俺は会話の流れを壊さない程度に、少しずつ質問を混ぜていった。
最近教師が替わったことはあるか。
ナディアは普段どこへ顔を出すのか。
自分が以前、この場所で何か問題を起こしたことはあるか。
いきなり事情聴取のようになれば警戒されるので、あくまで熱を出したあとに自分のことを知りたくなった子供として振る舞う。
返ってきた答えは、一つひとつだけならどれも決定打にはならなかった。
読み書きや礼法を担当する教師は、この半年ほどで二人替わっている。
厨房では、以前ヴェルシアナが一度嫌いだと言った食材が、その後ほとんど料理に使われなくなった。
庭では、ヴェルシアナが大型犬を怖がったことがあり、その犬を飼っていた庭師は、自分の実家へ預けることになった。
そして、そうした変更の多くにナディアが関わっていたらしい。
誰も彼女を悪く言わなかった。
むしろ皆、「お嬢様のために考えてくださった」「お嬢様がお困りにならないよう手配なさった」と説明した。
それが余計に気になった。
ナディアは、命令して人を従わせているわけではない。
常に「ヴェルシアナのため」という形を取っている。
そのため、周囲から見れば熱心な教育係でしかないし、両親にとっても娘を第一に考えてくれる信頼できる人物に映るだろう。
もし意図してやっているのなら、かなり上手い。
そして、もし意図していないのなら。
それはそれで、もっと厄介かもしれない。
◇
屋敷を一通り見て回ったあと、俺たちは庭の端に置かれた白い石造りのベンチで休憩することにした。
午後の陽射しは柔らかく、植え込みの間を抜けた風が、花の香りを薄く運んでくる。
「ミレーヌ」
「はい」
「わたくし、ずいぶん迷惑な子供だったのね」
そう言うと、隣に立っていた少女が明らかに困った。
「そのようなことは……」
「気を遣わなくてよろしいですわ。今日はそれを知るために見て回ったようなものですもの」
「ですが……」
「本当に?」
少し笑いながら尋ねると、ミレーヌは視線を泳がせた末に、観念したように小さく答えた。
「……少しだけ」
「少し?」
「…………もう少し、かもしれません」
「正直でよろしい」
思わず笑うと、ミレーヌも最初は戸惑いながら、それでも最後には小さく笑った。
こうして見ると、本当に普通の七歳だ。
昨日までは俺の前でいつ怒られるかと身体を強張らせていた少女が、今は少しだけ冗談めいた言葉を返してくる。
たった二日。
それだけで人間関係が劇的に変わったなどと思うつもりはない。
ただ、恐怖しかなかった場所に、ほんの少し別の感情が入り込んだのなら、それで十分だった。
その時だった。
何気なく庭の向こうへ目を向けた俺は、建物の脇を歩いている二人の人影に気づいた。
一人はすぐ分かった。
淡褐色の髪を綺麗に結い上げた女性。
ナディアだ。
その隣には、四十代ほどに見える男が歩いていた。
使用人ではない。
上質な外套の仕立てや胸元に留められた飾り、何より歩き方そのものに、身分の高い人間特有の慣れがある。王族ほどではないにせよ、少なくとも貴族階級に属する人物なのだろう。
それ自体は、何も不自然ではなかった。
ナディアが公爵家に仕える教育係なのだから、知人の貴族が訪ねてくることくらいある。
けれど、二人が向かっている先が気になった。
来客を迎えるための東棟ではない。
使用人の仕事場や居室が集まる北棟の方角だった。
さらに、たまたまそう見えただけかもしれないが、ナディアは何度か周囲を確かめるように視線を動かしている。
「ミレーヌ」
「はい?」
「あの方をご存じ?」
俺はあからさまに指を差さず、視線だけで男の方を示した。
ミレーヌもそちらを見る。
その瞬間、先ほどまで笑っていた表情が少しだけ固くなった。
「……セレグラン男爵様です」
「セレグラン?」
聞き覚えがあるのは当然だった。
ナディア・セレグラン。
「ナディアのご家族?」
「お兄様でございます。現在のセレグラン男爵家当主でいらっしゃいます」
兄。
それなら、妹を訪ねてきただけという説明は十分に成り立つ。
「よくこちらへ来る方なの?」
「……分かりません。少なくとも、わたくしはお屋敷でお見かけしたことがございません」
「そう」
俺はそれ以上尋ねず、もう一度二人の方へ目を向けた。
追いかけるつもりはなかった。
五歳児が大人二人を尾行したところで、隠れきれるとは思えない。仮に何か秘密の話をしていたとしても、こちらが見つかれば、その時点で警戒される。
何より今はまだ、二人が会っているだけだ。
兄妹なのだから、それ自体に罪などない。
けれど、覚えておく価値はある。
ナディアがヴェルシアナへ与えてきた言葉。
何人も入れ替わった教師。
使用人たちの配置変更。
父親へ伝えられた、少し形の違う報告。
そして今日初めて見た、セレグラン男爵という存在。
それらは今のところ、ただ机の上へ無造作に置かれた小さな欠片にすぎない。
無理に繋げれば、どんな形にでも見えるだろう。
だから、まだ答えを決めるつもりはない。
ただ一つだけ、昨日までとは違うことがある。
俺が知っていた『リュミエールの天秤』という物語は、ヒロインと攻略対象、その前に立ちはだかるヴェルシアナを中心に描かれていた。
けれど実際にこの世界で生きてみれば、画面の外側にも当然人間は存在する。
ゲームでは名前すら出なかったミレーヌにも人生があり、父と母には親としての感情があり、ナディアにもまた、俺の知らない家族や事情がある。
そして彼らの選択が積み重なった先に、ゲームで見た十五歳のヴェルシアナがいる。
そう考えると。
破滅というものも、学園へ入学した日に突然現れる大事件ではないのだろう。
きっと、人の人生がそうであるように、見過ごせるほど小さな出来事から始まっている。
教師が一人替わる。
使用人が一人遠ざけられる。
子供の失敗を誰かが代わりに正当化する。
そして本人は、それを少しずつ当たり前だと思うようになる。
そういうものが何年も積み重なった末に、十五歳のヴェルシアナは、自分の周囲から人がいなくなっていることにさえ気づけなくなったのかもしれない。
俺は遠ざかっていくナディアたちの姿を、追いかけることなく見送った。
まだ何も分からない。
それでいい。
昨日までのヴェルシアナなら、疑った瞬間に相手を責めたかもしれない。
だから俺は、今度は逆を選ぶ。
疑うなら確かめる。
腹が立っても、まず考える。
誰かが悪いと決める前に、自分が知らないことがないか探してみる。
処刑台へ行かないための生存戦略として始めたはずのそれは、気づけば少しずつ、ヴェルシアナ・アルセリードという人間の生き方そのものへ変わり始めていた。
まだ五歳。
ゲーム本編までは十年ある。
昨夜までは、その十年を「準備するには十分すぎる時間」だと思っていた。
けれど今は、少しだけ考えが変わっている。
原作の破滅を避けるために必要なのは、十五歳になってから上手く振る舞うことではない。
そこへ至るまでの一日一日を、原作とは違う形で積み重ねていくことなのだ。
そして、その最初の分かれ道は。
どうやら俺が思っていたよりも、ずっと早くから始まっているらしかった。




