第3話 悪役令嬢を育てたもの
翌朝、目を覚ました時に最初に感じたのは、自分が昨日より少しだけこの身体へ馴染んでしまっているという、何とも言い難い事実だった。
瞼を開けば、視界の上には相変わらず豪奢な天蓋が広がっている。枕元には銀色の髪が流れ、身体を起こせば視線は低く、布団の上へ置いた手も驚くほど小さい。それらはどれも昨日までの自分とはかけ離れているはずなのに、今日は目にした瞬間に息を呑むほどではなかった。
人間の適応力というものは、時として自分で自分を薄情に感じるくらい逞しいらしい。
昨日まで二十年以上を男として生きていたというのに、今では寝台の端へ腰を下ろす際、長い髪を身体の下へ敷かないよう無意識に肩の後ろへ払っている。
その動作を終えてから、自分が何をしたのかに気づいた。
「……順応するの、早すぎないか?」
思わず前世そのままの口調で呟いた直後、扉の向こうから控えめなノックが聞こえた。
「お嬢様。お目覚めでございますか?」
ミレーヌの声だ。
「あ、ええ。起きていますわ」
咄嗟に口調を切り替える。
昨日より少しだけ滑らかに出た「ですわ」に、なぜか小さな敗北感を覚えた。生き残るために必要だと自分で決めたことなのだから、上達するのは喜ぶべきなのだろうが、前世の自分が遠くから面白がっているような気がしてならない。
扉が開き、朝の光を背にしたミレーヌが入ってくる。
濃紺のワンピースに白いエプロンという姿は昨日と変わらない。ただ、こちらと目が合った瞬間に浮かんだ表情だけは、ほんの少し違っていた。
まだ緊張は残っている。
それでも、昨日まで感じていた露骨な怯えは幾分薄れていて、代わりに何かを確かめるような視線が向けられた。俺の顔を見て、それから小さく安堵するように息を吐いた様子からすると、昨日の出来事が夢ではなかったことを確かめているのかもしれない。
「おはようございます、ヴェルシアナお嬢様」
「おはよう、ミレーヌ」
名前を呼ぶと、少女の頬が僅かに緩んだ。
昨日、彼女がティーカップを割ったあと、手当てを終えて戻ってきたミレーヌに俺は何の罰も与えなかった。そもそも罰を与える理由などなかったのだが、彼女はその後も何度か不安そうにこちらの様子を窺っていたから、おそらく時間が経ってから叱責されることまで覚悟していたのだろう。
それが何も起きずに朝を迎えたことで、ようやく本当に許されたのだと理解したのかもしれない。
「指は、もう大丈夫?」
「え?」
「昨日、切ったでしょう」
そう尋ねると、ミレーヌは思い出したように右手を胸元まで持ち上げた。
「はい。もうほとんど痛みません。ほんの少し切っただけでございますので」
「そう。ならよかったですわ」
答えながら、その細い指へ視線を落とす。
昨日の出来事は小さい。
カップが一つ割れ、指先に浅い傷ができただけだ。
けれど、その時に聞いたナディアの言葉は、眠って一晩経った今でも妙に鮮明に残っていた。
『お嬢様は、何も間違えてなどおられませんから』
あれが一度だけなら、少々過保護な教育係というだけで済むのかもしれない。しかし、あの言い方には繰り返し使われてきた言葉特有の滑らかさがあった。
失敗してもあなたは悪くない。
間違っているのは周囲だ。
高貴な者は、下の者へ必要以上に頭を下げるべきではない。
もし幼いヴェルシアナがそれを何年も聞かされ続けていたのなら、十五歳になった彼女が自分の非を認められなくなっていたことにも、少しずつ説明がつき始める。
もっとも、今の段階でナディアだけを悪人と決めつけるのは早い。
前世の常識をそのままこの世界へ当てはめれば、こちらの方が見当違いになる可能性もある。俺はこの国の貴族社会について、ゲームで描写された断片しか知らない。高位貴族の子供に対する教育として、ある程度の特権意識を植えつけることが珍しくない可能性だってある。
だからこそ、まず知る必要がある。
この家がどんな価値観で動いているのか。
ヴェルシアナを取り巻く人間たちは、彼女へ何を教え、何を期待し、どこまで彼女の我儘を許してきたのか。
昨日までは画面の中で「性格の悪い悪役令嬢」としか見ていなかった少女の人生を理解するには、ゲームに登場したイベントだけを追っていても足りない。
「ミレーヌ」
「はい」
「お父様とお母様は、今朝はいらっしゃるの?」
何気なく尋ねたつもりだったが、ミレーヌは僅かに目を見開いた。
「旦那様と奥様でございますか?」
「ええ」
「本日は旦那様もお屋敷にいらっしゃいますので、朝食はご一緒になさる予定でございます。奥様も昨夜、そのように仰っておりました」
「……一緒に」
口にした瞬間、胸の内に別の種類の緊張が生まれた。
考えてみれば当然のことだった。
五歳の娘が高熱を出したのだから、親なら顔を見に来るだろう。むしろ、昨日すぐに会わなかった方が、体調を気遣って寝かせていたと考える方が自然だ。
問題は、俺にとってその両親が完全な他人だということだった。
昨日は「熱のせいで記憶が曖昧」という便利な理由で、周囲の人間を知らないことを何とか誤魔化した。しかし、実の親を目の前にしてまで同じように振る舞えば、さすがにただの寝ぼけでは済まないだろう。
俺は、ゲームを遊んでいた頃の記憶を慎重に辿った。
ヴェルシアナの家族について、何か詳しい描写はなかっただろうか。
アルセリード公爵家という名前そのものは、作中で何度も登場していた。王家に次ぐほどの権勢を持つ名門であり、ヴェルシアナの高い身分と影響力を説明する上では欠かせない存在だったからだ。
父親であるアルセリード公爵についても、断片的な情報なら覚えている。
王国政治の中枢に立つ人物で、他の有力貴族からも一目置かれる存在。ゲーム本編では感情を表に出す場面が少なく、娘が問題を起こした時にも淡々と事態を収拾していた。
そのせいか、俺の中には「厳格で冷たい父親」という印象が残っている。
母親については、それ以上に記憶が薄い。
社交界でも名を知られた貴婦人で、ヴェルシアナの美貌は母親譲りだという設定がどこかにあった気はする。しかし、どんな性格で、娘へどんな言葉を掛ける人だったのかまでは思い出せなかった。
考えてみれば、それも当然なのかもしれない。
『リュミエールの天秤』の中で、アルセリード公爵夫妻はヴェルシアナの「両親」である以前に、悪役令嬢という立場を成立させるための背景として扱われていた。
娘が問題を起こせば、公爵が王家へ謝罪する。
婚約が破談になれば、アルセリード家の派閥や政治的影響力が揺れる。
ヴェルシアナが処罰されれば、その余波として公爵家の没落が語られる。
けれど、父親が普段どんな声で娘の名前を呼んでいたのか、母親がどんな表情で笑い、三人が食卓を囲む時には何を話していたのか。
そんな日常は、少なくとも俺の覚えている限り、ほとんど描かれていない。
ゲームでは必要のなかった部分だ。
けれど今の俺にとっては、むしろそこにこそ重要なものがある。
昨日出会ったミレーヌもそうだった。
ゲームの中では名前すら知らなかった七歳の少女が、この世界では父親を亡くし、家の事情を背負いながら、それでも一人の人間としてここまで生きてきた。
なら、両親だって同じだ。
俺が知らないだけで、十五歳のヴェルシアナに至るまでの十年間には、この家族と過ごした無数の日々があったはずだ。
その中に、彼女がああなった理由があるかもしれない。
そして、もしそうなら。
これから会う二人は単なる「悪役令嬢の両親」ではない。
俺が生き残るためにも、ヴェルシアナという少女を知るためにも、避けて通れない相手になる。
「お嬢様?」
考え込んでいたせいだろう。
ミレーヌが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……何でもありませんわ。少し考え事をしていただけです」
そう答えながら、小さく息を整えた。
逃げても仕方がない。
むしろ今のうちに会っておいた方がいい。
この家がヴェルシアナをどのように育て、彼女へ何を与え、その一方で何を教え損ねてきたのか。
その答えの一部が、これから向かう食卓に座っているはずだった。
◇
食堂へ向かう途中、俺は初めてアルセリード公爵邸という場所をまともに観察した。
昨日は自室と稽古部屋を行き来するだけで精一杯だったが、改めて歩いてみると、この屋敷の規模は前世の感覚ではなかなか理解し難い。
廊下だけでも、以前暮らしていた部屋ならいくつ並べられるか分からないほど長い。磨き上げられた床には背の高い窓から差し込んだ朝日が帯のように伸び、壁には歴代の当主らしき人物の肖像画や、王国の風景を描いた油彩画が等間隔で掛けられている。
柱には細かな彫刻が施され、窓辺には季節の花が飾られ、ただ歩くだけの場所にさえ途方もない金と人の手が費やされていることが分かった。
そして、何より気になったのは使用人たちだった。
すれ違うたびに足を止め、こちらへ向かって深く頭を下げる。
「おはようございます、お嬢様」
「お加減はいかがでございますか」
昨日までなら、その光景を単純に「公爵令嬢だから」と受け止めていたかもしれない。
しかし今は、少し違って見える。
俺は五歳だ。
前世なら、幼稚園か保育園へ通っていてもおかしくない年齢である。
その五歳児が廊下を歩くだけで、大人が道を譲り、頭を下げる。
何かを欲しいと言えば用意され、誰かを嫌いと言えば、その言葉だけで相手の立場が危うくなることさえある。
これが生まれた時から当たり前だったとしたら。
自分が世界の中心にいると勘違いしない方が、むしろ難しいのではないか。
もちろん、だからといって元のヴェルシアナの我儘が正当化されるわけではない。
ただ、彼女一人の性格だけを理由にしてしまえば見えなくなるものが、この屋敷にはいくらでも転がっている気がした。
昨日、俺は「ヴェルシアナが我儘だったから使用人たちが怯えている」と考えた。
それは間違いではないだろう。
けれど同時に、この家そのものが、生まれた瞬間から彼女を普通の子供ではいられない場所へ置いていたのかもしれない。
「お嬢様」
前を歩いていたミレーヌが立ち止まった。
目の前には、これまで見た扉より一回り大きな両開きの扉がある。
「こちらでございます」
「ええ」
返事をしながら、無意識に背筋を整えた。
昨日の礼法の稽古が、早くも役に立っている。
扉が左右へ開かれる。
その向こうには広い食堂があり、朝の光を受けた長いテーブルの奥に、一組の男女が座っていた。
そして俺が部屋へ入った瞬間、男の方が真っ先に立ち上がった。
「ヴェルシアナ」
低く、よく通る声。
その顔を見た瞬間、ゲームの設定画が記憶の奥から浮かび上がってきた。
レオルディス・アルセリード。
アルセリード公爵家当主。
黒に近い銀灰色の髪を短く整え、娘と同じ紅紫の瞳を持つ長身の男だった。
ゲームで見た立ち絵では、もっと冷たく、近寄り難い印象だったと思う。
けれど実際に目の前にいる父親は、眉間へ皺を寄せたままこちらの顔色を確かめていて、そこに浮かんでいるものが不機嫌さではなく心配なのだとすぐに分かった。
「もう起きて大丈夫なのか」
「はい。熱も下がりましたので」
答える声が、少し硬くなる。
当然だ。
相手にとって俺は娘だが、俺にとっては今日初めて会う人間なのだから。
レオルディスは数秒こちらを見つめ、それから張り詰めていた肩を僅かに落とした。
「そうか。それならいい」
短い言葉だったが、安堵が滲んでいた。
その横から、今度は女性が立ち上がる。
「ヴェルシアナ」
淡い金銀色の髪。
青紫の瞳。
年齢は三十代半ばほどに見え、ヴェルシアナの整った顔立ちはこの人から受け継いだのだろうと、一目見ただけでも分かった。
セレフィア・アルセリード。
母親だ。
彼女は俺のところまで歩いてくると、その場で膝を折った。
何を言われるのだろうと思った次の瞬間。
身体が柔らかな腕に包まれた。
「…………っ」
反応が遅れた。
甘い花の香り。
頬へ触れる髪。
背中へ回された腕の温度。
「本当に……心配しましたのよ」
耳元で聞こえた声は、少し掠れていた。
「夜中にまたお熱が上がったと聞いて、わたくし、もしこのまま下がらなかったらどうしようかと……」
「セレフィア」
父親が声を掛ける。
「まだ病み上がりだ。あまり強く抱くな」
「あ……そうでしたわね」
母は慌てて腕を緩めた。
「ごめんなさい、ヴェルシアナ。苦しくありませんでした?」
「……大丈夫です」
そう答えながら、何とも奇妙な感覚に襲われた。
俺には前世の両親がいる。
顔も覚えている。
声も、家の中で交わした会話も、何気ない癖も記憶に残っている。
目の前にいる二人は、その人たちとは全く違う。
それでも、この身体にとっては間違いなく父親と母親であり、二人がヴェルシアナを心配していたことも演技には見えなかった。
少なくとも。
この二人は娘を愛している。
ゲームをしていた頃の俺は、そんな当たり前のことすら考えたことがなかった。
「さあ、座りましょう」
セレフィアに促されて席へ着く。
俺の椅子は二人の間に用意されていた。
公爵家の食事なのだから、もっと冷えた儀礼的な空気を想像していたが、目の前の食卓は思ったよりずっと家族らしかった。
◇
「無理をして稽古を受けたそうだな」
朝食が始まってしばらくした頃、レオルディスが口を開いた。
「エルダから聞いた。体調は本当に問題ないのか」
「はい。もう大丈夫ですわ」
「そうか」
父親はそれだけ言うと、スープへ視線を戻した。
会話が終わった。
あまりにもあっさりしていて、思わず横顔を見る。
口数が少ない。
おそらく、ゲームで冷たい父親に見えた理由の一つはこれだ。
ただし、よく見るとこちらを気にしていないわけではない。
俺が食事へ手を伸ばすたび、さりげなく顔色を確認しているし、少し咳払いをしただけでも視線が飛んでくる。
「あなた」
セレフィアが呆れたように夫を見た。
「もう少し何かありませんの?」
「何がだ」
「ヴェルシアナが、自分から礼法のお稽古を受けたのですよ」
「良いことだと思っている」
「それだけ?」
「……他に何と言えばいい」
レオルディスが本気で困ったような顔をする。
少し面白い。
冷徹な公爵という設定しか知らなかったが、少なくとも家の中では、単純に娘との接し方が上手くない父親らしい。
「お父様」
「何だ」
「昨日は、ご心配をおかけしたと伺いました」
そう言うと、父親の手が止まった。
「その……ありがとうございました」
俺にとっては、普通の礼だった。
けれど。
目の前の二人は、ほとんど同時に動きを止めた。
セレフィアがゆっくりと夫へ顔を向ける。
「あなた」
「何だ」
「今、聞きまして?」
「聞いた」
「ヴェルシアナが、わたくしたちにお礼を……」
「聞いたと言っている」
平静を装っているが、レオルディスの耳が僅かに赤い。
「親として当然のことをしただけだ。礼など必要ない」
そう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
なるほど。
どうやら元のヴェルシアナは、両親へもあまり感謝を伝える子ではなかったらしい。
「ヴェルシアナ」
今度はセレフィアが身を乗り出した。
「お熱を出してから、何かございました?」
「何か、と申しますと?」
「その……急に、とてもお姉様になったような気がして」
まずい。
やはり家族には分かる。
ミレーヌや使用人たちなら、多少の変化を「熱で気分が変わった」と誤魔化せても、五年間育ててきた親が相手となればそう簡単ではない。
俺はできるだけ不自然にならないよう、言葉を選んだ。
「昨日、少し怖かったのです」
嘘ではない。
死んだこと。
知らない世界で目を覚ましたこと。
十五歳になれば処刑される可能性があると知っていること。
恐怖なら、いくらでもある。
「熱が高くて、ずっと眠っていたので……もしこのまま、起きられなかったらどうしようと思いました」
セレフィアの表情から、疑問が消える。
「それで、今まであまりきちんとしていなかったから、これからはちゃんとしたいと思ったのです」
五歳児の言葉として、どこまで自然かは分からない。
けれど、少なくとも成人男性の理屈をそのまま口にするよりはましだろう。
母親の顔が柔らかくなる。
「まあ……そんなことを考えていたのね」
伸ばされた手が、俺の小さな手を包み込んだ。
「まだ五歳なのですから、そんなに急いで大人にならなくてもよろしいのよ。失敗したって、わたくしたちが何とかして差し上げますもの」
優しい言葉だった。
何の悪意もない。
だからこそ。
昨日のナディアとの違いを、すぐには言葉にできなかった。
「何とか……?」
「ええ。あなたはアルセリード家の娘ですもの」
セレフィアは微笑む。
「多少の失敗くらい、家族が守って差し上げます」
母親は、娘を甘やかそうとしているわけではないのだろう。
少なくとも本人には、そんな意識はない。
ただ、娘が傷つかないように守りたい。
親として。
それだけなのだと思う。
問題は。
この家には、その言葉を本当に実現できてしまうだけの力があることだった。
◇
食事を続けながら、俺は昨日までより少しだけ、この家の構造を理解し始めていた。
ナディア一人が、ヴェルシアナを悪役令嬢へ変えたわけではないのだろう。
おそらく、それでは単純すぎる。
母親は娘を愛している。
だから、傷つけば守ろうとする。
失敗すれば助けようとする。
子供が泣けば、その原因を取り除いてやりたいと思う。
父親も同じだ。
口数は少なく、感情表現も不得意に見えるが、娘を大切にしていることは短い時間でも分かった。
しかも彼は公爵である。
王国でも指折りの権力を持っている。
普通の家庭なら、子供が「嫌だ」と言ったところでどうにもならないことでも、この家なら本当に変えられてしまう。
教師が気に入らなければ替えられる。
使用人と問題を起こせば、配置を変えることができる。
社交界で失敗しても、公爵家の名前がある程度までは守ってくれる。
そこへナディアのような人間が「お嬢様は何も悪くありません」と言葉を添え続けたなら、幼い少女は何を学ぶのだろう。
失敗しても誰かが何とかしてくれる。
自分の望みが叶わない時は、周囲の方が間違っている。
怒れば相手が折れる。
それを何年も繰り返せば、やがて本人の中では特別なことではなくなり、世界とはそういうものなのだという常識へ変わっていく。
悪役令嬢というものは、一人の悪意だけで作られるわけではないのかもしれない。
愛情も。
善意も。
権力も。
そして、それらへ都合よく寄り添う誰かの言葉も。
一つひとつは毒に見えないものが重なり合い、気づいた時には本人すら自分がどこで道を間違えたのか分からなくなる。
「お父様」
俺はスプーンを置いた。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
「構わない」
「もし、わたくしが悪いことをしたら……お父様は、怒りますか?」
二人の視線がこちらへ向く。
レオルディスはすぐには答えなかった。
なぜそんなことを聞くのかと問うように、しばらく俺の顔を見る。
「なぜ、急にそんなことを聞く」
「少し、気になっただけですわ」
父親はさらに数秒考えたあと、静かに口を開いた。
「悪いことをしたなら、当然叱る」
短い答えだったが、迷いはなかった。
「お前がアルセリード家の娘だからといって、何をしても許されるわけではない」
セレフィアが少し心配そうに夫へ視線を送る。
それでも父親は続けた。
「だが、間違えることそのものを恐れる必要はない。間違えたなら直せばいいし、失敗したなら、次に同じ失敗をしないよう覚えればいい。それで済む話なら、それ以上自分を責める必要もない」
俺は、思わず父親の顔を見た。
意外だった。
ゲームの印象では、娘の失敗を冷たく裁く父親だと思っていた。
けれど、目の前の人は少なくとも、失敗すること自体を否定してはいない。
「そうですか」
「ああ」
「でしたら、安心しました」
「何がだ?」
「間違えても直せるのなら、わたくしもまだ間に合うと思いますから」
言った直後。
少し踏み込みすぎたかと思った。
もちろん、俺が頭の中で考えているのは処刑台へ向かう未来についてだ。
そんなことを口にできるわけはない。
だが両親には、熱を出して心境が変わった五歳児の言葉程度に聞こえたらしい。
セレフィアはしばらく呆然としてから、両手を口元へ当てた。
「……あなた」
「今度は何だ」
「聞きまして?」
「朝からそればかりだな」
「だって、ヴェルシアナがこんな……なんて良い子になって……」
「大袈裟だ」
そう言いながら、父親も口元が少し緩んでいる。
「お母様?」
「何でもありませんのよ」
セレフィアは目元を押さえながら笑った。
俺としては、この家の教育方針を確かめようと思ってした質問だった。
それが、いつの間にか娘の成長に感動する両親という、想定外の家族団欒へ変換されている。
まあ。
悪いことではないのだろう。
少なくとも、家族関係まで最初から完全に壊れているわけではないと分かっただけでも、大きな収穫だった。
◇
朝食を終えた後。
レオルディスは王宮へ向かう準備があると言って席を立った。
そのまま食堂を出ていくのかと思ったが、扉の前で足を止める。
「ヴェルシアナ」
「はい」
「エルダの稽古を真面目に受けることは良い。だが、無理はするな。お前はまだ五歳だ」
「分かりました」
「それから、教師が厳しすぎると感じたなら、私か母へ言いなさい」
その言葉を聞いた瞬間。
昨日の出来事が頭を過った。
「厳しすぎる……?」
「ああ。ナディアから、歴史教師がお前へ必要以上に厳しく接したと聞いた」
やはり。
「先生を替えるお話も?」
「望むならば、そうしてもいいと聞いている」
昨日。
俺はナディアへはっきり言った。
家庭教師を替える必要はない、と。
それなのに。
その部分だけが父親へ伝わっていない。
偶然かもしれない。
単にナディアが「念のため」と考えて報告しただけの可能性もある。
しかし、昨日から積み重なっている違和感の上へ置くには、少し形が良すぎた。
「お父様。先生は替えないでください」
レオルディスが僅かに眉を上げた。
「よいのか?」
「はい。昨日間違えたのは、わたくしです。先生は正しい答えを教えてくださっただけですから」
父親はしばらく俺を見つめたあと、ゆっくり頷いた。
「分かった。お前がそう考えているなら、今まで通り任せよう」
「ありがとうございます」
今度こそレオルディスが食堂を出ていく。
その背中を見送りながら、俺は静かに考えた。
父親は娘の意思を尊重してくれる。
少なくとも今のやり取りを見る限り、それは確かだ。
それ自体は悪いことではない。
むしろ、子供の意見を頭から否定しないという点では立派な父親なのかもしれない。
ただし。
五歳の子供が間違った望みを口にした時。
周囲の誰も、それを間違いだと言わなかったらどうなる?
母親は娘を守ろうとする。
父親は娘の意思を尊重する。
家には、大抵の問題を解決できる権力がある。
その環境の中で。
ナディアが、幼いヴェルシアナの希望を少しずつ特定の方向へ誘導していたとしたら。
十五歳の彼女が出来上がるまでの道筋が、昨日よりも少しだけ具体的に見えてきた。
けれど。
まだ断定はしない。
証拠もない。
ナディアが何の目的でそうしているのかも分からない。
そもそも、俺自身がこの世界の常識を知らなさすぎる。
だから今必要なのは、敵だと決めつけて噛みつくことではない。
観察すること。
知ること。
そして、本人以外からも話を聞くこと。
「お嬢様?」
背後からミレーヌの声がした。
振り返ると、少女が不思議そうにこちらを見ている。
「どうかなさいました?」
「少し考え事をしていただけですわ」
「そうでございましたか」
ミレーヌは頭を下げる。
俺は、その顔をしばらく眺めた。
昨日。
ナディアが彼女へ視線を向けた瞬間。
ミレーヌは、明らかに怯えていた。
なら。
まずはそこから聞いてみればいい。
「ミレーヌ」
「はい」
「一つ、聞いてもよろしい?」
「もちろんでございます」
俺はすぐには本題を口にせず、彼女の表情を見ながら尋ねた。
「あなたは……ナディアのことを、どう思っていますの?」
その瞬間。
ミレーヌの表情が固まった。
笑うでもなく。
困るでもなく。
質問の意味を理解した途端、自分の感情を隠さなければならないと気づいたような顔だった。
返事をするまでに、ほんの数秒。
けれど、その沈黙は言葉よりも多くのことを伝えていた。
「ナディア様は……」
やがてミレーヌが口を開く。
しかし、続く言葉はなかなか出てこない。
俺は急かさなかった。
七歳の少女が、主人の教育係について何かを語る。
それだけでも、この家では相当な勇気が必要なのかもしれない。
だから待つ。
自分の答えを誘導しないように。
昨日のナディアが俺へしたことと、同じことをしないように。
やがて。
ミレーヌは、胸元で小さく手を握った。
「……お嬢様は」
「ええ」
「ナディア様のお言葉を、信じていらっしゃいますか?」
質問に。
質問で返された。
けれど。
その瞳に浮かんでいるものを見た瞬間。
俺は悟った。
どうやら。
昨日見つけたものは。
まだ入口に過ぎなかったらしい。




