閑話 ミレーヌは、まだ信じていない
今回は別視点の「閑話」です。
本編では見えない、相手から見たヴェルシアナをぜひお楽しみください!
閑話の魅力や楽しみ方については、活動報告
『原作ヴェルシアナは、閑話が気になるようです』
でも詳しくご紹介しています。
おすすめの内容となっていますので、ぜひあわせてご覧ください!
ミレーヌ・エルヴァートは、ヴェルシアナ・アルセリードを怖いと思っていた。
嫌いなのかと尋ねられれば、少し答えに困る。嫌うと言えるほど近くで彼女を知っていたわけではないし、そもそも父を亡くしてから公爵家へ身を寄せ、侍女見習いとして暮らしている自分が、この家の一人娘を好きだ嫌いだと気軽に考えること自体、どこか不相応な気がしていた。
ただ、怖いという感情だけは、わざわざ考えるまでもなく自分の中にあった。
ヴェルシアナは五歳で、ミレーヌより二つも年下である。背丈だってミレーヌの方が高く、直接ひどい罰を受けたことがあるわけでもない。
それでも廊下の向こうに銀色の髪が見えると、ミレーヌは反射的に背筋を伸ばした。
その理由の一つは、もちろん身分だった。
アルセリード公爵家。
男爵家に生まれたミレーヌにも、その名が持つ重さくらいは分かる。父が亡くなり、兄が十分とは言えない領地と家を継いだあと、この家へ身を寄せて暮らすようになってからは、以前よりずっと具体的に理解するようになった。
公爵家の一人娘が嫌だと言えば、大人が理由を確かめる。泣けば、誰かがその原因を探すし、幼い子供が何気なく口にした言葉でさえ、この家では自分たちの言葉と同じ重さでは扱われない。
自分が「嫌です」と言うのと、ヴェルシアナが「嫌です」と言うのとでは、そのあとに起こることが違う。
七歳のミレーヌには、それが怖かった。
けれど、ヴェルシアナを近寄りがたく感じる理由は、身分だけではなかった。
彼女は、ひどく目を引く子供だった。
柔らかな銀色の髪は、朝の光を受ければ雪のように淡く、日が傾けばごく薄く紫を含んで見える。その髪の下にある瞳は濃い赤紫色で、まだ幼い顔立ちの中にありながら、妙に強い印象を残した。
五歳なのだから、大人の女性へ向けるような美しさとは違う。それでも、このまま大きくなればきっと誰もが振り返る女性になるのだろうと、同じ子供であるミレーヌにさえ分かるほど、顔立ちは既に整っていた。
しかもヴェルシアナには、公爵令嬢として幼い頃から教え込まれた立ち居振る舞いがある。背筋を伸ばして立ち、歩く時には足音を乱さず、大人と話す時にも必要以上に身体を揺らさない。
遠くから眺めているだけなら、絵物語の挿絵に描かれた気位の高い姫君のようだった。
それだけなら、きっと憧れたかもしれない。
けれどヴェルシアナは、少し機嫌を損ねると、その整った顔にあまりにもよく似合う険しさを浮かべた。
銀色の髪の下で赤紫色の瞳が細くなり、小さな眉が僅かに寄る。それだけで、声を荒らげてもいないのに、見られた側は自分が何を失敗したのか考えたくなる。
本人はたった五歳なのに、その表情だけを見ていると年齢を忘れそうになるほど、妙な迫力があった。
だから以前のミレーヌは、ヴェルシアナの顔を必要以上に見ないようにしていた。
目が合えば何か言われるかもしれないし、言われたことへ上手く答えられなければ、機嫌を損ねるかもしれない。そうなった時、自分の立場がどうなるのかまでは分からなくても、「何も起こらない」と安心できるほど、この家に来てから時間が経ってはいなかった。
父がいなくなり、兄にこれ以上の負担をかけたくないと思っている七歳の子供にとって、この場所を失うかもしれないという想像は、それだけで十分怖かった。
だから、高熱を出していたヴェルシアナが目を覚ましたあの日も、最初に名前を尋ねられた時、ミレーヌは戸惑うより先に身構えた。
「あなた、お名前は?」
一瞬、何を聞かれたのか理解できなかった。
忘れられている。
そう気づいても、傷つくより先に、これは何かの試しなのではないかという不安が浮かんだ。熱で混乱しているだけかもしれないのに、返事を間違えればいけないような気がして、ミレーヌはいつもより少しだけ背筋を伸ばした。
「ミレーヌ・エルヴァートでございます」
するとヴェルシアナは、初めて聞いた名前を覚えようとするように、小さく繰り返した。
「ミレーヌ……」
赤紫色の瞳が真っ直ぐこちらへ向けられ、ミレーヌの指先には自然と力が入った。
次に何を言われるのだろうと思った。
ところが、返ってきたのは予想していなかった言葉だった。
「ありがとう、ミレーヌ」
その時の声を、ミレーヌは何度も思い返すことになる。
特別な言葉ではない。使用人に感謝する貴族はいるし、アルセリード公爵夫妻だって礼を言わない人たちではない。
それでもヴェルシアナから、自分の名前と一緒に「ありがとう」と言われた記憶がなかったため、たったそれだけの言葉が妙に耳へ残った。
だからこそ、すぐには信じなかった。
高熱のせいで気弱になっているのかもしれない。まだ意識が完全に戻っていないだけかもしれないし、数日も経てば以前と同じになる可能性だってある。
期待したあとで、それが勘違いだったと知る方が怖い。
ミレーヌはそう考え、なるべく気にしないようにした。
けれど、その後もヴェルシアナは、ミレーヌが知っていた以前の姿とは少し違う振る舞いを見せ続けた。
◇
エルダ夫人の授業では、ヴェルシアナが注意を受けても、以前のように不満だけを先に出すことが少なくなっていた。
エルダ夫人は厳しい。
けれど、理不尽な人ではない。
公爵家の令嬢だからといって間違いを正しいことにする人ではなく、子供だからという理由だけで何をしても褒めるような人でもなかった。
だからこそ、以前のヴェルシアナが訂正を嫌がった時には、その場の空気が固くなることもあった。
今のヴェルシアナも、何かを指摘されれば一瞬だけ不満そうな顔をする。
銀色の髪の下で赤紫色の瞳が僅かに細まり、その整った顔立ちに険しさが宿ると、ミレーヌはいまだに身体を強張らせそうになる。
けれど、そのあとが違った。
言い返すのではなく、指摘されたところを確かめ、必要なら直そうとする。
不機嫌そうに見えた表情が、そのまま誰かへの怒りへ変わるとは限らない。
それをミレーヌがはっきり意識したのは、歴史の授業でヴェルシアナが答えを間違えた時だった。
ナディアは教師の教え方が厳しすぎるのではないかと、いつもの柔らかな調子で気遣った。
その場の空気が僅かに変わったことを、ミレーヌは覚えている。
以前なら、そこで「教える側にも問題があった」という話になっていたかもしれない。
ミレーヌには、大人たちが何をどう決めていたのかまでは分からない。それでも、ヴェルシアナが不快そうにした相手が身近からいなくなることがあったくらいは、屋敷で暮らしていれば感じ取っていた。
だから次の瞬間、ヴェルシアナがナディアへ向けた言葉を聞いた時、ミレーヌは自分の耳を疑った。
「間違えたのは、わたくしでしょう?」
ナディアが、一瞬だけ黙った。
教師も驚いたようにヴェルシアナを見ていた。
当然、ミレーヌも同じだった。
ヴェルシアナは、自分の間違いを認めることを好まなかったはずなのに、今はなぜ周囲の責任へ変えようとするのか分からないという顔で、ナディアを見つめている。
その表情は、やはり少し怖かった。
眉を寄せ、赤紫色の目で真っ直ぐ相手を見る姿は、幼いながらも気位の高い公爵令嬢そのもので、事情を知らない者がそこだけ見れば、ナディアを責めているようにすら見えたかもしれない。
ところが、口から出てきたのは正反対の言葉だった。
自分が間違えたのだから、自分が覚え直せばいい。
ただ、それだけをヴェルシアナは言っている。
ミレーヌには、その違和感をどう受け止めればよいのか分からなかった。
見た目は何も変わっていない。
銀色の髪も、赤紫色の瞳も、高価な服も、公爵令嬢らしい立ち姿も以前のままで、考え事をしている時の近寄りがたい雰囲気に至っては、むしろ前より強くなったようにすら感じる。
けれど、その顔から出てくる言葉だけが違う。
それまで怖いと思っていた相手の外側だけを残して、中身の一部が突然別のものへ入れ替わってしまったようで、ミレーヌはかえってどう接すればよいのか分からなくなった。
◇
一番困ったのは、茶器を割った時だった。
今でも思い出すと、指を切った時より、その直後の方が鮮明に蘇る。
手が滑り、落ちた茶器が床へぶつかると、甲高い音を立てて砕けた。
高価なものだと知っていたミレーヌは、早く片づけなくてはと思い、慌てて手を伸ばした。その時、鋭い破片が指先を浅く切った。
「っ……」
ほんの小さな声しか出なかった。
それなのにヴェルシアナはすぐ振り向いた。
赤紫色の瞳が一度大きくなり、その直後に眉が寄った。
ミレーヌの胸が縮む。
今でも、あの時の顔だけを切り取って思い返せば怖いと思う。
窓から差す光を受けた銀色の髪と、鮮やかな赤紫色の瞳。整った幼い顔を険しくして、自分の手元をじっと見ているその姿は、怒っている公爵令嬢そのものに見えた。
だからミレーヌは、何を言われるより先に謝った。
「申し訳ございません、お嬢様。すぐに片づけ――」
「手を見せてください」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……え?」
「血が出ていますわ」
ヴェルシアナは、割れた茶器ではなくミレーヌの指を見ていた。
「ですが、茶器を――」
「それはあとです。破片へ触らないで」
声は少し強かった。
そのせいでミレーヌは反射的に身体を固くしたものの、次の瞬間には、彼女が何に苛立っているのか分からなくなった。
茶器を壊したことではない。
謝り方が足りないからでもない。
怪我をしているのに、なお破片へ触ろうとしたことを心配しているようにしか見えなかった。
ヴェルシアナは先に傷の手当てをするよう言った。
茶器のことは、そのあとだった。
それでもミレーヌは、その場で終わるとは思えなかった。
傷の手当てが済んでも、何か言われるかもしれないと思っていたし、その日の仕事が終わってからも、ナディアか別の大人から呼ばれるのではないかと考えていた。
翌朝になれば、何か変わっているかもしれない。
少なくとも、何かしらの注意は受けるだろう。
けれど、ミレーヌが恐れていたようなことは起きなかった。
それが、かえって分からなかった。
優しくされたから嬉しい、と単純に思えれば楽だったのかもしれない。
けれどミレーヌの中では、喜びより先に戸惑いが大きくなった。
今まで自分が知っていると思っていたヴェルシアナが、急に分からなくなったからだ。
以前のように、機嫌を損ねないようにして、必要なことだけを間違えずにこなせばよいのなら、その方が分かりやすかった。
ところが今のヴェルシアナは、自分へ礼を言い、間違いを認め、怪我をすれば心配しながら、その一方で考え事をしている時には以前と変わらないほど近寄りがたい顔をする。
ミレーヌはそのたびに警戒し、何も起こらなかったことに安堵して、それから安堵した自分に戸惑うようになった。
◇
ヴェルシアナからナディアについてどう思うかと尋ねられた時も、ミレーヌはすぐに答えられなかった。
ナディア・セレグランは、自分より遥かに立場が上の大人であり、ヴェルシアナの教育へ深く関わっている人物でもある。
その人についてどう思うかなど、七歳の自分が軽々しく口にしてよいものなのか分からない。
答えに迷っていると、ヴェルシアナの眉が僅かに寄った。
以前なら、その表情を見た瞬間に何か答えなければと焦っただろう。
実際、今でも胸は少しだけ緊張した。
けれど最近のミレーヌは、その顔を見たからといって、必ず怒っているとは限らないのだと少しずつ分かり始めていた。
「答えにくいですか?」
尋ねられ、ミレーヌは迷った末に小さく頷いた。
「……少し」
口に出してから、やはり言わない方がよかっただろうかと不安になった。
けれどヴェルシアナは怒らず、むしろ自分の質問の方を考え直すように視線を落とした。
「そうですわよね」
それ以上、無理に答えさせようとはしなかった。
その様子を見ながら、ミレーヌは初めて、少しだけ長くヴェルシアナの顔を見た。
綺麗なのだと思った。
そんなことは以前から知っている。誰が見ても、ヴェルシアナは綺麗な子供だろう。
ただ、それまでは「綺麗だ」という感想が浮かぶより先に「怖い」と思っていたため、二つを別々に考えたことがなかった。
今は、その二つが少しだけ離れて見えた。
赤紫色の目を持っているから怖いのではなく、銀色の髪を持つ公爵令嬢だから近寄りがたいのでもない。
怖い時もある。
それとは別に、この子は本当に綺麗なのだ。
そんな単純なことを、ミレーヌはようやく普通に考えられた。
そして、そのことに気づいてしまった自分の方へ、少しだけ戸惑った。
◇
それでも、ミレーヌはまだヴェルシアナを信じたとは思っていない。
数日、あるいはしばらく態度が変わったからといって、それだけで以前の印象までなくなるわけではないからだ。
ヴェルシアナが不機嫌になれば、周囲の大人たちがそれを重く受け止めることを、ミレーヌは知っている。本人がどこまで望んでいたのかまでは分からなくても、その結果として周囲の空気や人の動きが変わることがあるのも、この家で暮らしていれば感じ取れる。
今のヴェルシアナが、自分の過去についてどこまで考えているのかも分からない。
高熱を出したあと、まるで人が変わったように振る舞い始めた理由だって分からなかった。
もしかすると一時的なものかもしれず、何かをきっかけに以前へ戻る可能性だってある。
だから簡単に信じてはいけない、とミレーヌは自分へ言い聞かせていた。
期待して、その期待が間違いだった時に傷つくのが怖かった。
けれど最近では、朝になるたび、今日のヴェルシアナも昨日までと同じだろうかと考えるようになっていた。
また自分の名前を呼ぶだろうか。何かをしてもらった時には自然に礼を言い、誰かから間違いを指摘された時にも、その相手を責めるより先に自分の方を見直そうとするだろうか。少し不機嫌そうに眉を寄せたとしても、それが誰かを遠ざける前触れではなく、自分の中で何かを考えているだけなのだと、今日も確かめられるだろうか。
そんなふうに毎日同じであることを気にしている時点で、自分はもう何も期待していないわけではないのだと、ミレーヌも薄々気づいていた。
信じてはいない。
けれど、期待し始めている。
その二つは両立しないものだと思っていたのに、今のミレーヌの中には、どちらも確かに存在していた。
以前なら、銀色の髪が視界に入れば、なるべく目を伏せていた。
今は違う。
まだ長く見つめることはできないし、赤紫色の瞳がこちらへ向けば緊張もする。それでも、その表情が何を意味しているのか、少しだけ確かめたいと思うようになっていた。
怒っているのか。
困っているのか。
何かを考えているだけなのか。
そして時には、怖いと思うより先に、やはり綺麗だと思ってしまうこともある。
そんな変化を、ヴェルシアナ本人はきっと知らない。
ミレーヌ自身でさえ、まだ上手く説明できないのだから当然だった。
ただ、明日も今日と同じヴェルシアナでいてくれればいいと、いつの間にか願っている。
明日も同じなら、その日の分だけ覚えておこうと思う。
その次の日も同じなら、またその日の分を。
そうして一日ずつ確かめていけば、いつか自分の中にある怖さより、別の何かの方が大きくなる日が来るのかもしれない。
そんな未来を少しだけ想像してしまったことを、今のミレーヌはまだ誰にも言えなかった。
何より、そんなことを考え始めている自分自身のことを、彼女はまだ完全には信じられずにいた。




