第2話 悪役令嬢は、こうして作られる
転生した初日から、早くも前言を撤回したくなっていた。
十年もあれば何とかなる――昨夜、鏡の中に映る五歳のヴェルシアナを眺めながら、確かにそう考えた。人生を一からやり直すという意味だけなら十年という時間は途方もなく長く、前世で十年前の自分が何を考えていたのかすら曖昧なのだから、それだけの年月を丸ごと準備へ費やせるのであれば、破滅の一つや二つ、どうにでも避けられるような気がしていたのだ。
ただし、その十年間を五歳児として始めなければならないという一点について、俺は少々楽観的に考えすぎていたらしい。
「お嬢様。もう少し背筋をお伸ばしくださいませ」
「はい」
「顎はほんの僅かにお引きになってください。視線だけを正面へ」
「……はい」
「それから、肘が開いております」
「…………はい」
午前。
アルセリード公爵邸、その南側に設けられた小さな応接室。
窓の向こうには春の日差しをたっぷりと浴びた庭園が広がり、白や薄桃色の花々が風に揺れている。何も知らずに眺めているだけなら、このまま昼寝でもしたくなるような穏やかな景色だった。
だというのに、部屋の中央に置かれた椅子へ腰掛けている俺だけは、まるで全身を見えない糸で吊り上げられているような心地だった。
背筋を伸ばし、肩から余計な力を抜き、顎を引き、膝と足先を揃える。ただ座っている、それだけの動作なのに、これが想像していた以上に疲れる。
前世の俺は、椅子というものは背もたれへ身体を預けるために存在するのだと半ば本気で思っていた。そんな人間が、背もたれへ触れず、美しく見える角度まで意識しながら座るのだから、五歳の身体にとっては立派な筋力訓練である。
「……少々、肩に力が入りすぎておりますね」
目の前に立つエルダ夫人が、手にしていた細い指示棒を僅かに持ち上げた。
灰色を混ぜた金髪を後ろで隙なくまとめ、装飾の少ない濃紺のドレスを纏った女性で、年齢は五十代半ばほどに見える。決して声を荒らげるわけではないし、叱りつけるわけでもない。それなのに、こちらが姿勢をほんの少し崩しただけで即座に気づくため、五歳児にとっては下手な鬼教官よりよほど恐ろしい。
「力を抜くことと、姿勢を崩すことは別物でございます」
「……難しいですわね」
「難しいからこそ、こうして練習なさるのです」
ぐうの音も出ない正論だった。
俺は小さく息を吐き、もう一度肩の力を抜き直す。
もっとも、こうして真面目に稽古を受けているだけで周囲が妙な反応をすることには、すでに気づき始めていた。
朝食を残さず食べれば、給仕をしていた使用人が一瞬だけ手を止めた。着替えの際にドレスの色へ文句を言わなければ、二人いた侍女見習いが目配せをした。髪を梳かれている間、大人しく座っていただけで、背後のミレーヌから何度も視線を感じた。
何もしないことが、驚かれる。
それはつまり、これまでのヴェルシアナがどんな子供だったのかを、本人の記憶を持たない俺へ嫌でも教えてくれていた。
「よろしいでしょう。では、一度お立ちくださいませ」
ようやく腰を上げられるのかと内心で安堵したのも束の間、エルダ夫人は床へ真っ直ぐ伸ばされた細い紐を指した。
「こちらの線に沿ってお歩きください」
「……歩くだけ、ですの?」
「ええ。まずは歩くだけで結構です」
その言葉を信じた俺が甘かった。
歩幅が広い。
今度は狭い。
足元を見ない。
肩を揺らさない。
急ぎすぎない。
裙を引っ掛けない。
視線は正面。
一歩進むごとに修正点が増えていき、途中から自分が歩いているのか、それとも「歩く」という行為を一から再教育されているのか分からなくなってくる。
「お嬢様」
「はい」
「お返事は大変立派でございますが、その不満が表情へ出ております」
思わず足を止めた俺に、エルダ夫人はほんの僅かに口元を緩めた。
この人は強い。
少なくとも、五歳のヴェルシアナが泣こうが怒ろうが、簡単に折れるような人物ではない。
それでも不思議と嫌ではなかった。
できなければ指摘され、間違えれば直される。そこに余計な持ち上げもなければ、失敗したこと自体を責めるような悪意もない。前世で何かを教わっていた時と、本質的にはそう変わらないのだ。
むしろ、ありがたいとさえ思う。
原作のヴェルシアナは、人前で何度も感情を爆発させる。そのたびにヒロインを責め、婚約者へ食ってかかり、自分が屈辱を受けたと思えば周囲まで巻き込んで、少しずつ評判を悪化させていく。
ならば、こういう礼法を身につけることそのものが一種の防具になるはずだった。腹が立った時ほど姿勢を崩さず、言い返したくなった時ほど一度言葉を選び、嫌いな相手の前でも最低限の礼だけは守る。それができるだけで、少なくとも原作のように、自分から処刑台へ続く道を舗装することは減るだろう。
「もう一度、お願いできますかしら」
俺の方からそう言うと、今度はエルダ夫人が僅かに目を見開いた。
しかし驚きはすぐに消え、いつもの静かな表情へ戻る。
「もちろんでございます」
最初の位置へ立ち直り、俺は先ほどよりもゆっくりと、一歩ずつ意識して歩き始めた。
◇
礼法の稽古が終わり、ようやく休憩へ入って間もなく。
「まあ」
甘く、高い声が部屋へ響いた。
「本日はずいぶんとお利口でいらしたのですね、ヴェルシアナお嬢様」
声を耳にした瞬間、理由も分からないまま、背中の奥へ薄い膜が一枚張りつくような感覚があった。
振り返れば、一人の女性が室内へ入ってきている。
年齢は三十代後半ほど。艶のある淡褐色の髪を華やかに結い上げ、深緑のドレスを品よく纏っていた。口元には柔らかな笑みが浮かび、目元にも険はなく、何も知らずに見れば、幼い令嬢を心から可愛がっている親族か教育係にしか見えない。
「ご機嫌麗しゅうございます、ヴェルシアナお嬢様」
女性が淀みなく膝を折る。
俺は記憶の中を探った。
ゲームにいたか。
少なくとも主要人物ではない。
「……ごきげんよう」
ひとまず返すと、女性は嬉しそうに笑みを深めた。
「昨夜はお熱を出されたと伺いまして、わたくし、本当に心配しておりましたのよ」
「ありがとうございます」
「まあ」
ほんの一瞬だけ、表情が止まった。
朝のミレーヌも、俺が礼を言った時に似た反応をしていた。だが、あの少女の戸惑いが純粋な驚きだったのに対し、目の前の女性から感じたものは少し違う。
予定していた返答と違った。
そんな時に、人間が一瞬だけ見せる顔に近かった。
「こちらの方は?」
尋ねると、部屋の隅に控えていたミレーヌの肩が僅かに動いた。
またやってしまった。
ヴェルシアナの記憶がない以上、周囲の人間の名前を知らないのは仕方がないとはいえ、このまま何人にも同じ質問を繰り返せば、さすがに熱のせいだけでは押し通せなくなるだろう。
「……まだ少し記憶が曖昧でして」
便利な言い訳を添えると、女性はすぐに笑顔を戻した。
「まあ、それはお可哀想に。わたくしはナディア・セレグラン。お嬢様の教育補佐を任されております」
セレグラン。
やはり覚えがない。
「幼い頃より、お嬢様のお側で学びをお手伝いさせていただいておりますのよ」
「そうでしたの」
「ええ。ですから、今日のお嬢様があまりにも熱心で、少々驚いてしまいました」
ナディアは俺の隣へ腰を下ろすと、まるで可愛い子供へ言い聞かせるように、ほんの少しだけ顔を寄せた。
「けれど、今日は少々頑張りすぎではございませんか?」
「頑張りすぎ?」
「ええ。まだ五歳でいらっしゃいますもの。それに、お嬢様ほど素晴らしい方が、エルダ夫人のお言葉を何から何まで真に受ける必要などございませんわ」
その言葉を聞いて、先ほど感じた違和感が少しだけ輪郭を得た。
「どういう意味ですの?」
「そのままの意味でございます」
ナディアは微笑んだまま続ける。
「お嬢様はアルセリード公爵家のご令嬢。いずれ王国でも最も尊いお立場へ進まれる可能性のあるお方でございます。多少歩き方を間違えられたところで、それを面と向かって咎められる者などおりません。むしろ、お嬢様へ恥をかかせるような教え方をする者の方にこそ問題がございましょう?」
王国でも最も尊い立場。
おそらく王太子妃を指している。
婚約はまだ正式に決まっていなくても、周囲ではすでにその未来を既定路線のように扱っているらしい。
嫌な情報を一つ拾った。
ただ、今気になっているのはそちらではない。
「エルダ夫人は、わたくしができていないことを教えてくださっただけではありませんの?」
そう返すと、ナディアの微笑みがほんの僅かに固まった。
「まあ……お優しくなられましたこと」
優しい。
その言葉が妙に引っかかる。
俺が下手だったから直された。それだけの話なのに、なぜそこへ優しさや厳しさという評価が入り込むのだろう。
「ですが、お嬢様」
ナディアはさらに声音を柔らかくする。
「高貴なお方は、ときにはご自身のお立場を周囲へ示さねばなりません。使用人も教師も、すべてお嬢様へお仕えする者。あまり下手に出られますと、身分を忘れる者が現れます」
そう言った時、彼女の視線がほんの一瞬だけ部屋の隅へ流れた。
そこにいたミレーヌの顔から、すっと血の気が引く。
「たとえば、ご主人様と同じ立場であるかのように振る舞う者も」
声音は穏やかなままだった。
だからこそ、背筋が冷えた。
俺はナディアを見る。
彼女は笑っている。
次にミレーヌを見る。
少女は視線を伏せ、小さな指をきつく組んでいた。
どうやら俺は、思っていたより早く、十五歳のヴェルシアナを形作った何かの一端へ触れてしまったらしい。
◇
その日の午後、王国史の授業で俺は初めて明確な失敗をした。
「違います」
家庭教師の男性が、ノートに書かれた数字を指す。
「西方諸侯連合が王国へ正式に臣従したのは建国暦百八十三年。百七十三年ではございません」
「あ」
単純な見間違いだった。
そもそもこの世界の歴史など、今日初めて体系的に習っているに等しい。十年単位の年号を間違えるくらい、むしろ自然なことだろう。
「申し訳ありません。百八十三年ですわね」
数字を書き直す。
それで終わるはずだった。
「先生」
同席していたナディアが、柔らかな声で口を挟む。
「五歳のお嬢様へ、そのように細かな年号まで今から求める必要がございます?」
家庭教師が顔を上げた。
「基礎として必要でございますので」
「ですが、お嬢様は昨夜まで高熱で伏せておられました」
「それは承知しております。ですので本日は通常より範囲を――」
「もうよろしいでしょう」
ナディアは笑顔のまま言葉を遮る。
「今日はここまでになさっては?」
家庭教師が困ったようにこちらを見る。
公爵令嬢である俺が頷けば、この授業はそこで終わるのだろう。
そしてナディアは、俺がそうすることを疑っていない。
その確信めいたものが、かえって気になった。
「先生」
「はい」
「先ほどの問題を、もう一度お願いできますかしら」
「お嬢様」
ナディアが呼んだが、あえて視線を向けなかった。
「今度は間違えないようにいたしますわ」
家庭教師は僅かに戸惑いながらも、同じ内容を問い直した。
「建国暦百八十三年です」
「正解でございます」
「ありがとうございます」
ただ、それだけだった。
間違えた。
教えてもらった。
覚えた。
次はできた。
俺にとっては、それ以上の意味などない。
ところが、ナディアはそれから妙に口数が減った。
授業が終わり、家庭教師が退出した後、彼女は困った子供へ諭すように俺の前へしゃがみ込んだ。
「ヴェルシアナお嬢様。先ほどの教師についてですが、少々厳しすぎるとは思われませんでしたか?」
「厳しい?」
「ええ。公爵様へ申し上げれば、すぐ別の者へ替えていただけると思います」
「なぜですの?」
その一言に、ナディアが瞬く。
「……なぜ、と申しますと?」
「先生は、何か悪いことをなさいました?」
「お嬢様の誤りを、あのように面前で指摘されました」
俺はノートへ視線を落とした。
百七十三。
その上に線を引き、その隣に書き直した百八十三。
どう見ても、間違えたのは自分だ。
「でも、間違えたのはわたくしでしょう?」
その瞬間、部屋に妙な静けさが落ちた。
それまで何を言っても崩れなかったナディアの笑顔が、ほんの数秒だけ完全に止まる。
「……お嬢様?」
「わたくしが間違えて、先生が正しい答えを教えてくださった。それだけではありませんの?」
「それは……そうではございますけれど」
「でしたら、先生を替える理由にはならないと思いますわ」
五歳児にしては出来すぎた受け答えかもしれない。
けれど、今はそんなことよりも、目の前の女性の反応の方が気になった。
正論を言われたから困っているのではない。
予想していた反応を、俺が返さなかった。
そんな戸惑いに見える。
「もちろん、お嬢様がそうお望みなのでしたら」
ナディアはすぐに微笑みを取り戻した。
「ですが、お嬢様は大変優秀なお方。多少の失敗など、お気になさる必要はございませんのよ」
優秀だから、失敗を気にしなくていい。
そこまでは、まだ分かる。
けれど彼女の言い方は、その先にもう一歩踏み込んでいた。
失敗そのものを、自分のものとして受け取らなくていい。
そんな響きがあった。
その時だった。
背後で、陶器が触れ合う小さな音がした。
振り返れば、ミレーヌが使用済みの茶器を片付けている。
先ほどから顔色が悪い。
「ミレーヌ?」
「っ……はい」
突然呼ばれたことで、余計に緊張したのだろう。
小さな手が皿の縁へ触れた。
「あっ」
ティーカップが傾き、床へ落ちる。
乾いた破砕音が部屋へ鋭く響き、白い陶器がいくつもの破片となって床へ散った。
その音が消えるより早く、ミレーヌの顔から血の気が引いた。
「も、申し訳ございません!」
ほとんど反射のように頭を下げる。
「申し訳ございません、お嬢様! すぐに片付けますので――」
「まあ」
ナディアの声が重なった。
「なんということを」
その一言だけで、ミレーヌの細い肩がさらに縮こまる。
「公爵家の品、それもお嬢様がお使いになる茶器ですのよ? 最近、少々気が緩んでいるのではなくて?」
「申し訳……ございません」
少女の声は消え入りそうだった。
ナディアはそんな彼女から俺へ視線を移し、変わらぬ穏やかな声で言う。
「お嬢様。この子には、きちんと罰を与えた方がよろしいでしょう」
その瞬間、朝から胸の内に引っ掛かっていたものが、ようやく一本の線で繋がった。
この人は、俺のために怒っているのではない。
俺が怒るように仕向けている。
俺が誰かを責めることを、自然な流れとして選ぶように。
しかも、それを命令ではなく、「あなたなら当然そうするでしょう」という形で差し出してくる。
「ミレーヌ」
「……はい」
「手を見せてくださる?」
「え?」
ミレーヌが顔を上げた。
ナディアも、わずかに眉を動かす。
「カップを拾おうとしたでしょう。切っていませんの?」
恐る恐る差し出された小さな手を見れば、右の人差し指へ薄く赤い線が走っていた。
「……血が」
本人も今気づいたらしい。
「まず洗っていらっしゃい」
「ですが、カップが……」
「割れてしまったものは、後から片付ければよろしいでしょう。それより、手の方が大切ですわ」
ミレーヌは、しばらく動かなかった。
こちらを見つめたまま、まるで今まで知っていた人物とは別の誰かを見ているような顔をしている。
「ミレーヌ?」
「……はいっ」
ようやく我に返り、何度も頭を下げながら部屋を出ていった。
その小さな背中を見送った直後。
「お嬢様」
ナディアの声が落ちた。
「そのように甘やかしては――」
「ナディア」
気づけば、敬称を外して呼んでいた。
女性が口を閉じる。
俺は床へ散った白い陶片を見た。
高価なのだろう。
だが。
七歳の少女の指と比べるようなものではない。
それでも、今までのヴェルシアナなら、きっと逆だったのだ。
割れたカップを先に見て。
怪我をしたミレーヌには目も向けなかった。
少なくとも、周囲はそうなると信じていた。
「一つ、伺っても?」
「何なりと」
「わたくしが失敗した時は、いつも誰か別の方が悪いことになるの?」
ナディアの目が、ほんの僅かに細くなった。
「……何を仰っているのでしょう」
「先ほどは先生でしたでしょう? わたくしが年号を間違えたのに、先生を替えようとなさいました。それから今は、ミレーヌがカップを割ったから罰を与えろと」
「使用人が主人の物を壊せば、それなりの責任を――」
「では」
俺は静かに言葉を重ねた。
「わたくしが間違えた時は?」
返答には、ほとんど間がなかった。
「お嬢様が間違えるなど、ございません」
あまりにも自然な答えだったため、一瞬聞き違えたのかと思った。
「もし何か上手くいかないことがございましたら、それは周囲がお嬢様に相応しい働きをしていないからでございます。お嬢様ほど優れた方が、本来失敗なさるはずなどございませんもの」
ナディアは、本気でそう思っているような顔をしていた。
本当に信じているのか。
それとも、ヴェルシアナにだけそう信じ込ませてきたのか。
今の俺には、まだ分からない。
ただ、その言葉が幼い子供に与えるものだけは、想像できてしまった。
何かを失敗するたび、「あなたは悪くない」と言われる。
誰かを傷つけても、「相手が悪い」と言われる。
自分の望みが叶わなければ、「周囲があなたに相応しくない」と教えられる。
それが一度や二度ではなく、何年も続いたらどうなる。
叱られることがないのではない。
自分を省みる機会そのものが、少しずつ奪われていく。
そして十五歳になった時。
婚約者に嫌われた。
自分は間違っていない。
ならば、悪いのは誰だ。
王太子ではなく。
自分でもなく。
彼の隣へ現れた、平民の少女。
友人が離れた。
自分は間違っていない。
ならば、それは友人の裏切り。
婚約を破棄された。
自分が悪いはずがない。
ならば間違っているのは、自分以外のすべて。
そこまで考えた瞬間。
ゲームの中で、憎らしいほど高慢に笑っていた十五歳のヴェルシアナが、今までとは少し違って見えた。
俺はずっと、彼女を愚かな女だと思っていた。
恵まれているくせに、自分でそれを捨てていく女。
感情を抑えることもできず、人を見下し、嫉妬に駆られ、最後には誰にも信じてもらえなくなる女。
もちろん、だからといって彼女が後にしたことのすべてが許されるわけではない。
けれど。
もし彼女が、「自分にも間違いがある」と学ぶ機会を幼い頃から一つずつ奪われていたのだとしたら。
あの性格は、果たしてどこからが本人のものだったのだろう。
「……そう」
俺はそれだけ答えた。
今ここでナディアを問い詰めたところで、何も分からない。
彼女に悪意があるのか。
単純に、この国の高位貴族ではこうした教育が珍しくないのか。
あるいは、何か別の思惑があるのか。
判断するには材料が足りなさすぎる。
だから、今は覚えておけばいい。
彼女の言葉。
ミレーヌを見る時の目。
俺が予想通りに怒らなかった時、一瞬だけ崩れた表情。
その全部を。
「何もご心配なさらずともよろしいのですよ、お嬢様」
ナディアは再び、最初と同じ柔らかな笑みを浮かべた。
「お嬢様は、何も間違えてなどおられませんから」
子供を安心させるには、これ以上なく優しい言葉なのかもしれない。
失敗しても、自分は悪くない。
傷つかなくていい。
何も考えなくていい。
全部、誰かのせいにしてしまえばいい。
その甘さが、今の俺には妙に恐ろしく感じられた。
毒というものは、苦いとは限らない。
むしろ甘くて、口当たりがよくて、自分からもう一口欲しくなるようなものほど、気づいた時には深くまで回っているのかもしれない。
ナディアの笑顔を見つめながら。
俺は初めて。
十五歳のヴェルシアナが立っていた処刑台へ続く道が。
もしかすると。
この部屋のような、ごく穏やかな場所から始まっていたのではないかと考えた。
◇
その夜。
天蓋の向こう側に広がる薄暗い天井を眺めながら、俺は昼間の出来事を何度も頭の中で組み直していた。
転生して、まだ二日。
それなのに、最初に立てた生存計画は早くも書き換えが必要になっている。
攻略対象へ近づかない。
ヒロインを虐めない。
婚約者へ執着しない。
もちろん、それらは大切だ。
けれど、その未来だけを避ければいいという話ではないらしい。
十五歳のヴェルシアナ・アルセリードは、ゲーム開始の日に突然悪役令嬢として完成したわけではない。
今日の俺と同じ五歳の少女が、何年もかけて作られていったのだ。
誰かから言葉を与えられ。
誰かに褒められ。
誰かに許され。
時には、自分の失敗を他人へ押しつけてもらい。
その一つひとつを当然のものとして受け入れるうちに、きっと少しずつ「自分だけは間違わない」という考えが身体へ染み込んでいった。
ゲームを遊んでいた頃の俺は、そんな時間の積み重ねを知らなかった。
画面に映る十五歳の彼女だけを見て、どうしてもっと上手くやれないのかと呆れていた。自分なら周囲を敵に回さない、自分なら失敗を認める、自分なら王子一人にそこまで執着しない――ずいぶん簡単にそう考えていた。
今となっては、あの時の自分を少し殴りたい。
「……思ったより、根が深そうだな」
小さく呟き、布団の中で身体の向きを変える。
別に、元のヴェルシアナを救ってやろうなどという大層な使命感が芽生えたわけではない。
俺は死にたくない。
処刑されたくない。
せっかく二度目の人生が始まったのに、十五歳で首を落とされて終わりなど冗談ではない。
だから未来を変える。
結局、一番の理由はそれだ。
ただ。
この人生のどこかに、ヴェルシアナを悪役令嬢へ近づけていった原因が一つずつ落ちているのなら、それを見つけて、自分の首を締めるものから順番に取り除いていけばいい。
そうしているうちに。
画面の向こうでしか知らなかった少女が、どうしてああなってしまったのかまで分かる日が来るのかもしれない。
「俺なら、もう少し上手くやれる……か」
雨の夜。
死ぬ直前に考えた言葉を、もう一度胸の内で反芻する。
あの時は、本当に簡単なことだと思っていた。
だが実際にその人生へ足を踏み入れてみれば、道はずっと複雑だった。
敵が一人いて、それを倒せば終わるわけではない。
一本の破滅フラグだけを折ればいいわけでもない。
人間は、たった一つの出来事だけで出来上がるものではないのだろう。
何気なくかけられた言葉。
褒められた記憶。
怒られなかった失敗。
誰かを傷つけても自分は悪くないと言われた経験。
そんな小さなものが長い年月をかけて積み重なり、やがて一人の人間の考え方になる。
なら。
俺がやることも。
一つずつでいい。
今日、ミレーヌの名前を覚えた。
礼を言った。
失敗を失敗として認めた。
たったそれだけ。
それでも。
もし原作のヴェルシアナが選ばなかったものを一つずつ選び直していけば。
十年後。
俺が立っている場所は、少なくとも彼女と同じではないはずだ。
「……やってやるよ」
暗い部屋へ、ほとんど息のような声が零れた。
その言葉があまりにも前世そのままだったことに気づき、しばらく天井を眺めた後、小さく苦笑する。
「……やってみせますわ、か」
まだ慣れない。
自分の口から「わたくし」だの「ですわ」だのが出るたび、前世の自分が頭のどこかで笑っている気がする。
けれど、これもそのうち馴染むのだろう。
そうやって、一つずつ覚えていく。
言葉も。
作法も。
この家のことも。
そして。
ヴェルシアナ・アルセリードという少女が、本来どんな人生を歩むはずだったのかも。
眠りへ落ちる直前、昼間に見たナディアの笑顔がふと脳裏へ浮かんだ。
優しく。
柔らかく。
幼い子供なら疑う理由などないような笑顔。
けれど、その声で繰り返される。
――お嬢様は、何も間違えてなどおられませんから。
俺は薄く目を閉じる。
どうやら、十年という時間は。
思っていたほど長くないのかもしれなかった。




