閑話 公爵夫妻は、娘の変化を知らない
娘が美しい子になるだろうということを、セレフィアは生まれた時から疑ったことがなかった。
もちろん、母親の欲目はある。
それを差し引いたとしても、そう思う。
生まれたばかりのヴェルシアナは、まだ髪と呼ぶには頼りない銀色の産毛を頭にまとい、薄く開いた瞼の奥には、アルセリードの血を濃く映した紅紫の瞳を持っていた。
赤とも紫とも呼び切れない、不思議な色だった。
陽の下では熟れた葡萄を透かしたような艶を帯び、薄暗い部屋では深い紅へ沈む。幼い子供の瞳には少し強すぎるほど鮮やかで、泣いているだけなのに、こちらが何か悪いことをしたような気持ちにさせられる。
夫のレオルディスは、生まれたばかりの娘を初めて腕に抱いた時、ずいぶん長いこと黙っていた。
感動して言葉を失っているのだろう、と最初は思った。
それにしては長い。
「あなた。父親なのですから、何か仰ったらいかがです?」
痺れを切らして促すと、レオルディスは腕の中の娘を見下ろしたまま、ひどく真面目な顔で答えた。
「……目立つ子になるな」
セレフィアは産後の疲れも忘れて夫を睨んだ。
「最初に出てくる言葉が、それですの?」
「間違っているか?」
「間違ってはいませんけれど、もっと他にあるでしょう。可愛いとか、愛らしいとか」
「可愛い」
「今付け足しても遅いですわ」
今でも思い出せば少し腹立たしい。
けれど、五年経った今となっては、あの第一声が妙なほど正しかったことも認めざるを得なかった。
ヴェルシアナは、目立つ。
まだ五歳である。
背丈も手足も、頬に残る幼さも、どこから見ても子供のものだ。
それなのに、黙って椅子へ座っているだけで、部屋の中の視線が自然とそこへ集まる。
銀の髪はすでに背へ流れるほど伸び、窓辺へ立てば白金の糸のように光を弾いた。深い紅紫の瞳は、笑っていれば年相応の愛らしさを見せるのに、何かを考えて少し眉を寄せるだけで、知らない者なら機嫌を損ねたのではないかと身構えてしまう。
本人には、その自覚があまりないらしい。
先日も、新しく入った侍女がヴェルシアナの前でひどく緊張していた。
何か失敗でもしたのかと後で聞けば、
『お嬢様が、しばらくこちらをご覧になっていたものですから……何かお気づきになったのではないかと』
と、青い顔で答えた。
そこで本人に確認してみたところ、ヴェルシアナは不思議そうに瞬きをした。
『焼き菓子を、杏から食べるか林檎から食べるか考えていただけですけれど』
セレフィアは笑いを堪えきれなかった。
娘は少し不満そうに唇を尖らせた。
『わたくし、そんなに怖い顔をしておりました?』
『怖いというより、少し真剣すぎたのよ』
『お菓子に?』
『ええ。お菓子に』
そこでヴェルシアナまで、わずかに困ったような顔で笑った。
最近は、そういう表情を見ることが増えた。
以前だって笑わない子ではなかった。
欲しかったものが手に入れば喜んだし、気に入った菓子が並べられれば機嫌も良くなった。
けれど今は、自分の思い通りになった時とは違う笑い方をする。
誰かの言葉を面白がったり、自分の勘違いに気づいて照れたように笑ったりする。
その違いが、母親の目には妙に大きく映った。
◇
「王家への返事は、まだ出していないのですよね?」
夕刻。
レオルディスの執務室を訪れたセレフィアは、夫の机に置かれた封書へ視線を向けた。
厚い紙には、アルヴェネア王家の紋章を刻んだ封蝋が残っている。
今日、アルトリウス・ヴェルネが持参したものだった。
内容は正式な婚約の決定ではない。
王太子アレクシスと、アルセリード公爵家の一人娘ヴェルシアナについて、将来を見据えて話を進めてはどうかという打診だった。
文面は穏やかで、強制するような言葉もない。
だが、王家から差し出された縁談が、ただの「相談」と同じ重さでないことくらい二人とも分かっている。
「まだだ。本人とも話した上で返事をすると、ヴェルネには伝えてある」
レオルディスはそう言って、手元の書類から顔を上げた。
「今日のうちに返すと思っていましたわ」
「領地の契約なら今日中に決めることもある。五歳の娘の婚姻について、数時間で結論を出す必要はないだろう」
「そう言われると、その通りですけれど」
セレフィアは向かいの長椅子へ腰を下ろした。
昼間にヴェルシアナへ話した時のことを思い出す。
王太子。
婚約。
将来の王太子妃。
どれも五歳の娘が自分のこととして受け止めるには、少し大きすぎる言葉だった。
以前のヴェルシアナなら、王太子妃という響きそのものを気に入ったかもしれない。
誰より高い場所。
美しい衣装。
人から傅かれる立場。
幼い彼女が好みそうなものは、いくらでも思い浮かぶ。
だが今日の娘は、話を聞き終えたあと、すぐには喜びも嫌悪も示さなかった。
考えるように少し黙ってから、
『わたくしは、殿下のことをほとんど存じません』
と言った。
その言葉自体は、あまりにも当然だった。
顔を合わせたことはあっても、互いを知っていると言えるほどではない。
けれど、セレフィアが驚いたのは、その「当然」を娘が口にしたことだった。
続けてヴェルシアナは、
『一度、お会いしてからではいけませんか?』
と尋ねた。
婚約を拒んだわけではない。
喜んで受け入れたわけでもない。
まず会ってみたい。
ただ、それだけだった。
「あなたも、あの子が変わったと思っているのでしょう?」
セレフィアが尋ねると、レオルディスはすぐには答えなかった。
机の上に置いていた書類を閉じ、椅子へ少し深く腰掛け直す。
「変わったとは思う。ただ、何があったのかまでは分からない」
「やはり、そうですわよね」
「お前も同じか」
「ええ。良い方へ変わっているように見えるからこそ、余計に気になるのです」
セレフィアは膝の上で指を組んだ。
「最近のあの子、以前より人の言葉をよく聞くでしょう? 自分が失敗した時も、まず周りのせいにするのではなく、自分のことを考えるようになった」
「エルダ夫人の件か」
「それもあります」
あの日の言葉は、まだ耳に残っている。
『間違えたのは、わたくしでしょう?』
たったそれだけ。
それなのに、母親としては喜ぶだけでは済まなかった。
なぜ今まで、その考え方を持たなかったのだろう。
そして、なぜ急にそう考えるようになったのだろう。
「ミレーヌが怪我をした時もそうでした。以前なら、自分の目の前で失敗されたことに腹を立てていたかもしれないのに、先に怪我を気にしていた」
「報告は受けている」
「それから、教師を替えないでほしいとも言ったそうですね」
「ああ」
レオルディスの声は低い。
「少なくとも、以前とは違う」
そこまで言って、彼は一度言葉を止めた。
「ただ、急だ」
その一言に、セレフィアは夫を見る。
「あなたも、そう思っていたのね」
「数か月かけて少しずつなら、成長だと思う。だが、気づいた時には考え方そのものが変わっている」
「……ええ」
セレフィアも同じ違和感を抱えていた。
だからといって、娘に何か異常があるとは思いたくない。
体調が悪い様子もない。
眠れている。
食事も取っている。
以前より穏やかで、むしろ周囲との関係は良くなっているように見える。
それでも。
「私ね、ときどき思うのです」
セレフィアは少し声を落とした。
「あの子は賢くなったというより、何かを気にするようになったのではないかと」
「何をだ」
「分からないから気になるのです」
窓の外では、夕方の光が庭の木々を少しずつ金色へ染めている。
「自分が間違えることなのかもしれません。誰かを困らせることかもしれない。以前なら気にしなかったようなことまで、一度立ち止まって考えるようになったでしょう?」
レオルディスは、しばらく黙っていた。
「本人に聞くか?」
やがてそう言った。
セレフィアは少し考える。
「何と?」
「最近、何か気になることがあるのか、と」
「真面目な顔で聞いたら、あの子、何か答えなければいけないと思いません?」
レオルディスの眉が僅かに動いた。
「……それもそうか」
「珍しく私の方が慎重ですわね」
「いつもその程度慎重なら助かる」
「あなた、それはどういう意味です?」
「言葉の通りだ」
セレフィアは夫を睨んだ。
昔からこうだ。
レオルディスは滅多に冗談を言わないくせに、時々妙に乾いたことを平然と口にする。
「私だって、考えております」
「考えていないとは言っていない。お前は考える前に動くことがあると言っただけだ」
「同じようなものではありませんか」
「かなり違う」
腹立たしい。
けれど、こんなやり取りをしていると、少しだけ肩の力が抜ける。
「……ただ」
レオルディスは、今度は少し真面目な声へ戻した。
「無理に聞き出す必要はないだろう。今のところ、娘が何かに苦しんでいると決めつける材料もない」
「そうですわね」
「変わったなら、少し見ればいい」
「あなたは、本当に待つのが得意ですのね」
「急いで答えを作るよりはましだ」
その言葉に、セレフィアは返事をしなかった。
なぜか少しだけ胸に残ったからだ。
答えを作る。
自分たちは、これまで娘のために何度もそれをしてきたのかもしれない。
泣いた理由。
怒った理由。
嫌がった理由。
娘本人が全部を言葉にできないうちに、周りの大人が「きっとこうだろう」と決めていた。
それが間違いだったのかどうか、まだ分からない。
幼い子供には、大人が考えてやらなければならないこともある。
ただ。
その「考えてやる」が、「代わりに決める」へ変わる境目を、自分は今まであまり意識していなかった。
「そういえば」
セレフィアは机の上の王家からの書状へ目を戻した。
「婚約の話は、どうするおつもり?」
「娘が言った通り、一度会わせる。それ以上は、その後だ」
「随分と簡単に決めますのね」
「本人が、会ってから考えたいと言っている。王家も、まず顔を合わせることには異論はないだろう」
「もし、会ってみて嫌だと言ったら?」
レオルディスは一度、封蝋へ視線を落とした。
「理由は聞く」
「それでも嫌だと言ったら?」
「その時に王家と話す」
「断ることも考えて?」
「必要なら」
返事に迷いがなかったため、今度はセレフィアの方が少し驚いた。
「惜しくありませんの?」
「何がだ」
「王家との縁ですわ。アルセリード家にとっても、決して小さな話ではないでしょう」
「小さくはない」
「でしたら」
「家にとって利益があることと、今ここで娘の意思を無視して決めていいことは別だ」
レオルディスは淡々と答えた。
「本人がまだ五歳だからこそ、今すぐ何かを確定する必要もない」
セレフィアは夫の顔をしばらく見つめた。
「今日のあなた、随分と父親らしいことを仰いますのね」
「普段は何だ」
「公爵ですわ」
「家でも公爵だ」
「そういうところです」
思わず笑う。
けれど、その笑いはすぐに少し静かなものへ変わった。
「私、王太子妃になったあの子を見てみたいと思う気持ちはあります」
正直に言うと、レオルディスは特に驚かなかった。
「そうか」
「それだけ?」
「思うだけなら自由だろう」
「本人の意思を大切にするのでは?」
「お前が未来を想像することと、娘へその通り生きろと言うことは同じではない」
セレフィアは少し目を細めた。
「あなた、時々だけ本当に良いことを仰いますわね」
「時々は余計だ」
けれど、セレフィアが王太子妃となった娘の姿を想像したくなるのも本当だった。
きっと似合う。
銀の髪に王家の宝飾を合わせれば、幼い今でさえ人目を引く娘は、成長した時にはどれほど美しくなるのだろう。
家格も申し分ない。
教育も十分に受けられる。
外から見れば、「相応しい」という言葉はいくらでも並べられる。
そこまで考えて、セレフィアは少しだけ眉を寄せた。
「……あの子は、綺麗すぎるのかもしれませんね」
「今さら何の話だ」
レオルディスが怪訝そうにこちらを見る。
「娘自慢をしたいわけではありません」
「なら何だ」
「周りが、本人より先に似合うものを決めたくなるくらいだということです」
レオルディスは黙った。
「この色が似合う。この教師が良い。この方と並べば相応しい。きっと本人も喜ぶでしょう、と」
セレフィアは、自分でも言いながら少し耳が痛かった。
娘へ服を選ぶ時。
教師を選ぶ時。
遊び相手を選ぶ時。
自分だって何度も同じことをしている。
「全部が悪いとは思いません。でも、そればかりになれば、あの子自身が何を好きなのか分からなくなりそうですわね」
「……そうかもしれん」
「否定なさらないの?」
「お前が珍しく筋の通ったことを言っているからな」
「本当に一言余計ですわ」
睨むと、レオルディスはほんの僅かに口元を動かした。
笑っている。
おそらく。
この人の笑顔は分かりにくい。
◇
同じ頃。
その娘は自室で、明日着る衣装を前に真剣な顔をしていた。
「お嬢様はこちらを?」
ミレーヌが、二着のドレスを見比べながら尋ねる。
一着は深い赤紫。
もう一着は淡い青。
王太子との顔合わせへ着ていくため、何着か用意された中からヴェルシアナが最後まで残した二着だった。
「青にします」
返事は思ったより早かった。
「こちらの赤紫も、とてもお似合いになると思います」
ミレーヌは慎重に言った。
実際、赤紫はヴェルシアナの瞳によく似合う。
鏡の前で胸元へ布を当てただけでも、深い紅紫の瞳がより鮮やかに見えた。
ヴェルシアナもそのことは分かっているらしい。
「ええ。たぶん、こちらの方が似合うでしょうね」
「でしたら、なぜ青を?」
「その方が、少しは柔らかく見えるでしょう?」
ミレーヌは答えに困った。
ヴェルシアナが鏡を見る。
「わたくし、少し顔が強いでしょう?」
「……お綺麗だと思います」
「それはありがとうございます。でも、今は美しいかどうかの話ではなくて」
少し困ったように言われ、ミレーヌはますます返答に迷った。
今のお嬢様は、以前よりずっと話しやすい。
そう思う瞬間はある。
ただ、それをそのまま「怖くない」と言い換えてよいのかは、まだ分からなかった。
以前のことを忘れたわけではない。
何かを間違えれば叱られるかもしれない、気に入られなければ自分も別の場所へ移されるかもしれないという警戒は、簡単には消えない。
その一方で、最近のお嬢様は、こちらが失敗してもすぐ怒るとは限らない。
自分から謝ることもある。
ありがとう、と言われたこともある。
ミレーヌには、その変化をまだどう受け止めればいいのか分からなかった。
「赤紫ですと、目が少し怖く見えません?」
ヴェルシアナが尋ねる。
ミレーヌは鏡の中の主人を見る。
銀色の髪。
紅紫の瞳。
深い赤紫を合わせれば、確かにその瞳の強さは増す。
では青なら怖くなくなるのかと言われると、それも少し違う。
淡い青は銀髪の明るさを際立たせ、その中で紅紫だけが鮮明に浮かぶ。
むしろ、目を逸らしにくくなる気がした。
「……青も、お似合いです」
ミレーヌは結局そう答えた。
「そうではなくて」
「申し訳ございません」
「ああ、いえ。謝らなくてもいいです」
ヴェルシアナは少し困った顔をした。
その表情を見て、ミレーヌはほんの少しだけ肩の力を抜く。
以前なら、答えが気に入らなかっただけで空気が変わることもあった。
今は違う。
少なくとも今は。
「では、青でお願いいたします」
「はい」
ミレーヌは淡い青のドレスを受け取った。
綺麗だと思う。
それは以前から変わらない。
けれど、綺麗だから怖くないとは限らないことも知っている。
今のお嬢様が、本当に以前とは違うのか。
この変化がずっと続くのか。
ミレーヌにはまだ分からない。
ただ明日、王太子と会うという大きな話を前にしても、お嬢様は浮かれていない。
相手をほとんど知らないから、まず会いたいと言ったらしい。
それを聞いた時、少しだけ驚いた。
以前なら、もっと別の反応をしたような気がしたから。
それ以上の意味を、今はまだつけない。
ミレーヌは青いドレスを抱え直した。
今はただ、明日も今日と同じお嬢様であればいいと思った。
◇
「返書は、これでよいでしょう」
執務室では、レオルディスが書き上げた紙をセレフィアへ渡した。
そこに書かれていたのは、婚約への受諾でも拒絶でもない。
まずは王太子とヴェルシアナが顔を合わせ、言葉を交わす機会を設けたいという内容だけだった。
「思ったより短いのですね」
「長く書く必要がない」
「もう少しこう、娘をよろしくお願いいたしますとか」
「顔を合わせるだけだ」
「あなたは本当に情緒がありませんわね」
「返書に情緒を求めるな」
セレフィアは呆れながら紙を返した。
けれど、悪い返事ではないと思った。
むしろ今は、この程度がいいのかもしれない。
「ねえ、あなた」
「まだ何かあるのか」
「明日、ヴェルシアナが殿下を気に入ったらどうするの?」
レオルディスはすぐに答えず、封蝋の準備をしながら言った。
「その時は、そう聞く」
「では、嫌ったら?」
「それも聞く」
「どちらにしても聞くのですね」
「本人に会わせるのだから当然だろう」
少し間を置いてから、彼は続けた。
「五歳の今に、十年先まで決めさせるつもりもない。明日会って、また会いたいと思うかどうか。その程度から始めればいい」
セレフィアはその言葉を聞き、しばらく黙った。
十年先。
今よりずっと背が伸びた娘を想像する。
銀髪もさらに長くなるだろう。
幼さの抜けた顔立ちは、きっと今以上に人目を引く。
その隣に誰がいるのかは、まだ分からない。
王太子かもしれない。
別の誰かかもしれない。
それを今から考えることはできても、決める必要はない。
「私たち、あの子のことをどれくらい知っているのでしょうね」
ふと、セレフィアが呟いた。
レオルディスの手が止まる。
五年間、毎日見てきた。
好きな菓子も、眠い時の癖も、機嫌を損ねた時の声も知っている。
それでも最近、娘が何かを考えて黙っている時、その紅紫の瞳の奥に何があるのか分からないことが増えた。
「全部は知らない」
やがてレオルディスが答えた。
意外なほど簡単だった。
「随分あっさり認めるのですね」
「親だから何でも分かると思う方がおかしいだろう」
「それを五年前の私にも言ってくださればよかったのに」
「聞かれなかった」
「そういうところですわ」
セレフィアは小さく笑った。
「では、分からないことがあったら?」
「聞く」
「答えてくれなかったら?」
「待つ」
やはり、それだった。
「本当に、あなたは待つことだけは得意ですわね」
「お前が急ぎすぎるだけだ」
「今は褒め言葉として受け取っておきます」
夕暮れは、少しずつ夜へ近づいていた。
明日。
ヴェルシアナは王太子アレクシスと会う。
周囲の大人たちは、きっと二人を見比べる。
王太子と、公爵令嬢。
王家とアルセリード家。
並べば似合うと言う者もいるかもしれない。
将来を想像する者もいるだろう。
セレフィア自身だって、想像しないとは言えない。
それでも、明日そこにいる娘は、未来の王太子妃ではない。
王太子についてほとんど何も知らず、それでもまず会ってみたいと言った、五歳の少女だ。
銀の髪も。
紅紫の瞳も。
公爵家の名も。
周囲から見れば、すでに多くの意味を持っている。
けれど、それらだけで娘の未来まで分かったことにはならない。
セレフィアは、王家への返書へもう一度目を落とした。
婚約を受けるとも。
断るとも。
まだ書かれていない。
その余白が、今は妙に心地よかった。
娘の未来も、きっと同じでいい。
何かが変わった理由も。
王太子をどう思うのかも。
これからどんな子になっていくのかも。
父にも母にも、まだ分からない。
分からないものを、分かったことにしない。
少なくとも今夜は、それで十分だった。




