第7話 王太子は、まだ攻略対象ではない
王太子との顔合わせが決まった翌日から、屋敷の空気は目に見えて慌ただしくなった。
正確に言えば、屋敷全体というより、俺の周囲だけが妙に騒がしくなったと言った方が近い。侍女たちは衣装部屋と自室を何度も往復し、母は仕立て屋へ使いを出し、礼法の稽古は普段より一段階厳しくなった。父は表立って何かを言うことこそなかったものの、夕食の席ではいつもより頻繁にこちらの様子を確かめていたので、本人なりに気にしているのだろう。
たった一度、同年代の子供と顔を合わせる。
前世の感覚なら、その程度の話で済む。
けれど相手がこの国の王太子であり、さらに将来の婚約候補ともなれば、周囲にとっては単なる子供同士の挨拶ではないらしい。
「お嬢様、もう一度お願いいたします」
午前の礼法室で、エルダ夫人の落ち着いた声が響いた。
俺は扉から数歩離れた位置へ戻り、もう何度目になるか分からない入室の練習をやり直す。王族の前では普段より歩幅を僅かに小さくし、視線を伏せすぎることなく、しかし真正面から長く見つめ続けることも避けなければならない。指定された位置まで進んだら、ドレスの裾を乱さないよう膝を折り、相手との身分差に応じた深さで礼をする。
説明だけなら簡単なのだが、実際に身体を動かすとなると考えることが多すぎる。
「ごきげんよう、王太子殿下。本日はお招きいただき――」
「左足が半歩ほど前へ出ております」
「そこまで見ていらっしゃるのですか?」
「もちろんでございます」
「……分かりましたわ」
相変わらず容赦がない。
けれど、以前の俺なら煩わしいと感じていたかもしれない細かな指摘を、今は不思議とありがたく受け止められていた。ここで失敗すれば失敗したと教えてもらえ、それを直せば次は少し良くなる。何をしても「お嬢様なら大丈夫です」と肯定されるより、よほど安心できる関係だった。
「それでは、もう一度最初からお願いいたします」
「はい」
再び扉の前へ戻りながら、俺は内心でため息をつく。
王太子に会うと決めたのは自分だ。
その選択を後悔してはいないが、自分で決めた以上、それに伴って礼法の稽古が増えるところまで含めて引き受けなければならないらしい。
自分で選ぶというのは、想像していたほど気楽なことではない。
◇
稽古が終わる頃には、足よりも背中の方が疲れていた。
姿勢を崩さないという行為は、見た目以上に筋肉を使うらしい。前世で長時間デスクワークをしていた頃も肩は凝ったが、五歳児の身体で貴族令嬢らしい姿勢を維持する疲労は、それとはまた別の種類だった。
「本日はここまでにいたしましょう」
エルダ夫人がそう告げた時には、正直かなり助かった。
「ありがとうございます」
「顔合わせまではまだ三日ございます。今のお嬢様でしたら、最低限の作法については大きな問題はないでしょう」
最低限という言葉が褒め言葉なのか、それともぎりぎり失格ではないという意味なのかは判断しづらい。それでも、少なくとも以前より前向きな評価であることは間違いないだろう。
「エルダ夫人、一つ伺ってもよろしい?」
「何でしょう」
「王太子殿下は、どのようなお方なのですか?」
尋ねると、夫人は少し考えるように視線を上げた。
「わたくしがお目にかかったのは、公式の場で数度だけでございます。殿下もまだ幼くいらっしゃいますので、お人柄について詳しく申し上げられるほどではございません」
「分かる範囲で構いませんわ」
「そうでございますね。大変お行儀がよく、お年の割には落ち着いておられるという印象でございます」
原作の印象と大きくは違わない。
ゲーム本編の王太子も感情に流されにくく、常に王族としての責任を優先する人物だった。
ただ、俺が知っているのは十五歳になった彼であって、今から会おうとしているのは、その十年前の少年だ。
「よく笑われますの?」
何気なく尋ねると、エルダ夫人が少し意外そうな顔をした。
「殿下が、でございますか?」
「ええ」
「公式の場では、必要に応じて微笑んでいらっしゃいました」
その言い回しが、少しだけ引っかかった。
「必要に応じて、ですか?」
「王族とは、そういうお立場でございます。笑いたい時にだけ笑い、泣きたい時にだけ泣くことを許される方々ではございません。幼くとも、周囲からは王族として見られますから」
その言葉を聞いた瞬間、昨日考えたことが頭へ戻ってきた。
ヴェルシアナだけではない。
王太子もまた、自分が何者になるべきかを周囲から教えられながら育っている。
しかも彼の場合、公爵令嬢であるヴェルシアナより、さらに強い期待と制約の中にいるのだろう。
「……大変ですのね」
自然にそう口にすると、エルダ夫人が少しだけ目を細めた。
「お嬢様がそのようなことを仰るとは、少々意外でございます」
「どういう意味ですの?」
「以前のお嬢様でしたら、王太子殿下というお立場について、大変羨ましがっておられましたので。国で最も偉い方のお子様なのだから、何でもお好きになさることができるのだろう、と」
子供らしいと言えば、かなり子供らしい発想だ。
しかし、それを単純に笑う気にはなれなかった。
何でもできるように見える人間ほど、実際には何も自由に選べないことがある。前世でも似たような場面は見てきたし、この世界では身分が高くなるほど、その傾向はさらに強いのかもしれない。
「今は、そうは思いませんわ」
「左様でございますか」
「少なくとも、ご本人にお会いするまでは何も分かりませんもの」
そう答えると、エルダ夫人はほんの少しだけ表情を柔らかくした。
「それがよろしいかと存じます」
この人はやはり、結論をこちらへ押しつけない。
自分の経験を話し、必要なことは教えてくれるが、最終的に何を思うべきかまでは指定しない。
だからこそ、今の俺には信用しやすかった。
◇
自室へ戻ると、今度は別の意味で面倒な問題が待っていた。
「こちらでは、少々控えめすぎるように思いますわ」
ナディアが、母と侍女たちによって候補に選ばれた淡い青銀色のドレスを眺めながら言った。
「そうかしら。わたくしは好きですけれど」
鏡の前に立って答える。
顔合わせ用の衣装は、先日の茶会で着たものより明らかに上等だった。銀糸で細かな植物模様が縫い込まれ、首元には小さな宝石が飾られているが、全体としては派手すぎず、俺の銀髪にもよく馴染んでいる。
少なくとも俺には十分すぎるほど豪華に見えた。
「王太子殿下との初めての顔合わせでございます。もう少し華やかなお召し物の方が、殿下のお目にも留まりやすいかと存じます」
「殿下の目に留まるために行くのではありませんわ」
そう返すと、ナディアが僅かに目を瞬かせた。
「では、何のためにお会いになるのでございますか?」
「どのようなお方なのか、自分でお話しして確かめるためです」
「もちろん、それも大切でございます。ただ、第一印象というものは将来のお二人にとって――」
「ナディア」
強く遮るのではなく、彼女が一息置いたところで名前を呼ぶ。
「わたくしは、まだ殿下に気に入っていただきたいと決めているわけではありませんの」
部屋の空気が、ほんの一瞬だけ変わった。
背後に控えていたミレーヌは口を挟まなかったが、鏡越しに見ると、こちらの会話へ注意を向けているのが分かる。
ナディアもすぐには返事をしなかった。
「……お嬢様」
「お父様にもお母様にも、殿下へお会いしてから考えたいと申し上げました。ですから今は、わたくしが殿下からどう見られるかより、殿下がどのようなお方なのかを知りたいのです」
「しかし、王家とのご縁はアルセリード公爵家にとって非常に大切なものになる可能性がございます」
「大切なお話だからこそ、何も知らないうちに決めてしまうのはおかしいのではなくて?」
昨日までなら、五歳児がここまで理屈立てて話すことを不自然に思われないか気にしていたかもしれない。
今も多少は気になる。
ただ、父と母には高熱を出したことをきっかけに考え方が変わったと説明しているし、何よりナディアの前でだけ何も考えない子供のふりを続ければ、それこそ彼女へ判断を預けることになる。
自分で決めると決めた以上、少しくらい変わった子供と思われる程度は引き受けるしかない。
「……お嬢様は、本当にお変わりになりましたね」
やがて、ナディアが静かに言った。
「そうでしょうか」
「はい。以前は王太子殿下のお話をなさるだけでも、大変お喜びになっておられましたから」
「お会いしたこともないのに?」
「王国で最も尊いお方のお一人でいらっしゃいますもの」
まただ。
彼女が語るのは王太子という少年のことではなく、王太子という地位についてばかりだった。
「ナディアは、殿下にお会いしたことがありますの?」
「公式の場で何度か拝見しております」
「どのようなお方でした?」
「大変聡明で、お姿も美しく、将来は素晴らしい国王になられる方だと皆が申しております」
やはり、それは人物そのものを知っている者の答えではない。
「では、殿下がお好きな食べ物をご存じ?」
「……いいえ」
「何をして遊ぶのがお好きなの?」
「それも、存じ上げません」
「仲の良いお友達は?」
ナディアは、そこで答えを失った。
責めるつもりはなかった。
ただ、問いを重ねてみて初めて、はっきり分かった。
「わたくしたち、殿下のことを何も知りませんのね」
鏡の中でナディアと目が合う。
「それなのに、わたくしに最も相応しい方だと言えるのは、少し不思議ですわ」
彼女の微笑みは崩れなかったが、以前のような余裕はほんの少しだけ薄れていた。
「王太子殿下であるということ自体が、お嬢様に相応しい理由でございます」
「そう」
それ以上は追及しなかった。
少なくとも、また一つ分かったことがある。
ナディアにとって重要なのは、アレクシスという少年ではない。
王太子という肩書きだ。
ならば、彼女が俺と王太子を結びつけたがる理由も、恋愛や相性とはまったく別の場所にある可能性が高い。
それだけ覚えておけば、今は十分だった。
◇
そして迎えた顔合わせ当日。
王宮へ向かう馬車の中で、俺は窓の外を流れていく王都の景色を眺めていた。
アルセリード公爵邸の周辺も十分に整っていたが、王都の中心部へ近づくほど建物は大きくなり、通りを行き交う馬車や人の数も目に見えて増えていく。石造りの建物には色鮮やかな看板が並び、広場では商人たちが品物を広げ、その向こうには教会らしい尖塔まで見えていた。
ゲームでは背景画像一枚で済まされていた王都にも、当然ながら生活がある。
露店で果物を選ぶ女性も、荷車を押している男も、路地を走り抜けていく子供たちも、ヒロインや攻略対象とは何の関係もなく、それぞれの一日を生きている。
こうして実際に眺めていると、自分が知っている『リュミエールの天秤』という物語が、この世界のほんの一部分にしかすぎなかったことを改めて思い知らされる。
「緊張している?」
向かい側に座る母が尋ねた。
「少しだけですわ」
「大丈夫よ。今日は正式な婚約式ではありませんし、まずは同じ年頃の子供同士でお話をするだけですもの」
「お母様も一緒にいてくださるの?」
「最初はね。その後は、殿下と少しお話しできる時間を用意してくださっているそうよ。もちろん侍従や侍女は近くにおりますけれど」
王家としても、いきなり婚約を成立させるのではなく、まず子供同士を会わせて様子を見るつもりなのだろう。
その程度の柔軟さがあると知れただけでも安心材料にはなる。
隣に座っていた父は、ここまでほとんど口を開かず窓の外を見ていた。
「お父様」
「何だ」
「王太子殿下は、どのようなお方ですの?」
「会ったことはある」
「それは存じていますわ」
「真面目な子だ。年齢の割には責任感が強く、陛下によく似ている」
説明としては間違っていないのだろうが、父らしく随分と簡潔だ。
「では、お父様は殿下がお好きなの?」
その問いには、さすがの父も少し困ったように眉を動かした。
「好き嫌いで王太子殿下を評価することはない」
「そういうものなのですね」
「そういうものだ」
母が隣で笑いを堪えている。
「あなた、娘に聞かれているのだから、もう少し柔らかく答えてあげてもよろしいでしょうに」
「事実を答えている」
「だから、そういうところですわ」
思っていたよりずっと普通の夫婦だ。
こんなやり取りをする二人と、原作のヴェルシアナはどのような関係だったのだろう。
少し前までの俺なら、「両親が甘やかした結果、悪役令嬢になった」と単純に整理していたかもしれない。
けれど、実際にはそんなに分かりやすい話ではない。
愛されていた。
守られていた。
娘を傷つけたくないと思われていた。
だからこそ、その愛情へ別の誰かの解釈が入り込んだ時、両親自身も知らないうちに娘を間違った方向へ押してしまったのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、馬車の速度がゆっくりと落ち始めた。
窓の向こうには、白い石壁と青銀の屋根を持つ巨大な建物が広がっている。
王宮だ。
ゲームでは何度も見た場所のはずなのに、実際に目の前へ現れると圧迫感がまるで違う。
高い城壁も、等間隔に立つ騎士たちも、門から宮殿へ続く長い石畳も、ここが一つの家ではなく、国そのものの中心なのだと否応なく理解させる。
馬車が止まり、扉が開く直前、父が俺へ視線を向けた。
「ヴェルシアナ」
「はい」
「無理に気に入られようとする必要はない。ただし、相手が誰であろうと失礼はするな」
いかにも父らしい言葉だった。
母も柔らかく続ける。
「あなたも殿下も、まだ幼いのですもの。今日はお話をして、どんな方なのかを知ってくれば十分よ」
「分かりましたわ」
二人の言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
俺は差し出された手を借りて馬車を降り、ゲームの中でしか知らなかった王宮へ足を踏み入れた。
◇
案内されたのは、王宮の中では比較的小さな応接室だった。
小さいと言っても、公爵邸の客間より広いくらいなのだから基準がおかしい。壁には穏やかな風景画が飾られ、大きな窓からは手入れの行き届いた中庭が見えている。
豪華でありながら威圧感は薄く、子供同士を顔合わせさせるために意図的に柔らかな部屋を選んだのだろう。
俺たちが入室して間もなく、反対側の扉が開いた。
先に姿を見せたのは侍従で、その後ろから一人の少年が静かに歩いてくる。
年齢は俺より一つ上くらいだろう。
光を受けると淡い金色にも見える白銀の髪と、澄んだ青い瞳。顔立ちにはまだ幼さが残っているのに、背筋は真っ直ぐ伸び、歩く速度に迷いがない。
見覚えがあった。
十年後の姿とは随分違う。
輪郭も柔らかく、背も低く、ゲームで見た冷静な青年と比べれば、まだ明らかに子供だ。
それでも間違えるはずがない。
『リュミエールの天秤』における主要攻略対象であり、アルヴェネア王国第一王子。そして原作では、ヴェルシアナが人生を壊すほど執着することになる少年。
アレクシス・アルヴェネア。
未来の王太子が、まだ六歳ほどの姿で目の前にいた。
彼は室内へ入ると両親へ礼をし、それから俺へ視線を向けた。
その青い瞳が、ほんの一瞬だけ止まる。
ゲームでもヴェルシアナの銀髪と赤紫の瞳は目立つ設定だったから、単純に容姿を見たのかもしれない。
「初めまして」
先に口を開いたのはアレクシスだった。
「アレクシス・アルヴェネアです。本日は来てくださってありがとうございます」
まだ六歳ほどの子供とは思えない、整った挨拶だった。
俺も何度も練習した通りに礼をする。
「初めまして、王太子殿下。ヴェルシアナ・アルセリードです。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
頭を上げると、目が合った。
原作のヴェルシアナは、この相手を前にするたび感情を大きく揺らし、最終的には彼のためなら他人を傷つけることさえ厭わなくなる。
その相手と、今の俺はただ普通に挨拶を交わしている。
妙な感覚だった。
「ヴェルシアナ嬢」
「はい」
「……あなたも、今日のお話について聞いていますか?」
予想していなかった質問だった。
もっと当たり障りのない挨拶が続くと思っていた俺は、少しだけ目を瞬かせる。
「婚約のお話ですか?」
「はい」
室内にいる大人たちの気配が、僅かに静まった。
アレクシスはそれを気にした様子もなく続ける。
「僕は、家同士にとって良いことだと聞きました」
「わたくしも、似たようなことを聞きましたわ」
「そうですか」
そこで会話が止まった。
よく考えれば当然だ。
俺は中身こそ大人だが、相手は本当に六歳の子供なのだから、婚約という大きな話題を振られたところで、どう会話を続ければいいのか分からなくても不思議ではない。
アレクシスも少し困っているように見えた。
「殿下は、このお話を嬉しいと思っていらっしゃるの?」
俺が尋ねると、母が僅かに息を呑む気配がした。
少し直接的すぎたかもしれない。
けれど本人に聞くために、俺はここまで来たのだ。
アレクシスはすぐには答えず、子供なりに真剣な顔でしばらく考えていた。
「……分かりません」
返ってきた言葉に、今度は俺の方が少し驚いた。
「分からないのですか?」
「はい。あなたとは今日初めて会いましたから、嬉しいかどうかを決めるほど何も知りません」
あまりにも普通の答えだった。
そして、その普通さが妙に嬉しかった。
「わたくしも同じですわ」
「同じなのですか?」
「ええ。まだ殿下のことを何も知りませんもの」
アレクシスが何度か目を瞬かせたあと、少しだけ不思議そうに尋ねる。
「怒らないのですか?」
「何を?」
「僕が、婚約を嬉しいと言わなかったことを」
その質問に、一瞬だけ言葉を失った。
どうして俺が怒ると思ったのだろう。
「怒りませんわ」
「でも、アルセリード家の方は、この婚約を喜んでいると聞きました」
誰からそう聞いたのかと尋ねかけて、やめた。
今はそれより重要なことに気づいたからだ。
アレクシスもまた、大人たちから「皆が望んでいる」と伝えられている。
俺と同じだった。
「少なくとも、わたくしはまだ決めておりません」
「そうなのですか?」
「はい。だから今日、殿下とお会いしてから考えたいと、お父様にお願いしましたの」
アレクシスはしばらく何も言わなかった。
やがて、ずっと張り詰めていた肩から僅かに力が抜ける。
ほんの小さな変化だったが、最初から姿勢を一度も崩していなかったからこそ、よく分かった。
「僕も、そう言えばよかったです」
「何を?」
「会ってから考えたい、と」
その声だけは、王太子という肩書きを背負ったものではなく、普通の少年のものに聞こえた。
「今からでも、お父様へそう仰ればよろしいのでは?」
「父上に?」
「ええ」
アレクシスは少し考え、僅かに眉を寄せた。
「怒られるかもしれません」
「怖いのですか?」
そう尋ねると、彼は目に見えてむっとした。
「怖くありません」
その反応を見た瞬間、思わず笑いそうになった。
六歳の子供だ。
少なくとも今この瞬間の彼は、原作で見た冷静沈着な王太子ではなく、「怖い」と言われて素直に否定する普通の少年だった。
「今、笑いましたね」
「少しだけですわ」
「やっぱり」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら、最初から笑わなければいいと思います」
「それは少々難しい注文ですわね」
俺の返事に、今度はアレクシスの方が目を瞬かせた。
そして次の瞬間、彼の口元が僅かに緩んだ。
エルダ夫人が言っていた、王族として必要に応じて浮かべる微笑みとは違う。
今のは、たぶん普通に可笑しくて笑ったのだ。
その表情を見た時、俺の頭の中にあった「攻略対象」という言葉が、ほんの少しだけ薄くなった。
目の前にいるのは、ゲームの王太子ではない。
まだ六歳の少年で、婚約が持つ意味も完全には分からないまま、大人たちから「家のためになる」と教えられ、それを受け入れようとしている子供なのだ。
それは、この数日で俺が知り始めた元のヴェルシアナと、少しだけ似ている。
誰かに「これが正しい」と教えられ、自分で選ぶ方法をまだ知らない。
大きな違いがあるとすれば、俺には前世の記憶があるということくらいだ。
「ヴェルシアナ嬢」
「はい?」
「僕は、あなたのことを怖い人だと聞いていました」
今度は俺の方が固まった。
「……どなたから?」
「何人かからです。すぐ怒るとか、気に入らない人を遠ざけるとか」
だいたい合っている。
反論のしようがない。
「そうですのね」
「怒らないのですか?」
「またそれですの?」
「だって、悪口でしょう?」
少し前にも、リュネアから似たようなことを言われた。
どうやら元のヴェルシアナに関する評判は、子供たちの間にもかなり広がっているらしい。
「以前のわたくしが実際にそうだったのであれば、仕方ありませんわ」
「今は違うのですか?」
その問いには、すぐ答えられなかった。
俺は違う人間だ。
そう言えば簡単だ。
けれど、この身体でこれから生きていく以上、以前のヴェルシアナがしたことまで完全に他人事として扱うのは、何か違う気がしていた。
「違うようになりたいと思っています」
だから、そう答えた。
「なりたい、ですか?」
「はい。以前に誰かへ嫌なことをしたのでしたら、次から同じことをしなければいいでしょう?」
「そんなに簡単ですか?」
「簡単ではないかもしれません。でも、何もしないよりはいいと思いますわ」
アレクシスは、しばらく真剣な目で俺を見ていた。
王族として人を見る訓練でも受けているのかと思うほどまっすぐな視線だったが、その奥には純粋な疑問も混じっている。
「変な人ですね」
「殿下に言われたくありませんわ」
「僕のどこが変なのですか?」
「まだ分かりません。今日初めてお会いしたばかりですもの」
一瞬の間を置いて、今度は二人とも笑った。
その時になって初めて、少し離れたところからこちらを見守っていた大人たちが、妙に静かになっていることに気づいた。
◇
その後、両親たちは少し離れた場所へ移り、俺とアレクシスは中庭を歩くことになった。
もちろん完全に二人きりではなく、一定の距離を保って侍従と侍女が後ろからついてくる。
庭には季節の花々が整然と植えられ、中央の池には白い鳥が浮かんでいた。王宮らしくどこを見ても手入れが行き届いているが、先ほどの応接室よりは肩の力を抜きやすい。
「ヴェルシアナ嬢は、普段は何をして遊ぶのが好きなのですか?」
隣を歩きながら、アレクシスが尋ねた。
「……よく分かりませんわ」
「分からないのですか?」
「最近になって、自分が何を好きなのか改めて考えるようになりましたの。でも、まだ答えが出ていなくて」
前世の趣味をそのまま答えるわけにもいかないし、元のヴェルシアナの趣味についてはゲームでもほとんど語られていなかった。
「殿下は何がお好きなの?」
「剣の稽古です」
「もう剣を?」
「木剣です。本物はまだ持たせてもらえません」
その言い方には少し不満が混じっていて、また年相応に見えた。
「ほかには?」
「歴史の本を読むのも好きです」
「真面目ですのね」
「王太子ですから」
迷いのない答えだった。
けれど、その言葉を聞いて少しだけ引っかかる。
「王太子だから、お好きなの?」
「どういう意味ですか?」
「もし殿下が王太子でなくても、歴史の本は好きだと思います?」
アレクシスはすぐには答えなかった。
歩みを緩め、足元の石畳を見つめる。
「……分かりません」
最初の婚約の話と同じ答えだった。
ただ今回は、少しだけ寂しく聞こえた。
「物心がついた時から、ずっと王太子なのですね」
「当たり前です」
「わたくしも、物心がついた時からずっと公爵令嬢なのでしょうね」
「それも当たり前では?」
「ですから、少し似ていますわ」
アレクシスが足を止め、こちらを見る。
「僕たちが?」
「はい。殿下は王太子として相応しいことを教わり、わたくしは公爵令嬢として相応しいことを教わる。でも、それが本当に自分の好きなものなのかは、まだよく分かっていないのでしょう?」
口にしてから、さすがに五歳児としては考えすぎた内容だったかもしれないと思った。
けれどアレクシスは笑わなかった。
むしろ真剣に考え込んでいる。
「では、どうすれば分かるのでしょう」
問い返されて、少し困った。
俺にも完全な答えなどない。
前世では長く生きるうちに好き嫌いが増えていっただけで、明確な方法があったわけではない。
「いろいろ試してみるしかないのではありませんか?」
「試す?」
「知らないものは、好きか嫌いか決められませんもの。食べ物だって、食べる前から嫌いだと決めるのは変でしょう?」
「僕は豆が嫌いです」
「食べたことは?」
「あります」
「でしたら、それは嫌いでよろしいと思いますわ」
アレクシスが吹き出した。
今度は、はっきりと笑った。
王太子らしい整った微笑みではなく、年相応の少年らしい笑い方だった。
少し離れた場所で侍従が驚いたような顔をしている。
「では、ヴェルシアナ嬢は何か試してみたいものがありますか?」
「そうですわね」
考えてみる。
刺繍はリュネアに教えてもらう約束をした。
魔法についても、いずれ本格的に学ぶことになるだろう。
この世界にしかないものなら、前世の俺として興味を引かれるものはいくらでもある。
「馬には乗ってみたいですわ」
「乗馬ですか?」
「ええ。まだ小さいので難しいかもしれませんけれど」
「僕はもう乗っています」
アレクシスの声に、少しだけ誇らしさが混ざった。
「本当ですの?」
「仔馬ですが、それでも一人で少しなら乗れます」
「それはすごいですわね」
「今度、見せてあげます」
「本当に?」
「はい」
そこまで言ったところで、アレクシスが少しだけ黙った。
俺も同時に気づく。
今度ということは、また会うということだ。
婚約相手としてではなくても、少なくとも今日だけで終わる関係ではなくなる。
「……婚約とは関係なく」
アレクシスが僅かに早口で付け加えた。
「乗馬を見るだけです」
「ええ。もちろん、そのつもりですわ」
俺も頷く。
それでいい。
将来の婚約者として気に入られなければならないという前提を外してしまえば、目の前の少年と話すことは思っていたほど難しくない。
少なくとも今の俺には、婚約候補ではなく、少し変わった同年代の知り合いくらいがちょうどよかった。
◇
帰りの馬車へ乗り込む直前、アレクシスが俺を呼び止めた。
「ヴェルシアナ嬢」
「はい?」
「婚約のことなのですが、僕も父上に話してみようと思います」
「何をですの?」
「あなたと、もう少し話してから考えたいと」
予想していなかった言葉だった。
「よろしいのですか?」
「あなたが言ったのでしょう。知らないものを、先に決めてしまうのは変だと」
「そこまでは言っていないと思いますけれど」
「同じ意味です」
妙なところで強引だ。
「もし陛下がお怒りになったら?」
「怖くありません」
先ほどと同じ答えだったが、今度は口元に僅かな笑みがある。
「そうですか。では、頑張ってくださいませ」
「なぜ僕だけが頑張るのですか?」
「殿下のお父様へお話しになるのでしょう? わたくしは、自分のお父様にはもう話しましたもの」
「ずるいです」
「早い者勝ちですわ」
またアレクシスが笑った。
その姿を見ながら、俺は少しだけ安心していた。
原作で知っている王太子とは、まだ随分違う。
それは当たり前のことなのだが、自分の目で確認した意味は大きかった。
ゲームの中で見た十五歳の人物像だけを理由に、この六歳の少年まで同じ人間だと決めつけなくてよかった。
元のヴェルシアナに対してもそうだったように、人間は物語が始まる時点ですでに完成しているわけではない。
十年という時間の中で、何かを教えられ、誰かと出会い、傷ついたり、守られたりしながら、その人間になっていく。
王太子も、たぶん同じなのだ。
◇
公爵邸へ戻る頃には、陽がかなり傾いていた。
自室へ入ると、待っていたナディアがすぐにこちらへ近づいてくる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。王太子殿下とのお顔合わせはいかがでございました?」
いつも通り穏やかな声だったが、その奥には隠しきれない期待が混じっていた。
きっと以前のヴェルシアナであれば、王太子に会えたというだけで興奮し、どれほど素晴らしかったかを話し続けたのかもしれない。
俺は今日一日の出来事を思い返してから、なるべくそのまま答えた。
「思っていたより、普通の方でしたわ」
「……普通、でございますか?」
「ええ。真面目な方でしたけれど、お話ししてみれば同じくらいの年頃の方なのだと思いました」
「それだけでございますか?」
ナディアの問いには、明らかな物足りなさがあった。
「それだけではいけませんの?」
「いいえ、そのような意味ではございません。ただ、お嬢様が以前からあれほど王太子殿下へ憧れておられましたので、実際にお会いになれば、さぞお喜びになるものと……」
「以前のわたくしは、殿下ご本人ではなく、王太子という立場へ憧れていただけなのかもしれませんわね」
そう返すと、ナディアが僅かに目を細めた。
「本日お会いして、そう思われたのですか?」
「少なくとも、王太子殿下だからという理由だけで、特別に好きになるものではないと思いました」
ナディアは黙ってこちらを見ている。
そこで俺は、もう一つ伝えることにした。
「それから、殿下も婚約についてすぐには決めず、もう少しわたくしと話してから考えたいと仰っていましたわ」
その瞬間だった。
ナディアの顔から、ほんの僅かな時間だけ笑みが消えた。
本当に一瞬のことだったので、俺が彼女を疑っていなければ見逃していたかもしれない。
すぐに普段通りの穏やかな表情へ戻ったものの、少なくとも今の話を歓迎していないことだけは伝わってきた。
「……王太子殿下が、そのように仰ったのでございますか?」
「ええ」
「どなたかが、そうお勧めになったのでしょうか」
「いいえ。お話ししているうちに、殿下ご自身でそう決められました」
ナディアは数秒ほど黙った。
困惑しているのか、それとも単に予想外だっただけなのかは分からない。
もっと疑い深く見るなら、自分が思い描いていた展開から外れたことで計算を修正しているようにも見えるだろう。
ただし、そこまで考えるのはまだ早い。
俺は彼女の表情を記憶に留めるだけにした。
「ナディア、今日は少し疲れましたので、着替えたら休みたいですわ」
「……かしこまりました」
彼女が丁寧に頭を下げる。
ミレーヌへ着替えを任せ、ナディアが部屋を出ていくのを見送ってから、俺はようやく肩の力を抜いた。
今日、俺がしたことは大したことではない。
王宮へ行き、王太子と話をして、婚約についてもう少し考えるという結論を共有しただけだ。
けれど、原作を知っている俺にとっては、それが決して小さな出来事ではないことも分かっていた。
これまで変えてきたのは、主に俺自身の振る舞いと、その周囲にいる人たちとの関係だった。
使用人へ礼を言い、ミレーヌを責めず、エルダ夫人の忠告を受け入れ、リュネアと普通に友人として話す。
その一つひとつは確かに原作とは違うが、まだ物語の中心からは遠かった。
けれど今日は違う。
王太子アレクシスという、原作の中心人物の選択が、俺との会話によって僅かに変わった。
原作では幼少期から婚約が成立していた可能性が高い二人が、今は「すぐには決めない」という場所に立っている。
この変化が十年後に何を生むのかは、俺にも分からない。
婚約そのものがなくなるかもしれないし、何らかの理由で後から成立する可能性もある。
あるいは原作では決して存在しなかったような、友人に近い関係になることだってあるだろう。
そうなれば、当然ながら俺が知っている未来からは少しずつ外れていく。
原作知識という安全網が役に立たなくなることを考えれば、本来なら恐ろしく感じるべきなのかもしれない。
それでも、今日の俺は思っていたほど不安ではなかった。
そもそも原作通りに進んだ先に待っているのは、ヴェルシアナの破滅なのだ。
婚約破棄。
没落。
場合によっては処刑。
それを避けたいからこそ、この世界へ来た最初の日から行動を変えているのに、原作から外れることそのものを恐れていては意味がない。
大切なのは、知っている未来を守ることではなく、その未来が変わった後でも、自分で考えることをやめないことなのだろう。
そして今日、俺は初めて王太子を「攻略対象」としてではなく、一人の人間として見ることができた。
真面目で、少し意地っ張りで、父親に怒られるかもしれないと考えながらも強がり、豆が嫌いで、木剣の稽古ができることを少し得意げに話す六歳の少年。
十年後のアレクシスがどんな人間になるのかは、まだ分からない。
同じように、十年後の俺がどんなヴェルシアナになっているのかも分からない。
それでも今この瞬間の俺たちは、まだ原作で与えられた「悪役令嬢」と「攻略対象」という関係ではなく、大人たちから婚約の話を持ち込まれて少し困っている、ただの子供同士だった。
もし人間が十年という時間の中で形作られていくのなら、その途中にある出会いや選択が変われば、完成する関係まで同じである必要はない。
今日交わした会話が未来をどれほど変えるのか、今の俺には知る術がない。
ただ、王太子を避けるだけでは知ることのできなかった一面を、自分の目で確かめられたことには意味があったと思う。
少なくとも、ゲームの画面に映っていた十五歳の姿だけを理由に、目の前の六歳の少年まで嫌う必要はない。
そして同じことを、いつか俺自身にも言えるようになれればいい。
原作で悪役令嬢だったからといって、今ここにいるヴェルシアナまで、同じ人間になる必要はないのだから。




