閑話 王太子は、もう一度会いたい理由を知らない
アレクシス・アルヴェネアは、自分がどう振る舞えば大人たちに安心されるのかを、六歳なりによく知っていた。
背筋を伸ばして座ること。
相手が話し終える前に口を挟まないこと。
知らないことを知っているふりはしないが、分からないからといって考えることまで放棄しないこと。
人前では王太子として恥ずかしくない言葉を選び、誰か一人を露骨に特別扱いしすぎないこと。
父から細かな決まりとして教え込まれたわけではない。
むしろ父は、アレクシスが周囲から聞いた言葉をそのまま口にすると、時々ひどく答えにくい質問を返してくる人だった。
それでも王宮で暮らしていれば、期待されている振る舞いは嫌でも分かる。
家庭教師は正しい答えを喜び、臣下たちは年齢に似合わない落ち着きを褒め、初めて会う貴族たちは決まって「さすが王太子殿下です」と言う。
だからアレクシスも、そういうものなのだと思っていた。
誰かに何かを尋ねられれば、まず王太子として正しそうな答えを探す。
それは息苦しいというほどのことでもなかった。
生まれた時からそうなのだから、比較するものがない。
ただ、先日会ったアルセリード公爵家の令嬢は、その順番を少しだけ乱した。
ヴェルシアナ・アルセリード。
父より先に、周囲の大人たちから何度も名前を聞いていた少女。
公爵家の一人娘で、魔法の素質も高く、美しい子供で、将来アレクシスの隣へ立つ相手として申し分がないのだという。
そして、少し気難しいとも聞いていた。
気に入らないことがあれば怒る。
機嫌を損ねた相手を遠ざけることがある。
同じ年頃の子供たちの間でも、怖い令嬢として知られているらしい。
だから初めて会う前、アレクシスは少しだけ身構えていた。
それを誰かに言ったことはない。
王太子が、五歳の少女を怖がっていると思われるのは少し嫌だったからだ。
けれど実際に会ってみれば、噂が完全な嘘だったとも思わなかった。
ヴェルシアナは、黙っていると確かに近寄りがたい。
初めて向かい合った時、アレクシスがまず目を引かれたのは、淡い銀色の髪だった。
王宮にも色素の薄い髪を持つ者はいるが、彼女の髪は光を受けると白に近いほど淡く、その下にある濃い赤紫色の瞳だけが、ひどく鮮明に見えた。
まだ五歳なのに、顔立ちもよく整っている。
大人の女性へ向けるような意味ではもちろんない。ただ、絵物語の中で「公爵令嬢」や「気位の高い姫君」を描くなら、きっとこんな姿になるのだろうと、六歳のアレクシスでも思える程度には目立った。
しかも姿勢がいい。
座り方も、カップの持ち方も、話す時の顔の向け方も綺麗だった。
だから少し眉を寄せるだけでも、その表情には妙な強さが生まれる。
最初に赤紫色の瞳を細められた時、アレクシスは自分が何か失礼なことを言ったのかと、一瞬だけ考えた。
けれど、そのあとにヴェルシアナが口にしたのは、怒りでも嫌味でもなかった。
「殿下は、この婚約が決まったら嬉しいのですか?」
その質問の方が、よほど困った。
アレクシスは、それまでにも婚約の話をされたことがある。
アルセリード公爵家との結びつきは王家にとって良いことだと聞いた。
家柄も申し分なく、将来の王太子妃としてヴェルシアナほど適した相手はいないと話す大人もいた。
だから、自分もそう答えるものだと思っていた。
「王家とアルセリード公爵家にとって、良いことだと聞いています」
実際、そう言った。
間違ってはいないはずだった。
けれどヴェルシアナは、少し考えるようにこちらを見ただけで、すぐには頷かなかった。
「そうではなくて、殿下ご自身はどう思われています?」
その時のことを、アレクシスは宮殿へ戻ってからも何度か思い返した。
自分自身はどう思うのか。
そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
しかも、婚約相手になるかもしれない少女本人から。
アレクシスはすぐに答えられなかった。
嬉しいのかと聞かれても、よく分からない。
まだ会ったばかりなのだから当然のような気もするが、それを口にしていいのかどうかまで考えてしまった。
するとヴェルシアナは、意外そうでも不満そうでもなく言った。
「わたくしも、まだ分かりません」
それが妙に残った。
分からない。
王太子の前で。
自分との婚約について。
五歳の公爵令嬢が、何の飾りもなくそう言った。
さらに、自分も父親へ「まず会って話してみたい」と言ったのだと聞かされ、アレクシスは少し驚いた。
そんな言い方ができるのかと思った。
王や公爵家の大人たちが話を進めているのだから、自分たちはそれに対して正しい答えを返すものだと、どこかで思い込んでいたからだ。
「僕も、そう言えばよかった」
思わず口から出た。
ヴェルシアナは少し目を丸くしたあと、それなら今からでも言えばいいのではないかという顔をした。
その顔も印象に残っている。
先ほどまで気位の高い令嬢のように見えていたのに、驚く時はちゃんと五歳の子供らしく目が大きくなる。
アレクシスは、それまで彼女について聞いていた「怖い公爵令嬢」という説明が、急に大雑把すぎるように思えた。
怖そうな顔をすることはある。
それ自体は本当だろう。
けれど、怖そうに見えることと、怖いことを言うことは同じではなかった。
◇
その日の夕方、アレクシスは父の執務室へ呼ばれた。
国王アルディオン・アルヴェネアは、机の上に置かれていた書類から目を上げると、向かいの椅子を示した。
「座れ」
「はい、父上」
アレクシスは椅子へ座る。
父は公の場では、それほど多くを話す人ではない。
声を荒らげることも少なく、怒っている時でさえ、むしろ静かになることが多い。
そのため大人たちの中には、父から短く質問されただけで顔を強張らせる者もいる。
アレクシス自身は、父を怖いと思うこともあるが、それ以上に、適当に答えるとすぐ見抜かれる人だと思っていた。
「アルセリード公爵令嬢とは話せたか」
「はい」
「どうだった」
「変な子でした」
答えたあとで、少し失礼だったかと思った。
しかし父は叱らず、僅かに眉を上げただけだった。
「公爵令嬢に対する感想としては独特だな」
「悪い意味ではありません」
「では、どういう意味だ」
説明しようとして、アレクシスは少し困った。
銀色の髪が綺麗だったこと。
噂より怖くなかったこと。
自分の気持ちを聞かれたこと。
婚約について「まだ分からない」と言われたこと。
木剣や馬の話をした時には、それまでより少し普通に話せたこと。
どれも一つだけなら「変だった」という感想にはならない。
「僕が、どう思っているのか聞かれました」
「何について」
「婚約です」
父の表情は変わらない。
「お前は何と答えた」
「王家とアルセリード公爵家にとって良いことだと、皆が言っていますと」
そこまで答えたところで、父は僅かに首を傾けた。
「それは誰の考えだ?」
やはり来た。
アレクシスは少し口を閉じる。
「……皆です」
「私は皆に聞いていない」
父は淡々と言った。
「お前に聞いている」
アレクシスは膝の上で指を組み直した。
「ヴェルシアナにも、同じことを聞かれました」
「そうか」
「それで、分からないと答えました」
「それは悪い答えではない」
思っていた反応と違い、アレクシスは父を見る。
「いいのですか?」
「何がだ」
「分からなくても」
父はすぐには答えなかった。
書類の端へ指を置いたまま、少し考えてから言う。
「お前は六歳だ。十六歳のお前が出すべき答えを、今すぐ出せとは思っていない」
「では、考えなくても?」
「そうは言っていない」
やはりそうなる。
アレクシスが少しだけ不満そうな顔をすると、父の口元がほんの僅かに動いた。
「分からないという言葉は、考えなくていいという意味ではない。今は分からないなら、それで構わん。ただし、会って、話して、相手を知って、そのたびに考えろ」
「父上は、面倒な言い方をします」
「答えを与えた方が楽か?」
問われ、アレクシスは少し考えた。
「……楽です」
「そうだろうな」
「でも、それだとまた誰かの考えになります」
父の目が少しだけ細くなった。
「それは公爵令嬢に言われたのか?」
「いいえ」
アレクシスは首を横に振る。
「今、思いました」
今度こそ父は少し笑った。
「なら、それでいい」
褒められたのかどうか、よく分からない。
けれど悪い答えではなかったらしい。
少しだけ気分が良くなった。
「父上」
「何だ」
「ヴェルシアナは、怖い子だと聞いていました」
「そういう評判があることは知っている」
「父上もそう思いますか?」
父はアレクシスを見た。
「私は今日、お前より長く彼女と話していない」
「では、分からない?」
「分からん」
国王があっさり言ったので、アレクシスは少し驚いた。
「父上でも?」
「王だから人の頭の中まで読めるなら、政治はもっと楽だ」
「……父上は時々ずるいです」
「どういう意味だ」
「僕には考えろと言うのに、自分は分からないと言います」
「私は考えないとは言っていない」
返され、アレクシスは黙った。
また負けた気がする。
父はそんな息子を見ながら、机の上の書類を一枚閉じた。
「お前は、もう一度会いたいか?」
今度の質問は、先ほどより答えやすかった。
「はい」
ほとんど迷わず答えてから、アレクシスは自分で少し驚いた。
父はそこを見逃さなかったらしい。
「理由は?」
「……まだ分かりません」
「便利な言葉を覚えたな」
「本当に分からないのです」
「なら、それも考えておけ」
また考えることが増えた。
アレクシスは少しだけ眉を寄せた。
◇
翌日、アレクシスは厩舎へ向かった。
勉強のあとに馬へ会いに行くことは珍しくない。
自分の馬であるルークスは、アレクシスが近づくと鼻先をこちらへ向けた。
「今日は機嫌がいいな」
首筋を撫でる。
温かい。
馬の匂いがする。
王太子として正しいことを考えなくてもいい時間なので、アレクシスは馬といるのが好きだった。
しばらくルークスを撫でてから、ふと思い出す。
ヴェルシアナは馬に乗るのだろうか。
聞いていなかった。
木剣については少し話した。
歴史の話もした。
豆が嫌いだと言ったら、少し笑われた。
けれど馬の話は、十分にはしていない。
「アルトリウス」
少し離れたところにいたアルトリウス・ヴェルネンが振り向いた。
「はい、殿下」
「五歳の女の子でも馬には乗れる?」
アルトリウスが一度瞬きをした。
「もちろん、体格に合った馬と指導者がいれば可能でございます」
「そう」
「どなたかをお誘いになるので?」
「まだ何も言っていない」
「そうでしたか」
何でもないような返事だった。
それなのに少し見られている気がして、アレクシスはルークスの首へ視線を戻した。
「アルセリード公爵家にも馬はいると思う?」
「公爵家でございますので、当然いらっしゃるでしょう」
「じゃあ、ヴェルシアナも乗れるかもしれない」
「そうかもしれませんね」
アルトリウスは、それ以上何も言わなかった。
言わなかったのが逆に気になった。
「何?」
「何も申しておりません」
「顔が何か言っています」
「それは殿下の解釈でございましょう」
父と似たようなことを言う。
アレクシスは少し不満になったが、ルークスの鼻先が肩へ触れたので、そちらへ意識を戻した。
次に会った時、馬の話をしてみてもいいかもしれない。
婚約とは関係なく。
ヴェルシアナ自身も、そういう言い方をしていた。
それなら、何もおかしくないはずだった。
◇
夜の食事では、母も一緒だった。
公務の話をする必要がない時の食卓は、昼間の会議室よりずっと静かで、アレクシスは嫌いではない。
ただし、その日の皿には豆があった。
アレクシスは一度だけ見たあと、なるべく自然に別のものへ手を伸ばした。
向かいに座る父が気づく。
「食べないのか」
「最後に食べます」
「昨日もそう言って最後まで残しただろう」
「今日は食べます」
母が小さく笑った。
アレクシスは少しだけ不満そうにスプーンを持ち直した。
そこで、不意にヴェルシアナの顔が浮かんだ。
豆が嫌いだと言った時、彼女は笑った。
大声ではなく、口元を少し緩める程度だったが、それまでの近寄りがたい印象が一気に薄くなったのを覚えている。
黙っている時のヴェルシアナは、やはり少し怖そうに見える。
銀色の髪と赤紫色の瞳のせいなのか、整った顔立ちのせいなのか、あるいは全部が合わさっているからなのかは分からない。
けれど笑えば普通の女の子に見えた。
いや、普通という言い方も少し違う。
やはり綺麗な子だとは思う。
ただ、遠くにある絵のようではなくなる。
そこまで考えてから、アレクシスは自分がなぜ食事中にヴェルシアナの顔を思い出しているのか分からなくなった。
「何を考えている」
父から聞かれ、少し驚く。
「何でもありません」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
助かったような、少しだけ物足りないような気がした。
母が話題を変えるように、その日の勉強について尋ねてくる。
アレクシスは答えながら、皿の端に残していた豆を一つ食べた。
やはり好きではなかった。
◇
それから数日経っても、アレクシスは時々ヴェルシアナのことを思い出した。
婚約のことを考えているからだと思っていた。
それなら自然だ。
将来自分の隣へ立つかもしれない相手なのだから、気になるのは当然だろう。
けれど、思い出す内容は婚約そのものとは少し違っていた。
自分の気持ちを尋ねられたこと。
彼女自身も分からないと言ったこと。
怖い令嬢だと聞いていたのに、自分の過去の評判を否定せず、「違うようになりたいと思っています」と言ったこと。
木剣の話をした時、思っていたより興味を示したこと。
豆が嫌いだと言ったら笑ったこと。
そして、何か考えている時に僅かに眉を寄せる、あの妙に目立つ顔。
最初は、その表情を見るたび少し警戒した。
噂で聞いていた「怖い公爵令嬢」が現れるのではないかと思ったからだ。
けれど、実際に話してみれば、彼女が眉を寄せるたび誰かを責めるわけではなかった。
むしろ自分自身の言葉を選んでいる時にも、同じような表情をする。
そのことが分かってからは、少し印象が変わった。
怖いというより、目立つ。
何を考えているのだろうと、つい見てしまう。
ただし、その理由まではまだ分からなかった。
ある日の午後、アレクシスはアルトリウスを呼び止めた。
「次にアルセリード公爵が宮殿へ来る予定はありますか」
「確認いたしましょうか」
「……別に、急がなくていい」
「承知しました」
アルトリウスがいつも通りの顔で答える。
少しだけ安心する。
「もしヴェルシアナも来るなら、教えて」
「かしこまりました」
それだけ伝えて、アレクシスは歩き出した。
数歩進んでから、自分でも少し気になって振り返る。
アルトリウスは何も言っていない。
笑ってもいない。
なのに、何となく見透かされているような気がした。
「何ですか」
「何も申し上げておりません」
「……ならいいです」
再び歩き出す。
もう一度会いたい。
父に尋ねられた時には、ほとんど迷わずそう答えた。
けれど、どうしてなのかは今もよく分からない。
婚約相手になるかもしれないから。
父に相手を知ってから考えろと言われたから。
馬の話をもう少ししてみたいから。
理由ならいくつか思いつく。
どれも間違いではない気がするのに、どれか一つだけを選ぶと少し足りない。
アレクシスは、廊下の窓から見える空へ目を向けた。
次に会えたら、馬の話をしよう。
ルークスを見せてもいい。
ヴェルシアナが乗れるのなら、一緒に乗るのも面白そうだった。
きっとそれだけだ。
少なくとも六歳のアレクシスは、そう思っていた。
銀色の髪と赤紫色の瞳を持つ少女の顔が、婚約という言葉より先に思い浮かぶようになっている理由までは、まだ知らなかった。




