第8話 悪役令嬢は、友達の作り方を知らない
王太子との顔合わせから数日が過ぎても、アルセリード公爵家の日常が大きく変わることはなかった。
少なくとも、表面上は。
朝になればミレーヌが部屋へ来て身支度を手伝い、家族と朝食を取り、その後は礼法や歴史、読み書きの授業が続く。昼を挟めば音楽や刺繍の基礎まで予定に入る日もあり、夕方になってようやく自由な時間が訪れる頃には、五歳児の身体はほどよく疲れ切っていた。
前世で会社員をしていた頃、休日の前になるたび「仕事以外のことをする時間が足りない」と思っていたが、どうやら貴族令嬢という立場も似たようなものらしい。
違うのは、こちらには給料日がないことくらいだろう。
もっとも、生活費を気にしなくていいほど裕福な公爵家の娘が、そんなことを考えている時点で随分と贅沢な話ではある。
ただ、俺自身の生活が大きく変わっていなくても、周囲の人間の態度には少しずつ違いが出始めていた。
廊下ですれ違う使用人たちは、以前ほど露骨に身体を強張らせなくなった。厨房へ顔を出せば、最初こそ緊張されるものの、俺が怒鳴らないと分かれば料理人たちも普通に話してくれるようになったし、庭師へ以前の薔薇の件を謝った時などは、相手の方が困り果てて「お嬢様が謝られるほどのことでは」と何度も頭を下げていた。
俺からすれば、元のヴェルシアナが迷惑を掛けたのなら謝るのは当然だと思う。
けれど、この家では公爵令嬢が自分から非を認めること自体が珍しいらしい。
そのたびに、評判というものは一度悪くなれば簡単には戻らないのだと実感する。
だからといって何もしなければ、当然そのままだ。
俺にできることは、これから同じことを繰り返さず、直せるものから少しずつ直していくことくらいしかない。
そんな穏やかな変化の中で、一つだけ気になることがあった。
王太子との顔合わせが終わって以来、ナディアが妙に静かなのだ。
姿を見せなくなったわけではないし、態度が冷たくなったわけでもない。これまで通り朝か夕方には顔を出し、俺の体調を気遣い、授業の進み具合について話を聞き、必要があれば両親へ報告すると告げる。
けれど、以前ほどこちらへ選択を勧めなくなった。
服を選ぶ時も「こちらがよろしいでしょう」と即座に決めることが減り、教師の話をする時にも、先に俺がどう思っているかを確認するようになった。
それだけなら、俺が自分の意見を言うようになったことで接し方を変えただけとも考えられる。
ただ、王太子の話だけはほとんど出なくなった。
あれほど「殿下のお隣こそお嬢様に相応しい」と繰り返していた人物が、顔合わせの結果を聞いてから一度も婚約について積極的に触れないというのは、どうにも不自然に思える。
もちろん、不自然だからといって悪いことをしているとは限らない。
俺が反発することを理解し、単純に話題を控えているだけかもしれない。
だから今は、まだ決めつけない。
ただ、忘れないようにする。
それがここ数日で覚えた、俺なりのやり方だった。
◇
「お嬢様、本日は午後のお時間が空いております」
朝の身支度を終えた頃、ミレーヌが予定表を確認しながらそう教えてくれた。
「珍しいですわね」
「本来でしたら音楽のお稽古が入っておりましたが、先生のお子様がお熱を出されたそうで、本日はお休みとなりました」
「それは心配ですわね」
「はい。数日ほどお休みになるかもしれないと伺っております」
それなら仕方ない。
家族が体調を崩している時に、無理して来てもらう必要はない。
問題は、突然できた午後の自由時間をどう使うかだった。
前世なら昼寝をするか、ゲームをするか、動画を見るかの三択だったが、この世界では後ろ二つが存在しないので、選択肢はかなり減る。
「お嬢様は、何かなさりたいことがございますか?」
ミレーヌに尋ねられ、少し考えた。
庭を歩くのも悪くない。
本を読むのもいい。
ただ、何となくそれではもったいないような気がした。
王宮でアレクシスと話した時、自分が何を好きなのか分からないという話になったことを思い出す。
知らないものは試してみないと、好きか嫌いか分からない。
自分でそう言ったのだから、俺も少しは実行した方がいいだろう。
「ミレーヌは、自由な時間には何をしているの?」
何気なく尋ねると、彼女は予想外の質問をされたように瞬きをした。
「わたくし、でございますか?」
「ええ。お仕事やお勉強がない時ですわ」
「本を読むことが多いです。あとは裁縫のお稽古をしたり……」
「同じ年頃の子と遊んだりはしないの?」
ミレーヌは少し考え込んだ。
「侍女見習いの子たちとお話をすることはございますが、わたくしは他の子よりお嬢様のお側へ付く時間が長いですので、あまり機会はございません」
言葉の最後が少し弱くなった。
俺のせいかもしれない。
正確には以前のヴェルシアナのせいなのだろうが、今の俺がそれを完全に他人事として片づけることもできない。
「わたくしのお側にいるために、お友達と過ごす時間が減っていますの?」
「いいえ!」
ミレーヌが慌てて否定する。
「わたくしは、お嬢様のお側へ置いていただけることをありがたく思っております」
「でも、それと遊ぶ時間が必要ないことは別でしょう?」
そう返すと、彼女は答えに困ったように口を閉じた。
以前から少し気になっていた。
ミレーヌは七歳だ。
この世界の常識が前世と同じではないにせよ、七歳の子供が一日の大半を主人の世話と勉強に使っている光景を見れば、どうしても引っかかる。
まして彼女は正式な侍女ですらなく、まだ見習いという立場だ。
「ミレーヌは、わたくしの侍女になるためにここへ来たの?」
尋ねると、少女の表情が少しだけ硬くなった。
「エルヴァート家には以前からアルセリード家とのご縁がございました。父が亡くなったあと、兄だけでは家を支えることが難しくなりまして、旦那様がお声を掛けてくださったと聞いております」
以前にも聞いた話だった。
父親を亡くし、家計が苦しくなった男爵家の三女。
公爵家へ預けられ、侍女見習いとして教育を受けている。
ただ、その事情を聞けば聞くほど、ミレーヌ自身がどこまで自分の将来を選べたのかは分からなくなる。
「ミレーヌ自身は、侍女になりたいの?」
今度の問いには、すぐ答えが返ってこなかった。
彼女は少し俯き、胸元で重ねた手へ視線を落とす。
「……分かりません」
その答えを聞いた瞬間、王宮の庭でアレクシスと交わした会話を思い出した。
王太子だから歴史を学ぶ。
けれど、王太子でなくても本当にそれが好きなのかは分からない。
ミレーヌもきっと似たようなところにいるのだ。
侍女になるための教育を受けている。
けれど、それが本人の望みなのかを考える機会は、ほとんどなかったのかもしれない。
「でしたら、今すぐ決めなくてもよろしいのではなくて?」
「え?」
「まだ七歳ですもの。将来、本当に侍女になりたいと思ったなら、そうすればよろしいでしょう。でも、他にやりたいことが見つかったなら、それについて考えてもいいと思いますわ」
ミレーヌは、聞いたことの意味をうまく飲み込めないような顔でこちらを見ていた。
「そのようなことを……考えてもよろしいのでしょうか」
その言葉に、胸の奥が少しだけ詰まった。
七歳の子供が、自分の将来を考えていいのかと主人へ許可を求めている。
前世の感覚で考えれば、かなり重い。
「少なくとも、わたくしは構いませんわ。それに、わたくしへ仕えることと、あなた自身の人生を捨てることは別でしょう?」
言ってから少し大袈裟だったかもしれないと思ったが、ミレーヌは笑わなかった。
むしろ、その言葉を自分の中で何度も確かめているように見えた。
「本を読むのがお好きなのでしょう?」
「はい」
「でしたら、もっと勉強したいとは思わない?」
ミレーヌが少しだけ顔を上げる。
「……思います」
その返事はとても小さかった。
けれど、今までの「侍女になるのが役目だから」という言葉より、ずっと本人の声に聞こえた。
「どんなことを学びたいの?」
「いろいろ、です」
「それでは分かりませんわ」
少し笑って促すと、ミレーヌも恥ずかしそうに口元を緩めた。
「歴史のお話は好きです。それから、計算も好きです。以前、領地のお金を管理する方のお仕事を見せていただいたことがあるのですが、数字がたくさん並んでいるのに、最後にはきちんと全部が合うのが不思議で……」
意外だった。
侍女見習いの少女から、帳簿の話が出てくるとは思わなかった。
「計算がお好きなの?」
「好き、なのだと思います。まだ難しいものは分かりませんけれど」
「でしたら、もっと学んだ方がよさそうですわね」
「ですが、侍女にそこまで必要でしょうか」
反射的に出た言葉なのだろう。
言ってから本人も少し困った顔をした。
「侍女に必要かどうかではなく、ミレーヌが学びたいのでしょう?」
そう返すと、少女はまた黙り、しばらくしてから小さく頷いた。
「……はい」
その返事を聞いて、俺は一つ決めた。
「お父様に聞いてみましょう」
「えっ?」
「あなたも、もう少し深く学べるようにしていただけないか」
「お、お待ちください、お嬢様!」
ミレーヌが珍しく大きな声を出した。
「どうしましたの?」
「そのようなことを旦那様へお願いするわけにはまいりません。わたくしはエルヴァート家からお世話になっている身ですし、ただでさえ衣食住だけでなく教育まで受けさせていただいております。その上さらに望むなど……」
なるほど。
この子の中には「自分はすでに十分与えられているのだから、それ以上を望んではいけない」という感覚があるらしい。
それ自体は謙虚とも言える。
ただ、それによって興味や才能まで閉じ込めてしまうのは惜しい。
「できるかどうかを聞くくらいなら構わないでしょう? 同じ先生に教えていただけるなら、それほど大きな負担ではないかもしれませんし、難しいのであれば別の方法を考えればいいのですもの」
「別の方法までお考えになるのですか?」
「だって、学びたいのでしょう?」
ミレーヌは返事をしなかった。
ただ、目元が少し赤くなっている。
俺には当たり前でも、この子にとっては違うのだろう。
「それに、わたくし一人で勉強するより、一緒に学ぶ方が楽しそうですわ」
「お嬢様が?」
「ええ。分からないところを聞けますもの」
「それは先生へお尋ねになれば……」
「そこは、もう少し喜んでくださってもよろしいのではなくて?」
思わず言うと、ミレーヌが泣きそうな顔のまま笑った。
「申し訳ございません」
「謝らなくてよろしいですわ」
こんな会話ができるようになったこと自体、この数日の中ではかなり大きな変化だった。
◇
その日の昼食後、俺は本当に父のところへ行った。
レオルディスは書斎で大量の書類に目を通していたが、俺が訪ねると手を止めてくれた。
「どうした」
「少しお願いがございますの」
そう言った瞬間、父の眉が僅かに上がった。
その反応だけで、以前のヴェルシアナが「お願い」という形で何かを頼むこと自体、珍しかったのかもしれないと分かる。
「言ってみろ」
「ミレーヌのお勉強についてですわ」
「ミレーヌ?」
「はい。今よりもう少し、歴史や算術を深く学ばせていただくことはできませんか?」
父はすぐには答えなかった。
「理由は?」
「ミレーヌは本を読むことや計算が好きなのだそうです。せっかく学びたいと思っているなら、学べる方がよいのではないかと思いまして」
「それだけか?」
「それだけでは駄目ですの?」
「いや」
父は椅子へ深く座り直し、少し考える。
「ミレーヌは現在も、侍女見習いとして必要な読み書き、計算、礼法について教育を受けている。エルヴァート家から預かる際、その点については兄とも話をしている」
そこまで聞いて少し安心した。
この家も、別に七歳の子供へ働かせるだけ働かせているわけではないらしい。
「では、もっと学ぶこともできますの?」
「本人の適性と希望による」
「希望を聞いてくださるの?」
父が俺を見る。
「当然だろう」
即答だった。
また一つ、父について理解が深まった。
この人は本当に、本人の意思を尊重しようとする。
だからこそ以前のヴェルシアナが「この先生は嫌」「あの使用人は嫌」と言えば、それも娘の意思として尊重してしまったのだろう。
長所と欠点が、同じ場所から生まれている。
「でしたら、ミレーヌ本人へ聞いてあげてください」
「お前が聞けばいいのではないか?」
「わたくしが聞きますと、『お嬢様がお望みなら』と答えてしまいそうですもの」
父が少しだけ目を細めた。
「わたくしのためではなく、ミレーヌ自身が何をしたいのかを聞いてほしいのです」
レオルディスはしばらく黙っていたが、やがてほんの僅かに口元を緩めた。
「分かった」
「本当?」
「ああ。ただし、お前とまったく同じ教育を受けさせるかは別だ。お前には公爵家の娘として必要な教育も含まれているし、ミレーヌにはミレーヌの立場と適性に合ったものがある」
「それで構いませんわ。学びたいことを学べるなら」
「では、教育担当と話しておこう」
「ありがとうございます、お父様」
頭を下げると、父は少しだけ不思議そうに俺を見た。
「ヴェルシアナ」
「はい?」
「ミレーヌのことを、随分気に入っているのだな」
そう言われると、少し困った。
「気に入っている……のでしょうか」
「違うのか?」
考えてみる。
この数日、最も長く一緒にいる相手だ。
最初は俺を怖がっていた。
今は少しずつ話してくれるようになった。
真面目で、気が利いて、意外と計算が好きで、笑えば普通の七歳の少女だ。
「……たぶん、好きなのだと思いますわ」
もちろん恋愛的な意味ではない。
単純に、人として。
俺がそう答えると、父の目元が僅かに柔らかくなった。
「なら、大切にしろ」
「はい」
その一言は、思っていたより長く心に残った。
◇
翌日の昼前、ミレーヌが俺の部屋へ入ってきた時、表情を見ただけで何かあったことが分かった。
いつも通り姿勢は整えているのに、頬が少し赤く、目も僅かに潤んでいる。
「どうしましたの?」
「旦那様から、お話をいただきました」
「お勉強のこと?」
「はい」
ミレーヌは胸の前で両手を重ね、少しだけ視線を落とした。
「今までの侍女見習いとしてのお勉強に加えて、希望するのであれば歴史と算術をもう少し深く学ばせていただけることになりました。今後の進み具合によっては、領地管理に関する初歩も教えていただけるそうです」
「それはよかったですわね」
「はい」
返事をしたのに、彼女はまだ俺を見ない。
「嬉しくないの?」
「嬉しいです」
「では、どうしてそんな顔をしているの?」
尋ねると、ミレーヌはようやく顔を上げた。
「分からないのです」
「何が?」
「どうして、お嬢様がそこまでしてくださるのか」
意外な質問だった。
「昨日申し上げたでしょう? ミレーヌが勉強したいと言ったからですわ」
「でも、それはお嬢様には何の得にもなりません」
その言葉に、少し考え込む。
確かに、俺がミレーヌへ勉強させることで、直接何かを得るわけではない。
ただ、それが何だというのだろう。
「別に、得がなくてもよろしいのでは?」
「……え?」
「正確には、ミレーヌが学びたいと言ったから、それができれば良いと思ったのですわ。わたくしはお父様へお願いしただけですし、お父様も最後にはミレーヌ自身の希望を確認してくださったのでしょう?」
「はい」
「でしたら、これはわたくしがあなたへ与えたものではありません。あなた自身が、学びたいと言ったから得たものですわ」
ミレーヌは、しばらくこちらを見つめていた。
その表情がゆっくりと崩れ、目に溜まっていたものが一滴だけ頬を伝った。
「どうして泣くの?」
「申し訳ございません」
「だから、謝らなくてよろしいですわ」
「……はい」
慌てて目元を拭う姿は、やはり七歳の子供だった。
いつも主人の前で完璧に振る舞う必要などない。
そう言おうとした時、ミレーヌの方から口を開いた。
「わたくし、お嬢様のお側にいたいです」
「ええ」
「でも、勉強もしたいです」
「ええ」
「両方を望んでも、よろしいのでしょうか」
俺は少し笑った。
「できるのでしたら、両方でよろしいでしょう?」
「欲張りではありませんか?」
「その程度で欲張りなら、公爵令嬢としてこれだけのものを与えられているわたくしなど、どうなりますの」
広い屋敷。
大量の服。
専属に近い使用人。
何人もの教師。
それらを思えば、「学びたいし、今の役目も大切にしたい」という程度で欲張り扱いする方がおかしい。
ミレーヌは涙の跡を残したまま、少しずつ笑った。
「ありがとうございます、お嬢様」
「どういたしまして」
今度の礼には、素直にそう返した。
◇
その日の午後、予想していなかった来客があった。
「リュネア様?」
自室で本を読んでいた俺は、ミレーヌから名前を聞いて顔を上げる。
「はい。フィオルネ伯爵夫人とご一緒にお越しになっております。奥様から、お嬢様のお時間が空いているのであれば、お会いになられますかと」
「もちろんですわ」
断る理由はない。
むしろ刺繍を教えてもらう約束をしていたところだった。
応接室へ向かうと、リュネアは母親の隣で少し緊張した様子で座っていた。
俺を見た瞬間には表情が明るくなったものの、すぐに何かを思い出したように姿勢を正す。
「ごきげんよう、ヴェルシアナ様」
「ごきげんよう、リュネア様」
挨拶を交わし、母親同士が軽く話したあと、俺たちは前回と同じように別室へ移動することになった。
今回リュネアが持ってきたのは、小さな刺繍道具の入った箱だった。
「本当に持ってきてくださったのね」
「はい。お約束しましたから」
少し誇らしげに答える。
机へ布と糸を広げてもらいながら、俺は隣にいるミレーヌへ目を向けた。
「ミレーヌも一緒にやります?」
「わたくしも、でございますか?」
「嫌でなければ」
リュネアもすぐに頷いた。
「三人の方が楽しいと思います」
ミレーヌは一瞬迷ったが、最後には俺たちの少し横へ椅子を持ってきた。
こうして見ると、本当に全員子供だ。
五歳、六歳、七歳。
前世の俺なら、この年齢の少女たちと一緒に刺繍をする未来など想像したこともなかった。
「まず、ここから針を入れます」
リュネアが見本を見せる。
「そして少し離れたところから戻して……ヴェルシアナ様、そこではありません」
「ここ?」
「もう少し右です」
「こう?」
「今度は行きすぎです」
思った以上に難しい。
針を通すだけなら簡単だと思っていた俺が甘かった。
花弁の形を整えようとすると、糸の間隔も、針を入れる位置もかなり細かい。
「リュネア様、あの髪飾りを本当にご自分で作ったの?」
「はい」
「すごいですわね」
素直に感心する。
隣を見ると、ミレーヌは俺より明らかに上手かった。
「……ミレーヌ、お上手ですわね」
「裁縫は侍女見習いのお稽古で習っておりますので」
「負けましたわ」
俺がそう言うと、リュネアが笑い、ミレーヌもつられて口元を緩めた。
三人で一枚の布を囲みながら針を動かす。
会話の内容は、本当にどうでもいいことばかりだった。
好きな花。
苦手な食べ物。
リュネアの家で飼っている猫。
ミレーヌが最近読んだ本。
俺が王宮で見た池の白い鳥。
国の未来も、公爵家の家格も、婚約も、破滅も関係ない。
ただ話して、時々笑う。
それだけの時間だった。
だからこそ、不思議だった。
俺はその時間を、普通に楽しいと思っていた。
前世では友人がいなかったわけではない。
榊ともよく飲みに行ったし、会社の同僚とくだらない話をすることもあった。
けれど、この世界へ来てからはずっと、生き残ることばかり考えていた。
誰が危険なのか。
どの選択が破滅へ繋がるのか。
ナディアは何を考えているのか。
王太子へ近づくべきか、離れるべきか。
五歳の身体になったというのに、頭の中では前世以上に難しいことばかりを考えていた。
そんな中で、刺繍が上手くできないことを笑われ、ミレーヌの方が上手いと少し悔しがり、リュネアから針の持ち方を教わる時間は、驚くほど気楽だった。
「ヴェルシアナ様」
リュネアが不意に俺を呼んだ。
「何ですの?」
「今日は、楽しそうです」
「そう?」
「はい。前のお茶会の時より、もっと」
そう言われて、自分でも気づく。
たぶん、本当に自然に笑っていた。
「リュネア様も、前より緊張していませんわね」
「はい。もう、あまり怖くありませんから」
「まだ少しは怖いの?」
「ほんの少しだけです」
「正直ですわね」
三人で笑った。
その時、扉の近くへ控えていた侍女が静かに頭を下げる。
「お嬢様、ナディア様がお見えでございます」
「ナディアが?」
「はい」
「通してください」
少しして扉が開き、ナディアが部屋へ入ってくる。
「失礼いたします、お嬢様」
いつもの笑顔だった。
けれど、俺だけでなくリュネアとミレーヌまで同じ机を囲んでいるのを見ると、ほんの僅かに視線が止まった。
「リュネア様もいらしていたのですね」
「ごきげんよう、ナディア様」
リュネアが丁寧に礼をすると、ナディアも完璧な笑顔で応じた。
その後、俺の前にある不格好な刺繍へ視線を落とす。
「刺繍のお稽古でございますか?」
「ええ。リュネア様に教えていただいておりますの」
「左様でございましたか」
以前なら、専門の教師がいるのだから必要ないと言ったところだろう。
しかし今回は何も言わなかった。
代わりに、ミレーヌへ目を向ける。
「ミレーヌも?」
「お嬢様から、ご一緒にと……」
「わたくしがお誘いしました」
ミレーヌが必要以上に恐縮する前に補足する。
「そうでございますか」
ナディアは微笑んだまま、少し間を置いてから何気ないことのように尋ねた。
「ところで、お嬢様。ミレーヌのお勉強について、旦那様へ何かお願いをなさったそうですね」
もう知っているらしい。
驚くことではない。
ナディアは俺の教育や日常について両親へ報告する立場なのだから、逆に家の中の情報も入ってくるのだろう。
「ええ。ミレーヌが、もっと勉強をしたいそうですので」
「大変お優しいことでございます」
褒め言葉。
けれど、最近はその直後に何が続くのかを待つ癖がついた。
案の定、ナディアは柔らかな声のまま続けた。
「ですが、お嬢様。使用人には、それぞれ与えられた役目がございます。あまり身分を越えた期待を持たせますと、かえって本人を苦しませることにもなりかねません」
それまで和やかだった空気が、少しだけ硬くなった。
リュネアは意味を完全には理解していないのか、俺とナディアを交互に見ている。
ミレーヌは明らかに身体を強張らせた。
「身分を越えた期待とは、どういう意味ですの?」
「もちろん、読み書きや計算は必要でございます。ただ、侍女として仕えることが決まっているのであれば、それ以上の教育が必ずしも本人のためになるとは限りません」
「ミレーヌが、将来ずっとわたくしの侍女になることは、もう決まっているの?」
ナディアが一瞬だけ黙った。
「そのために、こちらへ迎えられたと存じますが」
「お父様は、本人の希望によると仰っていましたわ」
今度は、明らかにナディアの表情が変わった。
笑顔そのものが消えたわけではない。
ただ、俺の口から出た答えが予想していたものと違ったことだけは分かる。
「旦那様が、そのように?」
「ええ。ミレーヌが何を学びたいのかも、本人へ確認してくださったそうです」
俺は隣へ視線を向ける。
ミレーヌはまだ緊張していた。
だから、ここで俺が代わりに答えを決めてはいけない。
「ミレーヌ」
「はい」
「あなたは、勉強したくないの?」
少女は僅かに唇を結び、ナディアの方へ一度だけ視線を向けた。
それでも最後には、自分で答えた。
「……したいです」
「侍女になるのが嫌なの?」
「それは、まだ分かりません。でも、お嬢様のお側にはいたいですし、お勉強もしたいです」
昨日と同じ答えだった。
ただし今日は、ナディアがいる前で、自分の言葉として口にした。
「でしたら、今はそれでよろしいでしょう?」
俺がそう言うと、ミレーヌは小さく頷いた。
ナディアはそのやり取りを黙って見ていたが、やがて静かに口を開いた。
「お嬢様。使用人へあまり自由を与えすぎますと、秩序が乱れることもございます」
声はあくまで穏やかだった。
それでも、その言葉は今まで聞いたどの助言より、彼女自身の価値観をはっきり表しているように思えた。
「自由にすると、困るの?」
「人は、自分の立場を知っているからこそ、安心して生きられるのでございます。侍女は侍女として、貴族は貴族として、それぞれ果たすべき役目がございます。身分以上のものを望ませることが、必ずしも幸福とは限りません」
言っていることのすべてが、完全な間違いとは思わない。
この世界には、現実として身分制度がある。
貴族には貴族の責任があり、使用人には使用人の役割があり、俺が前世の常識だけを持ち込んで、それらをすべて無視できるわけではない。
それでも、ナディアの言葉を聞きながら、俺はようやく一つの共通点に気づいた。
俺は公爵令嬢だから、王太子が相応しい。
リュネアは伯爵令嬢だから、必要以上に近づくべきではない。
ミレーヌは侍女見習いだから、それ以上を望ませるべきではない。
ナディアは、人を見る前に、その人が属している役割を見る。
そして、その役割から外れないことを「本人のため」だと考えている。
「ナディア」
「はい」
「わたくしは、公爵令嬢ですわね」
「もちろんでございます」
「では、わたくしが公爵令嬢に相応しくないことをしたら、どうなりますの?」
「お嬢様がそのようなことをなさるとは――」
「するかもしれませんわ。人ですもの」
ナディアが黙った。
「ミレーヌは侍女見習いですけれど、計算が好きです。リュネア様は伯爵令嬢ですけれど、刺繍がお上手です。王太子殿下は王太子ですけれど、豆がお嫌いでしたわ」
「……豆?」
リュネアが小さく笑いそうになり、ナディアは少しだけ困ったような顔をした。
「何が申し上げたいのでございますか?」
尋ねられ、俺は少し考えてから言葉を選んだ。
「身分は、その人の全部ではないのではないかと思っただけですわ。もちろん、わたくしには公爵家の人間としてしなければならないことがありますし、それを嫌だから全部やめることはできません。でも、だからといって、わたくしが誰を好きになるのかや、ミレーヌが何を学びたいのかまで、最初から身分だけで決める必要はないと思いますの」
部屋の中が静かになった。
ミレーヌは驚いたように俺を見ている。
リュネアも完全に意味を理解しているかは分からないが、真面目に話を聞いていた。
ナディアだけはしばらく何も言わず、こちらの顔をじっと見つめている。
「……お嬢様は、そのようなお考えをどなたから教わられたのでございますか?」
やがて出てきた問いに、今度は俺の方が少し驚いた。
まただ。
ナディアは、俺の考えに誰か別の人間がいることを前提としている。
自分で考えたという可能性を、最初からあまり見ていない。
「わたくしが考えましたわ」
そう答えると、彼女の表情がほんの一瞬だけ止まった。
「おかしいですか?」
「……いいえ。少し、驚いただけでございます」
ナディアはすぐにいつもの笑顔へ戻り、それ以上は何も言わなかった。
丁寧に礼をして部屋を出ていく。
扉が閉じたあと、俺はようやく少し息を吐いた。
「お嬢様」
ミレーヌが静かに俺を呼ぶ。
「何ですの?」
「ありがとうございます」
「何のお礼?」
「わたくしが答えるまで、待ってくださったので」
その言葉を聞いて、少しだけ考える。
確かに俺は途中で答えを代わりに言わなかった。
ミレーヌ自身が、「勉強したい」と口にするのを待った。
「それは、ミレーヌの答えでしょう?」
「はい」
彼女は嬉しそうに笑った。
そのやり取りを見ていたリュネアが、不思議そうに首を傾げる。
「ヴェルシアナ様は、ミレーヌ様とお友達なのですか?」
予想していなかった問いに、今度は俺が言葉を失った。
「……分かりませんわ」
「分からないのですか?」
「友達って、どうなったら友達なの?」
前世では、そんなことを考えたことがなかった。
榊といつ友達になったのかと聞かれても答えられない。
同じ職場で話すようになり、一緒に飲みに行くようになり、気づいた頃には友人だった。
ゲームなら好感度という数字があるのかもしれない。
けれど現実には、どこから友達なのかを示す線などない。
リュネアは少し考えたあと、真面目な顔で答えた。
「一緒にいたいと思ったら、ではないでしょうか。それから、お話ししたいと思ったり、何かあった時に教えたいと思ったり……」
「なるほど」
俺はミレーヌを見る。
「ミレーヌはどう思う?」
「わ、わたくしにお聞きになるのですか?」
「ええ」
彼女は困ったように頬を赤くしたが、しばらく考えたあと、小さな声で答えた。
「わたくしは、お嬢様のお側にいたいです」
「それは、仕事だから?」
「それだけではございません」
少しだけ間を置き、ミレーヌは今度こそ俺の目を見た。
「お話をするのも、好きです」
真正面から言われると、さすがに少し照れる。
五歳の顔は感情が出やすいのか、たぶん表情にも出ていたのだろう。
リュネアが楽しそうに笑った。
「でしたら、お友達でもよろしいのではありませんか?」
「でも、ミレーヌは侍女見習いで、わたくしは主人ですわ」
「それとお友達なのは、別ではありませんか?」
リュネアは当然のように言った。
その言葉を聞いて、俺はしばらく考えた。
身分はある。
役割もある。
それらを全部無視することはできない。
けれど、それだけで人間関係のすべてを決めなければならないわけでもない。
リュネアと刺繍をする時、俺は公爵令嬢だから彼女に教わっているわけではない。
アレクシスと豆の話をした時も、王太子と公爵令嬢として会話していたわけではない。
ミレーヌと話している時にも、主人と侍女という役割から少し離れた場所に、確かに別の関係ができ始めている。
「そうですわね」
俺は少し笑った。
「でしたら、ミレーヌ」
「はい」
「わたくしたち、友達ということにします?」
ミレーヌは数秒ほど完全に固まった。
やがて頬から耳まで真っ赤にしながら、どうにか声を出す。
「……恐れ多すぎます」
「嫌ですの?」
「嫌ではございません!」
返事だけは驚くほど早かった。
リュネアが声を上げて笑い、俺もつられて笑う。
「でしたら、決まりですわ」
「そのように簡単に決めてよろしいのでしょうか」
「友達になるのに、何か契約書でも必要なの?」
「分かりません」
「わたくしも分かりませんわ」
三人でまた笑った。
その笑い声を聞きながら、ふと元のヴェルシアナのことを思い出す。
ゲームの中の彼女には、取り巻きと呼ばれる令嬢たちが何人かいた。
いつもそばにいて、彼女の言葉へ頷き、ヒロインを敵視する時にも一緒になって動いていた。
けれど、あの子たちは本当に友達だったのだろうか。
ヴェルシアナが公爵令嬢だから近づき、怒らせないために同意し、気に入られるために褒めていたのだとしたら、それはナディアが作ってきた環境とよく似ている。
自分を否定しない人間だけを周囲へ残していけば、人数だけは多くても、心から何かを言ってくれる相手はいなくなる。
そう考えると、元のヴェルシアナが少しだけ寂しい人間に思えた。
「ヴェルシアナ様?」
リュネアの声で思考から戻る。
「どうなさいました?」
「いいえ」
俺は二人の顔を見ながら、素直に笑った。
「友達ができるというのは、案外嬉しいものなのだと思いまして」
リュネアはすぐに嬉しそうな顔をする。
「わたくしもです」
ミレーヌは少し迷ったあと、今度は逃げずに答えた。
「わたくしも……嬉しいです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに温かくなった。
この世界へ来た最初の日、俺が考えていたのは破滅を避けることだけだった。
人に恨まれない。
敵を作らない。
王太子へ執着しない。
ヒロインを虐めない。
それさえ守れば生き残れると思っていた。
けれど、こうして数日を過ごしてみると、それだけでは少し足りない気がする。
敵を作らないことと、好きな人を増やすことは同じではない。
恨まれないように振る舞うことと、誰かと一緒にいたいと思える関係を作ることも違う。
元のヴェルシアナには、もしかすると最後まで、その違いが分からなかったのかもしれない。
俺だって、今になってようやく少し気づいただけだ。
破滅を避けたい。
それは今も変わらない。
けれど、どうせこの世界で十年、二十年と生きていくのなら、処刑されないだけの人生で満足する必要もないだろう。
勉強をして、知らないものを見て、気の合う人と話し、時にはくだらないことで笑う。
生き残ることだけを目標にしていた俺の中へ、いつの間にかそんな小さな欲が生まれていた。
そしてそれは、破滅を避けることよりずっと贅沢で、だからこそ少しだけ楽しみな未来に思えた。




