第9話 過去は、なかったことにはできない
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友達という言葉を口にしてからも、ミレーヌとの関係が劇的に変わったわけではなかった。
翌朝になれば、彼女はこれまでと同じように俺より早く部屋へ来て、寝台の脇に室内履きを揃え、身支度を手伝いながら今日の予定を確認してくれる。言葉遣いが急に砕けることもなければ、主人と侍女見習いという立場を忘れたように振る舞うこともない。
むしろ「友達」という新しい関係を意識したせいなのか、今日はいつもより少し動きが固いように見えた。
「ミレーヌ」
「はい、お嬢様」
「昨日より緊張していません?」
「そのようなことはございません」
そう答えながら銀色の髪へ櫛を通す手が、普段より妙に慎重だった。
鏡越しに目を合わせると、こちらの視線に気づいたミレーヌは露骨にならない程度に顔を逸らす。
分かりやすい。
「友達になったからといって、急に何かを変えなくてもよろしいのよ?」
「わ、分かっております」
「でしたら、どうして昨日までより固くなっていますの?」
「それは……」
櫛を持ったまま困ったように黙り込んだあと、ミレーヌは頬を僅かに赤くした。
「お嬢様のお友達という立場で、どのように振る舞えばよろしいのか分からなくなりまして……」
なるほど。
考えてみれば、俺も人のことを笑えない。
前世で榊と仲良くなった時だって、どこかの日を境に「今日から友人です」と契約したわけではなかった。仕事帰りに何度か飲みに行き、くだらない話をするようになり、気がつけばこちらも向こうも友人だと思っていただけだ。
「わたくしも、よく分かりませんわ」
「お嬢様も?」
「ええ。ですから今まで通りでよろしいでしょう。そのうち、友達らしい振る舞いが何なのか分かるかもしれませんし、分からなくても特に困らないでしょうから」
そう答えると、ミレーヌは少し考えてから肩の力を抜いた。
「……では、そういたします」
七歳と五歳の少女が、朝から友達のなり方について真剣に悩んでいる。
中身まで数えれば俺だけ年齢がおかしいのだが、その点について深く考えると色々と負けた気がするので、今は気づかなかったことにしておいた。
◇
朝食を終えて歴史の授業へ向かおうとしたところで、父付きの従僕に呼び止められた。
「ヴェルシアナお嬢様。旦那様が、お時間のよろしい時に書斎へいらしてほしいとのことでございます」
「今からでも構いませんの?」
「はい。本日の午前であれば、いつでもと伺っております」
急用ではないらしい。
とはいえ、父の方から俺を呼ぶことはまだそれほど多くない。
歴史の教師へ事情を伝えてもらい、俺はミレーヌを伴って書斎へ向かった。
扉を開けると、レオルディスはいつもの執務机ではなく、窓際に置かれた応接用の卓についていた。
そして、その向かい側には見覚えのない男が座っている。
五十歳前後だろうか。短く整えた灰色の髪に、感情をあまり表へ出さない穏やかな顔立ち。身につけている服は華美ではないが、仕立ては明らかに上等で、父と自然に同席している様子からも、単なる使用人ではないことが分かる。
「来たか」
「はい、お父様」
「こちらへ座れ」
言われた通り椅子へ腰掛ける。
ミレーヌは俺の少し後ろへ控えた。
「紹介しておこう。アルセリード家の家令を務めている、グレン・オルフェスだ」
「初めまして、ヴェルシアナお嬢様」
男が落ち着いた所作で頭を下げる。
「初めまして。ヴェルシアナ・アルセリードですわ」
家令。
それなら、屋敷内の人員配置や使用人の記録、金銭の出入りまで幅広く把握している人間なのだろう。
父と家令の二人が揃って俺を待っていた理由も、何となく想像できた。
「先日、お嬢様が屋敷内の使用人や教育担当者について、いくつかお尋ねになったと伺っております」
グレンが静かに切り出した。
「はい」
「特に、過去にお嬢様との関係を理由として配置が変更された者や、担当を外れた教師について気になさっているとも」
「……怒っていますの?」
念のため父へ尋ねると、レオルディスは僅かに眉を動かした。
「なぜそう思う」
「勝手に屋敷の方々へいろいろ尋ねて回りましたから」
「屋敷について知りたいという程度で怒る理由はない。ただ、お前が何を気にしているのかは確認しておきたかった」
相変わらず言葉は少ないが、聞けばきちんと答えてくれる。
その点は、この数日で随分信用できるようになった。
「以前のわたくしが怒ったことで、仕事を替えられた方や、先生を辞めさせられた方がいると聞きました。どのくらいのことをしてきたのか、きちんと知っておきたいと思ったのです」
「なぜだ?」
父は今回も、結論より先に理由を求めた。
少し考えてから、自分の中にあるものをなるべくそのまま言葉にする。
「同じことを繰り返したくないからですわ。それに、以前のわたくしが何をしていたのかも知らないまま、これからは違う人間になりますと言うのは……少し、自分に都合が良すぎるような気がするのです」
言い終えると、父の表情がほんの僅かに変わった。
グレンも、先ほどまでより少し長く俺を見ている。
五歳児らしくないことを言っている自覚はある。
けれど、ここまで来て今さら全部を子供らしく誤魔化すことにも意味はない。
「グレン」
「はい」
父に促され、家令が数枚の紙を卓上へ並べた。
「お嬢様に直接関わる範囲のみ、過去二年分の記録を確認いたしました。まず教育担当者についてですが、交代は七名ございます。ただし、七名すべてがお嬢様との問題を理由として外れたわけではございません」
エルダ夫人から聞いた人数と一致する。
「内訳を伺っても?」
「もちろんでございます。二名は契約期間の終了、一名はご家族の事情により王都を離れ、もう一名は旦那様と奥様が教育内容を適切ではないと判断して契約を終了しております。残る三名については、お嬢様との関係悪化が担当変更の大きな理由となっております」
三人。
少なくはない。
けれど、「教師が次々に追い出された」というほど極端でもなかった。
事実を確認せず、過去の出来事を自分の中で必要以上に悪く膨らませていた部分もあったらしい。
「その三名については、わたくしが辞めさせてほしいと言ったの?」
「一名については、明確にそのようなお言葉が記録されております。残る二名は、お嬢様が稽古を強く嫌がるようになったことを受け、ナディア様から教育方法の変更を提案する報告があり、最終的に旦那様方が担当を替えております」
やはり、全部が単純な「ヴェルシアナが怒ったから追放された」という話ではない。
それでも元の俺――元のヴェルシアナの態度が、少なくとも三人の仕事へ影響を与えたことは事実だった。
「使用人の方は?」
尋ねると、グレンは別の記録へ目を落とした。
「お嬢様のご意向が直接関係した配置変更は、確認できる範囲では二件でございます。一件は、以前ミレーヌからもお聞きになったかと思われますが、髪飾りを破損した侍女見習いの件でございます」
ミレーヌから聞いた話だ。
「北棟へ移された方ですわね」
「はい。現在も屋敷内で勤務しております」
その言葉に、少しだけ安心する。
少なくとも職を失ったわけではなかった。
「その方は、自分から北棟へ移りたいと仰ったの?」
「いいえ」
グレンの答えははっきりしていた。
「当時、お嬢様が大変お怒りになり、『二度とわたくしの前へ来ないで』と仰ったことが記録されております。その後、ナディア様から奥様へ、お嬢様がその侍女見習いを見ることで再び強い不快感を覚える可能性があるとの報告があり、結果として北棟へ配置を変更することとなりました」
胸の奥に重いものが沈んだ。
この件については、ナディアだけを責めることはできない。
元のヴェルシアナ自身が、二度と目の前へ来るなと言っている。
ナディアがそれを両親へ伝え、実際の配置変更へ繋げたとしても、最初の言葉を発したのはヴェルシアナだ。
「その方は……今も、わたくしを怖がっていますの?」
尋ねると、グレンが僅かに言葉を選んだ。
「本人へ直接確認したわけではございませんので、断定はいたしかねます。ただ、お嬢様がお近くへいらっしゃる際には、可能な範囲で同じ場所へ出ないようにしていた時期はございます」
やはり。
処分されて終わりではなかった。
元のヴェルシアナが忘れてしまっても、相手の側にはその後の生活が続いている。
「もう一件は、薔薇の庭師?」
今度は俺の方から尋ねた。
グレンが僅かに目を細めた。
「よくご存じでございますね」
「ミレーヌから聞きましたわ」
後ろに控えていたミレーヌの肩が少しだけ固くなったので、俺は責めるつもりがないと伝えるように一度だけ振り返った。
「庭師は、配置を替えられたのですか?」
「正式な配置変更ではございません」
グレンは記録を確認しながら答える。
「お嬢様が薔薇へ触れようとなさった際、棘が危険であるとして庭師がお止めしたところ、お嬢様がお怒りになった件でございますね。その後、ナディア様から庭師へ謝罪するよう話があり、薔薇の棘も可能な範囲で処理されました」
第4話でミレーヌから聞いた内容と一致している。
「その庭師は?」
「現在も勤めております。ただ、その出来事の後しばらくは、お嬢様が庭へ出られる時間帯を避けるよう、自ら勤務の時間をずらしていたようでございます」
思わず視線を落とした。
解雇されてはいない。
仕事も失っていない。
それでも、その人は五歳にも満たない子供を避けるために、自分の働き方を変えていた。
もしかすると、こういう傷の方が厄介なのかもしれない。
記録上は何も失っていない。
でも関係は壊れている。
そしてヴェルシアナ本人は、それを知らなかった。
「わたくしは、庭師の方が避けるようになったことを知っていましたの?」
「おそらく、ご存じではなかったかと」
「髪飾りの侍女見習いが北棟へ移されたことは?」
「配置変更そのものはお聞きになったはずでございます。ただ、その後の勤務状況についてお尋ねになった記録はございません」
そこまで聞いたところで、胸の中にあった違和感が少し形を持った。
元のヴェルシアナは、人を傷つけることを楽しんでいたのだろうか。
ゲームの中だけを見れば、そう見える場面も多かった。
けれど幼い頃は、少し違ったのかもしれない。
自分が怒る。
誰かが謝る。
問題の原因になった物や人が、目の前からいなくなる。
そこで彼女の中では出来事が終わっていた。
相手がその後どう感じたのか、仕事がどう変わったのか、自分を見るたびに怯えるようになったのか。
その続きを知らないまま育った。
知らされなかったという面もあるのだろう。
けれど、自分から知ろうとしなかったことまで、周囲の責任にすることはできない。
「……会って、謝ることはできますの?」
俺が尋ねると、父とグレンが同時にこちらを見た。
「誰にだ」
「お二人ともです。髪飾りの方にも、庭師の方にも」
父はすぐには答えなかった。
少し考えたあと、静かに尋ね返してくる。
「なぜ謝りたい?」
簡単そうで、難しい問いだった。
悪いことをしたから。
それだけでも間違いではない。
けれど、今の俺には当時の記憶がないし、中身まで考えればその行動を取った人間とは別人だ。
それでも謝りたいと思う理由を、自分の中で探す。
「わたくしが今、気持ち悪いから……かもしれません」
正直に答えた。
父の眉が僅かに動く。
「以前の自分が誰かを怖がらせたと知って、そのままにしておくのが嫌なのです。謝れば少し楽になれるような気もします」
言葉にしてから、自分で気づいた。
それでは俺のためだ。
「でも」
続ける。
「それなら、相手の方には関係ありませんわね」
父は何も言わない。
グレンも黙っている。
「わたくしが謝って楽になりたいことと、その方がわたくしに会いたいかどうかは、別ですもの」
昨日までなら、謝ること自体が正しいと思っていたかもしれない。
庭師へ謝った時もそうだった。
あの時、相手が困った顔をしていた理由を、俺は少しだけ理解した気がした。
公爵令嬢から突然過去のことで謝られて、相手はどんな顔をすればいいのだろう。
許さなければならないと思わせるかもしれない。
「気にしていません」と言わせてしまうかもしれない。
それでは、形が違うだけで、また俺の都合を押しつけることになる。
「グレン」
父が家令を呼んだ。
「本人たちへ、今の生活に問題がないかだけ確認しておけ。ヴェルシアナが会いたがっているとは伝えなくていい」
「承知いたしました」
「もし向こうから何か希望があるのであれば、その時は私へ報告しろ」
「はい」
俺は父を見る。
「それで、よろしいのですか?」
「お前が謝りたいからといって、相手が謝罪を受け取る義務はない」
「……はい」
「だが、過去にしたことを知り、これから同じことをしないよう考えることには意味がある」
静かな声だった。
慰めるわけでも、責めるわけでもない。
だからこそ、その言葉は素直に入ってきた。
「お父様は、以前のわたくしが怒った時、どうしてもっと叱らなかったの?」
今度はこちらから尋ねる。
レオルディスは少しだけ視線を落とした。
「叱ったことはある」
「それでも、わたくしは変わらなかった?」
「ああ」
「では、どうして?」
父はしばらく黙っていた。
グレンも口を挟まない。
「私は、お前が幼いと思っていた」
やがて、レオルディスが言った。
「もう少し大きくなれば分かるだろうと考えた。問題が起きれば私が処理し、そのうちお前も学ぶと思っていた」
「でも、学ばなかった」
「少なくとも、私が期待した形ではな」
父の顔に後悔が浮かんでいるようには見えない。
ただ、自分がした判断を冷静に見直している。
「今になって思えば、私が問題を処理するだけでは足りなかったのだろう。なぜ相手を配置換えするのか、なぜ庭師の判断が間違いではなかったのか、その結果相手がどう感じるのかまで、お前へ説明するべきだった」
「お母様は?」
「お前が泣けば、まず慰めた。お前を傷つけたくなかったのだろう」
想像できる。
母ならそうする。
娘が泣いていれば抱きしめ、原因を取り除こうとしたはずだ。
父は問題を処理する。
母は娘を慰める。
そしてナディアが、「お嬢様は悪くありません」と横から説明する。
そこへ、家そのものの力まで加わる。
この家には、本当に物事を変えられる力がある。
教師を替えられる。
使用人の配置を変えられる。
庭の薔薇から棘を落とすことだってできる。
幼いヴェルシアナが、自分の怒りには世界の方が従うものだと覚えてしまったとしても、不思議ではない。
ただし、それは誰か一人のせいではなかった。
父の判断。
母の愛情。
家の権力。
ヴェルシアナ自身の幼さと我儘。
そして、そのすべてを「お嬢様は正しい」という方向へ整えてきたナディアの言葉。
いくつものものが重なって、少しずつ一人の少女を作っていった。
「お父様」
「何だ」
「以前のわたくしは、最初から悪い子だったと思います?」
質問したあとで、自分でもなぜ聞いたのか分からなくなった。
レオルディスも意外だったらしく、少しだけ目を見開いた。
「思わない」
答えは早かった。
「なぜ?」
「私の娘だから、では理由にならないか?」
「なりませんわ」
「厳しいな」
父の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
それから少し考え、言葉を続ける。
「お前は幼い頃から気が強かった。欲しいものは欲しいと言い、嫌なものははっきり嫌だと言う子だった。それ自体は悪いことではない。ただ、自分の望みが通ることが増えるにつれて、通らないことを受け入れるのが下手になったのだと思う」
「……そうですのね」
「だからといって、お前のしたことがすべて周囲の責任になるわけではない」
「分かっていますわ」
「それでいい」
その一言で、少しだけ胸の重さが変わった。
軽くなったわけではない。
ただ、元のヴェルシアナを「悪かったから仕方ない」と切り捨てる必要も、「周囲に作られただけだから悪くない」と庇い切る必要もないのだと思えた。
彼女自身がしたことは彼女の責任として残る。
同時に、そうなるまでの環境にも理由がある。
たぶん人間というものは、そのくらい面倒な形をしている。
◇
「それから、もう一つ確認したことがある」
父がそう言って、卓上の別の紙へ視線を移した。
何となく、何の話なのか察した。
「ナディアのこと?」
「ああ」
「調べてくださったのですか?」
「調べたというより、過去の報告を確認しただけだ。何かあると決めているわけではない」
父も、ずいぶん慎重な言い方をするようになった。
俺が何度も「まだ決めつけない」と言っていたから影響されたわけではないだろうが、少しだけ可笑しかった。
「ここ二年ほどのナディア様からの報告書を確認いたしました」
グレンが数枚の書類を手元へ引き寄せる。
「内容は、お嬢様の体調、教育の進捗、教師や使用人との関係、日々のご様子などでございます。現時点では、明確な虚偽が書かれていた形跡は確認されておりません」
やはり。
完全な嘘をついていたわけではない。
むしろ、その方が厄介だ。
「でも、何か気になることがあったのですね?」
「はい。たとえばエルダ夫人について、ナディア様は『お嬢様が強い苦痛を感じておられる』『指導後に長時間機嫌を損ねられることが多い』と報告しております。これらについては、事実として間違っているわけではございません」
「わたくし、本当に怒っていたのでしょう?」
「はい」
「では?」
「同じ時期のエルダ夫人側の記録には、『課題内容は年齢相応であり、お嬢様が訓練そのものを嫌って中断を求められた』とございます」
同じ出来事なのに、随分印象が違う。
片方だけを読めば、厳しすぎる教師に幼いヴェルシアナが苦しめられているように見える。
もう片方だけなら、我儘な子供が嫌がっているだけに見える。
どちらも事実の一部なのだろう。
「ナディアは、わたくしがなぜ嫌がっていたのかをあまり書いていないのですね」
「すべての報告がそうではございません。ただし、お嬢様ご自身の問題については比較的穏やかな表現が選ばれ、相手側の問題については詳細に記される傾向がございます」
父の表情が少し厳しくなる。
「教師の交代を提案した報告にも同様の傾向がある。教師側の問題点は細かく書かれているが、お前が課題を投げ出したことや、癇癪を起こしたことについては『幼さゆえ』『強い不安を感じたため』という説明が多い」
嘘ではない。
けれど、光の当て方が違う。
俺の失敗には柔らかな理由を付け、相手の失敗にははっきり輪郭を与える。
それを何年も積み重ねれば、報告を受け取る父と母の中で、ヴェルシアナは常に「問題を起こされる側」へ近づいていくだろう。
「これは、悪いことなの?」
あえて父へ尋ねる。
レオルディスはすぐには答えず、書類へ目を落としたまま考えた。
「報告する者の主観を完全に排除することはできない。それ自体を悪いとは言えない」
「では、問題なのは?」
「意図してやっているかどうかだ」
父は顔を上げた。
「ナディアが本気で、お前を守ることが最善だと考えていた可能性はある。その場合、教育方針や考え方に偏りがあるだけとも言える。だが別の目的があり、お前と周囲の関係を悪くするために意図的に情報を偏らせていたのであれば、話は変わる」
俺も同じ考えだった。
そして、そこで思い出す。
「セレグラン男爵については?」
尋ねると、父の視線が鋭くなった。
「なぜ、その名前が出る」
「先日、ナディアと一緒に北棟の方へ向かっているところを見ました。ミレーヌへ聞いたら、お兄様だと教えていただいたのです」
「いつだ?」
日付を答える。
父はすぐグレンを見る。
家令は卓上の記録を一つ確認し、僅かに眉を寄せた。
「その日の正式な来客記録に、セレグラン男爵のお名前はございません」
今までとは少し違う種類の違和感だった。
「記録にないの?」
「はい。少なくとも、正門を通った正式な訪問客としては記録されておりません」
「他の入口から入ることはできますの?」
「使用人用の門や搬入口はございます。ただし、貴族の当主が正式な手続きなく利用する場所ではございません」
兄が妹を訪ねた。
それだけなら何の問題もない。
けれど、公爵邸という場所へ男爵家当主が入り、その記録が残っていないとなれば、話は少し変わってくる。
それでも、まだ何をしていたのかは分からない。
たまたま緊急の事情があり、家令まで報告が届かなかった可能性だってゼロではない。
「調べるの?」
父へ尋ねる。
「ああ」
「わたくしも――」
「お前はこれ以上動くな」
言い切る前に止められた。
「でも、わたくしに関係することですわ」
「だからこそだ」
父の声は静かだったが、今までよりはっきりとした強さがあった。
「相手が何をしているのか分からないうちに、五歳の娘を調査へ関わらせる理由がない。知りたいことがあるなら私へ聞け。見たことや聞いたことがあるなら報告しろ。それ以上は大人に任せろ」
反論できない。
というより、正しい。
俺自身、五歳児が大人を尾行したところでろくな結果にならないと思っていたはずだ。
「……分かりましたわ」
「本当に分かっている顔だな?」
「信用がありませんの?」
「以前とは違う意味で行動力がありすぎる」
ひどい評価だ。
思わず笑ってしまう。
「約束いたします。勝手には動きませんわ」
「それでいい」
父が僅かに頷いた。
何でも自分一人で確かめなければならないと思っていた頃より、少しだけ状況が変わっている。
父がいる。
グレンもいる。
信用できる範囲で任せられる大人がいる。
それも、この数日で俺が新しく手に入れたものなのかもしれなかった。
◇
書斎を出たあと、俺とミレーヌはしばらく黙って廊下を歩いていた。
午前の光が大きな窓から差し込み、磨かれた床へ長い四角形を作っている。俺たちの足音だけが、その静かな廊下を一定の間隔で進んでいった。
「お嬢様」
先に口を開いたのはミレーヌだった。
「何ですの?」
「先ほどのお話、大丈夫でございますか?」
「何が?」
「以前の侍女見習いの方や、庭師の方のことです。お嬢様のお顔が、少し暗く見えましたので」
七歳の子供に心配されている。
けれど、無理に平気なふりをする必要もないだろう。
「少し、嫌な気持ちはしますわ」
「……そうでございますか」
「わたくしには、その時のことをほとんど覚えていません。でも、わたくしが覚えていないことと、相手が覚えていないことは同じではありませんもの」
自分で口にして、その言葉が一番近いと思った。
俺にはない記憶。
でも、相手にはある記憶。
俺がこの世界へ来たからといって、その人たちの過去まで書き換わるわけではない。
「ミレーヌ」
「はい」
「あなたは、今のわたくしと以前のわたくしを、同じ人だと思います?」
突然の質問に、彼女は驚いて目を瞬かせた。
「難しいです」
「そうですわよね」
自分でも答えられない問いだ。
それで終わるかと思ったが、ミレーヌはしばらく考えてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「以前のお嬢様を、わたくしは怖いと思っておりました。でも、今のお嬢様とお話をしている時は、同じようには感じません」
「なら、別人?」
「それも……少し違うような気がいたします」
「どうして?」
ミレーヌは前を向いたまま、自分の考えを慎重に言葉へしていく。
「お嬢様は、以前のお嬢様がなさったことを、知らないことにはなさいませんから。もし本当にまったく関係がないと思っておられるのでしたら、庭師の方へ謝る必要も、北棟の方のことを気になさる必要もないと思うのです」
足が止まりそうになった。
「上手く言えなくて、申し訳ございません」
「いいえ。十分ですわ」
俺は少し笑った。
「ありがとうございます、ミレーヌ」
彼女の言葉で何かに答えが出たわけではない。
元のヴェルシアナと今の俺がどういう関係なのかについて、簡単な結論が見つかるとも思えない。
それでも今は、無理に答えを出さなくてもいいのだろう。
過去に傷つけた人がいるなら、できる範囲で向き合う。
ただし、自分が楽になりたいという理由で謝罪を押しつけない。
間違ったことがあるなら、同じことを繰り返さない。
そしてナディアについては、自分一人で解決しようとせず、父やグレンへ任せられる部分は任せる。
何でも自分で抱え込むことだけが「自分で決める」という意味ではないのだろう。
誰を信じるか。
何を任せるか。
それを選ぶことだって、自分で決めることには違いない。
◇
その日の夕方、ナディアは何事もなかったように俺の部屋へ現れた。
「本日もお疲れ様でございました、お嬢様」
「ありがとうございます」
「午前中、旦那様の書斎へお呼ばれになったそうでございますね」
やはり、もう知っている。
「ええ。少しお話をしましたの」
「どのようなお話でございました?」
尋ね方は自然だった。
以前の俺なら、聞かれたことをそのまま答えていたかもしれない。
「お屋敷のことについてですわ。最近、自分がどのように暮らしてきたのか知りたいと思うようになりましたので」
嘘はついていない。
ナディアは柔らかく微笑む。
「もし分からないことがございましたら、何なりとわたくしへお尋ねくださいませ。お嬢様がお生まれになった頃からお側におりますので、大抵のことはお答えできるかと存じます」
以前なら、とても頼もしい言葉に聞こえただろう。
今は少しだけ違う。
ただし同時に、その言葉が完全な嘘ではないことにも気づいた。
ナディアは俺のことを、生まれた頃から知っている。
ならば、元のヴェルシアナがどんな赤ん坊で、どういう幼児で、いつから怒りやすくなり、どのような言葉を喜ぶようになったのかも知っているはずだ。
俺が知らないヴェルシアナを、彼女は知っている。
疑っている相手だからといって、その事実まで無価値になるわけではない。
「ナディア」
「はい」
「今度、昔のわたくしのお話を聞かせてくださいな」
予想していなかったのだろう。
ナディアはほんの一瞬だけ目を見開いた。
「昔の、お嬢様でございますか?」
「ええ。もっと小さかった頃のわたくしが、どんな子供だったのか知りたいのです。何が好きで、何を嫌がって、どんな時に怒っていたのかも」
ナディアは少しだけ黙ったあと、いつもの柔らかな微笑みを浮かべた。
「もちろんでございます。お嬢様は幼い頃から、それはもう聡明で、気高く、誰よりも特別なお子様でいらっしゃいました」
やはり、最初に出てくるのはそういう言葉なのか。
俺は笑顔を崩さないまま、彼女の話を聞くことにした。
もしかするとナディアを知るために必要なのは、彼女が何を隠しているのかを探すことだけではないのかもしれない。
彼女がヴェルシアナという少女を、どのように見てきたのか。
何を褒め、何を否定せず、何を「お嬢様のため」と考え、その結果として何を教えなかったのか。
そこまで知ることができれば、元のヴェルシアナが悪役令嬢へ変わっていった道筋も、今より少し深く理解できるはずだ。
そして今日、もう一つ分かったことがある。
俺が変わったからといって、過去まで変わるわけではない。
髪飾りを壊した侍女見習いは、今も俺を避けているかもしれない。
薔薇の庭師は、一時期俺と顔を合わせないよう働く時間を変えていた。
俺には記憶がなくても、彼らにとっては実際に起きた出来事であり、その時感じた恐怖や不快感までなかったことにはならない。
だから、未来を変えることと、過去を消すことは分けて考えなければならないのだろう。
これからどれほど善良に振る舞ったとしても、以前傷つけた人が必ず許してくれるわけではない。
謝ったからといって、相手が受け入れなければならない理由もない。
それでも、自分が何をしてきたのかを知り、その結果から目を逸らさず、同じことを繰り返さないようにすることならできる。
ゲームなら、選択肢を間違えた瞬間にデータを読み込み直せた。
けれど、この世界にはロード機能などない。
一度選んだことは残り、その先にも人の人生が続いていく。
俺が手に入れたのは人生を最初からやり直せる力ではなく、途中から違う選択をする機会なのだ。
その違いを、俺は今日になってようやく理解し始めていた。




