第68話 ミレーヌは、消えた支出を拾う
ミレーヌが違和感に気づいたのは、数字が合わなかったからではなかった。
むしろ、その逆だった。
アルセリード邸の資料室へ運び込まれた古い帳簿は、どれも驚くほど几帳面に記されている。収支を計算し直しても大きな誤差はなく、補修に使われた石材の量と支払額を照らし合わせても、当時の相場から極端に外れている様子はなかった。
百年以上前の記録であることを考えれば、保存状態も十分すぎるほど良い。
それでもミレーヌは、先ほどから同じ数冊を何度も行き来していた。
窓の外では陽が傾き始め、斜めに差し込んだ光が机いっぱいに広げられた紙の端を淡く照らしている。部屋に満ちる古い革と乾いた紙の匂いの中で、頁を捲る音だけが一定の間隔で続いていた。
「まだ何か気になりますか?」
向かい側から声をかけられ、ミレーヌは顔を上げた。
ヴェルシアナも別の資料を確認していたらしい。机の端には地下施設で見つかった記号の写し、その隣には古い領地図が何枚か重ねられている。
調査の中心にいる大人たちは別室で専門家から報告を受けており、二人に任されているのは危険のない範囲での資料整理だった。
「はい。ただ、まだ何がおかしいのか、上手く説明できなくて」
「それでしたら、分かるまで見ましょう。急いで結論を出す必要はありません」
ヴェルシアナはそう言うと、それ以上何を見つけたのか尋ねず、自分の資料へ戻った。
ミレーヌは改めて帳簿へ視線を落とす。
こういうところが好きなのだと思う。
分からないと言った時に無理に答えを求めず、それでも気のせいとして片づけることもしない。見つけるまで待つことも、一つの信頼なのだと知っている人なのだろう。
最初の一冊を開く。
地下施設が発見されるきっかけになった古い支出記録。
北西水路見回り。
地下灯火用油。
補修鉄材。
石材。
人夫への日当。
単独で見れば、どれも珍しい項目ではない。ただし、現代の地図には存在しない場所へ毎年少額ながら確実に費用が使われ続けていたことが、地下施設の調査へ繋がった。
そこまでは、すでに分かっている。
「お嬢様、こちらをご覧いただけますか」
「はい」
ミレーヌは二冊の帳簿をヴェルシアナの前へ並べた。
「左が百十二年前、右が百十一年前です」
ヴェルシアナが椅子を少し寄せる。銀色の髪が肩から流れ、帳簿の上へ淡い影を落とした。
「北西水路見回り、灯火用油、補修石材……こちらにもありますね」
「はい。金額にも大きな変化はありません」
「では、その次は?」
三冊目を開く。
百十年前。
同じ項目が並んでいる。
百九年前も、百八年前も大きくは変わらない。
ミレーヌはそこからさらに年代を進め、七冊目を開いた。
「ここです」
ヴェルシアナの指が止まる。
「……項目が減っていますね」
「はい」
それまで別々に記録されていた見回り、灯火、補修資材、人夫への支払いが消え、代わりに記されているのは《北西区画維持費》という一項目だけだった。
「まとめられたのでしょうか」
「最初は、私もそう思いました」
ミレーヌは別の紙を差し出す。そこには各年の支出額を自分で書き写した一覧が作られていた。
「細かな項目がなくなった年の総額を、前年までの支出と比べてみました」
ヴェルシアナが数字を追う。
見回り、油、鉄材、石材、人件費。
それまで五つに分かれていた金額を合計し、翌年から現れた《北西区画維持費》と比べる。
「……ほとんど同じですね」
「はい。多少の増減はありますが、急に何かをやめたような金額ではありません」
仕事そのものは続いている。
ただ、何に使ったのかだけが見えなくなっていた。
ヴェルシアナの目つきが少し変わる。
「つまり、施設を使わなくなったから記録が減ったのではなく、記録の仕方だけが変わった可能性がある」
「そう思います」
ミレーヌはさらに次の帳簿を開いた。
《北西区画維持費》は翌年も、その翌年も続いている。金額は少しずつ変化しているが、項目そのものは十年以上残っていた。
ところが、ある年を境に、その文字まで消える。
「こちらから先をご覧ください」
ヴェルシアナが頁を捲る。
北西区画維持費はない。
さらに翌年にも見当たらない。
「完全になくなっていますね」
「はい。ただ、私は支出そのものまでなくなったとは思えませんでした」
ヴェルシアナが顔を上げる。
「どういうことです?」
「この年の総支出をご覧ください」
帳簿の末尾には、その年に領内で使われた費用の合計が記されている。
ミレーヌはその数字と、各項目を自分で足し直した数字を並べた。
「こちらの年は一致しています。でも、その次から僅かに合わなくなります」
ヴェルシアナも自分で計算する。
結果は同じだった。
差額は大きくない。
領地全体の支出から見れば、見落としてしまっても不思議ではない程度だ。
けれど、ミレーヌはその額に見覚えがあった。
「この差額は、《北西区画維持費》が記載されていた最後の数年間とかなり近いのです」
部屋が静かになる。
窓の外から鳥の声が聞こえ、その音が妙に遠く感じられた。
ヴェルシアナは帳簿を見つめたまま、ゆっくり口を開く。
「……名前だけを消した?」
「可能性はあります」
ミレーヌは慎重に答えた。
「ただ、これだけでは断定できません。帳簿の形式が変わっただけかもしれませんし、別の項目へ含められた可能性もあります」
「でも、北西区画維持費という名前が消えた後も、それに近い金額だけが総額の中に残っている」
「はい。それも一度だけではありません」
ミレーヌは次の帳簿を開き、その翌年、さらに翌年と差額を示していく。
完全に同額ではない。
それでも、施設の補修や見回りを続けていたと仮定すれば、十分にあり得る変動の範囲に収まっていた。
言葉だけが消え、金は動き続けている。
それが何年も続いた後。
「ここで、差額そのものもなくなります」
最後の一冊を開く。
ヴェルシアナが年代を確認した。
「九十一年前?」
「はい。それ以降、確認できた範囲では同じ規模の差額はありません」
ヴェルシアナは椅子の背へ少し身体を預け、帳簿の並びを見た。
「最初は細かく記録していたものを一つへまとめ、その次に項目名そのものを消した。それでも支出だけはしばらく続いて、最後には金の動きまで止まった……」
「はい」
「自然に忘れられた場所にしては、少し綺麗すぎますね」
ミレーヌも、そこが一番引っかかっていた。
使われなくなった施設なら、普通はもっと曖昧に衰えていくのではないか。
補修回数が減り、見回りの間隔が延び、壊れたものを直さなくなり、そうして少しずつ人が寄りつかなくなっていく。
けれど帳簿に残る変化は、その逆に見える。
仕事を続けながら、先に名前だけが見えなくなっている。
その後もしばらく金を使い、ある年を境に本当に止めた。
「隠したかったのでしょうか」
ミレーヌが呟く。
「可能性はあります。ただ、誰かが悪いことをしていたと決めるのは早いでしょうね」
ヴェルシアナはすぐには肯定しなかった。
「地下施設を閉じる必要があって、その存在まで知られない方がよかった可能性もあります。逆に、別の事情で帳簿の形式を変えただけかもしれません」
そこでヴェルシアナは、机に置かれた地下施設の写しへ目を向けた。
「大人の方々に確認していただきましょう。少なくとも九十一年前に何があったのかは、調べる価値がありそうです」
ミレーヌは頷いた。
まだ答えではない。
けれど、何を探せばいいのかは見え始めている。
年代順に資料をまとめ直そうとして、一冊の帳簿を持ち上げた時だった。
革表紙の内側から、何かが滑り落ちる。
床へ落ちたのは、手のひらほどの薄い紙片だった。
「何でしょう?」
ヴェルシアナも気づき、二人で覗き込む。
帳簿の頁とは明らかに紙質が違い、長い年月のせいか端が茶色く変色している。文字は書かれておらず、その代わりに細い線が複雑に絡み合った図柄が描かれていた。
「……地下の記号に似ていますね」
「似ていますが、同じではない気がします」
ヴェルシアナが紙片を受け取り、角度を変えながら見る。
「分岐にしては、線の消え方がおかしいですね。こちらは途中で切れているのに、その先へ続く線がありません」
ミレーヌも隣から覗き込んだ。
魔術の知識があるわけではない。
それでも、ただの落書きには見えなかった。
線は単純に交差しているわけではなく、ある場所では片方が途切れ、少し先から再び現れている。別の場所では二本が重なっているように見えながら、そのうち一本だけが途中で姿を消していた。
「裏側はどうでしょう」
ミレーヌが言う。
ヴェルシアナが紙片を返した。
裏側にも同じような線が描かれていた。
ただし、表と同じ模様ではない。
表で途切れていた線が裏側へ回り込み、紙の反対側を通ってから、別の場所で再び表へ戻っているようにも見える。
「……表と裏で一枚なのでしょうか」
ミレーヌが言った。
「その可能性はありそうです」
ヴェルシアナは表と裏を交互に確認しながら、眉を寄せる。
「ただ、私には何を表しているのかまでは分かりません」
「私もです」
地下施設で見つかった記号と似ている以上、無関係とは考えにくい。
けれど、似ているというだけで意味を決めるわけにもいかない。
「これも一緒にお父様へお渡ししましょう」
「はい」
ヴェルシアナは紙片を元の帳簿へ戻さず、別の保管用封筒へ入れた。
ミレーヌはその様子を見ながら、もう一度机の上へ広げられた数字を眺める。
地下施設。
消えた項目。
残った支出。
そして、その最後の年代に挟まれていた正体不明の図。
互いに関係しているのかもしれない。
あるいは、ただ同じ時代の資料が一緒に保管されていただけかもしれない。
それでも一つだけ確かなのは、誰かが昔ここへ金を使い、その事実が途中から見えにくくなったということだった。
「ミレーヌ」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
ヴェルシアナがこちらを見ていた。
「はい」
「よく見つけましたね」
「紙片のことでしょうか?」
「それもありますけれど、帳簿の方です」
ヴェルシアナはミレーヌが作った一覧へ目を落とした。
「私は項目が消えていたら、使わなくなったのだと思ってしまったかもしれません。でもミレーヌは、消えた後の数字まで追ったでしょう?」
「……気になっただけです」
「それが大事なのだと思います」
ヴェルシアナは、ごく自然に言った。
「書いてあるものだけを見るのではなく、なくなったものまで見ていらしたから見つけられたのでしょう」
ミレーヌは少しだけ視線を落とした。
「帳簿は、数字を隠すのが下手なのです」
「そうなのですか?」
「はい。名前を変えることはできても、実際にお金を使えば、どこかには残りますから」
答えてから、自分でも少し生意気だったかと思った。
けれどヴェルシアナは笑わなかった。
むしろ感心したように一覧を見る。
「では、これからも数字の方はお願いします」
「もちろんです」
その返事だけは、迷わなかった。
◇
その日のうちに、帳簿と紙片はレオルディスの元へ運ばれた。
報告を受けた彼は、ミレーヌがまとめた一覧を最初から最後まで黙って読み、九十一年前という年代の横へ指を置いた。
「差額が残ったのは何年間だ」
「確認できた範囲では、六年間です」
ミレーヌが答える。
「その前に《北西区画維持費》として十年以上」
「はい」
レオルディスは短く頷き、隣にいた家令へ視線を向けた。
「九十年前後の領内記録を洗え。災害、街道変更、行政区分の変更、それから当時の担当者も分かる範囲で出してくれ」
「承知いたしました」
続いて、レオルディスは例の紙片を手に取る。
「これは?」
ヴェルシアナが答えた。
「帳簿の革表紙の内側に挟まっていました。地下施設で見つかった記号と少し似ていますが、意味までは分かりません」
「ヴィクトルへ回そう」
判断は早かった。
翌朝には、紙片は地下施設を調査している魔術師たちの手へ渡った。
数名の研究者が写しを取り、既に発見されている記号や壁面の流路図と比較する。紙そのものの年代も調べられたが、結果として分かったのは、帳簿と大きく時代が離れてはいないということくらいだった。
模様については、さらに歯切れが悪い。
「古代術式の一種である可能性はあります」
研究魔術師の一人がそう説明したのは、数日後のことだった。
レオルディス、ヴィクトル、ヴェルシアナの前に、拡大された写しが広げられている。
「ただ、通常の魔力回路として読むと辻褄が合いません。流れが途中で切れている箇所が多く、表面だけを見る限りでは成立していないのです」
「裏面は?」
レオルディスが尋ねる。
「関連している可能性はあります。ただし、表裏を一つの術式として扱う形式は、少なくとも我々が現在確認している古代術式には多くありません」
ヴィクトルが紙を持ち上げ、光へ透かした。
表と裏の線が重なって見える。
「無理に一つの術式だと決める必要はないでしょう」
「はい。そのため現在は、記号というより構造図や配置図の可能性も含めて確認しています」
結論は出なかった。
重要かもしれない。
地下施設と関係があるかもしれない。
だが、何を示しているのかは分からない。
ヴェルシアナは机の上に置かれた写しを見る。
ゲームの知識を探ってみても、これそのものに覚えはなかった。
古代施設に関係する仕掛けや道具は存在していたはずだが、ゲーム画面で細かな構造図まで確認した記憶などない。
ここで無理に結びつけても仕方がない。
分からないものは、分からないまま置いておくしかないのだろう。
「写しを一部いただいても?」
ヴェルシアナが尋ねると、ヴィクトルが目を向けた。
「何に使いますか」
「地下施設で見た記号と、自分でも少し比べてみたいだけです。もちろん、外へ持ち出すつもりはありません」
ヴィクトルはしばらく考えたあと、研究用に作られた複製の一枚を取った。
「原本ではありません。破損しても問題のない写しです」
「ありがとうございます」
「ただし、理解できないからと魔力を流そうとしないこと」
「いたしません」
「あなたは理解できないものほど試したがる傾向があります」
「……今回は本当に見るだけです」
少し離れたところで、レオルディスが書類から目を上げた。
「今回は、という言い方は訂正した方がいい」
「お父様まで」
重かった空気がほんの少しだけ緩む。
ヴェルシアナは紙を受け取り、改めて表と裏を見た。
線は複雑に絡み合い、ところどころで意味もなく途切れているように見える。
研究者でも読めない。
自分にも分からない。
だから、すぐに何かが起こるわけではない。
この時のヴェルシアナは、そう考えていた。
数日後。
何の答えも出ていなかったその一枚が、古代魔術とはまるで関係のない話題の途中で、思いがけない見方をされることになるとは知らずに。




