第67話 ディルヴァンは、風の先を走る
翌日の訓練場には、昨日までなかったものがいくつも増えていた。
中央には木製の人形が六体、その間を縫うように高さの異なる台座が四つ置かれ、天井近くからは拳ほどの木球が何個も吊られている。どれも単体で見れば騎士や魔術師の基礎訓練に使われそうな道具だが、訓練場の端から端まで複雑に並べられると、何をさせられるのか一目では分からない。
ヴェルシアナは入口で足を止め、仕掛けの配置を順に見回してから、訓練場の奥に立つヴィクトルへ視線を向けた。
「……昨日より、少々嫌な予感がいたします」
「俺は面白そうだけど」
隣から返ってきた声に顔を向ければ、今日の訓練へ呼ばれていたディルヴァンが、むしろ楽しそうに木製人形を眺めている。
軽装の訓練着に、刃を潰した練習剣。
まだ九歳の少年であるはずなのに、剣を腰へ下げた姿には妙な自然さがあった。武器を持っているというより、その場所に剣がある状態の方が本人にとって普通なのだと思わせるほど、身体へ馴染んでいる。
「面白そう、で済めばよろしいのですけれど」
「昨日は紙を飛ばしてたんだろ?」
「紙を飛ばしたのではなく、風の道を作ったのです」
「似たようなものじゃない?」
「かなり違います」
ディルヴァンは「へえ」とだけ返し、近くの人形へ歩いていった。
ヴェルシアナはその背中を見ながら、昨日掴みかけた感覚を思い返す。
物を力任せに動かすのではなく、既にある流れへ必要な分だけ触れる。紙を一枚ずつ運ぶのではなく、その紙が通れる道そのものを作る。
まだ身体へ染みついたとは言えないものの、それまでとは明らかに違う魔術の使い方を一つだけ知った。
今日はその続きをするものだと思っていたのだが、どう見ても目の前の仕掛けは一人用ではない。
「揃いましたね」
ヴィクトルが訓練場の奥から歩いてくる。
「先生。今回は、最初に内容を伺ってもよろしいでしょうか」
「構いません」
珍しく素直な返答だった。
ヴィクトルは杖の先を訓練場の反対側へ向ける。そこには小さな旗が一本立っていた。
「二人で、あそこまで行ってください」
ヴェルシアナは旗を見たあと、もう一度ヴィクトルを見る。
「……それだけですか?」
「それだけです」
隣でディルヴァンが笑う。
「簡単じゃん」
「そう思うのでしたら、どうぞ」
ヴィクトルが一歩横へ退いた、その瞬間だった。
天井から吊られていた木球が大きく揺れ、横から二人へ迫ってくる。
ディルヴァンはほとんど反射のように剣を抜くと、木球の正面へ刃をぶつけるのではなく側面だけを軽く叩き、その勢いを殺さないまま進路の外へ弾いた。
「行くよ!」
そう言った時には、もう走り出している。
「少しは待ってくださいませ!」
止めても意味がない。
ヴェルシアナも追った。
数歩進んだところで、正面の木製人形が内部の仕掛けによって動き、訓練用の棒を横薙ぎに振ってくる。
ディルヴァンが低く身体を沈めたのとほとんど同時に、ヴェルシアナも危険を排除しようと風を起こした。
人形の腕を押し戻すつもりだった。
ところが横へ流した風は人形だけでなく、すぐ近くを走っていたディルヴァンの足元まで巻き込み、踏み込みの向きを僅かに崩してしまう。
「邪魔!」
「えっ」
それでもディルヴァンは止まらなかった。
崩れた足を無理に戻そうとせず、そのまま次に置く位置を半歩だけ変え、身体の傾きを利用して棒の下へ滑り込む。抜ける直前には剣の腹を棒へ添え、受けた力まで次の踏み込みへ逃がしていた。
失敗した一歩すら、彼の中では次の動きへ繋がっている。
ヴェルシアナが一瞬そちらへ意識を奪われたところで、今度は右上から別の木球が振れてきた。
「右です!」
「見えてる!」
ディルヴァンが剣を返す。
ヴェルシアナも風を送る。
二人の処理が重なった。
木球は刃が届く直前に風で軌道を変え、その外側を通過していく。
「ヴェルシアナ!」
「申し訳ありません!」
「今のは俺が斬るやつだった!」
「私にも危険に見えたのです!」
「だから二人で同じのやったら意味ないだろ!」
言い返している間にも仕掛けは止まらない。
次の人形が動き、別の木球が揺れ、二人は同じ危険へ別々の方法で手を出しては互いの動きを邪魔していった。
旗へ辿り着いた時には、ディルヴァンは木球を一度肩へ受け、ヴェルシアナも人形の棒を避けようとして台座へ膝をぶつけていた。
旗へ触れた瞬間、全ての仕掛けが止まる。
先ほどまで騒がしかった訓練場には、揺れ残った木球の軋みだけが聞こえていた。
「……着きましたね」
ヴェルシアナは膝を押さえながら言う。
「着いたけど、めちゃくちゃやりにくかった」
「私もです」
二人揃ってヴィクトルを見る。
彼は入口近くからほとんど動いておらず、こちらの失敗を見届けると、何の感想も挟まず告げた。
「もう一度」
「助言は?」
ディルヴァンが尋ねる。
「必要ですか?」
その返答に、ディルヴァンは少しだけ黙った。
「……いらない」
「では戻りなさい」
二人は開始位置へ戻る。
ヴェルシアナは膝についた埃を払いながら、先ほどの失敗を頭の中で並べ直した。
ディルヴァンは速い。
地下施設でもそれは分かっていたが、一緒に動いてみると、その速さが逆に難しさになる。
こちらが危険を見つけて風を動かそうとした時には、彼自身も既にその危険へ対応している。それなら、ヴェルシアナまで同じものへ手を出せば、二人分の力が増えるのではなく、二人分の判断がぶつかるだけだ。
「ディルヴァン様」
「なに?」
「役割を決めません?」
「どうする?」
ヴェルシアナは訓練場全体を見る。
全部を自分が動かす必要はない。
昨日、紙を前にした時と同じだった。
「基本的には、ディルヴァン様がご自身で処理してください。私は、ディルヴァン様だけでは難しいものか、進む邪魔になりそうなものだけ外します」
ディルヴァンは少し考え、剣を肩へ乗せた。
「じゃあ、俺が斬れるやつには触らない?」
「できる限りは」
「できる限りって言い方、ちょっと怖いな」
「本当に危険でしたら手を出します」
「そこはまあいいけど、何かする時だけ言って。急に足元へ風が来ると本当に動きにくい」
「それほどでした?」
「地面が勝手に横へずれたみたいだった」
「……それは申し訳ありません」
二人で簡単に役割を確認し、開始位置へ並ぶ。
ヴィクトルは何も言わない。
どこまで自分たちで修正できるのか、それだけを見ているようだった。
仕掛けが動いた。
最初の木球が横から迫る。
ヴェルシアナは手を出さない。
ディルヴァンの剣が斜めに走り、木球の側面を正確に叩いた。大きく吹き飛ばす必要はないと分かっているのか、二人が通る道から外れるだけの角度を与えると、そのまま足を止めず前へ出る。
正面の人形が棒を振った。
ディルヴァンは身体を低くし、その下を滑るように抜けていく。
ヴェルシアナはまだ動かない。
その次。
左上から、別の木球が振れてくる。
ディルヴァンは人形の下を抜けたばかりで、立ち上がる瞬間と軌道が重なっていた。
「左上、ずらします!」
「頼む!」
返事に迷いがない。
ヴェルシアナは木球そのものへ風を叩きつけず、周囲を流れる空気へ薄く魔力を重ねた。
軌道が、拳一つ分だけ上へずれる。
それだけで十分だった。
ディルヴァンが立ち上がった直後、その髪の上を木球が掠めるように通り過ぎる。
「今のいい!」
「前を見てください!」
「見てる!」
次に動いたのは二体の人形だった。
左右から棒が振られ、通れる幅が一気に狭くなる。
ディルヴァンの足が僅かに遅くなった。
どちらか一方だけなら、彼一人で抜けられる。
ならば、ヴェルシアナが触れるのも一つだけでいい。
右側の棒へ風を沿わせ、振り出される軌道を外側へ少し膨らませる。
「右、空けます!」
「分かった!」
ディルヴァンはその隙間へ踏み込み、左の棒だけを剣で受け流しながら、右側は身体を僅かに傾けるだけで通り抜けた。
ヴェルシアナは後ろから追いながら、その動きへ思わず目を奪われる。
速い。
けれど、足が速いというだけでは説明できない。
剣を振り、身体を捻り、足を置き、次の一歩へ移る。本来なら別々の動作として見えるはずのものが、ディルヴァンの場合は一つの長い動きの中へ収まっていた。
一つ目の動きが終わる前に二つ目が始まり、その二つ目の勢いがそのまま三つ目へ繋がっていく。
だから、止まって見える瞬間がほとんどない。
「ヴェルシアナ!」
呼ばれて意識を戻す。
前方から木球が二つ迫っていた。
一つはディルヴァンが十分処理できる。もう一つは、彼の死角へ入る角度だ。
「左だけ触ります!」
「うん!」
一つ目をディルヴァンが斬る。
ヴェルシアナは二つ目へ風を重ね、遠ざけるのではなく、逆に彼の剣が返ってくる位置へ僅かに寄せた。
ディルヴァンの目が動く。
飛んでくる木球を認識した瞬間、最初の一撃から返ってきた剣筋が途切れることなく、そのまま二つ目へ滑っていった。
二度の乾いた音が、ほとんど一つに重なる。
その動きを見て、ヴェルシアナは思わず息を呑んだ。
ディルヴァンは、ヴェルシアナが動かした木球を待っていたわけではない。
そこへ来ると分かった瞬間には、既に剣の帰り道を変えている。
予測してから動くのではなく、見えたものへ身体全体がそのまま答えを返しているようだった。
「あと!」
「はい!」
最後の人形が棒を振り下ろしてくる。
ディルヴァンは受け止めず、ぎりぎりまで引きつけたところで身体を半歩だけ外し、剣の腹を棒の根元へ沿わせることで勢いを別方向へ逃がした。
その動きを見た瞬間、ヴェルシアナは一つ気づく。
自分が昨日覚え始めたことと、少し似ている。
ディルヴァンも、相手の力を全部受け止めていない。
既に動いているものへ、ほんの僅かに別の道を与えている。
彼は剣で。
自分は風で。
使っているものは違っていても、無理に全てを止めないという部分では同じだった。
旗まで残り数歩。
最後の木球が、今度は天井から真下へ落ちた。
振り子ではない。
ディルヴァンの進路へ、ほとんど垂直に落下してくる。
避ければ足を止めることになる。
ヴェルシアナは上を見た瞬間、昨日の木球訓練と庭園の事故を同時に思い出した。
止めなくていい。
落ちる場所さえ変えればいい。
「そのまま進んでください!」
ディルヴァンは一瞬だけこちらを見た。
それ以上は何も確かめず、速度を落とさない。
ヴェルシアナは落下する木球の側面を流れる空気へ触れ、進路を僅かに右へずらした。
木球はディルヴァンの肩から指二本ほど外れた場所を落ち、その間に彼の手が旗へ届く。
仕掛けが止まった。
訓練場へ静けさが戻る。
ディルヴァンが振り返った。
額には汗が浮かんでいるが、表情には疲労より楽しさの方が強く出ている。
「今度は、めちゃくちゃやりやすかった」
「私もです」
ヴェルシアナは呼吸を整えながら答えた。
先ほどは、自分まで全部を処理しようとしていた。
今回は違う。
ディルヴァンができることは彼へ任せ、自分は彼一人では処理しづらい部分へだけ触れた。
それだけで、同じ訓練場のはずなのに動きやすさがまるで違う。
「もう一度」
ヴィクトルが言った。
ディルヴァンが眉を上げる。
「まだやるの?」
「先ほどの一回だけで十分なのであれば、終わっても構いません」
「やる」
即答だった。
「ヴェルシアナも?」
「もちろんです」
二人は開始位置へ戻る。
今度は仕掛けの順番が変わっていた。
「先生、性格悪いよね」
ディルヴァンが小声で言った。
「聞こえています」
「聞こえるように言った」
「では始めます」
会話を切るように、木球が動いた。
◇
二回目、そして三回目と回数を重ねるほど、二人のやり取りは自然に減っていった。
ヴェルシアナが何も言わなければ、ディルヴァンは自分で処理する。
逆にヴェルシアナが声を出した時には、その言葉が示す結果を前提に身体を動かす。
やってみれば、それは思っていた以上に難しかった。
危険に見えるものがあれば、自分でも手を出したくなる。相手が処理すると分かっていても、ほんの一瞬だけ迷ってしまう。
けれど、その一瞬があればディルヴァンの速度には追いつけない。
三回目の後半、左右から木球が迫り、正面の人形も同時に動いた。さらにその奥では、少し遅れて別の棒が動き始めている。
ヴェルシアナは全体を見る。
ディルヴァンなら手前の二つは処理できる。
問題は、その奥。
正面を抜けた直後に棒が重なり、進路を塞ぐ。
「右奥、こちらへ寄せます!」
ディルヴァンの目が一瞬だけ動いた。
右奥の木球は、今のままなら二人から遠ざかるだけで危険ではない。
それを、ヴェルシアナはわざわざ自分たちの方へ寄せようとしている。
「分かった!」
理由を聞かなかった。
そのまま前へ進む。
ヴェルシアナは右奥の木球へ風を重ね、斜め手前へ軌道を変えた。
一見すれば危険を増やしているような動きだったが、木球は途中で奥の人形が振り出した棒へぶつかり、それを予定より早く横へ弾く。
道が開いた。
「そこです!」
ディルヴァンが踏み込む。
木球と棒が互いの動きを潰し合う横を、彼の身体が一気に抜けていく。
旗へ手が届き、仕掛けが止まった。
ヴェルシアナは、自分がわざわざ近づけた木球を見る。
危険を遠ざけたのではない。
危険を別の場所へ移し、それによって他の危険を消した。
流れを読むというのは、ただ安全な方向へ押しやることではない。
何をどこへ動かせば、全体がどう変わるのかを見ることなのだ。
「今の、どうしてあっちから持ってきたの?」
ディルヴァンが尋ねた。
「奥の人形を止めるためです。あのまま進めば、正面を抜けたところで棒と重なっていましたので」
「ああ」
納得したように頷く。
「じゃあ、俺が止まらず前へ行くのも分かってた?」
「はい。ディルヴァン様なら、その程度では止まらないと思いましたので」
ディルヴァンは少し考えたあと、楽しそうに笑った。
「それ、いいね」
「何がです?」
「俺が行くところを、先に空けてくれるやつ」
言われてみれば、その通りだった。
ディルヴァンが進む。
その先にある邪魔なものを、ヴェルシアナが少しだけずらす。
全部を倒す必要も、全部を止める必要もない。
彼が走り抜けられる一本の道を作ればいい。
「でしたら、ディルヴァン様はその道から外れないでくださいね」
「外れたら?」
「私の計算が全部無駄になります」
「じゃあ外れない」
「随分簡単に仰いますね」
ディルヴァンは首を傾げた。
「ヴェルシアナが道を作るんだろ?」
「ええ」
「なら、俺がそこを走ればいいじゃん」
あまりにも当然のように言われ、ヴェルシアナは一瞬だけ返事を忘れた。
地下施設で落下してきた石を前にした時も、彼は理由を聞かなかった。
右だと言えば右へ動いた。
今回も同じだ。
ヴェルシアナが道を作ると言えば、その存在を疑わず、自分の身体をそこへ乗せるつもりでいる。
もちろん、何も考えず任せているわけではない。
自分で見えるものは自分で処理し、剣で届くものは自分で斬る。そのうえで、ヴェルシアナが自分とは別のものを見ていると判断した時だけ、必要な部分を預けてくる。
全部ではないから重すぎず、それでも失敗すれば互いに危険へ晒される程度には軽くない。
「……分かりました」
ヴェルシアナは少しだけ笑った。
「では、なるべく走りやすい道を作ります」
「頼む」
「その代わり、無茶はなさらないでくださいませ」
「それはヴェルシアナもね」
「私はそこまで無茶を――」
「この前、腕怪我してたじゃん」
言い返そうとして、やめた。
「……気をつけます」
「俺も」
互いにそれだけ答えたところで、ヴィクトルの声が飛んできた。
「休憩は終わりです」
ディルヴァンが振り返る。
「休憩してたつもりないんだけど」
「なら問題ありません」
「先生、本当にそういうところあるよね」
それでも二人は、開始位置へ戻った。
◇
最後の訓練は、それまでより明らかに難しかった。
木球の数が増え、人形の動く順番も固定されていない。さらに途中から台座そのものまで動き、足場の形が変わるようになっている。
最初の二回は失敗した。
三回目。
ディルヴァンが動く台座へ乗る。
左から木球が迫ってくるが、彼なら十分に処理できる。
「そちらは触りません!」
「分かった!」
ディルヴァンの剣が木球を弾き、その勢いを殺さないまま次の台座へ移る。
右奥の人形が棒を振り始める。
「そちらだけ遅らせます!」
ヴェルシアナは腕そのものを止めようとせず、棒の先を通る空気へ風を沿わせ、振り下ろしの軌道を僅かに外へ膨らませた。
ディルヴァンは、その隙間を抜ける。
前方の台座が左右へ開き、床に細い隙間が生まれた。
飛び越えること自体は難しくない。
けれど、着地点へ木球が重なっている。
ヴェルシアナは落下する球を見る。
昨日と同じだ。
止める必要はない。
着地する瞬間、その場所だけ空けばいい。
「そのまま跳んでください!」
ディルヴァンは速度を落とさず踏み切った。
ヴェルシアナが風を重ね、木球を半歩分だけ横へずらす。
空いた場所へディルヴァンの足が着いた。
着地の衝撃で身体が一瞬沈むものの、その沈み込みさえ次の踏み込みへ使い、正面から振り下ろされた棒の横をすり抜けていく。
ヴェルシアナは追いながら、改めて彼の剣術を見る。
攻撃を避けるために動きを止めない。
右足を置く位置を僅かに変え、肩を沈め、棒の軌道から身体を外す。その回避で生まれた捻りはそのまま剣へ乗り、次の標的へ向かう一撃へ変わっていく。
何かをするために別の何かを捨てるのではない。
一つの動作が、そのまま次の目的を満たしている。
まだ九歳だ。
その事実を思い出すたび、どこか計算が合わない気がした。
「前!」
ディルヴァンの声が飛ぶ。
ヴェルシアナの正面へ木球が迫っていた。
反射的に風を流し、横へ外す。
しかし、その先にはディルヴァンがいる。
しまったと思った瞬間には、彼の剣が既に動いていた。
身体はこちらへ向けていない。
視線も次の人形を捉えたまま。
それでも横薙ぎの一撃だけが正確に木球を叩き上げる。
「前を見てください!」
「見てるって!」
「でしたらどうして今の球まで――」
「音で分かる!」
言いながら、もう次へ走っている。
ヴェルシアナは少しだけ腹が立つほど感心した。
最後。
旗の手前に三体の人形が並ぶ。
正面と左右から棒がほとんど同時に動き始め、そのままでは通れる幅がない。
ディルヴァンでも、止まって一つずつ処理する必要がある。
けれど、ここまで続いてきた流れを切りたくなかった。
ヴェルシアナは三体の動きを見る。
左右を外すのでは間に合わない。
中央を完全に止めるには、必要な力が大きすぎる。
なら、中央だけを少しずらす。
振り下ろされる中央の棒、その根元を流れる空気へ斜めから風を入れる。
腕を止めるほどの力はない。
それでも軌道が右へ数センチずれ、中央の棒が右側の棒へぶつかった。
二本が絡み、右が止まる。
残るのは左だけ。
「左だけです!」
その声が届いた瞬間、ディルヴァンの足が深く沈んだ。
次の一歩へ全身の力が集まる。
剣が走る。
左の棒を真正面から叩き折るのではなく、振り抜かれる方向へ刃を滑らせ、最小限の接触で外へ弾く。
その一撃が終わるより早く、彼の身体は三体の間へ入り込んでいた。
剣を振った腕が戻り、足が前へ出て、肩が狭い隙間を抜ける。
一つひとつの動作を数えることはできるのに、その境目だけが見えない。
ほんの一瞬前まで三体の人形に囲まれていた少年が、次の瞬間にはその向こうへ抜け、旗へ手を伸ばしていた。
仕掛けが止まる。
音が消えた。
ヴェルシアナは少し遅れて最後の台座から降り、呼吸を整えながらディルヴァンを見る。
本人も肩を上下させている。
何度も全力で訓練場を走り抜けているのだから、疲れていないはずがない。
それでも、その目はまだ先を見ていた。
「今の、すごくよかった」
ディルヴァンが言う。
「中央を右へずらしたところですか?」
「うん。俺、左だけ見ればよくなった」
「狙い通りです」
「じゃあ次もやろう」
「今日はもう十分では?」
「できたなら、もう一回できるだろ」
どこかで聞いた理屈だった。
ヴェルシアナがヴィクトルを見ると、彼は当然のように頷いている。
「再現できて初めて技術です」
「……やはりそうなりますよね」
ディルヴァンは楽しそうに笑い、疲れているはずの身体で、もう開始位置へ戻り始めていた。
ヴェルシアナはその背中を見ながら、小さく息を吐く。
この人は進む。
危険が見えていないわけではない。
むしろ自分よりずっと早く危険を見つけ、そのうえで踏み込む場所を選んでいる。
ならば、自分がするべきことは彼を止めることではないのかもしれない。
その足が必要な場所へ届くように、進路を塞ぐものだけを少しずらす。
彼一人なら届かないところへ、あと数センチだけ道を足す。
逆に、自分一人では処理しきれないものを、その剣へ渡す。
二人が同じことをする必要はない。
できることが違うからこそ、一つの動きへ重ねた時に形になる。
開始位置へ向かっていたディルヴァンが、不意に振り返った。
「ヴェルシアナ」
「はい?」
「次も道、頼む」
短い言葉だった。
それでも、そこには今日何度も積み重ねた失敗と成功の全部が含まれているように聞こえた。
ヴェルシアナは彼の隣へ歩いていく。
「ええ。その代わり、きちんと走り切ってくださいませ」
「任せて」
返事には迷いがない。
どんな道を作るのかを細かく確かめることもしない。実際に目の前へ現れた瞬間、その道へ自分の剣と身体を合わせるつもりなのだろう。
それが無謀なのか、信頼なのか。
ヴェルシアナには、まだ完全には分からなかった。
ただ、自分が風で作った細い道を前にした時、ディルヴァンはそこへ足を踏み入れることを一度も怖がらなかった。
そして、その背中を見ていると。
ヴェルシアナもまた、次はどんな道なら彼をもっと遠くまで走らせられるのか、試してみたくなるのだった。




