第65話 ルシアンは、誰にも見せない色を選ぶ
朝、ルシアンの前には三着の服が並べられていた。
左には、ヴァレンティス家の令息として何度も袖を通してきた濃紺の上着。中央には、柔らかな水色。そして右端には、仕立て屋から届いたばかりの薄紅の一着が置かれている。
薄紅といっても、花が盛りを迎えた時のような鮮やかな赤ではない。夕暮れの光へ灰を一滴混ぜたような静かな色で、遠目には落ち着いて見えるのに、朝の光が布へ差し込むと奥から柔らかな赤みが浮かび上がった。
仕立てそのものは少年用で、肩や腰の線を大きく変えてはいない。ただ、袖口には銀糸で細い枝葉が刺され、その先には小さな花が一輪だけ咲いている。反対側の袖にあるのは同じ花の蕾で、左右を合わせて眺めて初めて、一つの意匠として意味が分かる作りになっていた。
ルシアンは、その細かな違いを気に入っている。
「本日はお屋敷でお過ごしになりますか?」
控えていた侍従に尋ねられ、ルシアンは視線を服へ向けたまま頷いた。
「はい。午前中は書庫にいます。午後から先生が来るので、その後も外出はしません」
「かしこまりました」
今日は来客もなく、アルセリード家へ行く予定もなければ、ヴェルシアナがこちらを訪ねてくることもない。家族と使用人以外には、ほとんど誰にも会わずに終わる一日になるだろう。
それなら、着慣れた濃紺を選べばいい。
ルシアンはそう考えて左へ手を伸ばした。何度も着ている色なら鏡の前で迷うこともなく、誰かにどう見えるかを意識する必要もない。
けれど、指先が布へ触れる寸前で、その手が止まった。
視線だけが右端へ戻る。
仕立て屋で色見本を見た時から、薄紅は気になっていた。
ただ、その場では選ばなかった。淡い藤色や水色なら、それまでの服装からほんの少し離れる程度で済むのに対し、この色は自分の中にあった境界線を一歩だけ越えているように見えたからだ。
少年の服に使われない色ではない。それでも、見た人によっては「可愛らしい」という印象を先に抱くだろう。
その言葉を思い浮かべると、自然と一人の少女の声まで蘇ってきた。
『とても可愛らしいですね』
その時のヴェルシアナの表情まで思い出し、胸の内側へ小さな熱が灯る。
この薄紅を見たら、彼女は何と言うだろう。
似合っていると言ってくれるだろうか。袖にある花と蕾の違いにも気づくだろうか。それとも、以前のように何のためらいもなく可愛いと言って笑うのだろうか。
そこまで考えてから、ルシアンは静かに瞬きをした。
今日は会わない。
この服を着ても、ヴェルシアナが見ることはない。
ならば薄紅を選ぶ必要はない、という結論は、少し前の自分なら随分自然なものだったはずだ。
ヴェルシアナに警戒されたくなくて、少しでも柔らかく見えるものを選び始めた。自分の姿を変えることで、もう少し近くから話してもらえるのではないかと思ったからこそ、色や刺繍へ目を向けるようになった。
その始まりを考えれば、彼女に会わない日にわざわざ選ぶ必要はない。
それでも、濃紺へ伸ばした手は動かなかった。
ルシアンは薄紅の服へ近づき、袖口を指先でそっと撫でる。朝の光を受けた布の奥から、色見本で見た時よりも柔らかな赤が現れ、その上で銀糸の花が小さく光った。
綺麗だと思った。
その感想を誰かに教えてもらうより先に、自分の中に浮かんだ。
「……今日は、こちらにします」
侍従は驚いた様子を見せず、いつもと変わらない所作で一礼した。
「かしこまりました」
薄紅の一着が取り上げられる。
たったそれだけのことで、世界が変わるわけではない。何か特別な決意をしたような感覚もなかった。
ただ、誰にも見せる予定のない日に、自分の手でその色を選んだという事実だけが、朝の静かな部屋へ残った。
◇
着替えを終え、鏡の前へ立つ。
薄紅は、ルシアンが想像していたより自分へ馴染んでいた。
色見本だけで見た時にはもう少し華やかに感じたものの、実際に身につければ淡い髪ともぶつからず、むしろ輪郭の柔らかさをそのまま引き立てている。袖口の銀糸も、少し離れればほとんど目立たない。
ルシアンは右腕と左腕を順に上げた。
片方には開いた花があり、反対側には同じ形の蕾がある。片方だけなら単なる装飾でも、二つを並べれば、その間に流れる時間まで刺繍されているように見えた。
「こちら、左右で違うのですね」
「はい。仕立て師が、少し変化をつけたいと申しておりました」
「そうですか」
花から蕾へ視線を移し、もう一度鏡の中の自分を見る。
「このままでいいです」
「もちろんでございます」
鏡は何も言わない。
可愛いとも、似合っているとも褒めてくれず、自分が選んだものをそのまま返してくるだけだ。
だからこそ今朝は、そこへ誰かの評価を探さずに済んだ。
この色が自分に合っているか。
袖の刺繍を見ていて楽しいか。
この姿で一日を過ごしたいと思えるか。
自分へ確かめるべきものは、その三つで十分だった。
「……好きです」
鏡へ向かって、ごく小さな声で呟く。
誰かへ聞かせるためではなく、自分が選んだものを、自分自身へ認めるための言葉だった。
◇
朝食の席へ入ると、母の視線がすぐにこちらへ向いた。
挨拶を交わしたあと、その目が一度だけ薄紅の上着へ落ちる。
「その色、綺麗ね」
「ありがとうございます」
「あなたにもよく似合っているわ」
それだけ言うと、母はいつものように紅茶へ手を伸ばし、今日の予定へ話を移した。
「午後は先生がいらっしゃるのよね?」
「はい」
「午前中は書庫?」
「そのつもりです」
「では昼食は、時間になっても戻らなければ運ばせるわ」
「ありがとうございます」
なぜその色を選んだのかとは聞かれない。誰かに見せる予定があるのかとも尋ねられず、薄紅の上着はそのまま朝食という日常の風景へ溶け込んでいった。
ルシアンは、自分でも気づかないうちに肩へ入っていた力が抜けるのを感じた。
反対されると思っていたわけではない。父も母も、自分が選んだものを理由もなく否定するような人ではなかった。
それでも初めて選ぶ色というものは、知らない部屋の扉を開く時と少し似ている。
向こう側に恐ろしいものが待っているわけではないと分かっていても、自分から取っ手へ手をかける一瞬だけ、ほんの少し呼吸を意識してしまう。
けれど、その扉を開けてしまえば、薄紅の服を着た自分が朝食の席へ座り、母から似合うと言われ、そのまま普段通りの会話が続いただけだった。
その当たり前さが、ルシアンには心地よかった。
「兄上は?」
「朝から訓練よ。そろそろ戻ると思うわ」
「そうですか」
カップを持ち上げると、視界の端に袖口の花が入る。
朝の光の下では、鏡の前で見た時よりも少し赤みが強い。
何度見ても、やはりこの色は好きだと思った。
◇
朝食を終えて書庫へ向かう途中、正面から速い足音が近づいてきた。
一定の間隔で迷いなく響くその音だけで、誰なのかは分かる。
「ルシアン」
訓練帰りのディルヴァンだった。
髪にはまだ汗が残り、上着を片腕へ引っ掛けている。
「おはようございます、兄上」
「おはよう」
そのまますれ違うかと思ったが、ディルヴァンの足が止まり、ルシアンの服へ視線が落ちた。
「その色、初めて見た」
「今日届いたものです」
「へえ」
ディルヴァンは一歩近づき、色そのものではなく袖口へ目を留めた。
「これ、左右違わない?」
「はい。こちらが花で、反対側が蕾です」
ルシアンが両腕を少し上げる。
ディルヴァンは左右を見比べたあと、感心したように眉を上げた。
「あ、本当だ。細かいな」
「僕はそこが好きです」
「でも、ルシアンっぽい」
思いがけない言葉に、ルシアンは兄を見る。
「僕っぽい?」
「そういう細かい違い、すぐ見つけるだろ。俺なら同じに見えて終わる」
返ってきたのは、服の色とも、男らしさや女らしさとも関係のない答えだった。
花と蕾の違いへ目を留めること。
誰かが見落としそうな部分を面白がること。
そこを、自分らしいと言われた。
ルシアンは袖へ目を落とし、ほんの少しだけ笑う。
「……そうかもしれません」
「じゃ、俺は着替えてくる。午後、先生のところ行くなら俺も行くから」
「分かりました」
「またあとで」
「はい」
ディルヴァンは軽く手を上げ、そのまま廊下の先へ消えていった。
ルシアンは歩き始めながら、兄との短いやり取りを胸の中で転がした。
ディルヴァンは何かを選ぶ時、いつも迷いが少ない。
剣を振る時も、道を決める時も、人へ声をかける時も、進むと決めた瞬間にはもう身体がそちらへ向かっている。
自分にはない速さだと思っていた。
けれど今朝、三着の服を前にした時、兄なら何を選ぶのだろうとは一度も考えなかった。
ヴェルシアナの顔は浮かんだ。
それでも、最後に薄紅へ触れたのは自分の手だった。
その違いを、ルシアンはまだ言葉へせず、自分の中へ静かに置いた。
◇
書庫へ入ると、窓際の机には先日の地下施設から持ち帰られた記号の写しが数枚置かれていた。
危険な術式そのものではなく、壁や石板に刻まれていた印を、大人たちが紙へ転写したものだ。
ルシアンは椅子へ座り、三枚を横へ並べる。
一つは流れが分岐する形。
もう一つは、戻るように線が折れている形。
最後は、小さな円を二本の線が挟んだもの。
三つ目だけは意味が確定していない。
古い文献を開き、似た形を探していくうち、頁を捲るたびに薄紅の袖が視界へ入った。
最初のうちは、そのたび少しだけ目を留めた。
見慣れていない色だからだ。
けれど一刻ほど経つ頃には、それも書庫の風景へ自然に溶け込んでいた。
左手で紙を押さえれば花が現れ、右手でペンを取れば蕾が見える。古い文字を追う合間にふと袖口へ目を移すたび、自分で選んだ小さな意匠がそこにあることを、何となく嬉しいと思う。
書庫には自分しかいない。
誰もこちらを見ていないので、似合うとも可愛いとも言われない。
それでも、自分の視界へこの色が入ること自体を楽しいと思えている。
ルシアンはそこで、ペンを一度机へ置いた。
最初に服を変えようと思った時、自分の視線はずっと外側へ向いていた。
ヴェルシアナからどう見えるか。
警戒されないか。
もう少し近づいてもらえるか。
その答えを探しながら、自分の姿を変えようとしていた。
けれど、その始まりを否定したいとは思わない。
あの人へ近づきたいと思ったからこそ、自分では選ばなかった色へ手を伸ばせたし、その先で知らなかったものをいくつも見つけた。
柔らかな布が思っていたより落ち着くことも、細い刺繍を見るのが好きなことも、花の形や色に自分なりの好みがあることも、試してみなければ知らないままだった。
誰かへの憧れが入口だったとしても、その先で見つけたものまで借り物になるわけではない。
窓から入った風が机の上の紙を僅かに揺らし、木々の間を抜けた陽射しが薄紅の袖へ落ちた。
布の奥から柔らかな赤が浮かび上がる。
朝、あの色へ手を伸ばした理由が、そこでようやく自分の中に収まった。
ヴェルシアナに見せたかったから選んだわけではない。
少なくとも、それだけではなかった。
誰も見ていないこの書庫でさえ、この服を着ていることが嬉しい。
ならば、自分は本当にこれを着たかったのだ。
その答えは、誰かの視線が消えた場所で初めて、静かにはっきりした形を持った。
◇
午後の授業を終えたあと、自室へ戻ろうとしていたルシアンは母に呼び止められた。
「少し時間はある?」
「はい」
「次のお洋服の見本が届いているの。あなたがよければ、一緒に見ようと思って」
案内された小さな応接室には、長机いっぱいに布の見本が広げられていた。
濃紺や深緑、灰色、白といった馴染みのある色の間へ、水色や藤色、それから柔らかな黄色や緑が並べられている。
母は椅子へ腰を下ろしたものの、特定の一枚を勧めようとはしなかった。
「好きなものを見てみなさい」
「はい」
ルシアンは机へ近づき、一枚ずつ指先で確かめていく。
淡い黄色は綺麗だが、今の自分には少し明るすぎる気がした。
白に近い藤色も好きではあるものの、似た色は既に持っている。
何枚かを見送ったところで、指先が一枚の布の上に止まった。
淡い緑。
春に芽吹いた若葉から、まだ色が濃くなる前だけを切り取ったような色だった。白を多く含んでいるため、光の下ではほとんど白に見えるのに、影へ入れば布の奥から静かな緑が現れる。
ルシアンは見本を持ち上げ、窓辺へ運んだ。
光へ向ける。
少し傾ける。
影へ入れる。
角度によって移り変わる色を眺めているうち、自然と口元が緩んだ。
「それが気になる?」
母が尋ねる。
「はい」
「綺麗ね」
「僕も、そう思います」
腕へ重ねてみる。
今着ている薄紅とはまるで違う。
けれど、これも着てみたい。
「これがいいです」
ルシアンが差し出すと、母は見本を受け取った。
「刺繍はどうする?」
花もいい。
銀糸も好きだ。
けれど淡い緑を見ていると、今日は別のものが浮かんだ。
「白い糸で、小さな葉を入れてください」
「お花ではなく?」
「はい。今度は葉がいいです」
母はそれ以上理由を聞かず、仕立て師へ渡すための紙へ希望を書き込んだ。
「そういえば」
筆を置いてから、母が顔を上げる。
「今日はヴェルシアナ様とはお会いしていないでしょう?」
「はい」
「では、そのお洋服は?」
視線が、今日一日着ていた薄紅の上着へ落ちる。
責める調子ではなく、何かを試そうとしている様子もない。
服装を変え始めた頃の理由を知っているからこそ、自然に出てきた問いなのだろう。
ルシアンも、それが分かった。
すぐに答えようとして、一度だけ自分の袖へ目を落とす。
朝、誰にも見せる予定がないと分かっていながら選んだ。
朝食では母に似合うと言ってもらい、兄には花と蕾の違いを見つけてもらった。
書庫では一人きりで、誰からも褒められないまま何時間も過ごした。
その間、一度として着替えたいとは思わなかった。
むしろ頁を捲るたびに袖が見えることを、少し嬉しいと感じていた。
そこまで思い返せば、答えはもう難しくない。
「……僕が着たかったので」
口にした。
母の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
それから目元が柔らかくなる。
「そう」
返ってきたのは、それだけだった。
大袈裟に喜ぶことも、何かを成し遂げたように褒めることもしない。
ルシアンがそう答えたことを、そのまま受け取っている。
しばらくして、母は淡い緑の布をもう一度机へ置いた。
「なら、次の色もあなたが選びなさい。誰かに似合うと言われるかどうかは、その後で考えればいいわ」
「はい」
「もちろん、ヴェルシアナ様に見ていただきたいのでしょう?」
少しだけ笑われた。
ルシアンは一瞬黙ったものの、隠す理由もないと思い直す。
「……はい」
「でしょうね」
母も笑う。
ルシアンは少し頬が熱くなるのを感じながら、淡い緑の見本へ指先を添えた。
「でも、アルセリード嬢が好きそうだから、この色を選んだわけではありません」
「そうでしょうね」
「僕が好きだったので選びました」
言葉にしてみると、胸の奥で別々に置かれていたものが、一つの箱へ綺麗に収まるような感覚があった。
「それで……僕が好きで選んだものを、アルセリード嬢にも見ていただきたいです」
母はしばらく何も言わなかった。
やがて、穏やかに笑う。
「その方が、きっと素敵ね」
◇
夕方。
ルシアンは自室へ戻り、窓辺に立った。
朝とは違う色の光が部屋へ差し込んでいる。
同じ薄紅の上着も、夕陽の中では朝より少し深く、柔らかな赤に見えた。
今日はヴェルシアナに会わなかった。
手紙も届いていないし、こちらから送ったものもない。
ただ家で朝食を取り、書庫で本を読み、授業を受け、家族と言葉を交わした。それだけの、何でもない一日だった。
けれど、その何でもない一日を、この服で過ごした。
誰かに見せるための時間が一度もなかったのに、途中で着替えたいと思うことはなく、むしろ次は淡い緑を着てみたいと思っている。
そこには白い葉を刺してもらう。
花ではなく、葉にしたいと自分で決めた。
ルシアンは窓ガラスへ映る姿を見る。
淡い髪と青い瞳。
薄紅の服。
片方の袖には咲いた花があり、もう片方にはまだ閉じた蕾がある。
どちらが自分に近いのかなど、もう無理に決める必要はないように思えた。
花を選ぶ日があってもいい。
葉を選ぶ日があってもいい。
柔らかな色を着たい日もあれば、濃紺へ戻る日だってあるだろう。
何を好きになるのかを、先に一つへ決めておく必要などない。
誰かに近づきたいという気持ちから開いた扉の先に、自分でも知らなかった部屋があった。
恐る恐る入ってみれば、そこには思っていたより好きなものが多く、自分の手で選びたいものまで置かれていた。
ならば、いつまでも入口だけを振り返り続ける必要はないのだろう。
もちろん、ヴェルシアナに見てもらいたい気持ちは消えていない。
薄紅を見せたら、袖の花と蕾に気づくだろうか。
新しく仕立てる淡い緑を見たら、どんな言葉を返してくれるだろう。
考えれば、それだけで胸の奥が温かくなる。
けれど、その想像はもう、自分が何を選ぶのかを決めるための答えではなかった。
自分で選び、自分で好きだと思ったものを、そのあとで大切な人にも見てもらいたい。
変わったのは、ほんの少し順番だけなのかもしれない。
それでも、その順番が変わったことで、同じ色を見ているはずの景色は随分違って見えた。
窓の外では庭の木々が夕風に揺れ、葉の隙間から落ちた光が部屋の床へ細かな模様を描いている。
ルシアンがその中へ腕を差し出すと、薄紅の布が光を受け、朝とはまた違う色を見せた。
誰にも見せる予定のない朝に、自分の手で選んだ色だった。
誰も見ていない書庫でも、好きだと思えた色だった。
そして一日の終わりには、なぜ選んだのかを誰かへ聞かれても、自分の言葉で答えられた。
ならばもう、この色を誰かから借りているとは思わなかった。
いつかヴェルシアナにも見せたい。
その気持ちを大切にしたまま、それでも今日この色を好きだったことだけは、誰より先にルシアン自身が知っている。
そのことが、何より嬉しかった。




