⭐︎第64話 悪役令嬢は、二人の花に挟まれる
「ヴェルシアナ様、こちらはいかがです?」
「アルセリード嬢。こちらも、似合うと思います」
左右からほとんど同時に呼ばれ、ヴェルシアナは花へ伸ばしかけていた手を宙で止めた。
右側では、オルティアが淡い紫の花を一輪持っている。
左側では、ルシアンが白い花を差し出していた。ただし完全な白ではなく、花弁の先だけが朝靄へ一滴の青を溶かしたように薄く染まり、光の角度によって白にも淡青にも見える。
どちらも綺麗だった。
そして、なぜ二人が揃って自分へ花を差し出しているのかは、よく分からない。
「……お二人とも、随分息が合いますね」
ヴェルシアナが言うと、オルティアとルシアンは一度だけ互いを見た。
「偶然ですわ」
「僕もそう思います」
ほとんど同じ速度で返ってくる。
本当に偶然なのだろうか。
少し疑わしくはあるが、花を選ぶ程度のことで問い詰める必要もない。
ヴェルシアナはまず、オルティアの手にある花へ視線を落とした。
今日の集まりは、セレフィアが客間へ飾る花を選びたいと言い出したことから始まった。
庭師へ任せてもよかったのだろうが、「せっかくだから皆様にも一本ずつ選んでいただきましょう」と母が楽しそうに言い出し、ヴェルシアナたちは屋敷の奥にある庭園まで足を運ぶことになったのである。
同行しているのは、オルティア、リュネア、エステル、ルシアン、それからミレーヌ。
ディルヴァンも途中までは一緒だったものの、先日の地下施設で抜いた剣について護衛騎士から確認したいことがあるらしく、少し離れた訓練場へ向かっていた。
地下施設の調査は、大人たちが引き続き進めている。
子供たちには新しい安全確認が終わるまで不用意に近づかないよう言い渡されているため、今日ばかりは地面の下を巡る未知の魔力も、暗闇の奥から吹いていた冷たい風も考えなくていい。
頬を撫でていくのは、湿った石ではなく花の香りを含んだ夏の風だった。
「オルティア様は、どうしてこちらを?」
紫の花を示す。
「以前、似た色のリボンをお選びになっていたでしょう?」
「ああ」
言われて思い出した。
確かに、少し前に淡い紫のリボンを選んだことがある。
「覚えていらしたのですね」
「もちろんです。お好きな色なのだと思いまして」
オルティアは、まるで覚えていること自体が当たり前であるかのように微笑んだ。
ヴェルシアナは花を受け取る。
「ありがとうございます。好きな色です」
その一言だけで、オルティアの灰色の瞳が柔らかくなる。
満足そうなその変化を見てから、ヴェルシアナは左へ向いた。
「ルシアン様は?」
「こちらは、色というより光です」
「光?」
ルシアンが花を少し傾けた。
陽射しを受ける角度が変わると、白かった花弁の縁へ薄い青が浮かび上がる。
「正面から見ると白く見えます。でも、影になるところだけ少し青くなるでしょう?」
「ええ」
「アルセリード嬢の髪も、光が強いところでは白く見えて、影では少し色が変わるので」
ヴェルシアナは思わず、自分の銀髪へ触れた。
「私の髪に?」
「似合うと思いました」
随分細かなところを見ている。
いかにもルシアンらしい。
オルティアが、積み重ねてきた時間の中からヴェルシアナの好みを拾って花を選んだのなら、ルシアンは目の前にいる彼女へ落ちる光を見つめ、その一瞬から花を選んだのだろう。
同じ一輪でも、そこへ辿り着くまでの道筋がまるで違う。
その違いが面白かった。
「ありがとうございます。こちらも好きです」
ルシアンの青い瞳に、陽を受けた水面のような明るさが差した。
その隣で、オルティアがルシアンの花へ目を向ける。
「確かに、ヴェルシアナ様によくお似合いだと思いますわ」
素直な言葉だった。
ルシアンも、オルティアから受け取った紫の花を見る。
「オルティア嬢の花も、アルセリード嬢が好きな色なら、とても良いと思います」
「ありがとうございます」
二人とも笑っている。
険悪なところは何もない。
それでも、相手がどんな花を選び、ヴェルシアナがどう受け取るのかまで、互いに細かく見ているようだった。
ヴェルシアナは左右を見比べたあと、二輪を手元へ寄せた。
「二つともいただきますね」
その瞬間、二人が揃ってこちらを見る。
「一つではなく?」
オルティアが尋ねる。
「どちらも綺麗ですし、お二人とも私のために選んでくださったのでしょう?」
どちらか片方だけを取る理由が、ヴェルシアナには見つからなかった。
ミレーヌから細いリボンを受け取り、紫と白青の花を並べて結ぶ。
色も違えば、花弁の形も違う。
けれど同じ紐の中へ収めると、一方がもう一方を邪魔するどころか、違う色が隣へ来たことで双方の輪郭がはっきり見えた。
「ほら。二本の方が綺麗でしょう?」
ヴェルシアナが花束を見せる。
オルティアとルシアンはしばらくそれを見つめていた。
先に口を開いたのはオルティアだった。
「……ヴェルシアナ様らしいですわね」
「僕もそう思います」
「何がでしょう?」
「何でもございません」
「はい。何でもありません」
二人はそれ以上教えてくれなかった。
オルティアは何事もなかったように別の花へ目を向け、ルシアンも静かに花壇を眺めている。
どうやら自分だけが、一つ分からないまま残されたらしい。
◇
花壇を離れ、庭園のさらに奥へ向かう。
昨夜降った雨がまだ少し残っており、石畳の端では小さな水滴が陽を受けて光っていた。
ヴェルシアナの右側をオルティアが歩き、左側をルシアンが歩いている。
少し後ろではリュネアとエステルが庭師から花の名前を教えてもらっており、ミレーヌも二人の近くを歩いていた。
「ヴェルシアナ様」
オルティアが呼ぶ。
「はい?」
「あちらのお花、刺繍に使えそうだと思いません?」
指された先には、細長い白い花弁を持つ花が咲いている。
「先ほど見せていただいたものより、少し尖っていますね」
「ええ。次は形を変えてみようかと思っておりまして」
「でしたら、葉の方も少し細くすると合いそうです」
ヴェルシアナが身を寄せて花を見ると、オルティアも同じ方向へ顔を寄せた。
「それ、試してみますわ」
嬉しそうだ。
反対側から、ルシアンの声が届く。
「アルセリード嬢」
「はい?」
「足元です」
一歩先の石畳へ薄く水が溜まっていた。
「ああ、ありがとうございます」
ヴェルシアナが少しだけ右へ避ける。
その拍子に、左側を歩いていたルシアンとの距離が縮まった。
肩が触れるほどではないものの、互いの気配を意識するには十分な近さだった。
ルシアンは何も言わない。
ヴェルシアナも、そのまま歩いた。
しばらく進んだところで、ふと左右を見比べる。
「……お二人とも、今日は随分近くありません?」
その言葉に、二人の歩調が僅かに乱れた。
「近いでしょうか」
オルティアが平静を装って尋ね返す。
「嫌というわけではありません。ただ、歩いていると両側に気配を感じるので」
ルシアンが一度だけ足元を見る。
「でしたら、少し離れます」
そう言って外側へ半歩ずれようとしたので、ヴェルシアナはすぐに声をかけた。
「違います」
ルシアンが止まる。
「離れてほしいと申し上げたわけではありません」
「でも、近いと」
「近いとは思いました」
そこは事実なので否定しない。
ただ、それが嫌なのかと聞かれれば違う。
ヴェルシアナは、目の前にいる少年を見た。
ルシアンを初めて見た時、自分の頭へ真っ先に浮かんだのは攻略対象という肩書きだった。
原作の筋書きに関わる人物。
近づくことで、自分が避けようとしている未来まで揺れるかもしれない存在。
けれど、目の前の少年は、それだけではなかった。
温室で危険へ気づいた時、彼の言葉を信じた。
図書館では同じ頁を読み、古い記号を一緒に追った。
古代施設の手掛かりを探す時には、こちらから彼の記憶を頼った。
何を見る人なのか。
何を見落とさないのか。
どんな色を綺麗だと思い、何を選びたいと思うのか。
そうしたものを一つずつ知っていけば、最初に貼りつけた「攻略対象」という札だけで彼を測ることの方が、むしろ不自然になっていく。
「ルシアン様が何もなさっていないのに、私だけがずっと警戒したまま距離を取るのも、おかしいでしょう?」
ルシアンの青い瞳が僅かに揺れた。
「ですから、近いと思っただけです。離れてほしいわけではありません」
返事はすぐには来なかった。
静かな水面の底だけを誰かが指でなぞったように、ルシアンの表情の奥で感情が揺れている。
やがて。
「……ありがとうございます」
少し掠れた声が返ってきた。
「何のお礼でしょう」
「それで十分です」
その意味はよく分からない。
けれどルシアンが外側へ離れるのをやめたので、ヴェルシアナもそれ以上は尋ねなかった。
反対側で、その会話を聞いていたオルティアは、胸の奥へ細い痛みが走るのを感じていた。
ルシアンがヴェルシアナに見てもらえている。
服装だけではなく、彼自身を知ったうえで距離を縮めてもらっている。
それは嬉しかった。
自分がルシアンへ伝えたかったことを、ヴェルシアナ本人が知らず知らず証明してくれたようなものだから。
それでも、嬉しさのすぐ隣に別の感情が咲く。
少しだけ寂しい。
そして、少しだけ譲りたくない。
人の心は、刺繍のように一色ずつ整然と並べられるものではないらしい。
相手を認める気持ちと、隣にいたい気持ち。
ルシアンが嬉しそうならよかったと思う心と、自分へ向けられる視線も減らしてほしくないという欲。
本来なら反対方向へ伸びるはずの糸が同じ胸の中で絡まり、それでも一つの模様になろうとしている。
「ヴェルシアナ様」
気づけば、呼んでいた。
「はい?」
赤紫の瞳が自分へ向く。
その瞬間、オルティアは喉まで出かかっていた問いを飲み込んだ。
わたくしも大切ですか。
わたくしとの距離も、変わっていませんか。
そんなふうに確かめるのは、何かが違う気がした。
だから、別の形にする。
「次に刺繍を作った時も、一番に見ていただいてよろしいです?」
ヴェルシアナが少しだけ目を丸くした。
それから、何の迷いもなく笑った。
「もちろんです。オルティア様の刺繍、好きですから。見せていただけるなら、むしろ嬉しいです」
胸の内側へ、温かなものが一気に広がった。
欲しかった答えを、そのまま尋ねたわけではない。
それでも、自分が積み上げてきた場所は何も消えていないのだと、それだけははっきり分かった。
「……ありがとうございます」
なんとか返す。
頬が熱い。
左側からルシアンの視線を感じたが、今だけは絶対にそちらを見たくなかった。
見ればきっと、自分の表情を全部読まれてしまう。
◇
事故が起きたのは、その少し後だった。
庭園の奥には、蔓性の花を這わせるための古い石造りのアーチがある。
白い花をいくつも付けた蔓が木枠へ絡み、昨夜の雨を吸った花弁から時折大きな雫が落ちていた。
「綺麗ですね」
ルシアンが上を見る。
「ええ」
ヴェルシアナも足を緩めた。
陽を透かす白い花。
濡れた葉。
そのさらに奥に見える、蔓を固定している木枠。
風が通った。
花が一斉に揺れる。
その次の瞬間、頬へ触れていた空気の流れが、不自然なほど鋭く下へ沈んだ。
落下する物体が、その下にある空気を押し退けた時に生まれる動きだった。
ヴェルシアナの視線が上がる。
雨を吸って重くなった蔓。
僅かに歪んだ木枠。
石材から外れかけている固定具。
それらを目で追い切るより先に、木が裂ける嫌な音が庭へ響いた。
「下がってください!」
アーチ上部の木枠が外れた。
太い蔓と石片を巻き込みながら、三人のいる場所へ傾いてくる。
真正面から押し返すには大きすぎる。
それでも、完全に止める必要はない。
落ちる場所が数十センチ変われば、その分だけ人が逃げる道を作れる。
ヴェルシアナは上へ力を叩きつける代わりに、落下してくる木枠の側面へ風を滑らせた。
支えるのではなく、進む方向を僅かに外す。
木枠が傾く。
「オルティア様!」
右腕を伸ばす。
オルティアも反応して後ろへ下がろうとしたものの、濡れた石へ靴底を取られた。
「っ……!」
身体が横へ傾く。
ヴェルシアナはその腰へ腕を回し、足元へ短く風を流した。
自分の体勢を崩さず、同時にオルティアの身体を支える。
そのまま腕へ力を込めた。
「え――」
オルティアの身体が、ふわりと地面から離れた。
片腕を背中へ。
もう片方を膝の下へ入れ、胸元へ抱き寄せる。
意識して取った姿勢ではなかった。
けれど前世の記憶に当てはめるなら、どう考えてもお姫様抱っこだった。
そんなことを気にしている余裕はない。
左側にはルシアンがいる。
彼の背後には石壁があり、逃げられる方向が限られている。
「ルシアン様、こちらへ!」
オルティアを抱えたまま身体を捻り、空いた手でルシアンの肩を押す。
ルシアンが壁際の浅い窪みへ下がる。
ヴェルシアナも、その正面へ身体を滑り込ませた。
片腕にはオルティア。
もう片方の腕を伸ばし、ルシアンの顔のすぐ横にある石壁へ掌をつく。
視線は二人ではなく、頭上へ。
崩れた木枠の最後の軌道を読む。
風を斜め上へ逃がした。
直後。
轟音が庭を叩いた。
木枠が石畳へ落ち、絡みついていた蔓が弾け、白い花弁が一斉に空へ舞い上がる。
飛び散った小さな石片は、ヴェルシアナが作った風へ乗り、三人の身体から僅かに外れた場所を通っていった。
最後の破片が地面を転がり、ようやく音が遠ざかる。
代わりに残ったのは、先ほどまでアーチへ咲いていた白い花弁だった。
危険が去ったことなど知らないように、ゆっくり、ゆっくりと三人の周囲へ降ってくる。
「……お二人とも」
ヴェルシアナは息を整えながら左右を確認した。
「お怪我はありません?」
返事がない。
「オルティア様?」
右腕の中を見る。
オルティアは、完全に固まっていた。
片腕がヴェルシアナの肩へ回り、もう片方の手は胸元の布を掴んでいる。
灰色の瞳が、驚くほど近い。
「どこか痛みます?」
「……あの」
「はい」
「ヴェルシアナ様、わたくし、その……」
オルティアの視線が下へ落ちた。
ヴェルシアナも追う。
そこで、ようやく自分がどういう姿勢になっているのか理解した。
「……あ」
しっかり抱き上げている。
逃がすためには必要だったとはいえ、危険はもう去っている。
「申し訳ありません。すぐ下ろします」
「待っ――」
オルティアの腕が、反射的にヴェルシアナの首へ回った。
二人の動きが同時に止まる。
息が触れそうな距離で、赤紫と灰色の瞳がぶつかった。
「……まだ下ろさない方がよろしいです?」
「違います!」
オルティアの頬が一気に赤くなる。
「大丈夫ですので、下ろしてくださいませ!」
「分かりました」
ヴェルシアナは慎重に彼女を地面へ戻した。
靴が石畳へ着く。
ところが一歩目で、オルティアの膝が僅かに揺れた。
「オルティア様」
すぐ肘を支える。
「やはりどこか痛みます?」
「違います!」
少し大きな声が返ってきた。
「怪我はございません。本当に大丈夫ですので……!」
オルティア自身にも、何が一番心臓を速くさせているのか分からなかった。
頭上から崩れ落ちてきた石と木の音。
足元を失った瞬間の恐怖。
身体が宙へ浮いた驚き。
そのすべてが確かに胸を激しく打ったはずなのに、最も鮮明に残っているのは、自分を抱き上げていたヴェルシアナの顔だった。
赤紫の瞳には余計なものが何もない。
自分が無事であるか。
ただそれだけを確かめるために向けられた視線だった。
その眼差しを思い出すたび、危険が去った後だというのに心臓が静まるどころか、さらに速くなる。
しかも腰へ回っていた腕が離れたことを、ほんの少しだけ惜しいと思ってしまった。
そんな自分の感情をまともに見つめたら、今度こそ顔から火が出そうだった。
◇
「ルシアン様は?」
ヴェルシアナが反対側を向く。
そこで。
今度は自分の方が固まった。
近い。
想像していたより、遥かに近い。
ルシアンは石壁を背にしている。
ヴェルシアナの左手は、彼の顔のすぐ横にある石壁へつかれたままだった。
自分の身体は、その正面。
銀髪の一部がルシアンの肩へ触れそうなところまで落ちている。
前世の記憶が、こういう時に限って余計な単語を持ってくる。
壁ドン。
いや。
これは救助だ。
事故から守った結果こうなっただけで、俺は何も狙っていない。
「ルシアン様も、お怪我は――」
最後まで言えなかった。
ルシアンの顔が赤い。
頬だけではなく、耳まで染まっている。
「……大丈夫です」
「そうですか」
それなら離れればいい。
頭では分かっている。
けれどルシアンが何か言いたそうに唇を動かしたので、ヴェルシアナはそのまま待った。
「アルセリード嬢」
「はい」
「一つ、聞いてもよろしいですか」
「もちろんです」
ルシアンは一度だけ視線を下げた。
胸の中にあるものを言葉へするかどうか迷うように、ほんの少し呼吸を整える。
「……僕が、女性に見えたからですか」
ヴェルシアナは瞬きをした。
「何がでしょう」
「僕まで庇ってくださったことです」
その問いを聞き、ヴェルシアナは少しだけ考えた。
確かに、ルシアンの姿を女の子のように認識してしまうことはある。
柔らかな服。
長い睫毛。
淡い髪。
前世の男として染みついていた感覚が先に動き、無意識に女性を庇うような動作をしてしまったこともあった。
けれど、さっきは違う。
アーチが崩れた瞬間、右にいたのはオルティアで、左にいたのはルシアンだった。
その時、自分の頭の中には令嬢も少年も浮かんでいない。
誰を先に守るべきかという比較すらしていなかった。
二人とも危なかったから。
身体が、二人へ向かった。
「いいえ」
ヴェルシアナは答えた。
ルシアンの青い瞳が僅かに大きくなる。
「今回は違います」
「……違う?」
「ルシアン様だと分かった上で、こちらへ押しました」
ヴェルシアナはようやく壁から手を離し、一歩だけ距離を取った。
それでも、ルシアンから目は逸らさなかった。
「危なかったので」
「僕が男でも?」
「男性であることと、危険な時に守ることは関係ないでしょう?」
ヴェルシアナにとっては、あまりにも当然の答えだった。
だからこそ、ルシアンの瞳がそこまで大きく揺れた理由が分からなかった。
柔らかな服を選び始めたきっかけは、ヴェルシアナに警戒されたくなかったからだった。
女性のように見えれば。
少しでも柔らかく見えれば。
あの人は自分を怖がらず、もう少し近くへ来てくれるのではないか。
そこから始めたものだった。
実際に色を変え、刺繍を入れ、髪の飾りまで選ぶようになると、それらを選ぶこと自体をルシアン自身も好きになった。
それでも心の底には、小さな疑問が沈んだままだった。
ヴェルシアナが近づいてくれるのは、自分が女性のように見えるからなのではないか。
守ってくれるのも。
髪へ触れてくれるのも。
警戒を解いてくれるのも。
もしすべてが、自分ではなく「女性に見える姿」へ向けられたものだったら。
その疑問に対して、ヴェルシアナは驚くほど簡単な答えを渡してきた。
ルシアンだと分かっていて。
男だと分かっていて。
それでも手を伸ばした。
その事実は、可愛いと言われた時よりも、似合うと言われた時よりも深い場所へ沈んでいった。
水面へ浮かぶ花びらではなく、底まで届いてしまう小石のように、胸の奥で長く消えない波を作る。
「それに」
ヴェルシアナはオルティアを見る。
それから、ルシアンへ視線を戻した。
「オルティア様も、ルシアン様も、私にとって怪我をしてほしくない方です」
オルティアの呼吸が止まった。
ルシアンも動かなかった。
二人の反応があまりにも大きいので、ヴェルシアナの方が不安になる。
「……変なことを申し上げました?」
「いいえ」
ルシアンがようやく答えた。
声が、ほんの少し震えている。
「全然」
それから笑った。
単に嬉しいだけではない。
胸の中で長く形にならなかったものへ、ようやく名前を与えてもらった人のような笑顔だった。
オルティアは、その横顔を見ていた。
ルシアンまで同じように庇われたことへ、胸を刺された瞬間があった。
ヴェルシアナに守られることを、自分だけのものにしたかったわけではない。
それでも、腕の中へ抱き上げられた直後だからこそ、その特別な感覚を少しだけ独り占めしたくなってしまった。
けれど。
怪我をしてほしくない。
ヴェルシアナがそう言った時、自分もそこへ入っていた。
ルシアンも入っていた。
誰かを大切にするために、もう一人を小さくする必要など、彼女の中には最初から存在しないのだろう。
それが少し悔しくて。
それでも、どうしようもなく嬉しかった。
「オルティア様」
ヴェルシアナがこちらへ歩いてくる。
「はい?」
「先ほど、かなり強く抱き上げてしまいましたけれど、本当に痛いところはございません?」
「ございません」
「念のため見せてください」
「え?」
返事を待たずに、ヴェルシアナがオルティアの手を取った。
指先から掌へ。
そこから手首へ視線を移し、どこかぶつけていないか丁寧に確かめていく。
「手は大丈夫そうですね。腕は?」
「ヴェルシアナ様」
「はい」
「少しだけ、お待ちいただけます?」
「何をでしょう」
「……心の準備を整えさせてくださいませ」
ヴェルシアナが、本気で分からないという顔をした。
「怪我の確認に?」
オルティアはしばらく彼女を見つめたあと、もう説明することを諦めるように目を閉じた。
「そういうところですわ……」
少し離れた壁際では、ルシアンが口元へ手を添えている。
オルティアはすぐに気づいた。
「ルシアン様」
「はい」
「随分楽しそうでいらっしゃいますね」
「オルティア嬢も、僕があちらにいた時は見ていらしたでしょう?」
穏やかな返答に、オルティアは一瞬だけ言葉を詰まらせる。
確かに、ルシアンの耳が真っ赤になっていたことまで見ている。
「……では、お互い様ということにしておきましょう」
「はい」
ルシアンが素直に頷いた。
そのやり取りの意味だけが分からず、ヴェルシアナは二人を交互に見ていた。
◇
「で」
後ろから声がした。
三人が振り返る。
訓練場から戻ってきたディルヴァンが立っていた。
崩れた木枠。
地面へ散った白い花。
頬を赤くしているオルティア。
耳にまだ少し赤みを残している弟。
そして、その二人の真ん中に立つヴェルシアナ。
ディルヴァンは数秒ほど全体を眺めた。
「何したの?」
「何もしておりません」
ヴェルシアナは即答した。
ディルヴァンの視線がオルティアへ移り、ルシアンを通って、再びヴェルシアナへ戻ってくる。
「その二人見てから言って」
「事故がございましたので、安全な場所へ動かしただけです」
「どうやって?」
ミレーヌが少し離れたところから淡々と答えた。
「お嬢様がオルティア様を抱き上げながら、ルシアン様を壁際へ庇われました」
ディルヴァンの眉が上がる。
「同時に?」
「はい」
再びヴェルシアナを見る。
「何してんの?」
「救助です」
「それは分かるけど」
ディルヴァンは額へ手を当てたものの、すぐにその視線が別の場所で止まった。
「怪我は?」
「お二人ともございません」
「二人じゃなくて」
「?」
「ヴェルシアナは?」
「私は何も――」
「左腕」
言われて、自分の腕を見る。
袖の一部が裂けていた。
飛んできた小さな石片が掠めたらしく、その下には細い赤い線が一本走っている。
「……あ」
「気づいてなかった?」
「今、気づきました」
ディルヴァンが深く息を吐いた。
「人のことばっか見てないで、自分も避けろよ」
ヴェルシアナは少し返事に詰まる。
「避けるつもりではおりました」
「当たってるじゃん」
「掠っただけです」
「そういう問題じゃない」
口調そのものは、いつものディルヴァンだった。
けれど、目は笑っていない。
「二人を守るのはいいよ。でもヴェルシアナが怪我したら、守られた方だって嫌だろ」
その言葉へ。
オルティアとルシアンが、ほとんど同時に反応した。
「その通りです」
オルティアが即座に言う。
「僕もそう思います」
ルシアンも続く。
ヴェルシアナは左右を見た。
「……お二人まで」
「当たり前ですわ。わたくしを守ってくださった結果、ヴェルシアナ様が大怪我をされたら、喜べると思います?」
「それは……」
「僕も嫌です」
ルシアンが静かに重ねた。
「アルセリード嬢が怪我をするくらいなら、僕も自分で避けます」
「ですが」
「ヴェルシアナ」
ディルヴァンまで加わる。
三方向から見られた。
強い。
「……次からは、自分も含めて安全な場所へ動きます」
「最初からそうして」
「気をつけます」
「ちゃんとやって」
ディルヴァンが即座に返す。
オルティアの口元が少し緩み、ルシアンにもようやく柔らかな笑みが戻った。
ヴェルシアナは少しだけ納得がいかなかった。
助けたはずなのに。
なぜ自分が三人から注意されているのだろう。
けれど、不思議と嫌ではない。
自分がオルティアとルシアンに怪我をしてほしくないと思ったように。
二人も。
ディルヴァンも。
自分が傷つくことを嫌がっている。
その事実は、腕へ残った細い傷よりもずっと深い場所へ、柔らかな熱となって残った。
◇
屋敷へ戻ると、ヴェルシアナの腕には念のため小さな包帯が巻かれた。
傷自体は浅く、医師からも数日あればほとんど分からなくなると言われている。
それでもオルティアとルシアンは、治療が終わるまで帰ろうとしなかった。
「もう本当に大丈夫ですよ」
ヴェルシアナが言う。
「見れば分かります」
オルティアが返す。
「でしたら、そろそろその怖いお顔をやめていただけません?」
「誰のせいだと思っていらっしゃいます?」
「事故のせいでは?」
「半分はヴェルシアナ様のせいです」
どうしてだ。
反対側では、ルシアンが包帯へ視線を落としている。
「痛みます?」
「ほとんど痛みません」
「本当に?」
「ルシアン様まで疑うのですか」
「ご自分の傷へ気づいていらっしゃらなかったので」
それを言われると弱い。
「もう平気です」
「なら、よかったです」
ルシアンの表情が、ようやく緩む。
その顔を見ながら、ヴェルシアナは自分の包帯へ目を落とした。
守ったことを後悔しているわけではない。
同じことが起きれば、おそらく同じように手を伸ばす。
ただし、次はもう少し上手くやりたい。
落下物そのものを止めるのではなく、流れを変える判断は間違っていなかった。
それでも自分の腕へ破片を通した。
ヴィクトルなら、全員を安全圏へ入れながら、もっと細かく流れを捌いただろう。
ディルヴァンなら、自分自身の身体まで含めて最短の場所へ動かしたかもしれない。
自分には自分のやり方がある。
だからこそ、まだ粗い部分も見える。
届かない場所を見つけて悔しいと思えるのなら、それは次に伸びるための目印にもなるのだろう。
◇
帰りの馬車が来る頃。
庭で選んだ二輪の花は、ミレーヌが新しいリボンで丁寧に結び直してくれていた。
淡い紫と、白青。
事故の時に一度手から離れかけたものの、花そのものには大きな傷もなく、二輪とも綺麗なまま残っている。
「お部屋に飾ってくださいます?」
オルティアが尋ねる。
「もちろんです。せっかくお二人が選んでくださったので」
ヴェルシアナが答えると、オルティアが笑った。
ルシアンも、少しだけ嬉しそうに花束を見る。
やがてグランセル家の馬車が到着した。
「オルティア様」
使用人に呼ばれ、オルティアは一度振り返る。
それからヴェルシアナへ向き直った。
「ヴェルシアナ様」
「はい?」
少しだけ迷ってから、口を開く。
「次にお会いした時も、隣へ座ってよろしいですか?」
ヴェルシアナは目を瞬いた。
その質問がどこから来たのかは分からない。
けれど、断る理由もない。
「もちろんです」
その一言で、オルティアの表情が朝露を受けた花のように柔らかく開いた。
「では、約束ですわ」
「はい」
そのやり取りを見ていたルシアンが、僅かに指先を動かした。
オルティアには分かった。
たぶん。
来る。
「アルセリード嬢」
「はい?」
「僕も、一つお願いしてよろしいですか」
「もちろんです」
ルシアンは一度息を吸った。
青い瞳が、迷いながらも逃げずにこちらを見ている。
「次にお会いした時、僕も隣へ座ってよろしいですか?」
ヴェルシアナは今度こそ、二人を交互に見た。
「……お二人とも、そこにこだわりますね」
その言葉に、オルティアもルシアンも黙った。
なぜ隣なのか。
答えようと思えば、きっと答えられる。
近くで声が聞けるから。
表情が見えるから。
差し出したものを、どんな顔で受け取ってもらえたのか分かるから。
そして今日、その場所にいた時。
危険が落ちてきた瞬間に、ヴェルシアナの手が迷わず伸びてきたから。
オルティアは腕の中へ抱き上げられた。
ルシアンは身体の後ろへ庇われた。
形は違っていても、二人ともヴェルシアナが「怪我をしてほしくない」と思う距離にいた。
そこへ戻りたい。
そんなことを真正面から言えるほど、二人ともまだ素直ではなかった。
「……駄目でしょうか」
ルシアンが代わりに尋ねる。
「いいえ」
ヴェルシアナは首を横へ振った。
「駄目ではありません」
少し考える。
隣は二つある。
ならば。
「オルティア様には右側を」
オルティアを見る。
「ルシアン様には左側を空けておきます」
今度はルシアンを見る。
「これなら、お二人とも座れますね」
完全に公平な解決策を出したつもりだった。
なのに、オルティアの頬が赤くなり、ルシアンも一瞬目を見開いてから嬉しそうに笑った。
「それでお願いいたします」
オルティアが言う。
「僕も」
ルシアンが続く。
「左側、空けておいてください」
「分かりました」
ヴェルシアナは頷いた。
少し離れた場所では、リュネアが口元を両手で隠しながら完全に笑っている。
エステルも視線こそ外しているが、口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「……何でしょう」
ヴェルシアナがミレーヌを見る。
「皆様、何がそんなにおかしいのです?」
ミレーヌは少しだけ考えるように視線を伏せてから、穏やかに答えた。
「お嬢様が、ご自身で二つとも空けるとお決めになったことが、よろしいのではないでしょうか」
「席ですよ?」
「ええ」
「二席です」
「存じております」
やはり何かが伝わっていない気がする。
けれど、オルティアもルシアンも嬉しそうなのであれば、それで構わない。
◇
二台の馬車が、夕暮れの道をゆっくり遠ざかっていく。
ヴェルシアナは玄関前に立ったまま、車輪の音が木立の向こうへ吸い込まれて聞こえなくなるまで、その姿を見送っていた。
昼間には眩しいほど白かった石畳も、傾いた陽の下では淡い橙色を帯びている。庭を渡ってくる風は少しだけ温度を落とし、事故の際に舞い散った花の香りを、ごく薄く屋敷の方まで運んできていた。
左腕には、小さな包帯が巻かれている。
右手には、二輪の花。
オルティアが選んだ淡い紫と、ルシアンが選んだ白青の花は、ミレーヌが結び直した一本の細いリボンの中で、夕風に揺れるたび互いの花弁を軽く触れ合わせていた。
同じ種類ではない。
花弁の重なり方も、茎の細さも、光を受けた時に見せる色も違っている。
オルティアは、ヴェルシアナ自身が忘れかけていた好きな色を覚えていて、その記憶から一輪を選んでくれた。
ルシアンは、その場で銀髪へ落ちる光を見つめ、白の中に淡い青を含む花を選んでくれた。
一人は、これまで積み重ねてきた時間の中から。
もう一人は、目の前にある小さな違いの中から。
まったく違うところを見ていたはずなのに、二人が選んだ花はどちらも不思議なくらい嬉しかった。
ヴェルシアナは花束へ視線を落としたまま、指先でリボンの結び目をそっと撫でた。
すると、まだそれほど時間が経っていないはずの庭での出来事が、花の香りに引かれるように鮮明に蘇ってくる。
頭上で木材が裂けた音も、視界の端で傾いた白い花も、落下する木枠に押されて先に沈んだ空気も、思い返せば一つの流れとして繋がっていた。
あの瞬間、自分は考えてから動いたのではない。
危険を認識した時にはもう身体が二人へ向かい、足を滑らせたオルティアの腰へ腕を回して、その身体を抱き上げていた。
逃げ場の狭かったルシアンには迷わず手を伸ばし、壁際の窪みへ押し込んだうえで、自分の身体を彼の前へ滑り込ませていた。
そこに「令嬢だから」という理由はなかった。
ルシアンが攻略対象であることも、男性であることも、淡い衣装のせいで少女のように見えることも、あの一瞬には頭へ浮かばなかった。
ましてゲームの筋書きがどう動くのか、自分の破滅回避へどんな影響を与えるのかなど、考える余地すらなかった。
右にオルティアがいて、左にルシアンがいた。
二人の上へ危険が落ちようとしていたから、自分は手を伸ばした。
後からどれほど理由を並べようとしても、あの瞬間の自分を説明できるのは、それだけだった。
ヴェルシアナは包帯の巻かれた左腕へ目を落とす。
細い傷だった。
痛みもほとんどない。
それでも、この傷を見つけたディルヴァンはすぐに表情を変え、オルティアは怒り、ルシアンも自分が傷つくくらいなら守られたくないと言った。
守ったつもりだった自分が、三人から揃って叱られることになるとは思わなかった。
けれど考えてみれば、妙な話でもないのだろう。
自分が二人に怪我をしてほしくないと思ったように、あの三人もヴェルシアナが傷つくことを嫌がった。
それは、誰かが一方的に庇い続けるだけでは成立しない、もっと面倒で、けれど温かい関係なのかもしれない。
守りたいと思った相手から、自分も守られる。
手を伸ばした先から、別の手が返ってくる。
そうして人と人の間には、一方向へ伸びるだけではない道が出来ていく。
地下施設で見た古代の流路が、不意に頭をよぎった。
一つの場所から流れ出したものは、ただ遠くへ進んで終わるのではなく、分かれ、別の道と交わり、巡った末にまたどこかへ戻っていく。
もちろん、人の感情をあの巨大な仕組みと同じだなどと考えるつもりはない。
それでも、自分から差し出したものが思いもよらない形で返ってくるという意味では、少しだけ似ている気がした。
信じたから、信じてもらえる。
覚えていたから、覚えてもらえる。
怪我をしてほしくないと思ったから、自分の怪我まで心配される。
そういうやり取りを一つずつ重ねるうちに、最初は他人だった人間が、自分の中で簡単には失いたくない場所へ入ってくるのかもしれない。
そこまで考えて、ヴェルシアナは手元の二輪へもう一度目を落とした。
自分はずっと、人との距離を測ろうとしてきた。
誰が攻略対象なのか。
誰と親しくなれば原作から外れるのか。
どの程度までなら安全なのか。
どこから先へ進めば、知っている未来が崩れ始めるのか。
目に見えない線を人と自分の間へ引き、その線から何歩離れているかを確かめるように生きてきた。
破滅したくないのだから、当然だと思っていた。
それ自体が間違っているとも思わない。
ゲームの知識を持っている以上、何も考えずにすべてへ飛び込めるほど楽観的にもなれない。
けれど今日。
ルシアンから「女性に見えたから守ったのか」と聞かれた時、自分の口から出た答えは驚くほど簡単だった。
『今回は違います』
そう言えた。
ルシアンを攻略対象だからではなく、ルシアンだと分かった上で手を伸ばした。
その事実を改めて胸の内側へ置いてみると、少しだけ怖かった。
役割より先に、その人の名前が浮かぶ。
知っている筋書きより先に、目の前の人間を見てしまう。
破滅を避けるという目的だけを考えれば、それはきっと危うい変化なのだろう。
それでも、あの時ルシアンを見捨てればよかったとは少しも思わない。
オルティアへ手を伸ばさなければよかったとも思わない。
もし同じ瞬間へ戻ったとしても、自分はきっと同じ二人へ腕を伸ばす。
次はディルヴァンに怒られないよう、自分の腕まできちんと安全な場所へ入れながら。
そう考えると、ヴェルシアナの口元が僅かに緩んだ。
風が吹く。
二輪の花が、同じ方向へ小さく揺れた。
片方を手にしたからといって、もう片方を捨てなければならないわけではない。
紫の花の隣に白青があるから、紫が薄くなるわけでもなければ、白青の花が色を失うわけでもない。むしろ異なる色が一つのリボンへ収まることで、それぞれが何色なのかは、一輪だけで見ていた時より鮮明になっている。
きっと、人も同じように単純な足し算では測れないのだろう。
ルシアンとの距離が縮まったからといって、オルティアと積み上げてきた時間が減るわけではない。
オルティアの隣が大切だからといって、ルシアンへ差し出した信頼が嘘になるわけでもない。
誰か一人を大切にした分だけ、別の誰かへ渡せるものが減っていくわけではない。
それでも実際に目の前で二人の感情が自分へ伸びてくると、どう扱えばよいのか分からず戸惑ってしまう。
ヴェルシアナは、その答えをまだ持っていなかった。
ただ、次に顔を合わせる時には、オルティアのために右側を、ルシアンのために左側を空けておくと約束した。
その光景を想像する。
右からオルティアが刺繍の続きを見せてくるかもしれない。
左からルシアンが新しく選んだ色について聞いてくるかもしれない。
おそらく二人は、何かにつけて同じ瞬間にこちらを呼ぶ。
ミレーヌは意味ありげに黙り、リュネアは楽しそうに笑い、エステルは静かにすべてを見ているのだろう。
少し賑やかで、少し狭くて、たぶん落ち着かない。
それなのに、その場面を思い描いた胸の中には、警戒より先に小さな楽しみが灯った。
それが自分でも少し可笑しくて、ヴェルシアナは花束を持つ手へ力を込めないよう気をつけながら、ほんの少しだけ笑った。
二人のために席を空けておくこと自体は、何も難しくない。
けれど、誰かが座るかもしれない空席ではなく、最初から「この人のために」と思って残しておきたい場所が、自分の両隣に二つも出来ている。
その変化だけは、どれほど鈍いヴェルシアナでも、もう完全に見なかったことにはできなかった。
夕風がもう一度吹く。
違う色をした二輪は、一本のリボンに結ばれたまま、互いの色を奪うことなく、ヴェルシアナの手の中で静かに揺れていた。




